第5話 怖気づいたかね
旅に出るなんて、普段なら受け入れられない提案だった。けれど、その時のアンナはとにかく疲れ切っていて、なにかを考える余裕もなかった。そしてディエンも、せっかくの機会を見逃すような男ではない。
彼は出立の日を翌々日と決め、ティカたちを言いくるめた。とはいえ、かのティカ・フェリスが納得するはずもなく、名ばかりの説得を早々に切りあげたディエンは、アンナへさらに耳打ちする。
必要最低限の荷物を持って、明日の朝――日の出前に屋敷の門のそばで待っていること。
「きっと、ハネムーンよ」ベッドに
「ヴィナがそう言うなら」隣りに座った金髪のニケは、不満そうだ。「でもね、ニケたちを連れて行ってはくれないんでしょ」
「もちろんよ! だって、新婚旅行はマミィとダディで、って決まってるもの!」
得意げに返事をしたヴィナが、あっという顔をして口元をおおった。子供らしい仕草だった。それに、けれど、
答えを見つけられなくて、アンナは目を伏せる。
午後の日差しが、寝室のテーブルに広げた
それにしたって、必要最低限の荷物なんて。アンナは、ぼんやりと思う。そもそも、旅行すらしたことがないのに。
いいえ。旅行なんてしている場合じゃない、が正しいのだわ。ようやくそれらしい結論を見つけて、アンナはのろのろと
それで……それから?
「服は必要でしょ、マミィ」
ニケの声がした。
我に返ったアンナは、まばたきをする。ヴィナの姿はいつの間にか消え、ニケがテーブルのすぐそばに来ていた。
「花を売りに行ったんだよ」ニケがぼそりと言う。「マミィが上の空だって、ヴィナもニケも、ちゃんと分かってるんだから」
責めるような口調に、さすがのアンナもばつが悪くなった。
「ごめんなさい。心配してくれていたのね。でも、わたくしは大丈夫だから……」
「マミィの心配なんかしてない」ニケが硬い声で言った。「ニケが心配なのは、ヴィナのことと、ダディのことだけだもん」
アンナは苦笑いした。「……そうね。ニケさんの言うとおりよね」
はっとしたように金の巻き毛を揺らし、ニケが唇を引き結んだ。幼い顔には後悔がありありと浮かんでいて、アンナは気の毒になる。本当に、わたくしのことなんて気にしなくていいのに。
「……旅に……」ぼそぼそと、ニケが呟いた。「旅に、行ったほうがいいよ。ダディと。たくさんお話したほうがいい。そうすればきっと、マミィも、ダディのことが好きになれるとおもうし……ダディも、元気になれるはずだもん」
ニケが付け足した言葉に、アンナは目を瞬かせた。
「ディエンさんも、元気になれる?」
「そうだよ」
おそらく、これが言いたかったことなのだろう。ニケが力強く頷いて、アンナをじっと見つめた。その視線の強さに見覚えがある気がして、けれどアンナが答えを見つける前に、ニケが勢い込んで言う。
「ヴィナも、ダディも、本当は元気がないんだよ。平気なふりをしてるだけ。ヴィナはね、でも、いいんだ。ニケがそばにいるもの。でも、ダディは、そうじゃない。ニケじゃ駄目なんだ。ヴィナでも駄目。本当は、レイ兄ちゃんが……」言葉をきり、ニケは迷いを振り払うかのように頭を振った。「マミィ、お願い。ダディを一人にしないで。たくさんお話してあげて。大切なことだよ。マミィにとっても……ダディにとっても」
*****
黒地に白の花刺繍をあしらった魔女の正装は薄手のワンピースで、夏用だ。旅立ちの衣服にそれを選んだことを、アンナは早くも後悔しはじめていた
夜の明けきらない朝の空気はすっかり秋めいていて、ひんやりした草木の匂いに包まれている。くしゃみを一つ。身震いを一つ。
今さら取りにもどる気力はわかなかった。
ルーさまは暖かくしてるのかしら、とぼんやりと思った。
そんな心配ですら、彼に対して失礼な気がして、心が沈んだ。
そこで、頭から
「ずいぶんと寒そうな格好だ」
慌てて外套から顔を出したアンナは、ディエンを見て眉をひそめた。例の、面白がるような、馬鹿にしているような笑みを浮かべている。
「こんな朝早くに待ち合わせをするからでしょう」アンナは
「着ておけ。病人との旅ほど厄介なものはないんでな」
「でも、」
「それにしたって、荷物が多いね。
ディエンは
アンナは慌ててディエンの手を払った。またしても好奇の視線。それをすまし顔で無視して、隣を歩く。
「なにもかもが、
「浮かれているのさ」ディエンがいつもと変わらぬ口調で返す。
「まぁ、そう。それは結構ですこと」
「ところで、行き先は分かるのか?」
アンナはきわめて
「まずは街に出よう。そこから
「旅というわりには、さほど時間がかからないのね」
「あなたが望むのならば、どこまででも行くとも」
「冗談は結構よ。ダートまでは、歩いていくの?」
「馬を借りる。乗馬の経験は?」
「……知識としては」
「ならば、経験無しだな」ディエンは地図を取り上げて畳んだ。「アンナ・ビルツが馬に乗っていたところも、見たことがない」
アンナは唇を引き結んだ。ディエンが過去をほのめかした意図が分からない。からかうためなのか。少なくとも、慰めるような口調ではなかった。
「あなたに熱心に眺められるとは、光栄だ」
ディエンが前を向いたままからかってきたので、アンナはさっと前を見た。「眺めてなんて、ないのだわ」
「おや、そうかね」
「ニケさんの言ってたことが気になっただけ」
「ほう。なんて言ってたんだ?」
「あなたは元気がないって。とてもそうは見えないけれど」
「違いない」
「本人がそう
「どうかな。ニケは俺よりも、よほど気の
「……意外ね」
「なにがかな、
「あなたが、自分の子供についてお話することが」
ふむ、とディエンがぼんやりした返事をする。どうにもぴんときていない様子に、アンナは
「だって、ヴィナさんもニケさんも、あなたのことが大好きだけれど……あなたからは、二人が養子だって言うことくらいしか聞いていないのだわ」
「レイは、あいつらにとっては良い兄だったと思うがね」
「そういうことではなくて」アンナはむっとした。「あなたがヴィナさんたちのことを、どう思っているのかが分からない、という話よ」
そうか、と呟いて、ディエンが空を見た。もしかして、このまま
「いたって普通の、善良な子供たち……といったところだ」
「それは褒め言葉のつもり?」アンナは半眼で呟いた。
「もちろんだとも。二人の境遇を考えれば、
アンナはぎょっとして立ち止まった。
今ばかりは、
「
「……いいえ」
アンナが首を横に振ったのは、ディエンの試すような視線が気にくわなかったからだ。けれどすぐに、真っ当な理由に思いいたって気持ちが沈む。
「あなたは、ヴィナさんたちを助けるために行動したのでしょう。わたくしとは違うのだわ」
「違う、ね」
「そうよ」アンナは暗い声で言った。「わたくしは、たくさんの人を殺す選択をした」
「なるほど。つまりは数の大小で罪の重さを決めようということか」ディエンが鼻で笑った。「お綺麗なことだね、
明確に馬鹿にされて、アンナは唇の裏を噛んだ。ディエンはしかし、思ったよりも真面目な顔つきをしている。少なくとも、笑みはなかった。
「俺は
「それは……」
「加えて言うのならば、ヴィナたちの
ディエンがいったん言葉を切った。目を細めて、もう一度尋ねる。
「
アンナは唇を引き結んだ。それは、誰に、ということなのだろう。
ディエンに、なのか。アンナ・ビルツという人間に対してなのか。それとも、もっと別のなにかに対して、なのか。答えは見つけられなかったし、見つけられる気もしない。
黙ったままのアンナを、ディエンがどう思ったのかは分からなかった。彼はひょいと肩をすくめ、背を向けて歩き出す。
「旅のコツは、前へ進み続けることだ」すっかりいつもの口調で、ディエンは言う。「行こう、
*****
背は低いが、足腰のがっしりした
相乗りで長旅をするときには、とにかくそういう馬に限る、というのがディエンの言葉だ。いずれにせよ彼とかわした会話はそれきりで、あとはただただ、静かに時間がすぎるばかりだった。
街の近くに植えられた
ずぶ濡れとはいかないまでも、ディエンは相当に
けれど結局のところ、気がかりだった、という程度のものでしかない。
アンナの頭の大半は、ディエンとの会話で
人を殺した数で、罪の重さが決まるとは思えない。なんであれ、人殺しは罪だ。そういう意味では、ディエンとアンナは同じなのだろう。
でも、本当に? アンナは己を疑う。すくなくとも、疑いの声はすぐにあがる。けれど、その続きが浮かばない。だから考える。彼とわたくしは違う。そう感じる理由はなんだろう。考え続ける。やがて、ひとつの答えらしき考えが浮かぶ。だって、その理論でいけば、誰もが同じということになってしまう。
ティカさんは姉を殺した。
レイモンドさんは親友を死に追いやった。
それに、ルーさまも。
仲間を守るために、仲間を殺して食べた。
冬の
だから、わたくしは彼らと同じではない。アンナは一つの答えを
自分は、
答えは、やっぱり、見つけられない。見つけられる気もしない。訳もなく焦った。
事件が起きたのは、その矢先だった。
「……
宿で荷ほどきをしていたアンナは、顔を青くして呟く。
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