第15話 星砂の命者

 君たちを呼んだのは他でもない、と彼は言った。


 ビルツていの応接室には、朝の光が注いでいる。大きな窓から眺める庭木の緑は美しい。けれど、部屋の空気は重苦しかった。アルヴィムを除く全員が集まっているが、誰一人として口を開こうとせず、部屋の中央を見つめている。


 そこには、レイモンドが立っている。彼のそばに丸テーブルがあり、銀の三つ輪を組み合わせた飾りが置かれていた。


 記憶にあるよりもずっと美しい。すりきれたソファに浅く座ったアンナは、飾りを呆然と眺めながら思う。でも、なんだか綺麗すぎないかしら。


 まるでこのためだけに、表面を何度もぬぐって汚れをふきとったような。


 レイモンドが銀の飾りを持ち上げ、部屋を見回す。窓際に立ったディエンと双子たち、戸口の壁にぴんと伸ばした背を預けるダグラス、本棚の陰にたたずむフラウと、顔をうつむけたティカ、ソファのそばに立つルー。


 レイモンドは、最後にアンナのほうへ視線を向けた。髪と同じ赤銅色の目は、びた鉄のような色あいをしている。


「これに心当たりは?」

「……かぎ、だわ」アンナはルーと視線をかわしてから、慎重に答えた。「〈王狼おうろう〉の鍵よ。見つけてくださったの? でも、どこで?」


 レイモンドが「なるほどね」と呟いて、視線を落とした。鍵につながる鎖を眺め、ささやかなため息とともに握り直して言う。「アルヴィムだよ。彼が持っていた」


「そのはずはない」ルーがまゆをひそめた。「彼が持っていたのなら、僕たちへ真っ先に教えてくれるはずだ」

「言えない理由があったんだろ」レイモンドが言った。

「言えない理由?」

「質問を変えよう」ルーの言葉を無視して、レイモンドは再び、アンナを見た。「アンナさん。あなたはどうして、俺たちを裏庭バックガーデンへ呼んだんだ?」


 予期せぬ問いかけに、アンナは戸惑った。


「どうして、って……それは……あなたたちと裏庭の世話をしたかったから……」

「なぜ?」

「えっ」

「なぜなんだ?」レイモンドは矢継やつばやに言葉を重ねた。「なぜ、あなたは俺たちと裏庭の世話をしたいと考えた? なぜ春から秋までという季節を選んだ? なぜ、一年ごとに魔女を入れ替えるなんていう面倒を?」

「それくらいにしておけ、レイ」


 ディエンが警告するように遮った。レイモンドが不服そうな顔をして、口を閉じる。


 アンナはそろりと息を吐き出した。そこにいたってようやく、自分が息を止めていたことに気づく。身をかがめたルーが、心配そうにアンナのほうへささやいた。「大丈夫か」


 アンナは、ぎこちなくうなずく。大丈夫。それはもちろんだ。レイモンドは質問しただけなのだから。頭では分かっている。けれど、何故だろう。少しだけ、胸の奥が冷たい。


 アンナの指先が、胸元の薔薇十字ロザリオに当たった。

 まるで、その時を待っていたかのようだった。


「……うわさを聞いた」レイモンドが、ぼそりと言った。「アンナ・ビルツは薔薇十字ロザリオを手に入れるために、魔女を庭に呼び、殺している、と」


 アンナは耳を疑った。


「待って。どういうことなの……? 知らないのだわ、そんなこと」


 レイモンドは冷ややかな眼差しで首を振る。


「そういうだろうね、君ならば。これが真実であれ、間違いであれ」

「間違いよ。わたくしは薔薇十字ロザリオなんて求めてない……」

「でも、魔女についてずいぶんと調べていたんだろう? この裏庭バックガーデンを作ると決めたときから」


 知らない。そんなことは。そう言うべきだった。けれど実際には言えなかった。


 アンナは知らないのだ。けれど、アンナ・ビルツはどうだろう。記憶を失う前の自分は?


「アルヴィムを呼ぶべきじゃないのか」見かねたように、ダグラスが口を挟んだ。「レイモンドくん、やきもきする気持ちは分かるが……お嬢さんレディにも事情があるんだ。代わりの人間に話を聞くべきと思うがね。その点、アルヴィムは彼女との付き合いも長くて、」

「彼なら来ませんよ。俺が殺した」


 空気が凍りついた。


 レイモンドは落ち着きをはらっている。彼はゆっくりと重心を移動させた。赤銅色しゃくどういろの髪が揺れる。隙間からのぞく眼差しは、いまだにアンナへ注がれている。


「それに、アンナ・ビルツが魔女を呼ぶ理由について語ったのは、アルヴィム本人だ」レイモンドは言った。「彼はアンナ・ビルツの協力者だった。彼女に代わって、今年も同じように魔女を殺すと言った。俺は薔薇十字ロザリオを生む見込みこみがないからと、殺されそうになった。昨日の夜のことだ。だから、殺した。正当防衛として」


 ありえない、と呟いたのは誰だっただろう。アンナ自身か、ルーか、ダグラスか。それとも別の誰かか。


 いずれにせよ、レイモンドは落胆もさげすみもしなかった。視線をそらすことさえせず、静かな覚悟を秘めた声音で言う。


「俺は、この選択が間違いだとは思わない。アルヴィムを殺すことで、君たちを守ることができるからだ。アンナ・ビルツ、あなたはどうだ? あなたはアルヴィムの言うとおりに、俺たちにとっての敵なのか? それとも、すべてはアルヴィムの虚言きょげんなのか?」

「そ、れは……分からないわ……」レイモンドがまゆを跳ね上げる。責めるような沈黙に、アンナは震える唇で言葉を続けた。「……分からないのよ……だって、わたくしには、記憶が、なくて……でも、ねぇ、アルヴィム先生が本当にそんなことを? いいえ、その前に、あなたが先生を殺すなんて……」

「そこは今の論点じゃない」

「でも、」

「アンナ・ビルツ。仮に記憶がないのが真実なら、思い出してくれ。今、ここで」レイモンドは叱るように言った。「自分が悪なのか、善なのか。君自身にしか決められないんだ。だから、」

「いい加減にしてよ!」ティカが鋭い声で叫んだ。


 レイモンドの表情がこわばった。その背中を、ティカがにらみつける。


「もうたくさんだ。自分のことをたなげて、アンナを責めてばっかり……!」

「……棚にあげてなんかないし、責めてもいない」レイモンドは振り返らずに答えた。「可能な限り、最悪の脚本シナリオを想定して動いているだけだ」

「違う。ボクたちの気持ちなんか、どうでもいいんでしょ」


 ティカは吐き捨てるように言った。


「レイモンド。君が守りたいのは、君の気持ちだけだ。そのためなら、君以外の誰かを平気で悪にする」

「俺は別に、誰かを悪になんてしてない。その人の行動が、本人を悪たらしめるんだ。俺はそれを正すだけ、」

「はっ。それがリンダルムの赤薔薇あかばらのやり口ってわけ?」

「っ、その話は関係ないだろ!」


 痛みをこらえるように顔を歪めて、レイモンドが振り返った。


 ティカが唇を引き結ぶ。一瞬だ。すぐに、そんな反応を示した自分が許せないと言わんばかりに、声を震わせながら言った。


「関係あるでしょ。分かんないの? どれだけ言葉を飾ったって、今の君は、どう見ても悪だ。あいつらと同じように」

「違う、俺は正義だ」レイモンドは強い口調で言った。「君たちが理解していないだけで、これが正しいことなんだ」


王狼おうろう〉のかぎをつかみ、レイモンドが素早く窓際まどぎわに駆け寄った。


 さやからやいばを引き抜く音がする。窓際まどぎわのディエンが、素早く双子ふたごを引き寄せようとする。レイモンドはしかし、ディエンの手から赤毛のヴィナを奪い取る。


「動くな!」


 少女の喉元のどもとに短剣をつきつけ、レイモンドは鋭い声で全員を制した。


 ヴィナがおびえたように瞳を揺らす。それを無視して、レイモンドはディエンに向かって言った。


「俺の罪の名前を呼んでくれ」


 ニケをかばいながら、ディエンが目を細めて問いかけた。


「どういうつもりだ」

「俺はここから出ていく」レイモンドは、先よりもずっと落ち着いた声音で返した。「逃げ切るには、魔女の力が必要だ。だから俺の罪の名前を呼べ、ディエン。そうすれば、ヴィナは君に返す」

賢明けんめいな策とは思えんが」

「客観的に見れば、そうだろう」レイモンドは自嘲じちょうして、やいばをヴィナの皮膚に少しだけ沈ませた。「でも、君たちよりは、うまくやってみせるさ」


 ヴィナの目から涙がこぼれた。ディエンが眉間みけんしわを寄せ、呟く。『……〈星砂の命者トレミー〉』


 ぱちりと空気のぜる音がした。魔女の力を抑えるためのかせが外れた音だ。


 レイモンドが、ヴィナを床に突き飛ばす。を狙っていたかのように、ルーが駆けた。レイモンドとの距離をつめ、短剣を振るう。刃はしかし、かわされた。窓が割れる。


 赤銅色の髪の青年は、素早く身をひるがえした。割れた窓を通って、裏庭バックガーデンに出る。ルーが後を追う。アンナもそれに続こうとした。窓を乗り越えようとしたのだ。そこで腕をつかまれた。ディエンだった。


「本当に行くのか、アンナ嬢レディ・アンナ

「っ、」


 もちろん、と返事をしかけたアンナは、部屋の惨状さんじょうたりにして言葉を失った。


 窓ガラスの欠片かけらが床に散らばっている。ダグラスが、泣きわめくヴィナの怪我の様子をている。二人に寄り添う双子のニケは、青い顔をしている。ティカの様子もおかしかった。フラウに介添えされながら床に座り込み、うちひしがれたように呟く。「……正しいわけないでしょ……こんなのが……」


 窓ガラスで切ったのだろう。右のまぶたの上から流れた血を親指でぬぐって、ディエンが低い声で言う。


「レイは本気だ。〈王狼おうろう〉の鍵を持っていただろう。間違いなく、ルーに攻撃されるのを見越してのことだ」

「……攻撃……」

「仮にルーに襲われても、鍵を使って攻撃をやめるよう命じることができる。それだけじゃない。あなたを殺すように命令することも、できるはずだ」


 アンナは立ちすくんだ。冷たい波が、胸の奥からこみ上げる。それはいきどおりと悲しさで、後悔に裏打ちされていた。一つ呼吸をするたびに足元にまって、沼地の粘つく泥のように歩みを遅くする。


 どうして、こんなことに。そう思った自分に気がついて、アンナは唇の裏を強く噛んだ。心の内だけで、己をしかりつける。


 分かりきったことを言わないで。何もかも上手くいっていると、わたくしが呑気のんきに思い込んでいたからでしょう。


 取り戻さなきゃ。漠然とした恐怖に駆られながら、アンナは成すべきことを必死で考える。後悔も自己嫌悪も、そのあとでいい。これ以上、取りこぼすべきじゃない。大切なものを。大切な人を。


「レイモンドさんをめに行きましょう」アンナは無理矢理に、ディエンと視線をあわせた。「あなたの言うとおり、危険であることは分かってる。でも、わたくしたちが止めないと、本当に取り返しのつかないことになるわ」


 ディエンが値踏みするように目を細めた。


「レイは、あなたを疑っている。説得などという生ぬるい手段は使えないだろう」

一足飛いっそくとびにいかないのは承知の上よ。まずは、この場をおさめることだけに注力を。ディエン、あなたはルーさまと協力して、〈王狼おうろう〉の鍵を奪い返して。わたくしが、レイモンドさんの魔女の力をおさえます」

「仮に鍵を使われたら?」


 凍えるような恐怖が、喉元のどもとからがった。けれど同時に、夏の雨夜の、ルーのぬくもりも思い出した。


 あなたの好きという言葉があれば、わたくしは何度だって前を向ける。

 なにがあっても。


「……わたくしを、おとりに」今度ははっきりとした声で、アンナは禿頭とくとうの大男に命じた。「あなたがレイモンドさんを止めるのよ、ディエン」


 *****


 アンナは、ディエンとともに裏庭バックガーデンへ足を踏み入れた。


 倒壊した東屋ガゼボ、根こそぎ倒れた低木シュラブ、庭の奥からは獣のうなり声が聞こえる。鮮やかな花びらの散った道を駆けながら、数歩先を走るディエンが、ちらとアンナを見やった。


「レイが星獣けものを呼んでいるようだ」

「数は?」

「二匹」ディエンはくたびれたうさぎの人形を抱えなおた。獲物を狙う熊のように、腰をわずかに低くする。「ルーと俺とで一匹ずつだ。そこをねらえ」


 アンナがうなずく。低木シュラブで囲われた道を抜ける。ディエンが飛び出し、丸池ポンドのほとりで切り結ぶレイモンドのほうへ突っ込んでいく。


 レイモンドはルーのやいばを払い、ディエンの振るった拳を左腕で受け止めた。顔をゆがめて言う。


「やっぱり、君も邪魔するのか! ディエン!」

「なに、そう緊張するなよ! いつもの手合てあわせだろう!」ディエンは挑発するように口元を歪めた。「そら。右ががら空きだ!」


 人形を落として、ディエンが右手を伸ばす。レイモンドが舌打ちとともに叫んだ。『獅子レオニス!』


 青の毛皮を持つ獅子ししが、背後からディエンに襲いかかった。すかさずディエンはレイモンドから身を離し、獅子のあぎとを避ける。勢いを殺さず、足元のうさぎの人形を蹴り上げて叫んだ。


四天の白翁Es werde Licht!』


 ディエンの言葉を合図に、うさぎの人形が内側からぜた。光の鎖が獅子に絡みつく。


 レイモンドの体が、つかの間、がら空きになる。


「っ、レイモンド・ラメド!」


 アンナは眼鏡をはずしながら、大声で名前を呼んだ。こちらに顔を向けたレイモンドと、目をあわせる。


 音が一気に遠ざかった。景色がゆがみ、世界の形が崩れ、色だけになったものが混ざりあって、再び形を成す。


 そしてアンナは、レイモンドの罪を見る。


 *****


 俺が駆けこんだとき、独房どくぼうは恐ろしいほどに静かだった。


 天井に近いところに鉄格子がはめられていて、その向こうに星を散りばめた夜空がある。まるで絵画だ。けれどもちろん、それは明かりとりのための小窓だ。青白い月明かりがさしこんで、床に打ち捨てられた人影を照らしている。


 それは、ぼろきれのようだった。手足や体が、あらぬ方向に曲がっている。ぴくりとも動かない。首のあたりから、ちぎれた細長いひもびていた。少し離れたところには、椅子が打ち捨てられている。


 あぁ、と俺はうめいた。足から力が抜けて座り込む。手の中で、紙がかさりと音を立てた。彼からもらった手紙だった。


 彼は革命軍側の兵士で、哀れにも国王軍にとらえられた捕虜ほりょで、慈悲深き教会が選定した神鍵クラヴィスの被検体であり、俺ととしの近い、普通の若者だった。星を眺めるのが好きで、口数は少なく、けれど揺るぎない正しさを持つ人だった。


 親友だった。

 だから守ろうとしたのだ。


 その頃、俺の父親は神鍵クラヴィスで成功をおさめた。それは、よだれと涙と糞尿ふんにょうを垂れ流し、赤子のような声でばかりの空虚な人間だったが、神様の子供に違いないと、父は嬉々ききとした面持ちで言った。材料は、被検体のなかでも一番年下の少女で、ちょうど前日、誕生日を祝ったばかりの子供だった。


 父の関心はすぐに、子供たちへ向けられるようになった。親友は男で、今年で二十歳だった。父の求める被検体ではなかったから、適当に理由をつけて、遠ざけて隠すことも簡単だった。


 親友はけれど、いきどおった。子どもたちが殺されているのに、自分だけが生き残るなんてありえない、と俺をめた。彼らを助けるつもりもある。けれど、そのためには時間と準備が必要なんだ。そう説得したが、彼は聞く耳をもたなかった。口論の数日後には独房どくぼうを脱走して、危うく父親に見つかりかけた。


 俺はすんでのところで彼を連れ戻し、その食事に強い鎮静効果のある薬草を混ぜるようになった。


 意識がもどるたび、彼は死んだ子供の数を俺に尋ね、答えを聞いてののしった。君は偽善者だ。正しいことをしている自分にいたいだけだ。そうでなくば、俺が無事で良かったと、呑気のんきに笑っていられるはずがない。こんなにもたくさんの人が死んでいるのに。


 彼の言葉は正義で、正しかった。けれど正しさを声高こわだかに主張するだけでは現実を変えられない。そのことを彼は理解していなかった。俺が子どもたちや、彼を救うために、大人たちへ上辺うわべだけのおべっかを使ってみせると、彼は激昂げっこうして物を投げつけた。


 どうして理解してくれないんだ、と俺はわめいた。彼の態度に、頭にきたのだ。投げつけられた星図せいずの本は分厚くて、ほおがずきずきと痛んだ。子どもたちは毎日死んでいて、俺は無力さをつきつけられていた頃だった。彼の言葉は正しくて、けれど、そのとおりにすれば、誰も彼もが死ぬことは分かっていた。彼も含めてだ。


 リク、俺は君を死なせたくなかった。親友だったからだ。唯一、俺の手で守ることのできる正義だったからだ。神鍵クラヴィスの実験で、どんどん人が死んでいく。教会の外では革命軍が勢いづき、たがの外れた民衆が国王側の人間を激しく弾圧する。そんな真っ暗な時代にあって、君だけが俺の救いだったからだ。君を守っているという事実だけが。一緒に星を見上げた、あの日の約束だけが。君と、俺と、俺たちが守りたいと思った全員が、誰一人欠けることなく、外に出られますように。穏やかな夜のなかで眠りについて、きたる朝を笑顔で迎えられますように。


 俺は、君と、あの日の約束にすがっていたのだ。

 君は、けれど、違った。


 親友は死んだ。俺を糾弾きゅうだんする手紙を残して。そこに書かれた一文を思い出して、俺は身震いする。


 




「――違う」




 明確な否定の声に、アンナはびくりと体を震わせた。


 振り返る。すぐ後ろに、レイモンドがたたずんでいた。魔女の正装を着た青年は、暗い眼差しでアンナをにらむ。


「俺は、この過去が罪だとは思わない。アンナ・ビルツ」


 背中を乱暴に押されると同時に、アンナは真っ暗な世界から追い出された。


 *****


 アンナが悲鳴をあげてうずくまる。視界の片隅でそれをとらえたルーは、血の気の引く思いがした。


「どけ……!」


 青の燐光りんこう放つ大熊の獣を、短剣の一閃で切り捨てる。アンナのもとに駆け寄ろうとする。


 左肩に焼けるような痛みがはしった。


 ルーは舌打ちとともに振り返る。蒼白な顔をしたレイモンドの、追撃の短剣を払いのけた。さらに一歩踏み込んだ。狙いは右腕だ。レイモンドは素人しろうとにしてはできるほうだが、戦い慣れていない。さっきからずっと、右腕を気にする素振りを見せていた。急所であり、弱点だ。〈王狼おうろう〉の長として至極当然の判断を下して、ルーはやいばで切りつけようとする。


 そこで、金属のこすり合うような音が響いた。


 ルーは顔をこわばらせた。体がぴたりと動きを止める。レイモンドが、〈王狼おうろう〉の鍵をつきつけている。


「心外だな。俺が、君に命じるわけないだろ」レイモンドは苦い笑みを浮かべた。疲れきっているが、覚悟も決めている表情だった。「本命はこっちだよ」


 レイモンドは、神鍵クラヴィスの小瓶を地面に落とした。空っぽだった。ならば、中身はどこに。そう思った瞬間、ルーの視界がぐらりと揺れた。


「っ、……」


 地面にひざをつく。左肩から、冷たいしびれが間断なく襲いかかった。だが、それ以上、頭が痛かった。呼吸をするたびに鋭く痛んで、耳鳴りがする。


「短剣の刃に、神鍵クラヴィスを塗っておいた」レイモンドの声は明瞭に聞こえたが、体を動かすことができない。「君は、かぎの支配から解放されるだろう」


 そうだ。神鍵クラヴィスとは、一つの感情を壊す薬。

 そして〈王狼おうろう〉の人間は、鍵に心を預けるがゆえに支配される。


 ばちっと、雷光らいこうが空気を焼くような音がした。景色が一瞬で切り替わる。ルーは息をんだ。目の前に広がるのは裏庭バックガーデンではない。


 鉄格子てつごうしだ。その向こうに、灰色の髪と青の目をもつアンナがたたずんでいる。


 二人はビルツてい地下牢ちかろうにいるのだった。そこはしかし半地下で、明り取りの窓から茜色の光が差し込んでいた。肌寒いが、こごえるほどではない。思えば差し込む光も金色に近く、秋の色をしている。


 秋。ありえない。

 彼女と僕が地下牢ちかろうではじめて出会ったのは、冬のはずだ。


「鍵は開けておくわ」鉄格子の向こうで、真っ黒なワンピースを着たアンナが淡々と言う。「あなたには逃げる権利を与えましょう。今までよく仕えてくれたもの。わたくしからの恩情よ」

「……僕が必要としているのは、そんなものじゃない」


 吐き捨てるような返答は、ルー自身のものだ。


 そのことを理解した瞬間、ルーのなかで何もかもがに落ちた。


 まさに今、彼は秋の地下牢にいる。アンナと対峙たいじしている。信じられない思いで。怒りと苛立ちを持って。裏切られた。そう、裏切られたのだ。失望と悲しみで、胸がいっぱいになっている。それでも、確かめずにはいられない。


「君は、」




「――ルーさま!」




 女の鋭い声が聞こえた。体を揺さぶられて、ルーは現実に引き戻される。


 地下牢ちかろうの景色が幻と消えた。砂利と草花の散らばる地面が見える。夏の裏庭バックガーデンだ。すぐそばに、女がひざまずいていた。青の目と、灰色の髪。記憶のなかの彼女とは違う、必死で心配そうな表情をしている。


 あの、アンナ・ビルツが?


 ひどく滑稽こっけいな気持ちになって、ルーは女を突き飛ばした。彼女が泣き出す一歩手前の目を大きく見開く。おびえている。ふざけるな。ルーは苛立ちに任せて、女をにらんだ。


 あの日の問いかけを投げつける。


「君が、〈王狼おうろう〉同士の殺しあいを指示したんだな?」






 記憶の中、秋の地下牢ちかろうで、アンナ・ビルツは目を細めて頷いた。

 必要な犠牲だったの、と言う様子に、躊躇ためらいは一切なかった。

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