第14話 守らなくちゃいけない
夕食は意地だけで食べたが、それ以外が最悪だった。服のボタンが外れて、棚の下にはいる。
ついてない。夕刻から夜の今に至るまで、ずっとだ。きっかけはティカなのではないか、とさえ思った。一番知られたくない秘密を、彼女に知られてしまったから。
まさか。因果関係などない。あるはずがない。
たまたま、偶然、運の悪さが重なった。それだけのことだ。
「集中してないじゃん。レイモンド・ラメド」
二人きりの
赤毛のヴィナだ。わざわざ向かいに座ったディエンの養い子は、テーブルに広げた絵本のうえに、退屈そうに
「集中してるさ」レイモンドはためいきをつき、手元の参考書のページを意味もなくめくった。「というか、ニケはどうしたんだよ」
「おじいちゃんのところ」
「おじいちゃん?」
「ダグラスおじいちゃんだよ。だって、マミィのパパでしょ」
「ダグラスさんは
「……マミィの叔父……? じゃあ、ヴィナとニケにとっては……ええと……?」
「なぁ、ヴィナ」
無性に苛々して、レイモンドは本を閉じた。指折り数えていた手を止めて、ヴィナがむっとした顔をする。
「なに」
「君、なんでまだ、
「ニケが、ここにいたいって言うんだもの」
「で、ニケに聞いたら、『ヴィナがここにいたいって言うから』って答えるわけだ」レイモンドは
「なによ」ヴィナがむきになって返す。「いいでしょ。だって、ダディとマミィがここにいるんだよ?」
「アンナさんは君たちの母親にはならない。見れば分かるだろ」
「ダディがお嫁さんにしてくれるもん! ダディは、マミィのこと大好きなんだから!」
「そういう話をしてるんじゃない」
誰が誰を好きだとか、今一番聞きたくない話だ。違う。ヴィナの返事があまりにも子供じみて、うんざりしているだけだ。
まとまらない思考に頭痛がして、レイモンドはこめかみをもんだ。
「あのな。そもそも君たちの世話をしてくれる人がいただろ。隣の家のロバートさんだ。急にいなくなって、彼を心配させるような
「ロバートおじいは、お金だけ持っていなくなりましたけど」
「は?」
ヴィナは馬鹿にしたような目でレイモンドを見た。
「三日で逃げたもん。レイモンド・ラメドとダディのお金だけがほしかったの。私とニケのことなんて、どうでもよかったのよ。だから私たちはダディに手紙を書いたの」
「……それは」
「知らなかったんでしょう」赤毛の少女は、少しばかり声を上ずらせた。「いいよ、べつに。レイモンド・ラメドの正義は、大事なところで、すかすかのパイ生地みたいになるもん」
なにもかも知ったふうな言い方が気に食わなくて、レイモンドは
そこで、
すぐあとから、ダグラスも現れた。彼はレイモンドのほうを見るなり、形の良い
レイモンドの口の中に、苦いものが広がった。どうして俺が責められなきゃいけないんだ。
レイモンドの気分はますます沈んだ。
「……あいつらのこと、甘やかさないでいいですよ」
「そうはいってもな」ダグラスが
「孫を見るような目はやめてください」
「なんと。私は今、そんな顔を?」
「ダグラスさん。ふざけるのはやめてくれませんか」
レイモンドは、
「それよりも、〈
ダグラスが、白髪まじりの
「もちろんだとも。ちょうど今、結果を渡そうと思っていてね」
紙束を差し出され、レイモンドは気まずくなった。まったく、少し上手く行かないことがあったからって、俺はそれを引きずりすぎじゃないか。
自分自身にため息をつき、レイモンドは「すみません」と頭を下げる。アンナの
「謝る必要はないよ。私の連絡が遅かったのも事実なのだからね。だが、大丈夫かい? どうにも疲れているというか……何か困りごとでもありそうな様子だが……」
「……夏の暑さにまいってるだけですよ」
「そうは見えないから、声をかけているんだがね」
ダグラスは本気で案じてくれているらしい。
床に散らばった花が脳裏をよぎった。その痛みから逃げるように、レイモンドは手の中の資料へ目をやる。
「また何か困り事があったら、相談させてください」レイモンドは、なんとか笑みを返した。「とにかく、資料は使わせていただきます」
ダグラスが、ため息をつく。渋々といった調子だったが、納得してくれたようだ。
「君がそういうのなら、老人の心配はここまでにしておこう。資料の説明はどうするかね?」
「まずは一人で。分からない点があれば、明日にでも聞きに行きます」
ダグラスは
不覚にも泣きそうになってしまった。まったく、子供じゃないのだから。レイモンドは苦笑いしつつ、誠心誠意の感謝の気持を込めて、頭を下げる。「ありがとうございます」
夜の廊下を進み、
レイモンドは
とにかく、ティカのことは忘れてしまおう。そう言い聞かせながら、レイモンドは月明かりのなかで資料をめくる。
まずは、〈
「――やぁ、懐かしいリストだな」
レイモンドは息を止めた。
いきなり声をかけられたからだ。手の中の紙をするりと抜き取られたからだ。あるいは、それができるほど近い距離に――目と鼻の先に男がいて、それに自分が気づかなかったからだ。
レイモンドは、ゆっくりと顔をあげる。
月明かりに照らされて、白銀の髪が輝いている。
アルヴィム・ハティは、レイモンドを見下ろして微笑む。
その手から、三つの銀の輪を組み合わせた飾りを垂らして、言う。
『目覚めよ、〈
金属のこすれるような音が鳴った。周囲から一斉に殺気が膨れ上がる。
レイモンドは、とっさに身を伏せた。何かが木の幹に突き刺さる鈍い音。その正体をしかし、確認する暇もない。アルヴィムの右足が動いた。とっさに右腕で頭をかばった。
激痛。蹴り上げられて地面を転がる。むせかえるほどの青草の匂いがする。
「ダナン公ならば、きっと何か
アルヴィムの背後に二つの人影があった。真っ黒な
馬鹿な。それじゃあ人間じゃない。
ならば。
「彼らはなにか……と考えているかい?」
アルヴィムのゆったりとした声に、レイモンドはどきりとした。
かの男は、にこりと笑う。いかにしてルーとアンナの仲を取り持つか……そんな話をしていたときと、浮かべる表情は全く変わらない。
「ふふ、目の前の疑問に正直な態度は好ましいな。せっかくだから、ヒントをあげようか。ここにいる二人の名前は
「……〈
「そんな回答じゃあ、一点もあげられないな。レイモンド・ラメド、ちゃんと思い出してごらん。〈
レイモンドは総毛立った。
「……魔女の未練」
アルヴィムが満足そうにうなずき、なにか合図をするように、銀の三つ輪を揺らした。「百点をあげよう、レイモンド・ラメド」
レイモンドはとっさに、砂利と草を手で掴んで投げつけた。目潰しになったのかどうか。それを確かめる前に、レイモンドは走り出す。裏庭の奥、
どういうことなんだ。レイモンドは混乱する頭で自問する。アルヴィムが魔女の未練を従えていた。彼はそれに〈
黒々とした
レイモンドは、木の幹に身を隠した。再びの、矢がつきたつ音。駄目だ、このまま逃げ回っていても
レイモンドは木陰から飛び出した。矢の打たれた方向めがけて、小瓶を放つ。
『
怒鳴ると同時に、光の鎖の
激痛。たまらず、しゃがみこむ。頭を両腕で覆った。体を丸めた。結果的に無防備になった背中を、もう一度蹴りつけられた。こらえきれずに、レイモンドは地面に倒れ込んだ。
すぐそばで、アルヴィムがしゃがみこむ。地面の
「君かティカ・フェリスか。どちらにすべきか迷ってたところだけど、君にして正解だったよ」
忘れたかったはずの名前を出されて、かえってレイモンドは現実に引き戻された。息をするたびに痛む体を動かして、アルヴィムをにらみつける。
「……ティカに……手を出すつもりなら……」
「ふふ、安心しなよ。もう手を出す必要はないんだ。種はまいた。あとは芽吹くのを待つだけだ」
「種……?」
アルヴィムは答えるかわりに、にこりと笑んだ。「この庭は美しいだろう?」
アルヴィムは立ち上がった。まるで演者のように大仰に、両手を広げて歌うように言う。
「ある組織に
「密告で婚約者を売った写真家は、その本質を捨てきれないまま、偽りの女優のために生きると決めた」
「金さえ積まれれば
「人殺しの革命家と、家族同然の仲間を
「そして友人を自殺に追い込んだ君は、この裏庭で、再び誰かと絆を結ぶ夢を見た」
アルヴィムの衣が
「俺が真実許せないのは一人だけど」白銀の髪の男は、やはり笑みを
「……っ、それが、お前の目的か。アルヴィム」レイモンドはゆっくりと問いかけた。「俺たちの庭を壊すことが……?」
「あはは! 君たちの? 勘違いしちゃいけないよ。この庭は、アンナ・ビルツが亡き友のために作った庭だ。親友のための
アルヴィムの手の中で、短剣の刃が月明かりを弾いた。予感はあった。だからこそ、体が動いた。
無造作に落とされた
ポーチから取り出した万年筆を、アルヴィムの足首に突き立てた。男が悲鳴をあげる。レイモンドの右手を押さえつけていた足が離れる。その隙をついて、レイモンドは弓矢を
無我夢中だった。殺されることに対する恐怖だけがあった。だが果たして、放たれた
アルヴィムが信じられないという顔をして、後ろ向きに倒れる。きっと何かの毒が塗り込められていたに違いない。かの男の体は、それきり動かなかった。
レイモンドは荒い呼吸を何度も繰り返した。痛みが
俺は今、人を殺したんだ。
当たり前の事実に恐ろしくなった。ぶるりと体を震わせて、レイモンドはその場を後にする。来た道を戻ったのは、そこしか逃げ込める場所を知らなかったからだ。抜け穴をくぐる。
レイモンドは、倒れ込むようにして
「どうしたんだね!?」ダグラスが驚いたように駆け寄ってきた。「怪我をしてるじゃないか……!」
「っ、ダグラス、さん……俺……」
「一体誰に……いや、違うな。まずは手当をしよう。人を呼んでくるから、」
「待ってください」レイモンドはあえぐように呼吸をして、ダグラスを引き止めた。「アルヴィムです……! 彼が何かを企んでる……っ! この庭で、俺たちを殺そうとしてて……っ、だから俺は、彼を、」
「アルヴィム?」
ダグラスが不思議そうな顔をした。一体何を言っているのか、と言わんばかりの顔つきだ。
「彼は
「……っ、は……?」レイモンドは耳を疑った。「変なことを言わないでください……アルヴィム・ハティは〈
「そんな話をした覚えはないが。彼と私は長年の友人だぞ」ダグラスは
伸ばされた手を、レイモンドは反射的に振り払った。ダグラスが驚いたような顔をするが、そうしたいのはこっちのほうだ。
長年の友人? 何を
そのすべてが、まるでなかったかのような。レイモンドはめまいがした。記憶の片隅で、殺したばかりのアルヴィムの声が蘇る。種はまいてある。あとは芽吹くのを待つだけだ。
――たとえば、アルヴィムがなにかをして……ダグラスの様子が変わってしまったのだとしたら。
「っ、……わ、かりました……」レイモンドは、ふらりと立ち上がった。「いいです。すみません……お騒がせしました……」
「レイモンドくん? 傷の手当を……」
ダグラスの声を無視して、廊下へ出た。可能な限り足早に進む。もう一度、庭へ出る。何度も往復している自分に笑いたくなった。非効率的だ。頭の悪い。
けれど結局、誰にも見られない場所といえば、
死体の処理をどうすべきかと思案した。
魔女の未練である女を消しにいかなければと思った。
そういえば
「は、はは……」
ひび割れた笑みがこぼれる。レイモンドは濡れた手で膝を抱えた。じとりと、服の
どうすればいいんだよ。レイモンドは、きつく目を閉じる。誰かに相談すればいいのか。けれど、誰に。
程度の差こそあれ、ルーたちはアルヴィムを信用していたはずだ。アルヴィムが何かを
ならば、秘密にしていればいいのか。アルヴィムを殺したことを? 彼の話を?
できるわけがない。アルヴィムは死んだ。けれど、アンナ・ビルツは生きている。
もしも仮にこれが真実なら、自分たちは殺されるからだ。誰かが死んでからでは遅い。その間違いだけは
ならば、どうすればいい。
自分は、どうすれば。
「……守らなくちゃいけない。ルーたちを」レイモンドは、己に言い聞かせるように呟いた。「アルヴィムを殺したことを……良いように考えるんだ……彼の計画の半分でも、防ぐことができた、って……あとはアンナさんの……アンナ・ビルツの真意を
誰かの死を正当化しようとする自分に吐き気がする。親友が首をくくって死んだときもそうだった。けれどあぁ、許してほしい。俺は弱い人間で、そうでもしなければ前に進むことができない。
正義にすがることでしか、生きていけない。
守らなくては、とレイモンドはもう一度だけ呟いた。
祈るような声は星に届かず、裏庭の底に深く沈む。
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