第2話 アンナちゃんは、許されたいんだ

 朝の顛末てんまつを聞き終えたティカは、目を丸くした。


「それで? まさか、ディエンと本気で取引するわけじゃないよね?」

「少し考えさせて、ってお伝えしたのだわ」


 アンナは何でもないふうを装って返事をし、水色のサテンのリボンを花束に結び終えた。


 ティカが、面倒くさそうな顔で天を仰いでみせる。さっさと断ればいいのに、という表情だ。あの男、情緒じょうちょがなさすぎでしょ、という批難もあるのかもしれない。いずれにせよ、同じテーブルについたディエンの双子達に気づかれなかったのは幸いだった。


 裏庭バックガーデン東屋ガセボには、秋めいた日差しが注いでいる。アンナとティカ、それにディエンの双子とフラウは、煌華祭ファル・ヤードのための小さな花束を準備していた。


 やわらかな黄色の花弁をつけた菊花マム、白から濃い赤紫のグラデーションに色づいた吾木香バーネットつややかな青紫に染まった風車花クレマチス。低木から摘んだ緑の葉と枝を差し入れながら一つにまとめて、サテンのリボンを結び、水をはった硝子ガラスの器に挿していく。


 双子の赤毛のほう、赤いおさげのヴィナが、リボンの先端とはさみを手に顔を上げた。アンナへ向かって、にっこりと笑う。


「心配しなくてもいいのよ、マミィ。ダディはとっても素敵なダディなんだから」

「あなたたちにとっては、ね」アンナはあまり強い言葉になりすぎないように、ゆっくりと言った。

「良い父親が、良い恋人とは限らないってこと」ティカがすかさず言う。「ていうか、あいつが良い父親っていうのも想像がつかないんだけどさ」

「むむむ! ダディは世界で一番かっこいいもん! 肩車かたぐるまだって、絵本を読むことだって、なんでもしてくれるのよ? ね、ニケ?」


 ほおふくらませたヴィナが、隣の少年を見やった。金の巻き毛のニケは、そこでやっと自分が話していないことに気づいたらしい。リボンを巻いた束を持ったまま、「うん」と小さくうなずく。


 ヴィナが浮かない顔になった。


「ニケ、元気ない?」


 ニケは、慌てたように首を横に振った。


「ううん、そんなことないよ。ヴィナ」

「そんなことある」ヴィナが真剣な顔で言った。ほんのいっとき考え込んだあと、ぱっと顔を輝かせた。「そうだ。ね、真っ白なお花を探しにいこ! きっと花束にあうはずだもの」


 戸惑うニケを引っ張って、ヴィナが裏庭へ飛び出していった。ほどなくして、子供らしい、はしゃいだ声が響き始める。


 アンナはほっとした。ヴィナの気遣いがうまく作用したということだろう。


 作りかけの花束を放り出し、ティカが作業机に頬杖ほおづえをつく。


「いいよね、あの二人は。互いに仲っていうかさ」

「う、ふふ……やだなあ……」ティカの花束へ紫のリボンをかけなおしながら、フラウが陰気に笑う。「私も、ティカちゃんのことは分かってるつもり……だよ……? 悩んでること、話してくれたなら……なんだって、解決してあげるし……」

「それはね……まぁうん、そうだけど……」


 ティカが言葉を濁した。紫水晶色アメジストの目は、少しばかり遠くを見ている。


 アンナは慎重に声をかけた。


「レイモンドさんのことね……?」

「悩んでるわけじゃない」すかさず返事をして、ティカが形のいいまゆをひそめた。「というか、悩んでるのは君のほうだろ。アンナ」

「えっ」

「ディエンとの取引。本当に応じるの?」


 ティカに尋ねられて、アンナは口を閉じた。


 革命家アンナ・ビルツの過去を教えること。その代わりに、ディエンの望む時にそばにいること。禿頭とくとうの大男の提案を、もう一度だけ胸の内で繰り返して――アンナはゆっくりと、うなずいた。


「その価値はあると、思っているのだわ。ディエンさんの言葉を信じるなら……彼は、わたくしの知らない過去を知っているから」

「ルーの言葉が真実かどうか、確かめたいってこと?」

「いいえ。ルーさまの言葉はきっと、本当よ」物言いたげな顔をしたティカへ、アンナはぎこちなく微笑んだ。「だって、彼は……こういう嘘をつく人ではないもの」


 君が〈王狼おうろう〉を殺すように指示をしたんだな。


 三日前の、斬りつけるようなルーの言葉だ。灰をまぶした炎色の目には、裏切りと悲しみと憎しみがあふれていた。彼は嘘をつく人間ではないし、嘘なんかであんな表情を浮かべられるはずもない。


 だから、すべて真実だ。

 アンナという人間が、それを忘れてしまっているというだけのことだ。

 最悪で、最低なことに。


 胸をふさぐような感情がせりあがった。


 駄目。立ち止まらないって決めたでしょう。アンナは己を叱りつけて、慌てて菊花マムを引き寄せる。なにもかもが平気だ。大丈夫。


 そう言い聞かせて、アンナは話を続ける。


「わたくしが知りたいのはね、どうして〈王狼おうろう〉を殺すような指示をだしたか、ということなの。いくら謝罪の言葉を並べたって、心がこもっていなければ意味がないわ。そうでしょう? だから理由を知りたくて。それに、ルーさまはずっと苦しそうだもの……わたくしに原因があるなら、他に改めるべき行動がないかどうかも、確認すべきで、」

「それで、アンナちゃんは、許されたいんだ」


 暗い声に、アンナはどきりとした。


 サテンのリボンへと伸ばしかけていた手を止めて、顔をあげる。フラウだ。血色けっしょくの悪い顔をした彼女と目があう。眼鏡越しの彼女の瞳は、真っ黒な池に、一滴の青を溶かし込んだような色だった。


「そういうこと、でしょう……?」フラウがぼそぼそと言った。「だって、本当の解決策なんて、分かりきってるもん……ルーはあなたのことを嫌ってるんだから……彼の目の前から姿を消すこと……アンナちゃんが、やるべきなのは、それじゃないの……?」

「……そ、れは……」


 アンナはつばを飲み込んだ。返事をしなきゃ、と一拍遅れて思う。けれど、何を言えばいいのか。


 だって、フラウさんの言葉は、正しい。冷たい水が染み込んだみたいに重くなった頭で、そう思う。理由が何であれ、ルーさまはわたくしを憎んでいる。そのことだけが真実で。


「それなのに、みっともなく理由を探して……」フラウが目を細めた。「馬鹿みたい、ね……アンナちゃんは……許されたいと、思ってるんだ……今さら……」

「フラウ」


 ティカが、ぴしゃりと名前を呼んだ。口をつぐんだフラウをにらむ。


「言いすぎ。アンナに謝って」

「……でも……」フラウが珍しく不服そうな顔をした。「本当のことだよ……ティカちゃん……」

「本当なら、何でも言っていいわけじゃないでしょ」

「許せない気持ち……ティカちゃんなら、理解できると思うけど……」

「フラウ!」


 苛立ったように、ティカがもう一度親友をめつけた。フラウはふいと顔をそらし、立ち上がる。「街に花束売りに行くんでしょ……準備してくるね……」


 フラウが立ち去った。ティカがアンナのほうを見やる。苦しげな表情だった。ルーさまと同じ……ぼんやりと思って、アンナの胸がつきりと痛くなる。


 わたくしのせいだ。


「あ、の……」


 声が震えそうになった。身勝手な感情だと分かっていたから、手をぎゅっと握り込んでえた。アンナはなんとか、微笑みらしきものを浮かべる。


「フラウさんのことを責めないであげて。彼女の言い分は正しいし……えっと、わたくしは平気……というのは、おかしいわよね。でも、嫌だとか……そういうことは思ってないから……」

「嘘」ティカがぎゅっと眉根を寄せる。そういう表情をすると、泣きそうにも見えるから不思議だ。「大根役者のくせに、強がりなんて。馬鹿じゃないの」

「強がりじゃないわ。本当よ。少なくとも、傷ついたりはしてないもの。ただ、驚いただけ」

「……驚くって、なにに」

「あぁ、わたくしって、許されたいと思ってるのね、って。その、ね……恥ずかしい話だけれど、言われて初めて、気づいたから……」


 ぐらっと、心の中の何かが揺れそうになった。悲しいだとか、泣きたいだとか、そんな気持ちが膨れあがって、アンナは慌ててふたをする。言葉尻ことばじりは震えただろうか。いいえ、いつもどおりのはずよ。ほとんど自分に言い聞かせるように思って、アンナはティカへ、もう一度笑みを向ける。「でも、大丈夫だから」


 ティカが唇を引き結んだ。花の香りに染まった風が吹く。夏の終わりを感じさせるような、一滴の涼しさを混ぜ込んだ風だった。


「許したい気持ちも、あるんだよ」


 ティカがぽつりと呟いて、目を伏せた。言葉を探すような沈黙のあと、ため息をついて、呟く。


「ディエンは悪いやつじゃない。でも、気をつけて。過去を知ることが、必ずしも最善とは限らないんだから」

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