第8話 俺の罪の名を呼べ
ちりん、という鈴の鳴るような音がした。
ほこりを被った資材と
魔女の
運河沿いの廃屋は、元々は二階建ての広い倉庫だった。あちこちに積まれた荷箱や、天井から
レイモンドはふと、ビルツ
――よくもまぁ、悲劇の英雄気取りができるよな。お前が壊したくせに。
親友の声に、レイモンドはぎくりとして振り返った。
折れた柱と、乱雑に積まれた荷物の隙間だ。真っ暗な影のそばに、首に
レイモンドは奥歯を
「
じんと
最悪だ、とレイモンドは再び思う。でも幸いなことに、親友の
そうだろ、と口にしかけた言葉を、レイモンドはぐっと飲み込んだ。
ディエンは、ここにはいないのだ。
いい加減に慣れろと、レイモンドは己を
よし、と
とにかく、まずは
いつもどおりの毎日のいいところは、それを繰り返すだけで時間が過ぎてくれることだ。そしていつか、ひとりきりでいることが本物の日常になるだろう。
レイモンドは倉庫を出た。
「っ、な」
顔からすべり落ちた赤毛のうさぎの人形を受け止めながら、レイモンドはぽかんと口を開ける。朝の光に照らされた運河沿いの路地で、
「
*****
ディエンはわざわざ、探しに来てくれたらしい。
なるほど、じゃあ帰ろうかなんて。
「なるわけないだろ」
「まぁ、お前は
やれやれと言わんばかりのディエンの返事に、レイモンドはむっとしながら、
火かき棒で
なんといっても、手狭な
目があった。ディエンが面白がるような口調で言う。
「本当に、俺が作らなくていいのか?」
「スープくらい、俺でも作れる」レイモンドは
じょきじょきと葉を細かく切ってスープに落としながらぼやく。
ディエンが古びた
「ふむ。信用ね」
「そもそも、お前がしれっとついてきてることも信じられないし」
「不信が多くて、さぞ大変そうだ」
「お前は、アンナ・ビルツの味方だろ」
「俺はお前の味方でもあるが?」
思わず手を止めてしまった。違う。ちょうど
レイモンドは、可能な限り落ち着きをはらって、後ろを振り返る。ディエンは作業机に
「帰る気になったか、レイ?」
レイモンドは口を閉じた。
魔女の未練に対処するために、レイモンドはこの街で人を
そしてディエンは、嘘八百の履歴書を送りつけて、この教会にやってきた。
郷愁。それ以上の感傷。レイモンドは整理のつかない感情を飲みくだして、
「面白い言い方をするね」ディエンが目を閉じ、穏やかに返す。
「面白いもなにもないだろ」レイモンドは静かに言った。「事実だ。俺だって馬鹿じゃない。君がずっと探していたのが、アンナ・ビルツだってことは分かってる」
「お前が欲しがったのは、腕のたつ
「そうだよ。だから、俺たちの関係は
「お前がヴィナを人質にとったのも、それが理由か?」
「……そうだ」
レイモンドは平気なふりをして
ディエンが目を開ける。灰色の目は予想どおり、やわらかな光を帯びている。
「レイ。思うに、俺たちは、俺たちが思うほど器用じゃあない……俺にも、お前にも、最も大切なものがある。だが、それ以外にも大切なものができてしまった。だから、こういうことになっているんだろうさ」
「……こういうことって、なんだよ?」
「お前は後悔した顔をしている。そして俺は、二匹目の
レイモンドは唇を引き結んだ。視線を落として呟く。
「……帰れないよ。いまさら」
「俺は、そうは思わないがね」ディエンがのんびりと言う。
「考えてもみろよ。俺はルーたちを傷つけた」
「理由があったんだろう。ならお前の言葉で、もう一度説明すればいい」
「説明した。でも受け入れられなかった。だから今がある」
「レイ」
「アンナ・ビルツが
不意に殺気がとんできて、レイモンドはびくりと体を震わせた。顔をあげる。ディエンが、ほがらかな笑みを浮かべている。
「俺は、お前の言葉で説明しろ、と言ったぞ。レイ」
「……ひ、人の話を
「使えるものは、なんでも使う主義でね」
素知らぬ顔で肩をすくめたディエンは、真面目な顔つきになった。
「レイ、お前の言葉で話すべきだよ。アンナ・ビルツになにかの思惑があったとしよう。だが、今の
レイモンドはきつく口を閉じ――温まったスープの泡立つ音が響いたところで、大きく息を吐き出した。
「そんなわけないだろ」負けを認めて、レイモンドは投げやりに言った。「分かったよ。分かりました。俺の言葉で、もう一度説明すればいいんだろ」
ディエンの視線がゆるんだ。
「さすがはレイ。素直でなによりだ」
「俺は
「くくっ。脅しとは心外だね」
「お前の信頼を、信じることにしたんだ。少なくとも、お前はアンナさんを信じてるんだし……」
「俺は嬉しいよ、レイ」
レイモンドは口を閉じた。ディエンは珍しく、はっきりと分かるほど幸せそうな顔をしている。
妙に気恥ずかしくなり、レイモンドは咳払いをした。
「と、とにかくだ。帰るっていうなら、はっきりさせておきたいことがある」
ディエンが笑みをおさめた。こういうときに察しがいいのは、数少ないディエンの長所の一つだ。
「お前がこの街にとどまっている理由の話だな?」ディエンが尋ねた。
レイモンドは
「そうだ。俺は、アルヴィム・ハティを探している」
*****
けれど再びそこを訪れた時、白銀の髪の男の死体はなかった。
「血が残されていただけだ」
運河沿いの
朝食と短い仮眠のあと、ここに至るまでの経緯と、やるべきことを整理した。わざわざ日の暮れ始めた今、レイモンドとディエンが拠点を出発したのは、決まってこの時間に魔女の未練が現れるからだ。
昨晩の倉庫に向かいながら、レイモンドはアルヴィムの死体を見失ったときの状況を言葉にする。
「茂みには、
「
「そうだ。俺だけをつけ狙ってる。野犬だとか熊だとか、そういう形ばかりだったから、獣に
「誰が」
「アルヴィム・ハティだ」運河特有の、こもった臭いのする空気を吸い、レイモンドは話を続けた。「おかしなことじゃない。俺は、あいつが〈
レイモンドは
太陽は完全に落ちきった。壊れた扉の隙間から見える建物内部には、黒々とした影がこごっている。
今朝レイモンドが目覚めた場所だ。昨晩、魔女の未練を従える
そして今、レイモンドたちは男を捕まえにきた。
「安易だと思うか?」妙な胸騒ぎを誤魔化すために、レイモンドは問いかける。
「ふむ? 昨日と同じ場所に来たことが? それとも、正体不明の男が、死んだアルヴィムかもしれないということが?」ディエンは肩をすくめた。「いずれにせよ、俺達がやることは変わらんさ。心当たりを探す。はずれならば次を当たる。当たりならば、」
ディエンが人形の頭に手をかけた。倉庫の中から冷たい気配を感じ、レイモンドも
「――当たりならば、やつを倒して、俺たちは家に帰る。それだけのことだ」
二人は、同時に飛び
扉が内側から吹き飛び、真っ黒な影が飛び出す。
再びの獣の突撃を、レイモンドたちは建物に入ってやり過ごした。暗闇に複数の気配。絡みつくような冷えた悪意は魔女の
『
ばちんと音を立てて、空気が
まばゆい光源は部屋中の影を追い払う。雑然と積まれた荷箱、
黒い
そして。
物音に顔をあげたレイモンドは、顔をこわばらせた。足場を簡単に組んだだけの二階だ。そこに、
ガラス球が割れ、光が消えた。完全な暗闇。ディエンの鋭い声が飛んでくる。
「先に魔女の
「っ、分かってる!」
レイモンドは怒鳴り返しながら、
『
詠唱とともに、ディエンの手元で火花が
五本の白光の先端が、異形の獣の
『
砕けた小瓶が光を弾く。
五つの明かりが灯るなか、ディエンが手近な荷箱を足場にして二階に飛び移る。襲撃者が動くよりも早く、ディエンの
襲撃者の弓矢が吹き飛び、レイモンドの眼前に落ちる。
襲撃者の頭部に狙いを定め、レイモンドは弓を引き絞った。
けれどそこで、死んだ親友の
――人殺しめ。
「っ……!」
レイモンドは目元を
時間が再び正常に流れ始めた。襲撃者は
彼が腰元から引き抜いたのは長剣だ。放たれた殺気は凍えるほど冷たく
レイモンドは息をのんだ。
この男は、アルヴィム・ハティではない。
「っ、レイ!」
目の前には
「……は……?」
ディエンがうめき声をあげながら不自然に体をかたむけ、地面に膝をついた。左の首筋を押さえている。指の
アンナ・ビルツの
「なぜ、という顔をしているね。レイモンドくん」血で染まった長剣片手に、ダグラスは
レイモンドはぶるりと体を震わせた。解。解だって? そんなことをしている場合か? こんなにも近くに敵がいるのに? ディエンは黙り込んだまま、一歩も動けずにいるというのに? そんな彼に駆け寄ることすら、俺にはできていないのに?
「っ、やめ……やめて、ください」レイモンドはやっとの思いで
ダグラスが
「なんだ、つまらないね。君はさっきから私を失望させてばかりらしい」
「……お前に、気に入られる必要など……ないだろう」
途切れ途切れに答えたのはディエンだった。
レイモンドは
だから、ディエンが話す。命を削って、話してしまう。
「アルヴィムと手を組んでいるな? ダグラス・ダナン
「五十点の解答だ、ディエンくん」孫を褒める
「
「愚かしいことだ。アンナもアンナ・ビルツも同じ人間だよ。そして私は、アンナ・ビルツの計画に従って、君たちを殺さねばならない」
ディエンはなんと返事をしたかったのだろう。分からなかった。引きつったような呼吸をしたあと、重みに耐えかねたように、前のめりに崩れ落ちたからだ。
レイモンドはぞっとした。慌てて駆け寄り、すぐそばに
ディエンは目だけを動かしてレイモンドを見やり、ささやく。
「俺の罪の名を呼べ、レイ」
レイモンドは唇をぐっと
ディエンがやろうとしていることも、その言葉の正しさも分かったからだ。
『……
震える声でレイモンドが呟けば、ディエンがうっすらと笑って言った。「……生きろよ、相棒」
ありったけの気力をつかって、レイモンドは立ち上がる。ディエンをその場に残し、
背後で光が明滅し、爆発音が地面を揺らし、炎が生み出した熱が追いかけてくる。肌を焼く痛みに、レイモンドは奥歯を
けれど。
「――私は、
ぞっとするほど冷たく、楽しげなダグラスの気配に、レイモンドは
あぁ、どうしてだよ。なんで。
眼の前に広がるのは、最悪の光景だ。炎を背に、無傷のダグラスが歩いてくる。鮮血したたる長剣を振るい、彼は笑った。
全身血まみれの大男を引きずりながら。
「死体に
死にかけの大男はぶるりと体を震わせ、絶叫した。苦しげな悲鳴は、間を置かずに獣のうめき声に変わる。彼は立ち上がった。まるでそうすべきと命じられたかのように、レイモンドのほうへ突進してくる。
それは、異形の獣だ。焦げた死臭を
あれはなんだ。
魔女の
それとも、人の手によって作られた神か。
「……違う、だろ……」レイモンドは立ちすくんだまま、震える声で呟いた。「……違う」
彼は、ディエンだ。俺の
君は。
あぁ。
レイモンドはぎゅっと目をつぶった。涙がこぼれた。もう無理だと思った。
指先が、二本の
『っ……
ひとつめの
大男はそれでも身をよじり、獣のような
すすり泣きながら、呟いた。
『――
びくりと不自然に体を
レイモンドの目の前で、
悲鳴は聞こえなかった。世界に響くのは、炎が建物を燃やす音と、異形の獣に成り果ててしまった相棒の、最後の息だけだった。そして炎は魔女の
レイモンドは力なく座り込んだ。からん、と乾いた音がする。指先に、
俺は、ディエンを殺したのだ。
そもそもこんなことになったのは、俺のせいなのに。
俺が、なにもかもを間違えてしまった。それが原因なのに。
肩の傷口を蹴りつけられ、レイモンドはくぐもった悲鳴をあげながら、地面に倒れこんだ。
ダグラスの長剣が一度
炎を背に、ダグラスが再び剣を振りあげる。アンナの叔父は、退屈しきった表情で言った。
「つまらないね」
ちりん、という鈴の鳴るような音を最後に、レイモンドの意識は途切れる。
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