第7話 泣かないで

 喧嘩けんかをふっかけてきたのは、男のほうだ。


 煌華祭ファル・ヤードの前祝いに華やぐ大通りを歩いていたところで、見知らぬ男に肩をぶつけられた。わざわざ見逃してやったのに、男のほうが突っかかってきた。肩を掴んで、自信と揶揄やゆがたっぷりこめられた怒鳴り声を投げつけてくる。どこを見て歩いているのかとか、謝罪しろよとか、ありきたりな言葉を投げつけられた。まったくご丁寧なことに、男は胸ぐらをつかみ、こぶしをちらつかせさえしたのだ。


 面倒だった。だから僕は、男の手首をつかんでひねりあげた。予想外の反抗に驚く男の脇腹に、さらにりを一つ見舞って地面に沈める。これで諦めるだろうと思ったのだ。


 見込みが甘かった。

 その夜、男は十数人の仲間を引き連れ、誰から聞き出したのか、仮住まいにまで踏みこんできた。


 まったく、頭領とうりょうときたら変なところで抜けてるんだからな。片目猿エイル・グノンが見ていたのなら、きっとそう言うだろう。油断していたということだろうさ、なぁ。目尻めじりにしわを足して、笑いながらそういうはずだ。馬鹿らしい。油断なんてしていない。僕はそう反論する。すると、今度は隠れ鴉カシェ・フルーが紅茶片手にすまし顔で呟く。でも結果的に窮地きゅうちなんですから、油断ということなんでしょう。いれたての紅茶を持ってきた欺き蛙グルヌイユは、ちょっと気の毒そうに目配せをするだけだ。心優しいが臆病者でもあるから。それから? 向こう見ずな子犬テメリテ・シオはなんというだろう? 陽気で、年齢構わず誰かをからかうのが好きな弟分は。


 生きるべきですよ。途切れ途切れで、かすれた、最後の息と見分けがつかないくらいの、彼の声を思い出す。ルーは身を固くした。そこにはもう仲間はおらず、真っ暗で寒々しいばかりの牢獄ろうごくだった。向こう見ずな子犬テメリテ・シオほおにはくさりかけの傷がある。幾度目いくどめかの殺しあいで負った怪我けがだった。僕が守りきれなかった。その言葉を、けれど、言うことができない。そんな僕を見あげて、彼は言う。おそらくは息をしていないだろう赤子の包みを大事に抱えたまま、最後の仲間は繰り返す。


 頭領とうりょう、あなたが生きるべきだ。


 がんっというにぶい音が響いて、ルーは現実に引き戻された。頭痛、なんてものじゃない。側頭部そくとうぶに釘でも刺されたみたいだ。視界がぶれる。頬が冷たい。やっと焦点しょうてんがあった。雨に濡れた石畳いしだたみが見える。それからたくさんの足。


「っ、」


 もう一度、頭を足蹴あしげにされた。がらの悪い男たちがさかんに、はやしたてている。びさせろとか、殺してしまえとか、意味のない言葉の羅列られつが、がらんどうの僕の体に響いている。そうだとも。僕は謝るべきだった。僕こそが殺されるべきだった。けれどこうして、生きている。くだらない呼吸を、何度も繰り返している。


 頭領、あなたが生きるべきだ。最後の仲間の、最後の言葉を思い出した。内側から突き動かされるように、ルーは眼前に迫った男の足をつかみ、足首ごとひねり上げた。


 悲鳴をあげてよろめく男を投げ捨て、ルーは立ち上がる。近くにいた別の男のあごこぶし見舞みまった。血混じりの唾液だえきと幾本かの歯を吐き出して、男が倒れる。そこでやっと、呆気あっけにとられていた野次馬の男たちが我に返る。


 殺せ! という怒号どごうをあげて、次々と男たちが襲いかかってくる。ルーは淡々と始末した。足を引っ掛けて転がす。男二人の首元をつかんで、ひたいをぶつけあわせた。身を低くして背後から振り下ろされた木の棒を避けた。振りむきざまにりを見舞って、木の棒を奪う。何人目かの男が短剣をひらめかせた。恐れずにルーは踏み込む。頬に鋭い痛み。それと引き換えに、しならせた木の棒で男の脇腹を打ってぎ払う。そんなことを何度も繰り返すうち、辺りはすっかり静かになった。


 気を失った男たちの中心で、ルーは頬から流れる血を乱暴にこする。痛かった。頬の傷口も、何度か蹴られた頭も、数日前に魔女の未練に負わされた傷も痛い。けれど、何もかもが他人事で、次の瞬間には降り始めの雪のように溶けて消えてしまう。あとに残されるのは、がらんどうの自分だ。それだけだ。


 夜闇の底で、ルーは息を吐く。

 こんなにも寒いのに、吐く息はまだ白に染まらない。

 そうであるならいっそ、自分の存在ごと消えてしまえと呪う。


 足音が、した。


「来るな」


 警告とともに、ルーは木の棒の切っ先を向けた。足音が止まる。女の声がする。


「なにをしてらっしゃるの」


 なにを? からっぽの体に、不意に怒りが湧いた。


「君こそ、なにをしに来たんだ?」


 ルーは吐いて捨てるように返事をして、声のしたほうをにらみつけた。灰色の髪と青の目をもつ女は外套がいとうろし、夜の中にぽつんとたたずんでいる。辺りは真っ暗で、それは夜を迎えたからで、だから彼女の顔もよく見えない。


 またおびえた顔をして、耐えるような顔をして、背筋を伸ばしたんだろうか。


 ガラスの欠片かけらで切ったときのような鋭い痛みがあった。そんなことにさえ腹が立った。そこでやっと、女の返事があった。おびえるでも、悲しむでもない、りんとした声だった。


「謝りに来たのだわ」

「……っ、は」ルーは短く息を吐いた。呆れたのだ。馬鹿らしくて、笑いがこみあげる。それなのに、途方もない怒りはそのままだ。感情のまま、顔を歪めた。「ふざけるな。そんなもので、君が殺した人間の命が戻ってくるはずがないだろう」

「そうよ」

「ただの自己満足じゃないか」

「分かっているのだわ」

「分かる? 傲慢ごうまんもたいがいにしろ。君は何も分かってない。何一つ。だからそうやって、のうのうと笑っていられる……」

「なら、教えて」


 ルーは耳を疑った。教える? いったい何を教えると言うんだ。戸惑いと、疑問があった。女はしかし、落ち着きを払っている。


「わたくしが知らないこと……わたくしが知るべきこと。ぜんぶ、教えて。言ってくれなくちゃ、何もわからないのだわ」

「ふざけるな」ルーは声を固くした。「いくら教えたって、分かるわけがないだろう」

「やってみなければ分からないでしょう」

「試す価値すらない」

「ルーさま、」

「みんな死んだんだ」


 ルーは強い口調で言った。口をつぐんだ女をにらみ、言葉を重ねる。


「死んだんだよ、アンナ・ビルツ。おまえのせいで。だから僕は、ぜったいに君を許さない。殺したいほどにくい」


 女はしばらく何も言わなかった。身じろぎ一つしない。きっと、時間が凍りついてしまったせいだ。だって、ここは寒い。途方もなく寒い。生きていられないほどだ。ルーは顔をうつむける。


 なのに僕はまだ、息をしている。

 女もまた、息をしているのだろう。


「――それなら、殺しに来ればいい」


 ルーは顔をあげた。女の青の目は少しばかりかげっている。けれど、そこに宿る強い意思は変わらない。


 泉の青が、ルーをひたと見据みすえている。


「ルー・アージェント。わたくしを殺しに来なさい。それがあなたのやりたいことだというのなら」


 *****


 女に先導されて訪れた数日ぶりのビルツ邸は、ひっそりとしていた。


 規律ルールは簡単よ。ティカたちへの説得を終え――つい先ほど、入り口エントランスで別れたばかりの女の声がよみがえる。期限は朝を迎えるまで。ティカさんたちの寝室には、絶対に足を踏み入れないこと。ヴィナさんとニケさんをおびえさせないように、大きな物音も、大声も、たてないこと。屋敷の外には出ないこと。それさえ守るのなら、あなたはわたくしを殺してもいい。


 ルーからすれば、なにもかもが馬鹿げたことだった。逃げ回るのも、悲鳴をあげるのも、怖気づいて屋敷の外へ逃げ出したくてたまらないのも、ぜんぶ女のほうのはずだ。そもそも、彼女の提案からして馬鹿げている。わざわざ、夜の屋敷を選ぶなんて。


 ならば、彼女の提案にのって、のこのこと屋敷へついてきた僕はどうなのか。


 馬鹿げた問いを、ルーは頭をふって追い払う。女が隠れるだけの猶予ゆうよは十分与えてやったはずだ。入り口の壁から、彼は背を浮かせた。


 植物の鉢植えと、ちょっとした置物が並ぶホールを抜け、短い廊下を進む。窓がないから真っ暗だ。右手に一つだけ扉があって、裏庭バックガーデンに通じている。ルーは無視して通り過ぎた。角を曲がった。今度の長い廊下は、月明かりが差している。右手に窓が、左手に扉が、等間隔に並んでいる。ルーは振り返った。


 女だ。どこに隠れていたのか、突進してきた彼女が握っているのは小ぶりの剣だった。意外だ。攻撃してくることもそうだったが、その程度の実力でルーに挑もうと考えたこともだった。


 ルーは半身をひねってやいばをよけ、女の手首をつかんで床に投げ捨てる。身を折るようにしてうずくまった彼女は、くぐもったうめき声をあげた。痛みをこらえたのだろう。ほら、やっぱり。大声をあげるのは君のほうじゃないか。あきれながら、ルーが思ったときだった。


 女が顔をあげ、なにかを投げつけてくる。


「っ、」


 ルーはとっさに目をつぶった。ばらばらと肌に当たったのは花の種だ。そんなものに不意をつかれた己が腹立たしいが、もっと腹立たしいのは、うまく逃げおおせた女だ。


 彼女は、わざわざ廊下の途中で立ち止まり、振り返ってみせる。


「まだまだね、ルーさま」


 月明かりのなか、やれやれと言わんばかりの顔をして、女が剣を持った手を振った。


 ルーは目を細め、足元の花の種を踏みつけて吐き捨てる。「――小賢こざかしい」


 外套がいとうを揺らして、女は身をひるがえした。


 ルーは彼女の背中を追う。屋敷の構造は知り尽くしていた。女がわなを仕掛けそうな場所は明らかで、彼女が自分に攻撃を仕掛ける意思があることも理解した。あまりにも容易な追跡だったのだ。けれど、事実をありのままに述べるとすれば、結果はかんばしくなかった。


 二度目の交戦は廊下ろうかだ。ルーはすぐに女に追いついた。外套がいとうをつかむ。彼女はしかし、するりと上着を脱ぎ捨てた。乱雑に剣を動かし、廊下の観葉植物を細い幹ごと切り飛ばしてくる。ルーは外套をふるって枝葉を床に叩き落した。


 三度目の交戦はその直後、り切れたソファが置かれた客間だ。女がそこに逃げ込んだ。見え透いた悪手は罠に違いない。果たして、そのとおりだった。ルーが愛用の短剣を部屋に投げ込めば、びん、と糸の張るような音ともに大量のタオルが扉の直上から落ちてくる。女の間抜けな悲鳴が聞こえたのは、自分の罠に引っかかったからだ。部屋の中央に人一人分のタオルの山。ルーはそれをりつけた。感触はやわらかい。いいや、柔らかすぎる。ルーは舌打ちした。タオルの山の中身は古びたクッションばかりで、部屋の外からはまんまと逃げ出した女の足音と、笑い声がする。ルーは腹いせに、もう一度強くクッションを蹴り上げた。


 四度目の交戦は図書室ライブラリで、五度目の交戦は食堂ダイニングだ。それから、戦いとも呼べぬ彼女のくだらないわながいくつか。もう十分だった。


 女が階段を駆けあがる。ルーは短く息をき、走る勢いを殺さずに地面をった。体が宙に浮く感覚、足裏で壁をとらえて蹴り上げ、女の頭上を超えて踊り場へ着地する。床の隅に張られたひもを、ルーはかかとで引っ張って切った。


 頭上から、薔薇ばらの花弁が降り注ぐ。目を見開いて立ち止まった女の、胸ぐらをつかんで引き寄せた。床に投げ捨てる。鈍い音。彼女のうめき声。それからの静寂。


 乾いて冷たい夜の空気に、不釣り合いなほど華やかな薔薇ばらの香りがする。


「こんなことなら、」不自然なほど長い時間をかけて半身を起こしながら、女が微苦笑した。「鎮静効果のある薬草ハーブを混ぜておけばよかったわね」

「黙れ」

「まぁ、どうして? うるさくするなとは言ったけれど、おしゃべりするなとは言ってないでしょう?」


 ルーは女の右肩みぎかたりつけた。小さな悲鳴をあげた彼女が顔をゆがめ、地面に再び倒れ込む。そうすると、まったくもって、ただの年頃の女なのだ。華奢きゃしゃで、まるで戦い向きではなく、戦場の血煙ちけむりよりも窓辺の花が似合うような、ただの女だった。


 正体不明の痛みが胸を刺す。同時に、妙な高揚感もある。あなたを傷つけるときは、いつだってそうだ。いつも。


 ルーは低い声で呟いた。


「――馬鹿にするのも大概たいがいにしろ」


 ひたい脂汗あぶらあせをにじませた女と視線が絡む。不愉快きわまりない青が、自分を見つめている。ルーは奥歯をんだ。


「殺される気などないんだろう、君は」

「……当たり前なのだわ。わたくしはあなたに謝りたいんだから」

「なら、」

「でも、勘違いしないで」女はゆっくりと言った。「わたくしが今でも生きているのは、あなたが本気じゃなかったからよ」


 頭皮がびりとざわつくような怒りがこみあげた。


 ルーは衝動しょうどうのまま、女に馬乗りになる。細い喉元のどもとに短剣を突きつける。生意気な口はすぐに閉じられた。女の顔からは血の気が引いている。


「ふざけるなよ」ルーは冷え切った声で呟いた。「僕は本気だ。今からでも君を殺せる」


 刃の切っ先が、やわらかな皮膚ひふにわずかばかり沈んだ。女が目を見開く。朝露あさつゆのような血のしずくがぷつりと滲む。あと少し力をこめれば、呆気あっけなく女の命を奪える。


 それはルーにとって、確信ではなく、事実だった。〈王狼おうろう〉の敵を何度も殺した経験に基づくものだった。厳冬の牢獄ろうごくで、欺き蛙グルヌイユと、彼の家族を手にかけた時に思い知ったことだった。


「僕は、」


 殺せ。殺してしまえ。仲間のかたきをとるべきだ。彼らが死んだのは、目の前の女のせいだ。あと少し力をこめれば、全てが終わる。終わらせることができる。


 たくさんの人間をあやめてきたアンナ・ビルツは、相応の報いを受けるのだ。


 そして……それから?


 不意に浮かんだ疑問に、ルーは凍りついた。それから、僕はいったいどうなるのだろう。アンナ・ビルツを殺して、かたきをとって、そのあとは?


 頭領とうりょう、あなたが生きるべきだ。死の間際の、向こう見ずな子犬テメリテ・シオの言葉がよみがえる。ルーは恐ろしくなった。


 僕は、生きていかなければならないのだ。仲間がいなくなって、女がいなくなって、それでも、僕は。


 そこで、女の細い手が、短剣を持つルーの手首をつかんだ。


「っ、おい、」


 ルーは慌てて振り払おうとした。できなかった。女の力が思いのほか強かったこともある。けれど、本当の理由はそれではない。


 女は、ルーの手首を引っ張ったのだ。自分の右肩みぎかためがけて。短剣の切っ先はあっけなく彼女の服をいて、皮膚をつらぬき、肉に到達した。固い感触があったから、骨にも触れたのかもしれない。


 呆然とするルーの眼の前で、真っ赤な血が床に流れ、薔薇ばらの花弁を濡らした。


 女は――アンナは青の目を歪め、悲鳴をこらえるように奥歯を噛み、ルーの手首をもう一度動かす。


 短剣が引き抜かれて、地面に落ちた。アンナの目元には涙が滲んでいる。それでも彼女は苦しげに息をして、ぽつりと呟いただけだった。


「……痛いね、ルーさま……」


 不意に熱いなにかが喉元のどもとにこみあげて、ルーは奥歯をんだ。上着を脱いで、短剣で裂く。即席の包帯をアンナの傷口にあてがえば、なぜか彼女が笑った。


「放っておいていただいても、大丈夫なのに」

「黙れ」

「上着がないと寒いでしょう。もう夏は終わったんだから」

「黙れと言っている」

「ルーさま、いいのよ。わたくしは、」

「なにがいいんだ!」


 ルーは吐き捨てた。血まみれの包帯に手を添えて、うなだれる。「……なにもよくない……何一つよくないだろう……馬鹿じゃないのか、君は……」


 アンナが、困ったようにルーの名前を呼んだ。そこにはいささかの敵意もなくて、ますますルーは己が惨めになる。


「死にたくないんだろう……だったらどうして、自分で自分を刺したりなんかした……」

「だって、教えて、って言ったもの」アンナは穏やかに言った。「あなたの過去に、誰かを傷つけることと、傷つけられることが含まれているのなら、それさえも知るべきなのだわ」

「ふざけるな。それで、本当に死んだらどうする」

「でも、あなたはわたくしを殺さなかったでしょう」

「殺したかったさ!」


 ルーは声を大きくした。体をぶるりと震わせる。


「勘違いするな。僕は君を殺したかった。今だって殺したい。だって、君は仲間のかたきだ。君のせいで、片目猿エイル・グノンたちは殺しあわなきゃいけなかった。面倒見のいいあいつが、真っ先に向こう見ずな子犬テメリテ・シオの足を切り落としたんだ。その時の気持ちが分かるか? 隠れ鴉カシェ・フルーは、欺き蛙グルヌイユの両目をつぶした。一緒に茶を楽しむほどの仲だったのに、だ。僕たちは家族同然だった。なのに、みんな、り切れていった。寒くて、腹をすかせていて、外に出られる見込みこみがなくて、優しいやつから狂っていって、もっと優しいやつがそれを守ろうとして仲間を殺した。君がやったのは、そういうことで、」ルーは一度言葉をきり、唇を震わせた。「そして僕が、仲間を殺したんだ」


 守るのではなく、殺して、って、生き残った。

 命じた君が罪人つみびとであり、殺されるべきであるというのなら、僕だって同じなのに。


 だというのに、こうして、図々ずうずうしく生き残っている。


「……どうすればいいんだ」ルーはぽつりと呟いた。「僕は、どうすればいい……みんなもう、死んでしまったのに……君を殺すべきなのに……僕は……でも、もう……誰も殺したくない……一人になりたくないんだ……」


 耐えきれなかった涙が、こぼれた気がした。実際はどうだったのだろう。分からなかった。確認する前に、彼女が抱き寄せてくれたからだ。


「大丈夫なのだわ、ルーさま」


 倒れ込んださきで、花の香りがする。ささやかなぬくもりがある。日向ひなたのような優しさがある。


「あなたはもう、一人じゃないのよ。そのための一年だもの。みんなで裏庭の世話をした。誰かが困っていたときは、みんなで助けに行った。そうでしょう?」


 母が子をあやすように、アンナが背中をゆっくりとさすってくれる。それがひどく嬉しくて、けれど同時に悲しかった。そうじゃない。そうじゃないんだ。僕が望んでいるのは、そんな言葉ではなくて。


「だからあなたは、生きていていいのよ。もう誰も殺さなくていい。好きに生きていいの」


 違う。そんな言葉が欲しいのでもなくて。


「……ごめんね」アンナの声が、かすかに震えた。「あなたの大切な人を、なによりもあなた自身を傷つけて……本当に、ごめんなさい」


 ルーは耐えきれなくなって、体を起こした。見下ろす先で、アンナがひっそりと泣いている。どうしようもなく胸が痛くなった。そんな顔をしないでほしいと思った。求めていた言葉は、謝罪ですらないのだと痛感した。


 けれど、じゃあ、なにを求めているのだろう。がらんどうの体に問いかけても、答えは返ってこない。。今さらそれを思い知って、ますます悲しくなった。


 僕は君を慰めることだってできない。

 なのに君は、生きていてもいいのだと言う。


 己の無力さが耐えられなくなって、ルーはアンナと唇を重ねた。そんなことをしても、失ったなにかの正体は分からなかった。そのことが泣きたいほど苦しくて、粉々に砕けたガラスが刺さったみたいな痛みさえ感じた。けれど少しばかり目を見張ったアンナの、涙が止まった気がした。


 だから、よかったと、安堵あんどする。

 現実から逃げるように、ルーは彼女を抱きしめた。


「泣かないで、アンナ」


 いのるように呟けば、彼女の小さな肩が震えて、また泣き始めたのが分かった。

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