第7話 泣かないで
面倒だった。だから僕は、男の手首をつかんで
見込みが甘かった。
その夜、男は十数人の仲間を引き連れ、誰から聞き出したのか、仮住まいにまで踏みこんできた。
まったく、
生きるべきですよ。途切れ途切れで、
がんっという
「っ、」
もう一度、頭を
頭領、あなたが生きるべきだ。最後の仲間の、最後の言葉を思い出した。内側から突き動かされるように、ルーは眼前に迫った男の足をつかみ、足首ごとひねり上げた。
悲鳴をあげてよろめく男を投げ捨て、ルーは立ち上がる。近くにいた別の男の
殺せ! という
気を失った男たちの中心で、ルーは頬から流れる血を乱暴にこする。痛かった。頬の傷口も、何度か蹴られた頭も、数日前に魔女の未練に負わされた傷も痛い。けれど、何もかもが他人事で、次の瞬間には降り始めの雪のように溶けて消えてしまう。あとに残されるのは、がらんどうの自分だ。それだけだ。
夜闇の底で、ルーは息を吐く。
こんなにも寒いのに、吐く息はまだ白に染まらない。
そうであるならいっそ、自分の存在ごと消えてしまえと呪う。
足音が、した。
「来るな」
警告とともに、ルーは木の棒の切っ先を向けた。足音が止まる。女の声がする。
「なにをしてらっしゃるの」
なにを? からっぽの体に、不意に怒りが湧いた。
「君こそ、なにをしに来たんだ?」
ルーは吐いて捨てるように返事をして、声のしたほうを
また
ガラスの
「謝りに来たのだわ」
「……っ、は」ルーは短く息を吐いた。呆れたのだ。馬鹿らしくて、笑いがこみあげる。それなのに、途方もない怒りはそのままだ。感情のまま、顔を歪めた。「ふざけるな。そんなもので、君が殺した人間の命が戻ってくるはずがないだろう」
「そうよ」
「ただの自己満足じゃないか」
「分かっているのだわ」
「分かる?
「なら、教えて」
ルーは耳を疑った。教える? いったい何を教えると言うんだ。戸惑いと、疑問があった。女はしかし、落ち着きを払っている。
「わたくしが知らないこと……わたくしが知るべきこと。ぜんぶ、教えて。言ってくれなくちゃ、何もわからないのだわ」
「ふざけるな」ルーは声を固くした。「いくら教えたって、分かるわけがないだろう」
「やってみなければ分からないでしょう」
「試す価値すらない」
「ルーさま、」
「みんな死んだんだ」
ルーは強い口調で言った。口をつぐんだ女をにらみ、言葉を重ねる。
「死んだんだよ、アンナ・ビルツ。おまえのせいで。だから僕は、ぜったいに君を許さない。殺したいほど
女はしばらく何も言わなかった。身じろぎ一つしない。きっと、時間が凍りついてしまったせいだ。だって、ここは寒い。途方もなく寒い。生きていられないほどだ。ルーは顔を
なのに僕はまだ、息をしている。
女もまた、息をしているのだろう。
「――それなら、殺しに来ればいい」
ルーは顔をあげた。女の青の目は少しばかり
泉の青が、ルーをひたと
「ルー・アージェント。わたくしを殺しに来なさい。それがあなたのやりたいことだというのなら」
*****
女に先導されて訪れた数日ぶりのビルツ邸は、ひっそりとしていた。
ルーからすれば、なにもかもが馬鹿げたことだった。逃げ回るのも、悲鳴をあげるのも、怖気づいて屋敷の外へ逃げ出したくてたまらないのも、ぜんぶ女のほうのはずだ。そもそも、彼女の提案からして馬鹿げている。わざわざ、夜の屋敷を選ぶなんて。
ならば、彼女の提案にのって、のこのこと屋敷へついてきた僕はどうなのか。
馬鹿げた問いを、ルーは頭をふって追い払う。女が隠れるだけの
植物の鉢植えと、ちょっとした置物が並ぶホールを抜け、短い廊下を進む。窓がないから真っ暗だ。右手に一つだけ扉があって、
女だ。どこに隠れていたのか、突進してきた彼女が握っているのは小ぶりの剣だった。意外だ。攻撃してくることもそうだったが、その程度の実力でルーに挑もうと考えたこともだった。
ルーは半身をひねって
女が顔をあげ、なにかを投げつけてくる。
「っ、」
ルーはとっさに目をつぶった。ばらばらと肌に当たったのは花の種だ。そんなものに不意をつかれた己が腹立たしいが、もっと腹立たしいのは、うまく逃げおおせた女だ。
彼女は、わざわざ廊下の途中で立ち止まり、振り返ってみせる。
「まだまだね、ルーさま」
月明かりのなか、やれやれと言わんばかりの顔をして、女が剣を持った手を振った。
ルーは目を細め、足元の花の種を踏みつけて吐き捨てる。「――
ルーは彼女の背中を追う。屋敷の構造は知り尽くしていた。女が
二度目の交戦は
三度目の交戦はその直後、
四度目の交戦は
女が階段を駆けあがる。ルーは短く息を
頭上から、
乾いて冷たい夜の空気に、不釣り合いなほど華やかな
「こんなことなら、」不自然なほど長い時間をかけて半身を起こしながら、女が微苦笑した。「鎮静効果のある
「黙れ」
「まぁ、どうして? うるさくするなとは言ったけれど、おしゃべりするなとは言ってないでしょう?」
ルーは女の
正体不明の痛みが胸を刺す。同時に、妙な高揚感もある。あなたを傷つけるときは、いつだってそうだ。いつも。
ルーは低い声で呟いた。
「――馬鹿にするのも
「殺される気などないんだろう、君は」
「……当たり前なのだわ。わたくしはあなたに謝りたいんだから」
「なら、」
「でも、勘違いしないで」女はゆっくりと言った。「わたくしが今でも生きているのは、あなたが本気じゃなかったからよ」
頭皮がびりとざわつくような怒りがこみあげた。
ルーは
「ふざけるなよ」ルーは冷え切った声で呟いた。「僕は本気だ。今からでも君を殺せる」
刃の切っ先が、やわらかな
それはルーにとって、確信ではなく、事実だった。〈
「僕は、」
殺せ。殺してしまえ。仲間の
たくさんの人間を
そして……それから?
不意に浮かんだ疑問に、ルーは凍りついた。それから、僕はいったいどうなるのだろう。アンナ・ビルツを殺して、
僕は、生きていかなければならないのだ。仲間がいなくなって、女がいなくなって、それでも、僕は。
そこで、女の細い手が、短剣を持つルーの手首をつかんだ。
「っ、おい、」
ルーは慌てて振り払おうとした。できなかった。女の力が思いのほか強かったこともある。けれど、本当の理由はそれではない。
女は、ルーの手首を引っ張ったのだ。自分の
呆然とするルーの眼の前で、真っ赤な血が床に流れ、
女は――アンナは青の目を歪め、悲鳴をこらえるように奥歯を噛み、ルーの手首をもう一度動かす。
短剣が引き抜かれて、地面に落ちた。アンナの目元には涙が滲んでいる。それでも彼女は苦しげに息をして、ぽつりと呟いただけだった。
「……痛いね、ルーさま……」
不意に熱いなにかが
「放っておいていただいても、大丈夫なのに」
「黙れ」
「上着がないと寒いでしょう。もう夏は終わったんだから」
「黙れと言っている」
「ルーさま、いいのよ。わたくしは、」
「なにがいいんだ!」
ルーは吐き捨てた。血まみれの包帯に手を添えて、うなだれる。「……なにもよくない……何一つよくないだろう……馬鹿じゃないのか、君は……」
アンナが、困ったようにルーの名前を呼んだ。そこにはいささかの敵意もなくて、ますますルーは己が惨めになる。
「死にたくないんだろう……だったらどうして、自分で自分を刺したりなんかした……」
「だって、教えて、って言ったもの」アンナは穏やかに言った。「あなたの過去に、誰かを傷つけることと、傷つけられることが含まれているのなら、それさえも知るべきなのだわ」
「ふざけるな。それで、本当に死んだらどうする」
「でも、あなたはわたくしを殺さなかったでしょう」
「殺したかったさ!」
ルーは声を大きくした。体をぶるりと震わせる。
「勘違いするな。僕は君を殺したかった。今だって殺したい。だって、君は仲間の
守るのではなく、殺して、
命じた君が
だというのに、こうして、
「……どうすればいいんだ」ルーはぽつりと呟いた。「僕は、どうすればいい……みんなもう、死んでしまったのに……君を殺すべきなのに……僕は……でも、もう……誰も殺したくない……一人になりたくないんだ……」
耐えきれなかった涙が、こぼれた気がした。実際はどうだったのだろう。分からなかった。確認する前に、彼女が抱き寄せてくれたからだ。
「大丈夫なのだわ、ルーさま」
倒れ込んださきで、花の香りがする。ささやかなぬくもりがある。
「あなたはもう、一人じゃないのよ。そのための一年だもの。みんなで裏庭の世話をした。誰かが困っていたときは、みんなで助けに行った。そうでしょう?」
母が子をあやすように、アンナが背中をゆっくりとさすってくれる。それがひどく嬉しくて、けれど同時に悲しかった。そうじゃない。そうじゃないんだ。僕が望んでいるのは、そんな言葉ではなくて。
「だからあなたは、生きていていいのよ。もう誰も殺さなくていい。好きに生きていいの」
違う。そんな言葉が欲しいのでもなくて。
「……ごめんね」アンナの声が、かすかに震えた。「あなたの大切な人を、なによりもあなた自身を傷つけて……本当に、ごめんなさい」
ルーは耐えきれなくなって、体を起こした。見下ろす先で、アンナがひっそりと泣いている。どうしようもなく胸が痛くなった。そんな顔をしないでほしいと思った。求めていた言葉は、謝罪ですらないのだと痛感した。
けれど、じゃあ、なにを求めているのだろう。がらんどうの体に問いかけても、答えは返ってこない。なにかの心が欠けてしまったのだ。今さらそれを思い知って、ますます悲しくなった。
僕は君を慰めることだってできない。
なのに君は、生きていてもいいのだと言う。
己の無力さが耐えられなくなって、ルーはアンナと唇を重ねた。そんなことをしても、失ったなにかの正体は分からなかった。そのことが泣きたいほど苦しくて、粉々に砕けたガラスが刺さったみたいな痛みさえ感じた。けれど少しばかり目を見張ったアンナの、涙が止まった気がした。
だから、よかったと、
現実から逃げるように、ルーは彼女を抱きしめた。
「泣かないで、アンナ」
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