第13話 君にだけは言うけどさ
夜の
「大成功じゃない?」
レイモンドは急にどっと疲れをおぼえて、床にしゃがんだ。「なんだよ、不満そうだなあ」というティカの呆れ声がすかさず降ってくる。
「別に、不満なんてないよ」レイモンドは顔をあげずに、ぼやいた。「元より、アンナさんが、ルーのことを怖がってるみたいだったから……引き離そうって提案しただけで……」
「じゃあ、大成功じゃんか」
「そうだけど……そうだけどさ……」
「まわりくどい」
とりつく島もないティカの返事に、レイモンドはため息をついた。
「ここ二日間の……俺のしてきたことは無駄だったのかな、と思っただけだ。結局、君がアンナさんと話しただけで、状況が変わったわけで……い゛っ」
鼻をつままれた。地味な痛みに、思わずレイモンドはティカをにらむ。
腹の立つほどのしたり顔で、「なるほどねえ」とティカは
「つまり、レイモンドくんは、ボクに手柄を横取りされて
「そんなことは……」
「そんなことはない、って?」素早く言葉を重ねたティカは、馬鹿にしたように肩をすくめた。「あぁそう。よかった。そうでなくちゃね。友達を助けるのに、手柄とか横取りとか……そういう考え方があるはずないもん」
まったくの正論だ。けれど、レイモンドの口の中に苦いものが広がる。
そうだけど、そうじゃないだろ。実際に、皆の役に立ったのは君で、俺じゃない。しかも君は、ほとんど何も考えずに解決してみせた。俺のほうが誰よりもずっと、このことについて考えていたはずなのに。
ティカが、軽い足取りで
「せっかくだしさ、アンナ抜きで飲んじゃわない? ボクのとっておき。親友の世話焼きからの解放祝いってことで」
「……別に、今はそういう気分じゃ……」レイモンドはそこで言葉を切り、少し考えてから席についた。「いや。君が俺の質問に答えてくれるなら、付き合ってやってもいい」
「なに? 素直じゃないなぁ」ティカがボトルの栓を抜きながら、呆れ笑いをする。
「君はこうなることが分かってて、アンナさんと話したのか?」
「まさか。でもまぁ、簡単に想像はつくよね。アンナのほうが行動力があるもん。なにより、ルーの一番の弱みだし」
「そんなことは、俺だって分かってた」
「じゃあ、君が恋する女心の底力を理解してなかった、ってだけじゃない?」
ぽん、と軽い音を立てて、栓が抜かれた。
レイモンドはしかし、
「要するに、好意とか、愛情とか……そういう気持ちまで計算にいれろって? 不確かすぎる。賢いやり方じゃない」
ティカが手を止めた。じっとレイモンドのほうを見つめて言う。
「意外。ここ数日の君ってば、ルーを助けたいっていう気持ちだけで動いてるように見えたのに」
「俺がどう思うかということと、他の人がどう考えているかは全く別の話だろ」レイモンドは苛々とテーブルを指先で叩いた。「少なくとも、俺は本気でルーたちを助けるつもりだった。でも、他の人間の本音なんて、分かるはずがない……ルーたちのことをどうでもいいと思ってるかもしれないし……」
「じゃあ、ルーとアンナが、君の助けを望んでいなかったかもしれないよね」
「……それは」
「要するにさ」先のレイモンドと全く同じ言葉を使って、ティカは言った。「君は、君の手でルーたちを助けたかったんだ。二人の気持ちとか、ボクたちの本音とか、君にとっては全部どうでもよかった。違う?」
レイモンドはとっさに返事ができなかった。ほらやっぱり、君は偽善者だ。首に
でも、今のティカの言葉は、現実だ。レイモンドはうなだれた。
「……分かってるよ。俺が……そういう考え方しかできない、最低なやつだって」
グラスがテーブルに置かれた音がする。「もしかして君、」というティカの声に、レイモンドは渋々と顔をあげた。
腹の立つことに、彼女は目を丸くしている。
「うっそ。もしかして泣いてる?」
「泣いてはないだろ」レイモンドはむっとして、ティカのグラスを引き寄せた。「泣いてない」
「あっ、ちょっと! それボクのワイン!」
レイモンドはグラスの中身を一気に飲み干した。可愛らしい薄紅色をしているのに、結構な
ぐらっと頭が揺れる。最低じゃないか。馬鹿な若者が手っ取り早く酔って、空騒ぎしたい時に飲むような酒だ。ティカ・フェリスめ。いかにも君らしい軽薄な酒だよ。ほんとに。「分かってるんだよ」
空のグラスを握ったまま、レイモンドは言った。
「正義の味方みたいになりたいんだよ……そういう考え方しかできないんだよ……俺は。仕方ないだろ……別に、君たちの気持ちがどうでもいいとか……そんなつもりはないんだ……困ってる人を放っておけないって、それも本当なんだ……でも、やっぱり、ちょっとくらい期待しちゃうじゃないか……感謝とか……見返りとか……そんなの気にしないっていえるほど、出来た人間じゃない……君みたいな……良いやつじゃないんだから……俺は」
ワイングラスがひったくられた。グラスは人数分あるのに、たった一つの
グラスにワインを注いだあと、ティカは自分でそれを飲み、ばっさりと言う。
「正義の味方なんて、どこにもいないでしょ」
レイモンドは手をぎゅっと握りしめた。さっきから、耳に痛い言葉ばかりだ。なのに諦めきれなくて、結局反論してしまう。
「……君が、それを言うのか。ティカ・フェリス」
「なあに? もしかしてボクが、夢と現実の区別もつかない人間だと思ってる?」
「そこまでは……言ってないけど……」
「どうだか」ティカが鼻を鳴らした。「舞台が眩しいぶん、客席は暗く見えるものなんだよ。レイモンドくん」
分かるようで、分からない言葉だった。いいや、これも嘘だ。分かろうとしていないだけだ。レイモンドは、己の狭量さに嫌気がさす。つくづく自分は、どうしようもない人間だ。そう思った。そこでさらに、ティカの声が聞こえた。
「だからこそ、憧れちゃうんだろうね。誰かを助けるとか、誰かを喜ばせるとか、そういうことにさ」
レイモンドは顔を上げた。ティカはテーブルに
夏の夜。ささやかな雨音。ふわりと揺れる
「ボクとしてもね、春の罪滅ぼしのつもりだったわけ。許してもらえるといいな、っていう下心ばっかりだよ。実際のところさ」
*****
意外だった。
ティカに下心があったということではなく、彼女がいまだに春のことを引きずっていたらしい、ということが。そういう過去の貸し借りとか、細かいことはすぐに忘れそうな人間だと思っていたのに。
……あぁ、でもそうか。魔女の力に振り回されていた春でさえ、彼女はフラウのことを気にかけていたのだった。意外と、
「……いやいやいや……」
レイモンドは頭を振り、二日酔いの頭痛がぶり返して己を呪った。まったく、何をやっているんだ、俺は。
ボトルを開けきらないうちにティカが寝入ってしまったので、仕方なく部屋に送り届けて、昨晩はお開きになった。そこまではいいのだが、今日の目覚めが最悪だ。
朝食もそこそこに、レイモンドはタオルを
そして腹の立つことに、ティカは翌日に引きずらないタイプらしく、けろりとした顔で朝食を楽しんでいた。
いや、だからなんで、彼女のことを考えるんだ。レイモンドは、
春の罪滅ぼしと言ったときの、ティカの顔を思い出す。
自分の失敗を、穏やかな表情で語ることのできる彼女に、少しだけ憧れた。
「……あなた……もしかして……ティカちゃんに……
おどろおどろしい女の声がして、レイモンドの心臓が飛びあがった。
慌てて振り返る。
レイモンドはぶるりと体を震わせた。
「い、いつの間に……」
「……ティカちゃんの……
「貞操って……ティカは男だろ……」
「う、ふふ……ふふふふふ……」フラウが笑いながら、呪い殺しそうな視線をよこしてきた。「ティカちゃんに性別なんて関係ないですけど……? そんなことも分からずに……お近づきになろうとか……許せないんですけど……? 人生、やりなおす……? いっそ……ここで……? この場で……?」
「ま、待ってくれよ! 別に俺は、ティカと親しくなろうとか思ってない、」
「は、い……? ティカちゃんと仲良くできない……? それはそれで罪深い……」
フラウの細指に力がはいり、みしっ、と戸口の柱から妙な音が鳴った。レイモンドは顔をひきつらせる。じゃあなんて言えばいいんだ……という泣き言は、もちろん誰にも届かない。
「……とりあえず……」妙に不安をあおる沈黙のあと、フラウがぼそっと言った。「服……着たら……」
「……は、はい……」レイモンドはこくこくと頷きながら、上着に
「それから……ティカちゃんのこと……好きになっても……嫌いになっても……駄目だから……」
「善処します……」
妙な敬語になってしまったが、フラウは満足したらしい。ふらりと立ち去った彼女を見送って、レイモンドは胸をなでおろした。とにかく難は去ったのだ。いや、難って。
廊下に出ながら、レイモンドは慌てて訂正した。すべて濡れ衣で、ありもしない罪で、つまるところ俺は悪くないだろ。そもそも、好きにも嫌いにもなるな、なんて。どういうことだ……? 意味不明じゃないか……?
そこで、レイモンドは立ち止まった。階段をおりてきたばかりのルーと
珍しいことに、ルーの右頬はいささか赤く、
*****
ルーの自室に案内されたレイモンドは、目を丸くした。
「
「そこまで、驚くようなことじゃない」薬草に浸した布を頬にあて、ベッドに浅く腰掛けたルーが肩をすくめた。「あの人にとって、アンナは大事な
それを承知で、ルーはダグラスに話をつけにいったらしい。すなわち、アンナのそばにいたいと、申し出た。
「君らしくない」レイモンドは呆れながら、椅子に座った。
「そうか?」
「そうだろ。絶対に反対されるって、分かりきってることじゃないか……それをわざわざ言うなんて……」
「言わなければと思ったんだ。
「筋?」
「僕は、アンナのことが好きだ」ルーは目を伏せた。「彼女にふさわしい恋人でありたいと思う。だが、欠点ばかりの人間だから……一つでもそれを埋めたいと思ったんだ」
予想以上にまっすぐな言葉で、レイモンドは口を閉じた。布を外したルーが、ちらりと視線をよこしてくる。
開け放した窓から吹き込んだ夏風が、カーテンをゆらりと揺らした。
「やっぱり、僕らしくない、か?」
「あー……いや……」
「その、やけに素直で驚いてる」
「どこかの誰かが、余計な世話を焼いたからだろうな」
「おい待てよ。昨日の発案者はティカだぞ。俺は巻き込まれただけだ」
「なるほど。アンナに
「そっ、そういう言い方は、あんまりじゃないか?」レイモンドはむっとして反論した。「やり方はさ、問題だったろうけど。結果として、君もアンナさんとよく話しあえたわけで……」
あれ。なんで俺はティカの
ルーが小さく笑った。
「冗談だ。君たちには感謝しかない。ありがとう」
虚をつかれて、レイモンドは目を瞬かせた。
「……俺は、何もしてないよ」なんとか言葉をさがして、レイモンドは言う。「言っただろ。ティカに巻き込まれただけって」
「それは昨日の夜の話だろう? その前から、僕に色々と協力してくれたじゃないか。〈
「や、やめてくれ……!」
むずがゆくなって、レイモンドは声を上げた。ルーがちょっと意外そうな顔をするが、それはわざとなのか素なのか。あぁもう、とにかく、だ。
「そういうのは、いちいち言わなくていいんだ。ルー」恥ずかしさをごまかすために布を奪い取り、レイモンドは意味もなく
「友人、か」
「そうだ。そういうことだ。そうでしかない。だから、とにかく、ええと……俺としては、君とアンナさんが、早く
「それなら、考えがある」
「へえ、そう、考えが……えっ、考えがある?」
勢いで言葉を並べていたせいで、ルーの返事を聞き逃すところだった。
ルーが立ち上がり、棚から一冊の本と小箱を持ってくる。そう、棚からだ。レイモンドは目を瞬かせた。この前来たときには、空っぽだったはず。ということは、昨日今日で、用意したものってことか。
ルーが再びベッドに座り直した。気まずそうに咳払いをする。そこでやっと、レイモンドは、友人の頬が微妙に赤いことに気がついた。
「まず前提として」ルーがゆっくりと言う。「〈
「それは、もちろん。俺にできることなら」
「その上で、だ。二日後に、あるだろう。ティカ・フェリスが提案した告白大会が……そこで、アンナにこれを贈ろうと思っているんだ」
まだ作っている最中なんだが、と前置きして、ルーが小箱の
柔らかな白布の上に、
「
「じゅ……純情……」
レイモンドは呆然と呟いた。幸いにして、ルーは不思議そうな顔をするだけだったが……いや、不思議そうな顔って。レイモンドは思わずつっこんでしまった。
そこはもうちょっと……こう、あるだろ。年相応の表情というか。どんな表情かって聞かれても困るけど。というか、
レイモンドは、なんとか笑みを浮かべた。
「い、いいんじゃないかな。君たちらしくて」
無難すぎる返事になったのは、結局のところ、お腹いっぱいになったからだった。甘酸っぱくて、聞いてるこっちまで気恥ずかしくて、耳をふさいでしまいたい。とにかく、処理しきれなかったのだ。レイモンドの中で。
なぜか、ティカへ
俺、いまだにルーたちの
……いや、だからなんで、ティカのことを考えてるんだ。俺は。
「花、か……」
なんとも言えない空気を追い払おうと、レイモンドは意味もなく呟いて、花の図鑑へ目を落とした。
*****
言い訳がましいが、下心はどこにもないのだ。
花を贈るのというのも、子供じみているし。
ただまぁ、ビルツ
一応、ワインのお礼はすべきで、彼女のことをずっと考えているのはワインの――そう、あくまでもワインの、だ――貸し借りが清算されていないからでは、と思い当たったからで。
おりしも花の図鑑には、夏の花束の作り方が書いていたのであり。
不本意ながら昨日の夜、ティカの言葉に
日の沈み始めた屋敷の廊下である。目の前にはティカの部屋の扉。レイモンドの右手には花束が一つ。
花束は、けれど、ごく簡単なものだ。ふわふわとした
とにかくだ。レイモンドは己を
やるべきリストを再確認して、レイモンドは扉を叩いた。叩いた後で、フラウが出てくる可能性と、そもそも誰もいない可能性が脳裏をよぎった。
そんな簡単なことに気づかなかったあたり、レイモンドは浮かれていたのだ。愚かなことに。
「……君」
扉が開き、ティカが驚いたように目を丸くする。まるで幽霊でも見たような顔つきで、レイモンドは思わず
なんだよ、その顔は。
彼女のほうが
ティカが、力任せにレイモンドの
その視線が、レイモンドの右肩に――そこに刻まれた刺青に注がれて、止まる。
「……
こわばった表情で、ティカが呟いた。
レイモンドは凍りつく。ティカの姉は、リンダルムの赤薔薇に関わって破滅した。ディエンの言葉を思い出した。今さらだ。
いいや、違う。
俺自身はリンダルムのやり方を許せないと思っていて。
君を想う気持ちに、下心はない。それが事実で。
そう思う。なのにどうしてか、言葉にできない。その間にティカはふらりと後ずさり、責めるような眼差しで吐き捨てる。「なんで黙ってたの」
なんで、だって?
「……君が、」ほとんど無意識のうちに、レイモンドは返事をしていた。「君がそういう反応をするから、だろ」
考えうる限り、最悪の返事だ。
案の定、まなじりを釣り上げたティカに思い切り頬をぶたれた。花束が床に落ちる。ティカの足音が遠ざかる。レイモンドはその場に座り込む。
馬鹿馬鹿しい、と呟いた。
もちろん、自分に対してだ。
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