第4話 ……なんでまだ、生きてるのかしら

 帰り道の、記憶がない。


 歩いて帰ったはずだ。一人で。すれ違う人たちがいた。大通りをとおったのだから、当然だ。太陽は、まだ高い位置にあった。それから、そう。歩いて。屋敷に着いて、階段をのぼろうとして、ティカと出くわした。ねぇ、何があったの? そう聞かれた。それに、なんて返したのだっけ。覚えていない。思い出せない。


 違うわ。思い出したくないんでしょう。


 そうやって、


「かくれんぼというのも悪くはないがね」


 ディエンの声がした。


 ベッドでひざを抱えていたアンナは、のろのろと顔をあげる。閉ざしたカーテンの隙間から、夕日の残光がこぼれていた。明かりはそれだけで、だから、寝室はずいぶん暗い。黒の薄布を何枚も重ねたようだ。その向こうで、禿頭とくとうの大男が扉を閉める。


 少しだって似ていないのに、その背中が彼と重なった。

 腹を冷たいやいばで切りつけられたような心地がして、アンナはひざに顔をうずめる。


「……ねぇ」乾いた声で呟いた。「何をしたら、わたくしの過去を教えてくださる?」


 ディエンは、おそらく立ち止まったのだろう。それから、いつもの――丁寧で、人をからかうような――含みのある返事がある。


「ふむ。無事に帰ってきたというのに、ねぎらいの言葉もなしか」

「取引だけの関係でしょう。わたくしたちは」

「悲しいね」

「冗談は結構よ。早く、わたくしにしてほしいことをおっしゃって」

「ならば逆に問うが、あなたは何を知りたいんだ」

「〈王狼おうろう〉の構成員の名前」

「教えられないな」

「どうして」

「それは、アンナ・ビルツに関することではない」

「でも、ということは、知っているんでしょう」

「そうやって尋ねるということは、?」


 淡々とした指摘に、アンナはぱっと顔をあげた。窓際に立ったディエンが、目を細める。「あなたのそれは、泣くための理由を探しているだけだ」


 なによ、それ。


 火種に息を吹き込んだときのように、ぶわりと怒りが膨れあがった。アンナは痛いほどに手を握り、大きく息を吐き出す。


「泣きたいなんて、思ってないのだわ」

「どうだかね」ディエンが、馬鹿にしたように肩をすくめる。「帰るなり、部屋に引きこもったのだろう。血まみれで、ひどい臭いだ。水浴びもせず、夕食も食べず、ティカの言葉も上の空といったところか」

「そんなことない」

「おおかた、ルーが屋敷にいないことと関係しているんだろう? とうとう、ここを出ていったとか。まぁ、遅かれ早かれ、予想できたこと、」


 アンナが投げつけたクッションは、軽々とディエンの片手ではらわれた。禿頭とうとうの大男は分かりきった長広舌ちょうこうぜつをやめたものの、表情にはいささかの変化もない。馬鹿にしている。からかっている。あるいは値踏みをしている。


 アンナは唇の裏を噛む。ささやかな痛みで怒りと冷静さを手繰たぐり寄せて、ゆっくりと言った。


「〈王狼おうろう〉の名前を知りたいのは、わたくしの罪を正確に理解すべきだからよ。わたくしは、殺した相手の名前を知っているべきだった。記憶がないなんて、言い訳にならないの」

「知ったところで、過去は変えられんさ」

「そうよ。でも今日は変えられた」

「今日?」

「魔女の未練は、ルーさまの仲間だった。わたくしはまた、〈王狼〉を殺したのよ。彼の目の前で」


 ディエンのまゆがぴくりと動いた。「それは違うな」


「違う?」予想外の反応に、アンナは思わず笑ってしまった。からからに乾いた土みたいだ。つめを立てればたやすくがれ落ちてしまう――そんな感じの笑い声は、聞くにえない。だから言葉を重ねることにする。飾り立てて、隠してしまえば、ぼろぼろな地面なんて誰にも見えなくなる。


 庭なんて、結局はそんなものなのよ。


「ディエン。あなたらしくない意見ね。実際に、あったのよ。わたくしが殺したの。だからルーさまは、ここを出ていったの。当然のことなのだわ。仲間を殺した人間と一緒に暮らしたいって、そんなこと思えるはずがないものね。結局のところ、わたくしは、どこまで行ってもということなのよ。殺した人間の名前を、本気で知ろうとしてなかった。いつだって、わたくしのことにしか興味がなかった。ねぇ、お気づきかしら? わたくしは許されたいと思っていたのよ。いいえ、違うわね。罪深いことに、今だって許されたいと思っている」


 今度は、さっきよりも上手に笑えたはずだ。アンナはベッドの上に立った。「救いようがないのだわ」己へ向かって吐き捨てて、部屋中を手で指し示す。


「だって、ねぇ。何を見ても、心が痛くなってるのよ」破いたばかりの恋愛指南書。「ルーさまに振り向いてほしかったことも」ぐしゃぐしゃに丸めたサマーワンピース。「何を着たら喜んでもらえるかしらって、浮かれたことも」カーテンで閉ざした窓。「裏庭で、好きだって言ってくれたことも――ぜんぶ、思い出して」


 この部屋だけじゃない。帰り道もそうだった。すれ違った若い男女の談笑に、もしもを夢見てしまった。陽の光がそそぐ道を、たった一人で歩くことが寂しくてたまらなかった。屋敷の廊下で、もう一度、手をつなげたらと思ってしまった。


 そうやって、勝手に焦がれて、立ち止まりそうになって、でもそこで、別れぎわのルーの眼差まなざしを思い出した。


 憎しみと、失望と、凍りついてしまった悲しみの色をした目を。


 ――君はまた、僕の仲間を殺すんだな。


「……わたくしは、だから……」彼の言葉を思い出して、不意に唇が震えた。笑えなくなる。胸が痛い。身勝手な自分が許せなくて、息が詰まる。顔をうつむける。胸元で、薔薇十字ロザリオが闇に沈んでいる。「わたくし……なんでまだ、生きてるのかしら……」


 誰かを殺して、傷つけて、どうしてまだ、のうのうと息をしているんだろう。


 足から力が抜けて、アンナは座り込んだ。太陽の沈みきった寝室は静かだった。真っ暗だ。このまま暗闇に飲み込まれて、アンナという人間が消えてしまえばいい。少なくとも、このまま一言も話さなければ、何も考えないようにすれば、目を閉じてしまえば、それがかなうのではないか。アンナは期待した。けれどそれは、叶わないのだった。


「魔女の未練は、死体に薔薇十字ロザリオをいれて作る」ディエンの声が聞こえる。「あなたが殺したのではない。あれは元より死体だ」


 なぐさめようとでもいうのか。疲れた心が、ひねくれた言葉をく。でも、死体を作るきっかけになったのは、結局わたくしなのよ。


 アンナはぼんやりと男を見る。返事はおろか、首を横に振るのも億劫おっくうだった。放っておいてほしい。そう思うのに、ディエンはやっぱり言葉を続ける。


「取引の権利を行使しよう――アンナ嬢レディ・アンナ。あなたは、俺と一緒に旅へ出るんだ」


 ディエンの灰色の目は、アンナかららされない。

 その強さを、ふと、アンナはうらやましいと思った。

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