第2話 アンナちゃんは、許されたいんだ
朝の
「それで? まさか、ディエンと本気で取引するわけじゃないよね?」
「少し考えさせて、ってお伝えしたのだわ」
アンナは何でもないふうを装って返事をし、水色のサテンのリボンを花束に結び終えた。
ティカが、面倒くさそうな顔で天を仰いでみせる。さっさと断ればいいのに、という表情だ。あの男、
やわらかな黄色の花弁をつけた
双子の赤毛のほう、赤いおさげのヴィナが、リボンの先端と
「心配しなくてもいいのよ、マミィ。ダディはとっても素敵なダディなんだから」
「あなたたちにとっては、ね」アンナはあまり強い言葉になりすぎないように、ゆっくりと言った。
「良い父親が、良い恋人とは限らないってこと」ティカがすかさず言う。「ていうか、あいつが良い父親っていうのも想像がつかないんだけどさ」
「むむむ! ダディは世界で一番かっこいいもん!
ヴィナが浮かない顔になった。
「ニケ、元気ない?」
ニケは、慌てたように首を横に振った。
「ううん、そんなことないよ。ヴィナ」
「そんなことある」ヴィナが真剣な顔で言った。ほんのいっとき考え込んだあと、ぱっと顔を輝かせた。「そうだ。ね、真っ白なお花を探しにいこ! きっと花束にあうはずだもの」
戸惑うニケを引っ張って、ヴィナが裏庭へ飛び出していった。ほどなくして、子供らしい、はしゃいだ声が響き始める。
アンナはほっとした。ヴィナの気遣いがうまく作用したということだろう。
作りかけの花束を放り出し、ティカが作業机に
「いいよね、あの二人は。互いに分かってる仲っていうかさ」
「う、ふふ……やだなあ……」ティカの花束へ紫のリボンをかけなおしながら、フラウが陰気に笑う。「私も、ティカちゃんのことは分かってるつもり……だよ……? 悩んでること、話してくれたなら……なんだって、解決してあげるし……」
「それはね……まぁうん、そうだけど……」
ティカが言葉を濁した。
アンナは慎重に声をかけた。
「レイモンドさんのことね……?」
「悩んでるわけじゃない」すかさず返事をして、ティカが形のいい
「えっ」
「ディエンとの取引。本当に応じるの?」
ティカに尋ねられて、アンナは口を閉じた。
革命家アンナ・ビルツの過去を教えること。その代わりに、ディエンの望む時にそばにいること。
「その価値はあると、思っているのだわ。ディエンさんの言葉を信じるなら……彼は、わたくしの知らない過去を知っているから」
「ルーの言葉が真実かどうか、確かめたいってこと?」
「いいえ。ルーさまの言葉はきっと、本当よ」物言いたげな顔をしたティカへ、アンナはぎこちなく微笑んだ。「だって、彼は……こういう嘘をつく人ではないもの」
君が〈
三日前の、斬りつけるようなルーの言葉だ。灰をまぶした炎色の目には、裏切りと悲しみと憎しみがあふれていた。彼は嘘をつく人間ではないし、嘘なんかであんな表情を浮かべられるはずもない。
だから、すべて真実だ。
アンナという人間が、それを忘れてしまっているというだけのことだ。
最悪で、最低なことに。
胸をふさぐような感情がせりあがった。
駄目。立ち止まらないって決めたでしょう。アンナは己を叱りつけて、慌てて
そう言い聞かせて、アンナは話を続ける。
「わたくしが知りたいのはね、どうして〈
「それで、アンナちゃんは、許されたいんだ」
暗い声に、アンナはどきりとした。
サテンのリボンへと伸ばしかけていた手を止めて、顔をあげる。フラウだ。
「そういうこと、でしょう……?」フラウがぼそぼそと言った。「だって、本当の解決策なんて、分かりきってるもん……ルーはあなたのことを嫌ってるんだから……彼の目の前から姿を消すこと……アンナちゃんが、やるべきなのは、それじゃないの……?」
「……そ、れは……」
アンナはつばを飲み込んだ。返事をしなきゃ、と一拍遅れて思う。けれど、何を言えばいいのか。
だって、フラウさんの言葉は、正しい。冷たい水が染み込んだみたいに重くなった頭で、そう思う。理由が何であれ、ルーさまはわたくしを憎んでいる。そのことだけが真実で。
「それなのに、みっともなく理由を探して……」フラウが目を細めた。「馬鹿みたい、ね……アンナちゃんは……許されたいと、思ってるんだ……今さら……」
「フラウ」
ティカが、ぴしゃりと名前を呼んだ。口をつぐんだフラウをにらむ。
「言いすぎ。アンナに謝って」
「……でも……」フラウが珍しく不服そうな顔をした。「本当のことだよ……ティカちゃん……」
「本当なら、何でも言っていいわけじゃないでしょ」
「許せない気持ち……ティカちゃんなら、理解できると思うけど……」
「フラウ!」
苛立ったように、ティカがもう一度親友を
フラウが立ち去った。ティカがアンナのほうを見やる。苦しげな表情だった。ルーさまと同じ……ぼんやりと思って、アンナの胸がつきりと痛くなる。
わたくしのせいだ。
「あ、の……」
声が震えそうになった。身勝手な感情だと分かっていたから、手をぎゅっと握り込んで
「フラウさんのことを責めないであげて。彼女の言い分は正しいし……えっと、わたくしは平気……というのは、おかしいわよね。でも、嫌だとか……そういうことは思ってないから……」
「嘘」ティカがぎゅっと眉根を寄せる。そういう表情をすると、泣きそうにも見えるから不思議だ。「大根役者のくせに、強がりなんて。馬鹿じゃないの」
「強がりじゃないわ。本当よ。少なくとも、傷ついたりはしてないもの。ただ、驚いただけ」
「……驚くって、なにに」
「あぁ、わたくしって、許されたいと思ってるのね、って。その、ね……恥ずかしい話だけれど、言われて初めて、気づいたから……」
ぐらっと、心の中の何かが揺れそうになった。悲しいだとか、泣きたいだとか、そんな気持ちが膨れあがって、アンナは慌てて
ティカが唇を引き結んだ。花の香りに染まった風が吹く。夏の終わりを感じさせるような、一滴の涼しさを混ぜ込んだ風だった。
「許したい気持ちも、あるんだよ」
ティカがぽつりと呟いて、目を伏せた。言葉を探すような沈黙のあと、ため息をついて、呟く。
「ディエンは悪いやつじゃない。でも、気をつけて。過去を知ることが、必ずしも最善とは限らないんだから」
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