第6話 一生の思い出に、俺と踊っていただけるかな
日没間近になって入った安宿の一室で、アンナは立ち尽くす。手のひらには千切れた鎖があるばかりだ。
落としたのだ。ここではない、どこかで。じわじわとこみあげる恐怖に、アンナは身震いした。でも、一体どこで?
アンナは顔をこわばらせた。己の
「……取り返しに行かなきゃ」
「
すかさずディエンの声が飛んできたが、アンナは無視を決めこんだ。壁にかけていた
改めて部屋の入口に向き直ったところで、アンナは眉を跳ねあげる。予想どおり、ディエンは扉の前にいた。されど予想外なことにずぶ濡れのままで、床にあぐらをかいて赤毛のうさぎの人形を
「……何をなさってるの」
「見張りだな。お
「姫ではないのだわ」アンナは苛立つ気持ちを押しこめ、なるべく丁寧な口調で言った。「ねぇ、ディエンさん。あなた、びしょ濡れでしょう。早く着替えるなり、体を
「あなたが出ていかないと言うのなら」
「わたくしは
「ならば、俺はここに居続けるしかないね。
ぷつんと糸を歯で切って、ディエンが一言。聞き分けのない子供を適当にあしらうような態度だ。
またそうやって馬鹿にして。アンナはぎゅっと眉根を寄せた。いいのだわ。そっちがその気なら。
ここは三階で、周囲の建物にも飛び移れそうにない。
今さらそのことを思い出して、アンナは
「この部屋を選んで正解だったな」
ディエンの指摘に我慢ならなくなって、アンナは振り返った。いまだに扉の前に陣取っている男をにらみつける。
「わたくしが逃げることも、お見通しだったの?」
人形の胴体に糸をとおしながら、ディエンが肩をすくめた。
「万が一の保険さ。俺は用心深い男なんだよ。
「つまりは、わたくしが
アンナはいらいらと息を
ディエンが笑った。例によって
「いい機会じゃないか。昔の男にまつわるものなんて、忘れてしまったほうがいい」
「ルーさまは過去の人ではないのだわ」アンナは
「ふむ。残念だが、それは質問ではなく命令だから、叶えてやることはできない」
「もう、勝手なことばっかり……! アンナ・ビルツに命令されるのが好きとおっしゃってたじゃない……!」
アンナは思わず声を大きくした。ディエンが目だけをあげる。笑みはそのままだが、強面のせいで眼光も鋭い。アンナは思わずひるみ――すぐにそんな自分に気づいて、すまし顔をとりつくろった。
男の視線が
「
「この街に入ったときよ」アンナはぶっきらぼうに応じた。「男の人にぶつかられたのだわ。そのときに
「男の容姿は?」
「黒がかった茶髪。
「ならば、
アンナは眉を跳ね上げた。「どうして」
ディエンが指を二本立てて見せる。
「一つ。荷物が少なすぎるから、男はこの街か、近場の街に泊まるしかない。ここから一番近くて徒歩で行ける街は、道をさらに南側にくだったところだ。よって、俺たちの行き先と一致する」指を一本折り曲げた。「二つ。全身ずぶ濡れであるということは、俺たちと同じく長旅のあとだ。よって、今夜はこの街に泊まる可能性が高い」
今追いかけようが、明日追いかけようが、結果は変わらない――ディエンの言いたいことを察して、アンナは唇を引き結んだ。腹立たしいことに、彼の指摘は正論なのだ。だというのに、素直に同意したくない自分がいる。
結局アンナは、乱暴に
頭からかぶった毛布の向こうで、ディエンが笑った気配がした。もう。何度目なの、とアンナは胸中でぼやく。一体なにが面白いのかしら。何も面白くない。何一つ。
*****
翌朝、アンナは日の登りきらないうちに目を覚ました。ディエンはいなかったが、扉の前には赤毛のうさぎの人形が置かれている。つぶらな瞳の無言の圧力に屈して、結局アンナは、ディエンが訪ねてくるまで待たざるをえなかった。
優秀な見張り役だね、というのが、本日最初のディエンの言葉だ。なに食わぬ表情が気に入らなくて、アンナは大男の顔面に人形を投げつけた。
二日目の旅路は晴天に恵まれ、心地よい秋風に吹かれながらの移動になった。
ディエンの言うとおり、次の街は近く、昼前には到着した。小さな街だったが、
道の両側に立ち並ぶ露店では、老いも若きも食べ物片手に談笑していたし、店の垂れ幕や、家々の
今日は恋人たちの日も兼ねているのよ、と言ったのは、白と赤の
あぁ、まったく、なんてことだろう。
「……冗談じゃないのだわ」
陽気な女が去ったあと、アンナは賑わう街の真ん中で、ぽつんと呟いた。
街の
その先で、花を配っていた女に出くわしたのだ。
彼と一緒にいるときでなくて、本当によかったとアンナは思う。でも、
アンナはちらと、小さな花束を見やった。しっとりと色づいた
アンナはためいきをつき、花束をしっかりと持ち直した。どなたかにあげるのがいいかもしれないわ。そう思ったところで、人混みのなかに旅装姿の若い男を見つけた。
黒がかった茶色の髪。
アンナは
「っ、な、」
「返しなさい」
花束を道端に放り出して、アンナはずいと男に顔を寄せた。
「そうよ。
「はぁ? 何を言ってるんだあんた……俺が? 盗む?」
「シルテで、わたくしにぶつかったじゃないの。知らないとは言わせないのだわ」
「それは……えぇ……? たしかに、あんたには、ぶつかったような記憶があるけど……」
「ほら、ごらんなさい!」
「ま、待ってくれよ! 盗んでない! 本当だってば! ほら!」
もしかして、本当に持っていないんじゃないかしら。心に迷いがさして、アンナは少年から身を離した。迷惑そうな顔をして走り去っていく少年を見送りながら、さらに疑問が浮かぶ。なら、
盗人は人違いだった? いいえ、記憶違いはありえない。さっきの彼だって、ぶつかったことに対しては同意していたんだもの。じゃあ、盗まれたのではなくて、どこかで落としたとか? まさか。細い鎖で
アンナはぴたりと思考を止めた。
あの時、一番近くにいたのは
ディエンだ。
「……そういう、こと……」
からくりが分かって、アンナはふらりとその場に座り込んだ。
ディエンが
放って置かれているのも、案外そういう理由からかもしれない。どうせアンナは
なによ、それ。アンナは道の片隅で、膝を抱えた。ほんとうに、嫌いだ。
そこでようやく、地面に転がった花束が目に入った。
どうして、ディエンさんは
彼にしては、やけに遠回し……そう、それだ。詰めが甘い。そうとも言える。だって実際、わたくしは
アンナは指先を止めた。自由。そうだ、この旅は自由なのだ。
旅の目的地はあるけれど、目指す理由は聞いていない。旅にかかる日数は聞いたけれど、いつまでにたどり着くべきという制約はない。ここにはアンナ・ビルツの顔を知っている人間はいなくて、だから
アンナは顔をあげる。正面には、
きっと笑っているのだろう。
思えば、取引を持ちかけられた時からずっと、彼は笑ってくれている気がする。
平気そうなふりをしているだけだよ――
「
「……いいえ」アンナは、ゆっくりと首を横に振った。「まだ見つけていないのだわ」
「そうか。なら、次はどうするかね。
一度、ゆっくりとまばたきをした。アンナは花束をつかんで、差し出す。「踊りましょう、ディエン」
珍しく、返事がない。目を
妙なおかしさがこみあげて、アンナは小さく吹き出した。ディエンがいささか不満げに「ふむ」と呟く。
「今のやり取りに、笑うような場面はなかったと思うがな」
「あら、気があわないわね。わたくしは、まったく反対の気持ちよ。ディエン」アンナはくすくすと笑いながら、立ち上がった。「行きましょう。すぐそこの広場が会場みたいよ」
返事を待たずに、アンナはディエンの手を引いて通りを歩いた。大男の手は分厚く、たしかな熱を持っている。ルーとは正反対の手だ。ちくりと罪悪感が胸をさした。けれど、足を止めたいとは思わなかった。
広場に出た。若い
「素敵な人に花束を渡したのね、お嬢さん!」
人混みの中から、弾んだ女の声が飛んできた。先ほどのエプロンドレスの女性だ。
アンナは表情をゆるめ、ディエンの腕に触れた。
「えぇ、おかげさまで。彼のことは昔から好きだったの。いつだってわたくしに優しいし、立ち居振る舞いは美しいし、夜明け色の髪も、炎色の目も素敵だから」
「――なるほど、これは光栄だ」冗談に気づいたディエンが、にやっと笑った。「俺も気に入りでね。言い回しが
女が目をぱちぱちと瞬かせた。困ったように頬へ手を当てる。「ええっと……今のはあなたたち二人のこと、かしら?」
そうよ、という人生で一番適当かもしれない返事をして、アンナたちは広場の奥へ進んだ。踊れるだけの隙間を見つけるのに、さほど時間はかからない。
足を止め、アンナはディエンと向かいあう。
「あなたが冗談を言うとは珍しい。
「冗談ではなくて、本当のことよ。ディエン」アンナはすまし顔で答えた。「あなただってそうでしょう? 素敵な人について、お話してくれたもの。叶うなら、もっと聞かせてほしいのだわ」
「するとあなたは、あなたにとっての素敵な相手の話をしてくれるというわけか」
「そうよ。だって、わたくしにとっての素敵な相手は、ルーさま一人きりですもの」アンナはぎこちなく微笑んだ。「馬鹿みたいよね。わたくしたち二人とも、この場にいない大切なひとの話をしているんですもの。とっても諦めが悪いわ」
ディエンがひょいと眉をあげた。「俺たち二人とも、か」少し間をおいてから、苦笑いする。「なるほど。こういうところでも、似たもの同士らしいね」
軽やかなヴァイオリンの
「勘違いしないでほしいんだが、俺にとってあなたが一番大切であるという事実は変わらないんだ。
「分かっているのだわ。だからあなたは、わたくしに自由をくれた」
「俺はなにも、与えてなどいないさ」アンナの耳元の毛を後ろにやって、ディエンが言った。「人は元より自由なんだよ。だから誰かを傷つけもするし、同じ手で誰かを守りもする。人殺しが誰かを愛することもあれば、善人が誰かを死に追いやることもあるだろう。それでも生き続けたいと思う自由はある。誰かが俺たちの
「……えぇ」
「
アンナは
ディエンを見上げた。
「ありがとう、ディエン。ここまで連れてきてくれて。でも……いいえ、だからこそ、わたくしはこれ以上、あなたとは一緒にいけない」
「旅をやめるんだな?」ディエンが穏やかに言った。
「そう。わたくしにとっての一番は、ルーさまだけだから」アンナはゆっくりとまばたきをして、付け加える。「そして、あなたにとっての一番は、わたくしだけじゃないから」
「……」
「ディエン。もしもこの旅に、あなたの目的があるのなら、それを追いかけてほしいのだわ。大切なのは、自分がどうしたいか、でしょう?」
触れるか触れないかの距離の先で、ディエンがにやっと笑った。負けを認めたような、自分自身にあきれているような、親しみのある口調で言う。「まさか、あなたに諭されるとは」
アンナは目元をゆるめた。
「お互いに、自分のやりたいことに気づいてなかった……というだけの話よ。やっぱり似たもの同士なのね」
「あなたと俺だけの共通点を見いだせたことは、この上ない幸いだ」
「レイモンドさん
「百点満点中、百点――ふむ。さすがは俺が
おどけたようなディエンの言葉に、アンナは思わず笑った。今ばかりは、周りで踊る若い男女と、同じ空気感で――そのことが幸福であると、素直に信じられた。
ディエンが
「一生の思い出に、俺と
「よろこんで」
アンナは、ありったけの感謝と、親愛をこめてディエンの手を握り返した。
「この時間だけは、あなたに
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