第4話 ……なんでまだ、生きてるのかしら
帰り道の、記憶がない。
歩いて帰ったはずだ。一人で。すれ違う人たちがいた。大通りをとおったのだから、当然だ。太陽は、まだ高い位置にあった。それから、そう。歩いて。屋敷に着いて、階段をのぼろうとして、ティカと出くわした。ねぇ、何があったの? そう聞かれた。それに、なんて返したのだっけ。覚えていない。思い出せない。
違うわ。思い出したくないんでしょう。
そうやって、何もなかったことにして、許されたいんだ。
「かくれんぼというのも悪くはないがね」
ディエンの声がした。
ベッドで
少しだって似ていないのに、その背中が彼と重なった。
腹を冷たい
「……ねぇ」乾いた声で呟いた。「何をしたら、わたくしの過去を教えてくださる?」
ディエンは、おそらく立ち止まったのだろう。それから、いつもの――丁寧で、人をからかうような――含みのある返事がある。
「ふむ。無事に帰ってきたというのに、ねぎらいの言葉もなしか」
「取引だけの関係でしょう。わたくしたちは」
「悲しいね」
「冗談は結構よ。早く、わたくしにしてほしいことをおっしゃって」
「ならば逆に問うが、あなたは何を知りたいんだ」
「〈
「教えられないな」
「どうして」
「それは、アンナ・ビルツに関することではない」
「でも、教えられないということは、知っているんでしょう」
「そうやって尋ねるということは、あなたは答えを知っているのだろう?」
淡々とした指摘に、アンナはぱっと顔をあげた。窓際に立ったディエンが、目を細める。「あなたのそれは、泣くための理由を探しているだけだ」
なによ、それ。
火種に息を吹き込んだときのように、ぶわりと怒りが膨れあがった。アンナは痛いほどに手を握り、大きく息を吐き出す。
「泣きたいなんて、思ってないのだわ」
「どうだかね」ディエンが、馬鹿にしたように肩をすくめる。「帰るなり、部屋に引きこもったのだろう。血まみれで、ひどい臭いだ。水浴びもせず、夕食も食べず、ティカの言葉も上の空といったところか」
「そんなことない」
「おおかた、ルーが屋敷にいないことと関係しているんだろう? とうとう、ここを出ていったとか。まぁ、遅かれ早かれ、予想できたこと、」
アンナが投げつけたクッションは、軽々とディエンの片手ではらわれた。
アンナは唇の裏を噛む。ささやかな痛みで怒りと冷静さを
「〈
「知ったところで、過去は変えられんさ」
「そうよ。でも今日は変えられた」
「今日?」
「魔女の未練は、ルーさまの仲間だった。わたくしはまた、〈王狼〉を殺したのよ。彼の目の前で」
ディエンの
「違う?」予想外の反応に、アンナは思わず笑ってしまった。からからに乾いた土みたいだ。
庭なんて、結局はそんなものなのよ。
「ディエン。あなたらしくない意見ね。実際に、あったのよ。わたくしが殺したの。だからルーさまは、ここを出ていったの。当然のことなのだわ。仲間を殺した人間と一緒に暮らしたいって、そんなこと思えるはずがないものね。結局のところ、わたくしは、どこまで行ってもわたくしだったということなのよ。殺した人間の名前を、本気で知ろうとしてなかった。いつだって、わたくしのことにしか興味がなかった。ねぇ、お気づきかしら? わたくしは許されたいと思っていたのよ。いいえ、違うわね。罪深いことに、今だって許されたいと思っている」
今度は、さっきよりも上手に笑えたはずだ。アンナはベッドの上に立った。「救いようがないのだわ」己へ向かって吐き捨てて、部屋中を手で指し示す。
「だって、ねぇ。何を見ても、心が痛くなってるのよ」破いたばかりの恋愛指南書。「ルーさまに振り向いてほしかったことも」ぐしゃぐしゃに丸めたサマーワンピース。「何を着たら喜んでもらえるかしらって、浮かれたことも」カーテンで閉ざした窓。「裏庭で、好きだって言ってくれたことも――ぜんぶ、思い出して」
この部屋だけじゃない。帰り道もそうだった。すれ違った若い男女の談笑に、もしもを夢見てしまった。陽の光がそそぐ道を、たった一人で歩くことが寂しくてたまらなかった。屋敷の廊下で、もう一度、手をつなげたらと思ってしまった。
そうやって、勝手に焦がれて、立ち止まりそうになって、でもそこで、別れぎわのルーの
憎しみと、失望と、凍りついてしまった悲しみの色をした目を。
――君はまた、僕の仲間を殺すんだな。
「……わたくしは、だから……」彼の言葉を思い出して、不意に唇が震えた。笑えなくなる。胸が痛い。身勝手な自分が許せなくて、息が詰まる。顔をうつむける。胸元で、
誰かを殺して、傷つけて、どうしてまだ、のうのうと息をしているんだろう。
足から力が抜けて、アンナは座り込んだ。太陽の沈みきった寝室は静かだった。真っ暗だ。このまま暗闇に飲み込まれて、アンナという人間が消えてしまえばいい。少なくとも、このまま一言も話さなければ、何も考えないようにすれば、目を閉じてしまえば、それが
「魔女の未練は、死体に
アンナはぼんやりと男を見る。返事はおろか、首を横に振るのも
「取引の権利を行使しよう――
ディエンの灰色の目は、アンナから
その強さを、ふと、アンナは
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます