第8話 俺の罪の名を呼べ

 ちりん、という鈴の鳴るような音がした。


 ほこりを被った資材と蜘蛛くもの巣だらけの廃屋はいおくに、朝の光が差し込んだ。乱雑に積まれた荷箱の隙間で、レイモンドはゆっくりと身動みじろぎする。一晩中、身をひそめていたせいで、どこもかしこも石を詰め込んだように重くてだるい。最悪だ。


 魔女の未練みれんはやり過ごしたが、肝心のあいつも見失った。


 不甲斐ふがいない己に悪態をつきながら、レイモンドは一夜の隠れ家から抜け出した。


 運河沿いの廃屋は、元々は二階建ての広い倉庫だった。あちこちに積まれた荷箱や、天井からられた滑車かっしゃが証拠だ。けれど今や、すっかり荒れ果てている。破れた屋根から朝のひんやりした光が差しこんで、石くれや砕けた木材の山を白く染めていた。木を打ちつけた床の隙間からは、枯れかけの雑草が生えている。物寂ものさびしい。その一言に尽きる。


 レイモンドはふと、ビルツてい裏庭バックガーデンを思い出した。夏の日差しに緑を輝かせた場所。いつもにぎやかな声が響いていて、花々の影がみずみずしく空気を染める、美しい楽園。


 ――よくもまぁ、悲劇の英雄気取りができるよな。お前が壊したくせに。


 親友の声に、レイモンドはぎくりとして振り返った。


 折れた柱と、乱雑に積まれた荷物の隙間だ。真っ暗な影のそばに、首になわをひっかけた青年の姿がある。落ちくぼんだ目でレイモンドのほうを見やった彼は、低い声で呟いた。なぁ、次は誰を殺すんだ?


 レイモンドは奥歯をんだ。手近な壁に両手をついて、思い切りひたいを打ちつける。


っつう……」


 じんとしびれる痛みにうめきながら、レイモンドは何度か目をしばたいた。首から下げた〈王狼おうろう〉の鍵――裏庭から逃げるときに、アンナたちから奪い取った鍵が、ゆらと揺れながら朝の光を弾いている。


 最悪だ、とレイモンドは再び思う。でも幸いなことに、親友の亡霊ぼうれいは消えた。当然だ。彼はとうの昔に死んでいるし、今の俺がしていることは正しい。だから罪悪感なんてないし、幻影だって見えるはずがない。


 そうだろ、と口にしかけた言葉を、レイモンドはぐっと飲み込んだ。

 ディエンは、ここにはいないのだ。


 いい加減に慣れろと、レイモンドは己をいましめた。何度か呼吸をして感傷の波をやりすごし、最後に両手を強く握って、顔をあげる。


 よし、と気合きあいをいれて、レイモンドは出口に向かった。


 とにかく、まずは拠点きょてんに戻ることだ。着替えて、一眠りして、朝食を食べる。市場にでて、聞きこみをする。午後からのことは、その情報をもとに考えればいい。


 いつもどおりの毎日のいいところは、それを繰り返すだけで時間が過ぎてくれることだ。そしていつか、ひとりきりでいることが本物の日常になるだろう。


 レイモンドは倉庫を出た。晩夏ばんかの朝の、決意の一歩――それはしかし、やわらかな何かが顔面に激突することで邪魔される。


「っ、な」


 顔からすべり落ちた赤毛のうさぎの人形を受け止めながら、レイモンドはぽかんと口を開ける。朝の光に照らされた運河沿いの路地で、禿頭とくとうの大男がにやっと笑った。


油断大敵ゆだんたいてきだぞ、レイ」


 *****


 ディエンはわざわざ、探しに来てくれたらしい。

 なるほど、じゃあ帰ろうかなんて。


「なるわけないだろ」

「まぁ、お前は強情ごうじょうだからな」


 やれやれと言わんばかりのディエンの返事に、レイモンドはむっとしながら、なべを調理用のストーブの上に置いた。


 火かき棒でまきくずして、火を調節する。帰ってきたばかりの頃は寒々しかった厨房キッチンも、ようやく、ほどよい暖かさになった。土埃つちぼこりでくすんだ窓から光が差し、壁にりさげた調理器具をぼんやりと照らしている。


 なんといっても、手狭な厨房キッチンだった。昔からそうだ。ディエンは厨房キッチンと小さな食堂ダイニングをつなぐ入り口に背を預けていて、ますます狭く感じる。


 目があった。ディエンが面白がるような口調で言う。


「本当に、俺が作らなくていいのか?」

「スープくらい、俺でも作れる」レイモンドは刺々とげとげしく返しながら、びたはさみと乾燥させた薬草ハーブを手に取った。「というか、俺はまだ、お前のことを信用してないからな」


 じょきじょきと葉を細かく切ってスープに落としながらぼやく。

 ディエンが古びた丸椅子まるいすに座る音がした。


「ふむ。信用ね」

「そもそも、お前がしれっとついてきてることも信じられないし」

「不信が多くて、さぞ大変そうだ」

「お前は、アンナ・ビルツの味方だろ」

「俺はお前の味方でもあるが?」


 思わず手を止めてしまった。違う。ちょうど薬草ハーブを切りおえたからだ。


 レイモンドは、可能な限り落ち着きをはらって、後ろを振り返る。ディエンは作業机に片肘かたひじをついていた。やけに自信ありげで、得意げで――顔つきのまま、ひょいと片眉かたまゆをあげる。


「帰る気になったか、レイ?」


 レイモンドは口を閉じた。裏庭バックガーデンの日々を思い出す。それよりも前、禿頭とくとうの大男に出会ったときのことも。


 魔女の未練に対処するために、レイモンドはこの街で人をつのったのだ。

 そしてディエンは、嘘八百の履歴書を送りつけて、この教会にやってきた。


 郷愁。それ以上の感傷。レイモンドは整理のつかない感情を飲みくだして、はさみ薬草ハーブを作業机に置く。「俺達らしくないことは、すべきじゃない。ディエン」


「面白い言い方をするね」ディエンが目を閉じ、穏やかに返す。

「面白いもなにもないだろ」レイモンドは静かに言った。「事実だ。俺だって馬鹿じゃない。君がずっと探していたのが、アンナ・ビルツだってことは分かってる」

「お前が欲しがったのは、腕のたつ傭兵ようへいだったな」

「そうだよ。だから、俺たちの関係は相棒あいぼうとして成立した。俺はお前を利用するし、お前は俺を利用する。私情を挟むべきじゃない」

「お前がヴィナを人質にとったのも、それが理由か?」

「……そうだ」


 レイモンドは平気なふりをしてうなずいた。

 ディエンが目を開ける。灰色の目は、やわらかな光を帯びている。


「レイ。思うに、俺たちは、俺たちが思うほど器用じゃあない……俺にも、お前にも、最も大切なものがある。だが、それ以外にも大切なものができてしまった。だから、こういうことになっているんだろうさ」

「……こういうことって、なんだよ?」

「お前は後悔した顔をしている。そして俺は、二匹目のうさぎを追いかけて、ここまで来た」


 レイモンドは唇を引き結んだ。視線を落として呟く。


「……帰れないよ。いまさら」

「俺は、そうは思わないがね」ディエンがのんびりと言う。

「考えてもみろよ。俺はルーたちを傷つけた」

「理由があったんだろう。ならお前の言葉で、もう一度説明すればいい」

「説明した。でも受け入れられなかった。だから今がある」

「レイ」

「アンナ・ビルツがあくだって、誰も信じたくないんだろ。じゃあ、いくら説明したって無駄、」


 不意に殺気がとんできて、レイモンドはびくりと体を震わせた。顔をあげる。ディエンが、ほがらかな笑みを浮かべている。


「俺は、お前の言葉で説明しろ、と言ったぞ。レイ」

「……ひ、人の話をさえぎるのに、殺気を使うなよ……」

「使えるものは、なんでも使う主義でね」


 素知らぬ顔で肩をすくめたディエンは、真面目な顔つきになった。


「レイ、お前の言葉で話すべきだよ。アンナ・ビルツになにかの思惑があったとしよう。だが、今のアンナ嬢レディ・アンナも同じであると、本気でお前は考えているのか? 裏庭バックガーデンで過ごした季節がすべて嘘であると、本当にお前は感じているのか?」


 レイモンドはきつく口を閉じ――温まったスープの泡立つ音が響いたところで、大きく息を吐き出した。


「そんなわけないだろ」負けを認めて、レイモンドは投げやりに言った。「分かったよ。分かりました。俺の言葉で、もう一度説明すればいいんだろ」


 ディエンの視線がゆるんだ。


「さすがはレイ。素直でなによりだ」

「俺はおどしにくっしたわけじゃない」レイモンドは鍋を火から下ろしながら、ぶっきらぼうに返す。

「くくっ。脅しとは心外だね」

「お前の信頼を、信じることにしたんだ。少なくとも、お前はアンナさんを信じてるんだし……」

「俺は嬉しいよ、レイ」


 レイモンドは口を閉じた。ディエンは珍しく、はっきりと分かるほど幸せそうな顔をしている。


 妙に気恥ずかしくなり、レイモンドは咳払いをした。


「と、とにかくだ。帰るっていうなら、はっきりさせておきたいことがある」


 ディエンが笑みをおさめた。こういうときに察しがいいのは、数少ないディエンの長所の一つだ。


「お前がこの街にとどまっている理由の話だな?」ディエンが尋ねた。


 レイモンドはうなずいた。まっすぐに相棒あいぼうを見る。


「そうだ。俺は、アルヴィム・ハティを探している」


 *****


 裏庭バックガーデンから逃げ出したあの日、レイモンドが真っ先に向かったのは死体の隠し場所だ。街と屋敷をつなぐ糸杉いとすぎの道――その近くのしげみに隠した。我ながら安直だが、とにかく気が動転していて、深く考える余裕もなかったのだ。


 けれど再びそこを訪れた時、白銀の髪の男の死体はなかった。


「血が残されていただけだ」


 運河沿いのさびれた道をたどりながら、レイモンドは説明した。


 朝食と短い仮眠のあと、ここに至るまでの経緯と、やるべきことを整理した。わざわざ日の暮れ始めた今、レイモンドとディエンが拠点を出発したのは、決まってこの時間に魔女の未練が現れるからだ。


 昨晩の倉庫に向かいながら、レイモンドはアルヴィムの死体を見失ったときの状況を言葉にする。


「茂みには、血痕けっこんしかなかった。少なくとも、引きずられたあとはなくて――その時から、俺は魔女の未練に襲われるようになった」

薔薇十字ロザリオを持っていないのにか?」隣を歩くディエンが落ち着いた口調で尋ねる。

「そうだ。俺だけをつけ狙ってる。野犬だとか熊だとか、そういう形ばかりだったから、獣に薔薇十字ロザリオを突っ込んで作ったんだろう」

「誰が」

「アルヴィム・ハティだ」運河特有の、こもった臭いのする空気を吸い、レイモンドは話を続けた。「おかしなことじゃない。俺は、あいつが〈王狼おうろう〉の人間の死体を、魔女の未練として使っているところを見た。それに比べれば、動物の死体を使うことくらい簡単なことのはずだ……あいつは生きていて、いまだに魔女の未練を作っている」


 レイモンドは廃倉庫はいそうこの前で立ち止まった。


 太陽は完全に落ちきった。壊れた扉の隙間から見える建物内部には、黒々とした影がこごっている。


 今朝レイモンドが目覚めた場所だ。昨晩、魔女の未練を従える外套姿がいとうすがたの男を見かけた場所でもある。


 そして今、レイモンドたちは男を捕まえにきた。


 びた取っ手に触れ、レイモンドは隣のディエンをちらと見やった。


「安易だと思うか?」妙な胸騒ぎを誤魔化すために、レイモンドは問いかける。

「ふむ? 昨日と同じ場所に来たことが? それとも、正体不明の男が、死んだアルヴィムかもしれないということが?」ディエンは肩をすくめた。「いずれにせよ、俺達がやることは変わらんさ。心当たりを探す。はずれならば次を当たる。当たりならば、」


 ディエンが人形の頭に手をかけた。倉庫の中から冷たい気配を感じ、レイモンドも神鍵クラヴィスを収めた腰元のポーチに手をかける。


 禿頭とくとうの大男はにやっと笑い、言葉を続けた。


「――当たりならば、やつを倒して、俺たちは家に帰る。それだけのことだ」


 二人は、同時に飛び退すさった。


 扉が内側から吹き飛び、真っ黒な影が飛び出す。もやをまとった禍々まがまがしい四足よつあしの獣が二匹だ。犬の形をしたそれは、夜の空を地面のようにって身を転じ、きばを向けてえる。


 再びの獣の突撃を、レイモンドたちは建物に入ってやり過ごした。暗闇に複数の気配。絡みつくような冷えた悪意は魔女の未練みれんに違いない。


閃光ダリム金剛砂インタン祝福ディーヤ』レイモンドは指先を宙空で踊らせ、うたった。『めいを示せ、炎炉フォルナクス!』


 ばちんと音を立てて、空気がぜる。部屋の床いっぱいに輝く紋様が結ばれ、白光びゃっこうを閉じ込めた巨大なガラス球が現れた。


 まばゆい光源は部屋中の影を追い払う。雑然と積まれた荷箱、ちて雑草に覆われた石壁、天井からぶら下がったはり


 黒いもやをまとった獣は五匹いる。

 そして。


 物音に顔をあげたレイモンドは、顔をこわばらせた。足場を簡単に組んだだけの二階だ。そこに、外套がいとう目深まぶかに被った人影がいて、あろうことか、矢を放つ。


 ガラス球が割れ、光が消えた。完全な暗闇。ディエンの鋭い声が飛んでくる。


「先に魔女の未練みれんだぞ、レイ!」

「っ、分かってる!」


 レイモンドは怒鳴り返しながら、神鍵クラヴィスをポーチから抜き取った。ディエンの朗々ろうろうとした声が響く。


四天の白翁Es werde Licht.


 詠唱とともに、ディエンの手元で火花がぜ、光の鎖がかみなりのごとく暗闇をはしった。


 五本の白光の先端が、異形の獣の胴体どうたいに絡みつき、地に引きずり倒す。その中心、ディエンが投げてよこした鎖の束を受け取り、レイモンドは神鍵クラヴィスを割った。


塵芥に帰せZertreten dir den Kopf!』


 砕けた小瓶が光を弾く。神鍵クラヴィスは、またたに白炎となって鎖を伝い、獣の体を燃やした。異形の獣はもはや、煌々こうこうと燃える松明たいまつも同然だ。


 五つの明かりが灯るなか、ディエンが手近な荷箱を足場にして二階に飛び移る。襲撃者が動くよりも早く、ディエンのこぶしが男のき手をとらえた。


 襲撃者の弓矢が吹き飛び、レイモンドの眼前に落ちる。逡巡しゅんじゅんは一瞬だ。レイモンドは古びた弓を拾いあげ、矢をつがえた。ちょうどそこで、ディエンの攻撃をかわしそこねた襲撃者が二階から落ちてくる。


 襲撃者の頭部に狙いを定め、レイモンドは弓を引き絞った。過集中かしゅうちゅうのせいで、一つ一つの動きがひどくゆっくりに見える。間違いなく好機こうきだった。矢を指から離せば、間違いなく襲撃者の命を奪えただろう。


 けれどそこで、死んだ親友の陰鬱いんうつな声がする。


 ――人殺しめ。


「っ……!」


 レイモンドは目元をゆがめた。照準がぶれ、放たれた矢は襲撃者の体をかすめて暗闇に消える。


 時間が再び正常に流れ始めた。襲撃者は外套がいとうをはためかせ、空中で体を器用にひねって地面に降り立つ。間髪入かんぱついれず、彼はレイモンドのほうへ突進してきた。


 彼が腰元から引き抜いたのは長剣だ。放たれた殺気は凍えるほど冷たく獰猛どうもうだ。そして、はためく外套がいとうの下から垣間見えたのは、黒灰色チャコールグレーの目だ。


 レイモンドは息をのんだ。


 この男は、アルヴィム・ハティではない。


「っ、レイ!」


 切羽詰せっぱつまった声が聞こえた。そう思ったときには、レイモンドは後ろ向きに突き飛ばされている。


 目の前には禿頭とくとうの大男の背中と、鮮血があった。


「……は……?」


 呆然ぼうぜんとするレイモンドのほほに、暖かい血が降りかかる。


 ディエンがうめき声をあげながら不自然に体をかたむけ、地面に膝をついた。左の首筋を押さえている。指の隙間すきまからは、ありえない勢いで血がき出していた。られたのだ。誰に? 目の前の襲撃者に。


 アンナ・ビルツの叔父おじにして、かつての王弟おうてい――ダグラス・ダナンに。


「なぜ、という顔をしているね。レイモンドくん」血で染まった長剣片手に、ダグラスは人好ひとずきのする笑みを浮かべた。「それとも、どうしてここに、かな。一体なにが目的で、というのもあるかもしれないね。どうだい? かいにいたるまでの手がかりをあげようか?」


 レイモンドはぶるりと体を震わせた。解。解だって? そんなことをしている場合か? こんなにも近くに敵がいるのに? ディエンは黙り込んだまま、一歩も動けずにいるというのに? そんな彼に駆け寄ることすら、俺にはできていないのに?


「っ、やめ……やめて、ください」レイモンドはやっとの思いでのどを動かし、震える声で懇願こんがんした。「目的とか、どうでもいい……見逃みのがしてください……」


 ダグラスが不愉快ふゆかいそうにまゆを跳ねあげた。


「なんだ、つまらないね。君はさっきから私を失望させてばかりらしい」

「……お前に、気に入られる必要など……ないだろう」


 途切れ途切れに答えたのはディエンだった。言葉尻ことばじりこそふてぶてしいが、どこかぼんやりした声音だ。


 レイモンドはきもやす。どう考えても、お前は話すべきじゃない。そうやって顔をあげるべきでもないし、ダグラスをにらみつけるべきでもない。そう思うのに、一つも言葉にならない。


 だから、ディエンが話す。命を削って、話してしまう。


「アルヴィムと手を組んでいるな? ダグラス・ダナンこう」ディエンが苦しげに言った。「アンナ嬢レディ・アンナの叔父という立場でありながら、彼女を裏切る真似をした」

「五十点の解答だ、ディエンくん」孫を褒める老爺ろうやのまなざしで、ダグラスは微笑んだ。「裏切ってなどいないさ。この行為もアンナ・ビルツの計画の一貫でね」

アンナ嬢レディ・アンナは、望んでなどいないだろう」

「愚かしいことだ。アンナもアンナ・ビルツも同じ人間だよ。そして私は、アンナ・ビルツの計画に従って、君たちを殺さねばならない」


 ディエンはなんと返事をしたかったのだろう。分からなかった。引きつったような呼吸をしたあと、重みに耐えかねたように、前のめりに崩れ落ちたからだ。


 レイモンドはぞっとした。慌てて駆け寄り、すぐそばにひざをつく。血まみれで分厚ぶあついディエンの手が、レイモンドの手をつかんだ。ありえないほど冷たい体温だ。


 ディエンは目だけを動かしてレイモンドを見やり、ささやく。


「俺の罪の名を呼べ、レイ」


 レイモンドは唇をぐっとんだ。心臓の鼓動こどうと一緒にせり上がった熱いなにかが、喉奥のどおくと目元で詰まる。でも、と言いたかった。子供のように泣き叫びたかった。けれど出来なかった。


 ディエンがやろうとしていることも、その言葉の正しさも分かったからだ。


『……無垢の遊炎ブルーダー


 震える声でレイモンドが呟けば、ディエンがうっすらと笑って言った。「……生きろよ、相棒」


 ありったけの気力をつかって、レイモンドは立ち上がる。ディエンをその場に残し、無我夢中むがむちゅうで走って倉庫の入り口に向かった。


 背後で光が明滅し、爆発音が地面を揺らし、炎が生み出した熱が追いかけてくる。肌を焼く痛みに、レイモンドは奥歯をんだ。それでも前に進もうとした。ディエンが自身の命と引き換えに、逃がそうとしてくれたからだ。そして逃げることしか、今の自分にできることはなかったからだ。


 けれど。


「――私は、愉快ゆかいなことが大好きでね」


 ぞっとするほど冷たく、楽しげなダグラスの気配に、レイモンドは総毛立そうけだつ。足を止めて、振り返った。後悔した。


 あぁ、どうしてだよ。なんで。


 眼の前に広がるのは、最悪の光景だ。炎を背に、無傷のダグラスが歩いてくる。鮮血したたる長剣を振るい、彼は笑った。


 


「死体に薔薇十字ロザリオを埋めこめば、魔女の未練みれんとなる」ダグラスは肩についたゴミをはらうかのように気軽な動作で、薔薇十字を大男の傷口に突っこんだ。「ならば、死にかけの人間に薔薇十字をいれれば、どうなるか? 実に教会好みのこころみだとは思わないかい? レイモンドくん」


 死にかけの大男はぶるりと体を震わせ、絶叫した。苦しげな悲鳴は、間を置かずに獣のうめき声に変わる。彼は立ち上がった。まるでそうすべきと命じられたかのように、レイモンドのほうへ突進してくる。


 それは、異形の獣だ。焦げた死臭をき散らし、首筋から胸元にかけて流れ出ている血液は、黒いもやをまとった炎に変化し、それの全身を焼いている。彼が一歩動くごとに、人間の輪郭りんかくくずれていった。頭の骨格がありえない形に歪んで、ねじれたつのになる。首筋の傷口がぼこりとふくらんで、焼け焦げた頭のような形を作った。みしみしという耳を塞ぎたくなるような音がして、その両腕が大鎚おおづちを振り下ろされたように、滅茶苦茶な角度に曲がっていく。


 あれはなんだ。

 魔女の未練みれんか。

 それとも、人の手によって作られた神か。


「……違う、だろ……」レイモンドは立ちすくんだまま、震える声で呟いた。「……違う」


 彼は、ディエンだ。俺の相棒あいぼうだ。家族も同然の人だ。ついさっきまで、俺と一緒にいた。こんな俺に、帰ろうと言ってくれた。最後の最後で、逃げろと、そう言って。彼は。


 君は。

 あぁ。


 レイモンドはぎゅっと目をつぶった。涙がこぼれた。もう無理だと思った。えられない。これ以上は。そう思う。


 指先が、二本の神鍵クラヴィスつかんだ。


『っ……四天の白翁Es werde Licht……』


 ひとつめの神鍵クラヴィスが、ディエンに当たる。光の鎖が巨体に絡み、動きが止まった。レイモンドの目と鼻の先だ。


 大男はそれでも身をよじり、獣のようなきばをレイモンドの右肩に突き立てた。激痛と炎で焼かれる痛みがある。それでもレイモンドは、二本目の神鍵クラヴィスを大男の胸元でくだいた。


 すすり泣きながら、呟いた。


『――塵芥に帰せZertreten dir den Kopf.


 びくりと不自然に体をねさせて、大男の動きが止まる。


 レイモンドの目の前で、神鍵クラヴィスから生まれた白炎が大男を包んだ。


 悲鳴は聞こえなかった。世界に響くのは、炎が建物を燃やす音と、異形の獣に成り果ててしまった相棒の、最後の息だけだった。そして炎は魔女の未練みれんを燃やし、灰も残さず消し去った。


 レイモンドは力なく座り込んだ。からん、と乾いた音がする。指先に、赤銅色しゃくどういろ薔薇十字ロザリオが触れていた。どこから落ちてきたのだろう。ディエンの体に埋まっていたものだろうか。ぼんやりとレイモンドは考えたが、答えはでなかった。というよりも、これ以上なにも考えたくなかった。


 俺は、ディエンを殺したのだ。

 そもそもこんなことになったのは、俺のせいなのに。

 俺が、なにもかもを間違えてしまった。それが原因なのに。


 肩の傷口を蹴りつけられ、レイモンドはくぐもった悲鳴をあげながら、地面に倒れこんだ。


 ダグラスの長剣が一度ひらめいて、レイモンドの胸元からなにかを千切っていく。三輪みつわを組み合わせた銀の飾りは〈王狼おうろう〉の鍵だ。それをけれど、レイモンドは眺めていることしかできない。痛みにうめきながら。みっともなく泣きながら。どうすればいいのか、わからなくなったまま。


 炎を背に、ダグラスが再び剣を振りあげる。アンナの叔父は、退屈しきった表情で言った。


「つまらないね」


 やいばが振り下ろされた。レイモンドは力なく目を閉じた。生きろよ、というディエンの声がよみがえった。




 ちりん、という鈴の鳴るような音を最後に、レイモンドの意識は途切れる。

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