第9話 今度こそ、私は悪い魔女になれるわ
リリアの夢は、もう見なかった。
アンナは、ゆっくりと目を覚ます。階段の踊り場は、ひんやりとした薄青の空気に包まれている。寒くはなかった。ルーが抱きしめてくれていたからだ。アンナとルーは、壁に背を預けるようにして座りこんでいる。
ささやかな雨の音が、ひっそりと響いていた。
痛む右肩に力を入れないようにしながら、アンナはぎこちなく、ルーの胸元に頬ずりした。眠る彼からは、規則正しい鼓動の音が聞こえる。それから、じわりと染みるような、去りがたいぬくもり。アンナはそうっと、彼の指先に触れた。その皮膚は冷たくて、ところどころに古傷がある。
鼻の奥がつんと痛くなって、アンナは目を
ルーが目を覚ます気配があった。
「……アンナ」
おずおずとアンナの名前を呼んだきり、彼は口を閉じた。必死に言葉を探している沈黙が愛おしい。
そうよ。私は彼のことが好きなのよ。アンナは不意に、はっきりと自覚する。こんなふうになってもまだ、あなたのことが好きだって、子供みたいに思っている。
けれど、それを望んではいけないことも知っている。
「こうしていると」アンナはゆっくりと言った。「まるで冬の日に戻ったみたい」
「……あのときほど、寒くはないだろう」ルーがほっとしたように言った。
「まぁ。あのときだって、寒くはなかったのだわ。ルーさまが、そばにいてくれたもの」
「分かりきった
「嘘じゃないわ。本当よ」不安げな顔をする彼へ、アンナは微笑んだ。「ルーさま、あなたが私にくれたもののなかに、嘘なんて一つもなかった」
アンナは、ルーの手を引いて立ち上がった。階段をくだり、すりきれた
そして繋いだ手の間にだけ、二人分のぬくもりがある。
まるで、いつだったかの夏の夜のように。
ルーが足を止めた。ちょうど、
「……なにもかも、やりなおせればいいのに」
ぽつりと、彼が言う。
アンナは立ち止まった。たっぷりと時間をかけてまばたきをし、無理矢理に
「方法なら、あるわ」アンナは、彼の手のひらに、白銀の煌めきを落とした。「ご存知かしら?
窓辺にたたずんだルーが、
「信じられない?」
「言い伝えかなにか、だろう。それは……」ルーが歯切れ悪く言った。「ただの
「でも、魔女の力は存在するでしょう? 大切なのは、信じることだと思うわ」
「だが……」
「ふふ。ルーさまったら、
「……アンナ、」
「お願い」ルーの言葉をさえぎって、アンナは彼をじっと見つめた。「ここで待っていて」
のぼり始めた太陽の、最初の
やがてルーは、
「分かった……ここで、待っている」
胸がいっぱいになるのを感じながら、アンナはうなずきかえした。「……ありがとう、ルーさま」
アンナは
嘘つき。そんなことありえないって、私が一番よく分かっているくせに。
アンナは涙をぬぐいながら、書き物机へ近づいた。
「……でもね、後悔はないのよ」泣き笑いしながら、アンナは引き金に指をかけた。「だってこれは、必要なことなんだから」
あなたを
わたくしに
「大丈夫よ。今度こそ、私は悪い魔女になれるわ」
そう誓う。目を閉じる。
そしてアンナは、拳銃の引き金をひく。
*****
何かが倒れる、鈍い音が響いた。
嫌な予感にかられて
書き物机のそばだ。アンナが力なく倒れている。投げ出された手のすぐそばに、
ありえない。発砲音は聞こえなかった。ルーは慌てて否定して、アンナの元へ駆け寄ろうとした。けれど、できなかった。
「駄目だよ。お前は選ばれなかったのだからね」
耳元で、面白がるような男の声がした。
ルーは体をこわばらせ、振り返る。誰もいない。当たり前だ。とっくの昔に、その男は移動していた。
ルーの頭上を飛び越え、
「……先、代」
ルーが呆然と呟く。真っ白な
「やぁ、ルー。ずいぶんと久しぶりに感じるね」
「どうして、ここに……」
ありきたりすぎるルーの質問に、アルヴィムは笑った。「俺の生存そのものから疑われなくてよかったよ」そう言ったあと、冗談めかした声で付け加える。「まぁ、ずぶの
ルーは困惑した。アルヴィムの性格は承知している。どんな状況でも落ち着きをはらっていて、他者を安心させる言葉を使う人だった。
けれど今、目の前にいる彼はどうだろうか。
こんなふうに、場違いな笑い方をするような人だったか。
「アンナ・ビルツと俺は、共犯なんだよ」アルヴィムは身をかがめて、
「……魔女を殺して、
「そうだ。ただしそれも、計画の一部でしかない」
アルヴィムは書き物机に浅く腰かけた。銃を手遊びしながら、のんびりと言う。
「アンナ・ビルツの目的は二つだ。ひとつめは、
「アンナを、殺すために?」ルーは血の気がひくのを感じながら尋ねた。
「はは、まさか。楽に死なせないために、さ」アルヴィムは不意に笑みを消し、冷たい声で応じた。「
リリアとは、誰だ。問いを口にするよりも早く、ルーの封じられた記憶が、答えを返す。
アルヴィムが〈
それで?
革命のさなかに流れた、リリア・ロレーヌの
「知っているかい? ルー。体を生かしたまま、心だけを殺す方法なんて、いくらでもある」アルヴィムが言った。「
アルヴィムの呼びかけに応じるように、地面に投げ出されていたアンナの指先がぴくりと動く。
彼女は、ぎこちなく立ちあがった。のろのろとした動きで壁に背を預け、右肩の傷口を押さえて息をつく。アルヴィムは満足げにつまさきを揺らしながら、彼女の様子を眺めていた。
やっぱり、どうかしている。ルーはそう思う。けれど同時に、ならば僕はどうなんだ、とも思う。
僕だって、眺めているだけだ。彼女を痛ましいと思う気持ちと、これこそが彼女にふさわしい
「はしゃがないでちょうだい、アルヴィム。たかが私の心ひとつ殺したくらいで」冷めきった声で、アンナが言う。
「おや、勘違いしないでほしいな。アンナ・ビルツ」銃を持ったほうの手を、アルヴィムはひらひらと揺らした。「
「ルー・アージェントが? 私を?」
アンナと視線がまともに絡み、ルーはぎくりとする。
乱れた灰色の髪の隙間から、彼女の目が現れた。深い青色だ。容赦ないほどに澄み切っていて、凍りついて、底がしれない。
それは、魔女を殺すための目だ。
あるいは、人の命を
「まさか」アンナは視線を外し、
アルヴィムは、たからかに笑った。「いいねえ。そうこなくちゃ」そういいながら、彼は
「とっても楽しい悲劇をありがとう。ルー」
アルヴィムは最後にそう言って、炎の灯った
*****
焦げくさいにおいに飛び起きたティカは、困惑した。そこが、ビルツ
がたがたと規則正しく揺れる馬車だ。布張りの座椅子が、向かい合わせで
それから、何かが燃えるような、
「……起きたのね、ティカちゃん……」
ティカの心臓が飛びはねた。よくよく目を
「うふ……ふふふ……大丈夫だよ……もうちょっと寝てても……」
「いや、なに? どういうこと?」ティカは馬車のなかをさっと見回した。「なんで、馬車なんかに乗ってるわけ……?」
「んふ、だってねえ……逃げなくちゃ……」
「逃げる?」
「火事は危ないもんね……」
フラウのにこにことした返事に、ティカは耳を疑った。火事? 火事だって?
カーテンを押しやり、窓を乱暴に開けた。奇妙な臭いがぐっと強くなる。鼻の奥を焦がすような炎の臭いと、雨の日特有の、湿った土の香りが混ざっているのだ。そして、あぁ、なんてことだろう。
夜明け空の下、ビルツ
ふらりと倒れ込んだティカを、フラウが抱きとめた。心配そうな声が降ってくる。
「大丈夫……? ティカちゃん……」
ティカはぶるりと体を震わせた。
「ちょっと待ってよ、フラウ……なにこれ……? なにが起こってるっていうわけ……?」
「……火事、だよ……見れば分かるでしょ……?」
「っ、そうじゃなくて! なんで、火事なんて起こってるのかって聞いてるの!」
ティカは、フラウと向き合った。
「なんでって、そういう計画だからだよ?」
「……は?」
「アンナ・ビルツと、あの人の計画なの。
途中から話についていけなくなって、ティカは背を向けた。計画? 要らない魔女? 分からない言葉が多すぎて、泣きたくなった。
いいや、違う。泣きたくなった一番の理由は、怖くなったからだ。
ティカの知らない事情を、
「ティカちゃん?」フラウはやっぱり、不思議そうな声で尋ねる。
「あの人って、誰」ティカは振り返らずに尋ねた。
「え?」
「君に妙なことを吹きこんだ男は、誰?」
一拍の沈黙があった。
「アルヴィム・ハティ、だけど」
ティカは、全身が震えるような冷たい怒りを感じた。そうか。そいつが何もかもを滅茶苦茶にしようとしてるってわけ。
怒鳴り散らしたい気持ちを飲みこみ、ティカは馬車の扉を開ける。
フラウの制止を無視して、外に身を投げ出した。泥道に転がり落ちたが、幸いにして、すぐに体を起こすことが出来た。全身泥だらけで不快だし、左腕がずきりと痛む。それでもティカは、燃え盛る屋敷に向かって走り始めた。ほどなくして、ディエンの
「ヴィナ! ニケ!」
ティカは、
赤毛のヴィナは、炎をあげる屋敷をぼんやりと見つめている。金髪のニケが、涙とすすだらけの顔をあげて声を震わせた。
「どうしよう、お姉さん……ヴィナがぜんぜん動かないんだ……さっきから……返事もしてくれなくて……」
「っ、ボクが
体を引きずるようにして、ティカたちは
でも、じゃあ、いったいどうなれば、フラウと話ができるのだろう。
そもそも、もう一度フラウと会えるわけ?
不安がぐっと
三人の背後で、どさりという鈍い音が響いた。
ゆっくりと振り返ったティカは、凍りつく。目の前に、血まみれの男が倒れていたからだ。
「……レイモンド……」
ティカの震える声に反応したのは、二人だった。
レイモンドのまぶたが震え、開けられる。
ぼんやりとしていたヴィナが突然身をよじって、ティカの腕から抜け出す。
赤毛の少女は、まろぶようにレイモンドへ近づいた。地面に両腕をついて、レイモンドが苦しげに咳き込んでいる――そのすぐ近くに立って、ディエンの養い子は問いかける。
「ダディはどこ」
レイモンドがぴたりと動きを止めた。石像にでもなったかのような沈黙のあと、彼はヴィナを見上げたまま、
「……俺が、殺した」
ニケが息をのむ音がした。ヴィナは目を見開いて全身を震わせ――、レイモンドの頬をたたく。「っ、大っ嫌い……! レイモンド・ラメドのことなんか……!」
ヴィナが大声で泣き始めた。深い溜め息をついて、レイモンドがうなだれる。
たぶん、自分は慰めるべきなのだ。ティカはぼうぜんと思ったが、体が動かなかった。誰を慰めるべきなのかも分からなかったし、慰める方法だって、思い浮かばなかったからだ。
だって、ねぇ。なんなんだよ、これは。
「いったい、どうなってるんだよ……」
ずるずると地面に座り込んで、ティカはつぶやく。
けれど返事は、ひとつだって、ない。
*****
かくしてビルツ
年に一度、国中から選ばれた魔女によって守られてきた裏庭は、こうして静かに役目を終え――その主人と、魔女たちは、最後の季節を迎える。
花を炎にくべ、死者を
あるいは、悪い魔女が断頭台にのぼる、秋の季節を。
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