第3話 君はまた、僕の仲間を殺すんだな

「ふむ。予想外だな。あなたが素直に俺の要求をのむとは」


 赤毛のうさぎの人形を片腕に抱え、ディエンが感慨深そうに言う。アンナは顔をしかめ、外套がいとうを深く被り直すふりをして斜め後ろを見やった。ルーは明後日あさっての方向を向いている。横顔は美しく、あいかわらず感情は読めない。


 よかった。聞かれてなかったみたい。ほっと胸をなでおろした。そのすぐあとに、ぴりと胸を刺した痛みについては、気づかないふりをした。


 アンナたちが歩くのは、昼下がりの大通りだ。煌華祭ファル・ヤードをひかえ、街はおおいに活気づいていた。花束を売る露店ろてんは言わずもがな、可憐かれん薄紅ピンクの砂糖菓子を並べた店や、花びらの刺繍がほどこされた布地をショーウィンドウに飾った服飾店もある。


 とにかく、どんな小さな店も――あるいは通りに面した窓付き長屋テラスハウスの、ちょっとした窓枠にも――、思い思いの花が飾られていて、夏と秋の間の日差しに花弁を輝かせているのだった。


 華やいだ空気に、アンナの心はいっとき舞い上がった。けれどすぐに、視界に影がさす。ディエンだ。


 すぐ隣を歩く大男がにやっと口角をあげ、アンナはまゆをひそめた。


「わざわざ、あなたの感想を口に出さなくてもけっこうよ」可能な限り、そっけない声音でアンナは言った。「わたくしたちの目的は、街の人たちに花束を渡すことと、レイモンドさんの情報を得ること。ディエンさん、あなたと一緒にいるのは、成り行きなのだわ」

「その成り行きを、俺があなたと一緒に過ごした時間と定義するわけか」

「あなたが望まないのならば、屋敷へ帰っていただいても構わないけれど」

「とんでもない。まさに今こそ、俺の望む時だ。アンナ嬢レディ・アンナ


 ディエンが、おおげさに肩をすくめてみせた。アンナは唇の裏を噛む。


 取引の件で、ディエンに主導権を握らせるつもりはなかった。今のやりとりだって問題はなかったはず。


 なのにどうして、ディエンさんの手のひらの上で、踊らされているような気持ちになるのかしら。憂鬱な気持ちになりそうになって、アンナは慌てて首を横に振った。


 小さな花束ブーケをいれた籐籠を持ち直す。今日は、あんず色の秋薔薇あきばらに、白いリボンをかけた。大人っぽさと、ほのかな可愛らしさが混じる色合いは、ちょっとしたお気に入りだ。


 甘い花の香りがふわりと漂って、アンナの心は少しだけ慰められる。そうよ。目的は、花束を売ることと、レイモンドさんを探すこと。そして、ディエンさんから、アンナ・ビルツについて教えてもらうことだもの。


 それで、許されたいんだ。フラウの責めるような視線を思い出して、息が止まりそうになった。籐籠をにぎる。ささやかな痛みで、なんとか息を吐き出す。


 わたくしは、許されたいと思っていたのかしら。自分の気持ちなのに分からなくて、アンナは気落ちする。それが本当なら、なんて恥知らずなの――またもや気分が落ちこみそうになって、アンナは急いで手元の紙片メモを見た。


 忘れて。立ち止まっては駄目。


「この路地を進んだところに、宿屋があるのだわ」アンナは、はっきりとした声音で言った。「そこのご夫婦が、去年は花束をもらってくれたの」

「今年もそうだといいがね」ディエンがのんびりと相づちを打った。「少なくとも、今日は一つも減ってないからな」


 これにはアンナも、ため息をつかざるをえなかった。


「みんな、花なんていらないのかしら」

「通りの花屋は、物珍しい花、華美な花を売っていたな」ディエンが、からかうような視線を向けた。「なるほど。それと比べると、我らが屋敷の花束は、たしかに清貧せいひんすぎるね」

「他にも理由があるかもしれないわ。誰かさんの愛想がないとか」アンナはむっとして応じる。

「その誰かさんは、どこかに行ってしまったようだが」

「っ、ルーさまじゃなくて、あなたのこと……えっ」


 振り返ったアンナは、目を丸くした。路地にはアンナとディエンの二人きりだ。斜め後ろにいたはずのルーが、どこにもいない。


 うそ。迷子になってしまったのかしら。一瞬だけそう思った、己の馬鹿さ加減にアンナは頬を赤くした。ルーさまは大人よ。迷子になるわけがない。わたくしから離れたかった。それだけのことなのよ。


 人々の行き交う大通りから、アンナは無理やり視線を引きがした。ディエンのうすら笑いをにらむ。


「最低」

「心外だな。俺は何もしていないさ」ディエンは肩をすくめた。「ただ、そう。ちょっとした幸運に恵まれたというだけで」

「幸運ですって?」

「あなたと二人きりになれた。恋人同士のように」

「どうかしているのだわ」


 苛立ちに任せて、アンナは足音高く路地を進んだ。されど腹立たしいことに、禿頭とくとうの大男の一歩は大きいのだ。あっという間に追いつかれた。


「探さなくていいのか」

、これが終わったあとに探すのだわ」


 ディエンの期待する返答から、アンナはあえて外して答えた。


 宿屋にたどり着き、アンナは扉を叩く。出てきた老年の男に、無理やり微笑んだ。


「こんにちは、おじさま。ビルツていの屋敷の者よ。燈華祭ファル・ヤードの花束はいかがかしら」


 男がさっと顔をしかめた。今日一日、街の人間から何度も向けられた表情――それと比べてみても、彼の反応はあからさまだ。嫌そうな声で呟く。「あの屋敷の人間か」


 こんな言葉も今日で十数回目だから、アンナは聞こえなかったふりをした。


「花束を渡すのは、わたくしたちの仕事の一つですもの。ごらんになって。今年の秋薔薇あきばらもいっとう綺麗よ。夕焼けの空に、薄紅を一滴落としたみたいな色でしょう」

「花は必要ない」

「日持ちの心配をなさってる? なら、安心して。祭りまでは長持ちするように、風に通して乾燥させているから」

「その作業も、アンナ・ビルツにさせられているのか」


 妙な質問に、アンナは返事に詰まった。男がすかさず扉を閉めようとする。


 ディエンがさっと前に出た。アンナは目を丸くする。彼は、色々なことを一気にやってみせた――扉をつかむ、籐籠から小さな花束を抜き取る、おびえる男へ花を握らせて、不敵に笑う。


「一つ持っていくといい。せっかくの綺麗な花なのだから」

「ちょっと、ディエンさん……!」


 アンナが慌てて声をあげたときには、老いた男は扉の向こうへ逃げてしまった。ディエンはしかし、満足そうだ。


 信じられないのだわ。あんなに脅迫きょうはくめいた売り方をしておいて。


 ぶりかえした苛立ちに我慢できなくなって、アンナはディエンの腕を引っ張った。ひとけのない路地裏ろじうらへはいったところで、彼をしかりつける。


「ねぇ、なんてことをしてくれたの」

「花を渡しただけだが?」ディエンは悪びれなく言った。「それにしても、こんな場所に連れ込むなんて、積極的だな」

「街の人をおどさないで。ディエン」

「それだ」


 かみあわない話に、アンナは唇を引き結んで腕を組んだ。ディエンが『謎が解けてすっきりした』と言わんばかりの表情で言う。


「俺は、あなたに呼び捨てにしてほしいらしい」


 アンナはうんざりした。いったい何をどうしたら、そういう話になるの。


 不意に疲れを覚えて、アンナは視線を地面に向ける。「なんだ、休憩でもするのか」――そんなからかいの声とともに、差し出されたディエンの手を払った。


 沈黙と、すぐ近くの大通りから響く人々の楽しそうな声。


 アンナはぽつりと呟く。


「楽しい?」

「ふむ。五十五点だな」ディエンが相変わらずの口調で返す。「呼び捨てにしてくれるのなら、さらに十点の加点――レイらしい言い方だろう?」

「つまりは、あなたも楽しくないというわけね」

「楽しいが、人生で一番というほどではない」

「こんな状況で、楽しめるほうがどうかしてると思うのだけれど」

「もちろん。あなたにとっては、そうだろうな」

「あなたにとっても、でしょう。ディエンさん。レイモンドさんのことが心配ではないの?」

「一度に追いかけるうさぎは、一匹で十分だ」

うさぎですって?」


 アンナはまゆをひそめて、ディエンを見た。


二兎を追うものは一兎も得ずFall between two stools.」壁に背を預けた禿頭とくとうの大男は、得意げに言う。「レイの参考書に、いかにも書いてありそうな言い回しだろう?」


 アンナはため息をついた。不毛だ。目の前の男は、どこまでもつかみどころがない。一生かかったって、理解できる気がしない。


 時間の無駄。ふと、そう思った。アンナはゆっくりと瞬きをする。


 分厚い眼鏡越しに、ディエンの濃い灰色の目を見た。自分でも意外なほど冷静な声で、尋ねる。


「取引の権利を行使するのだわ。答えて。アンナ・ビルツが〈王狼おうろう〉同士の殺しあいを指示した理由は?」


 ディエンがひょいとまゆをあげた。だが、反抗的な態度はそれだけだ。


「アンナ・ビルツは、なによりも効率を求める女だったから、だろうな」ディエンは淡々と答える。「あの頃、優勢だったのは〈王狼おうろう〉で、負けていたのは俺たちだ。当たり前のことだがね。かたや向こうは殺しの専門家、かたや俺たちは少しばかり戦場いくさばを踏んだだけの烏合うごうの衆だ。〈王狼おうろう〉の人間と戦うたびに、反乱軍の人間は死んだ。一度の襲撃で死ぬ数は、多いときで十数人――被害の数もそうだが、いつどこから襲撃されるとも分からない恐怖のほうが厄介でね。軍の士気に関わる。だから、アンナ・ビルツは〈王狼おうろう〉同士で殺しあわせることにしたんだろう。〈王狼おうろう〉を殺せるのは、同じ〈王狼おうろう〉というわけだ」

「……彼女に、ためらいはなかったの?」

アンナ嬢レディ・アンナはお優しい」珍しく、ディエンが皮肉っぽく笑った。「指揮官の動揺は、軍の士気に関わる。あの頃のアンナ・ビルツは、決して、そういう失態を犯さなかったさ」


 アンナは口をつぐんだ。ディエンの言わんとしていることは分かる。戦術書にも似たような記述を見たことがあった。けれど、とうてい、同意できそうにない。


 〈王狼おうろう〉のなかには、ルーがいた。いいや、それだけではない。〈王狼〉とはいえ、彼らは人間なのだ。身勝手に命を奪われていいはずがない。


 それなのに、アンナ・ビルツは大勢の人を殺す決断をしたのだ。その決断をすることに対して、彼女はためらわなかった。まるで化け物だ。人の心がない、恐ろしいなにか。


 アンナは身震いする。それを、けれど、胸の内から笑う声がする。


 ――お綺麗なことね。他ならぬ、わたくし自身のことなのよ。お前が忘れているだけで。


 ふと、視界の端で、影が動いた。


「ディエンさん、……っ!?」


 禿頭とくとうの大男が、アンナを地面に突き飛ばした。地面に体を打って、アンナは息を詰める。籐籠から薔薇ばらがこぼれる。その時にはもう、ディエンは右手の拳を振るっている。


 濁った悲鳴をあげて、なにかが吹き飛ぶ音がした。


 アンナは目を見開く。路地裏ろじうらの奥に、真っ黒な影をまとった獣がいた。黄ばんだ鋭い牙、黄土色の体毛は巻き毛気味で、真っ黒な泥のような影がこびりついている。体の大きさはちょうど、子供くらいだ――野犬と称するには大きく、先の大蛙オオガエルに比べれば小さい。


 獣は二度体を震わせて、立ち上がった。思いのほか綺麗な青の目を細めて、える。すぐにあちこちから遠吠とおぼえがあって、建物の屋上や路地の奥から、黒の獣が何匹も姿を現す。


魔女まじょ未練みれん……」アンナは呟いた。

「そのようだ」ディエンが、アンナの薔薇十字ロザリオを見やった。「良いえさがやってきた、というところなんだろう」


 冗談じゃないのだわ。アンナは唇の裏を噛んで、ちらと背後を見やった。すぐそこが大通りだ。彼らを巻き込むことはできない。


 なら、ここで食い止めるだけなのだわ。アンナは眼鏡のつるに手をかけた。だって、わたくしの目は、魔女まじょ未練みれんも殺せるもの。心の中で呟いた。やけに冷静な思考だった。


「やめておけ」


 ディエンの声に、アンナははっと我に返り――慌てて、大男をにらむ。


「やめておけ、って、どういうことかしら」

「あなたは俺を使うべきだ」ディエンが肩をすくめた。「指揮官は前線に出るべきではない」

「わたくしは、あなたの指揮官なんかじゃない」

「冷静でない上司をたしなめるのも、部下の仕事でな」

「ディエンさん、あのね……!」

「俺は神鍵クラヴィスを、あなたは魔女を殺す目を持っている。だが、ルーはどうだろうな」


 アンナは、はっとした。ディエンに対する苛立ちが一気に冷め、不安と己を恥じる気持ちがじわりと滲む。「……ご、めんなさい。あなたの言うとおりね」


 ディエンが、ひょいと両眉りょうまゆをあげた。


「ふむ。そういうところも、アンナ・ビルツとは違うな」

「……嫌ってくれて構わないのだわ」

「反論にも元気がない」

「わ、ぷっ」


 おもむろに、ディエンが赤毛のうさぎの人形を押しつけてきた。アンナが目を瞬かせるなか、ディエンが獣のほうへ体を向ける。


「そいつはあなたに預けよう、アンナ嬢レディ・アンナ。まだ作りかけでね。大切に運んでやってくれると嬉しい」

「えっ。でも……神鍵クラヴィスを使うときに、人形が必要なんでしょう?」

備えよ、常にBe prepared.」ディエンはレイモンド風に返事をして、にやっと笑った。その手には、神鍵クラヴィスのはいった小瓶こびんが二本、握られている。「レイの置き土産だ。さぁ、アンナ嬢レディ・アンナ。俺をうまく使え」


 準備万端ということらしい。アンナは覚悟を決めた。人形をおずおずと抱きしめ、路地の奥をもう一度見る。


 五匹の黒い獣が、狭い道を塞いでいる。荒い息遣いだ。口かられたよだれが、地面を焦がすような音がした。


魔女まじょ未練みれんを、こちらへ来させないようにして」アンナはゆっくりと言う。「大通りの人を巻き込んでは駄目よ。わたくしがルーさまを探しに行く間に、あなたは魔女の未練を倒して――それから、怪我けがをせずに帰ってくること。屋敷で、あなたの帰りを待っているわ。ディエン」

うけたまわった」


 ディエンが上機嫌に返事をする。アンナは小さくうなずき、人形を抱いてきびすを返した。


 *****


 アンナにわざわざ付き添って屋敷を出たが、目的はもちろん、花を配ることではない。だから適当なところで雑踏ざっとうにまぎれた。魔女まじょ未練みれんに行きあったのは、何本目の裏道を歩いたときのことだったか。


 五本目だな。自らの疑問に答えを返し、ルーは狭い路地を駆け抜ける。そしてこれで六本目だ。


 角を飛び出すと同時に、真正面から飛び出してきた獣の顔面に短剣を叩き込んだ。素早く刃を引き抜いて、獣の体を蹴り飛ばす。身を低くする。背後から襲いかかってきた二匹目のきばをやり過ごし、黒泥こくでいおおわれた腹に短剣を突き立てた。獣は悲鳴をあげ、だが、動きを止めない。犬のような体躯たいくをしならせる。


 予感はあったが、けるのが面倒だった。だからあえて、ルーは右腕を獣にくれてやった。焼けつくような痛みだ。毒を塗られた刃で切りつけられたような。


 そういえば、獣の唾液だえきは地面を溶かしていた。そんなことを今さら思い出す。

 けれどさして重要なことではなかったから、ルーは思考からその情報を消す。


 短剣をつかんだ手ごと、獣を手近な石壁に叩きつけた。きばが外れ、獣が地面にずるりと落ちる。死んではいない。殺すすべがルーにはない。だが、瀕死ひんしまで追い込むことはできる。


 ルーは傷に口をつけて、血を吐き出した。舌の表面がしびれるような感覚があって、まゆをひそめる。覚えがある。これに似た毒を、自分はよく知っている。


「ルーさま……!」


 甲高かんだかくて耳障みみざわりな女の声が聞こえて、思考が邪魔された。


 ルーは、ちらりと振り返る。息を切らした女がそこに立っている。灰色の髪。分厚い眼鏡。忌々いまいましい青の目。彼女はいつものようにおびえた顔をし、けれどすぐに、心配そうな表情をした。


「大丈夫なの……? 怪我けがを、」

「何をしにきた」


 短剣を振って、やいばについた濁った血をはらった。地面に点々と落ちた染みが境界線だ。彼女もそれが分かったのだろう。動きを止める。不自然な沈黙が落ちる。


魔女まじょ未練みれんに襲われたの。わたくしたちも」見知らぬうさぎの人形を抱えて、アンナが居心地悪いごこちわるそうに言う。「だから、ルーさまのことも心配で……」

「笑わせてくれる。心配? 君が僕のことを?」

「っ、当たり前なのだわ。だって、わたくしはルーさまのことが大切で、」

「なら、どうして僕たちを殺しあわせた」


 アンナが青い顔をして黙りこんだ。


 不意にルーは、めまいがするほどの高揚感こうようかんを覚える。敵を切りつけたときに似ていた。獲物を仕留められた喜び。命に傷をつけるという、罪悪感に裏打ちされた興奮。


「覚えていないんだろう、君は。記憶喪失きおくそうしつなんだからな」ルーは、せせら笑った。「本当に笑わせてくれる……過去をなかったことにすれば、やり直せるとでも思ったのか? 僕たちをだまして、年頃の娘のように振る舞えば、平凡で幸せな生活ができると? 君の本性は、ただの一つも変わっていないというのに?」

「……そんなこと、思っていないのだわ」

「どうだか。口ではどうとでも言える。君は昔から、綺麗事ばかり言う女で、」

「っ、わたくしが、〈王狼おうろう〉を殺しあわせたのは……っ」


 アンナの声が不意に大きくなって、ルーは口を閉じた。

 かたきである女は、哀れな娘のように唇を震わせて言う。


「殺し、あわせたのは……」アンナは人形を抱えたまま、苦しげに目を伏せた。「そのほうが、効率が良かったからよ……革命軍では、あなたたちを殺せなかったから」


 耳の奥で、血が逆流するような音がした。


 気づいたときには、ルーは化け物の血で描いた境界線を踏み越えている。アンナの胸ぐらをつかんだ。華奢きゃしゃ体躯たいくを手近な壁に叩きつけた。目を見開いた女が何かを言う前に、短剣の刃を彼女の耳元に突き立てた。


 右手の傷口から血が飛び散って、彼女と自分の頬をらす。


「死ねよ」ルーは低い声で吐き捨てた。「死んでくれ。今すぐ。ここで」


 青の瞳が凍りついた。けれど彼女は、細く呼吸をしている。こんなときなのに、赤毛のうさぎの人形を手放さないでいる。


 泣きそうな顔を、している。


「……でも、あなたを放っておけないわ。ルーさま」


 無意味な言葉に、怒りが爆発しそうになった。そうならなかったのは、例の獣が横合よこあいから襲いかかってきたからだ。


 ルーは舌打ちとともに、短剣で獣のつめぎはらう。身をひねって、獣の追撃をかわす。女の耳障みみざわりな声がした。ますます腹が立った。


 放っておけない? なにを今さら。なにもかもが君のせいじゃないか。君が仲間を殺した。君が陰惨な革命をはじめた。君が大勢の人間を殺す選択をした。


 獣が右肩にみつく。その後頭部に短剣を突き刺す。毒のせいだろう、視界がぶれる。その片隅で、さらに十数匹の獣の咆哮ほうこうが聞こえる。面倒だ。まだ終わらないのか。


 女に左腕をつかまれた。


「だめ……駄目よ、ルーさま……っ!」アンナが必死な顔で言う。「逃げましょう!? お願いだからっ……! 今みたいな戦い方を続けてたら、死んでしまうのだわ……!」


 ――そうだ。僕には魔女の力があるじゃないか。


 ルーは短剣を手放した。血まみれの手で彼女のあごをつかんだ。青の目をのぞきこみ、低い声で命じる。「僕の名前を呼べ」


 アンナが顔をこわばらせた。その腕から、とうとう人形がすべり落ちる。


「いやよ……」アンナは息も絶え絶えに呟いた。「今のあなたに、魔女の力を使わせたくない……」

「君の意見は聞いていない」

「お願いだから……」

「君に、何かを願う権利なんてない」


 獣の一匹が、路地の奥から走ってくるのが見えた。早くしろ、と命じる。彼女が泣き出しそうな目をゆがめる。諦めて、要求を飲むことにしたのだろう。ルーはそう思った。実際は違った。


 どこにそんな力が残っていたのか。アンナは手を引きはがし、身をよじるようにして拘束から逃れる。しゃくにさわる女だ。ルーは短く舌打ちして、彼女の細腕を握った。けれど振り向かせるより早く、彼女が眼鏡を外す。


 黒の獣を見て、叫ぶ。

 まるでそれが、魔女の未練の名前であるかのように。


『――向こう見ずな子犬テメリテ・シオ!』


 ぱんっと音とともに、彼女の眼前で黒の獣が弾けて消えた。真っ黒な泥と、濁った血が、彼女の灰色の髪を濡らす。彼女はしかし、足を止めず、前へ前へと進みながら獣を目で見て、消していく。


 その光景を、ルーは呆然と眺めていた。いつの間にか、自分の手が彼女から離れていたことにも気づかなかった。強すぎる怒りは、まともに考える力さえ奪うことを思い知った。


 やがて、獣をすべて殺しつくした彼女が振り返る。

 そこでやっと、ルーはつぶやく。




「君はまた、僕の仲間を殺すんだな」





 舌先が、ちりと痺れる感覚があった。

 それはたしかに、かつての仲間――向こう見ずな子犬テメリテ・シオが愛用していた毒に違いなかった。

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