第13話 君にだけは言うけどさ

 裏庭バックガーデンへ通じる扉が閉まる音がして、ルーとアンナの足音が途切れた。


 夜の廊下ろうかに立ちつくしていたレイモンドは、脇腹をつつかれて我にかえる。ティカだ。食堂ダイニングから漏れる明かりに照らされて、彼女は得意げに人差し指と中指を立てる。


「大成功じゃない?」


 レイモンドは急にどっと疲れをおぼえて、床にしゃがんだ。「なんだよ、不満そうだなあ」というティカの呆れ声がすかさず降ってくる。


「別に、不満なんてないよ」レイモンドは顔をあげずに、ぼやいた。「元より、アンナさんが、ルーのことを怖がってるみたいだったから……引き離そうって提案しただけで……」

「じゃあ、大成功じゃんか」

「そうだけど……そうだけどさ……」

「まわりくどい」


 とりつく島もないティカの返事に、レイモンドはため息をついた。


「ここ二日間の……俺のしてきたことは無駄だったのかな、と思っただけだ。結局、君がアンナさんと話しただけで、状況が変わったわけで……い゛っ」


 鼻をつままれた。地味な痛みに、思わずレイモンドはティカをにらむ。

 腹の立つほどのしたり顔で、「なるほどねえ」とティカはうなずいた。


「つまり、レイモンドくんは、ボクに手柄を横取りされてねてるってわけ?」

「そんなことは……」

「そんなことはない、って?」素早く言葉を重ねたティカは、馬鹿にしたように肩をすくめた。「あぁそう。よかった。そうでなくちゃね。友達を助けるのに、手柄とか横取りとか……そういう考え方があるはずないもん」


 まったくの正論だ。けれど、レイモンドの口の中に苦いものが広がる。


 そうだけど、そうじゃないだろ。実際に、皆の役に立ったのは君で、俺じゃない。しかも君は、ほとんど何も考えずに解決してみせた。俺のほうが誰よりもずっと、このことについて考えていたはずなのに。


 ティカが、軽い足取りで食堂ダイニングへ戻った。椅子の上に隠していたらしいワインボトルを取り出し、グラスの隣に置く。


「せっかくだしさ、アンナ抜きで飲んじゃわない? ボクのとっておき。親友の世話焼きからの解放祝いってことで」

「……別に、今はそういう気分じゃ……」レイモンドはそこで言葉を切り、少し考えてから席についた。「いや。君が俺の質問に答えてくれるなら、付き合ってやってもいい」

「なに? 素直じゃないなぁ」ティカがボトルの栓を抜きながら、呆れ笑いをする。

「君はこうなることが分かってて、アンナさんと話したのか?」

「まさか。でもまぁ、簡単に想像はつくよね。アンナのほうが行動力があるもん。なにより、ルーの一番の弱みだし」

「そんなことは、俺だって分かってた」

「じゃあ、君が恋する女心の底力を理解してなかった、ってだけじゃない?」


 ぽん、と軽い音を立てて、栓が抜かれた。

 レイモンドはしかし、まゆをひそめる。恋する女心なんて。


「要するに、好意とか、愛情とか……そういう気持ちまで計算にいれろって? 不確かすぎる。賢いやり方じゃない」


 ティカが手を止めた。じっとレイモンドのほうを見つめて言う。


「意外。ここ数日の君ってば、ルーを助けたいっていう気持ちだけで動いてるように見えたのに」

「俺がどう思うかということと、他の人がどう考えているかは全く別の話だろ」レイモンドは苛々とテーブルを指先で叩いた。「少なくとも、俺は本気でルーたちを助けるつもりだった。でも、他の人間の本音なんて、分かるはずがない……ルーたちのことをどうでもいいと思ってるかもしれないし……」

「じゃあ、ルーとアンナが、君の助けを望んでいなかったかもしれないよね」

「……それは」

」先のレイモンドと全く同じ言葉を使って、ティカは言った。「君は、君の手でルーたちを助けたかったんだ。二人の気持ちとか、ボクたちの本音とか、君にとっては全部どうでもよかった。違う?」


 レイモンドはとっさに返事ができなかった。ほらやっぱり、君は偽善者だ。首になわをかけて命を絶った親友の、そんな声が聞こえた。違う。死人は語らない。幻聴だ。


 でも、今のティカの言葉は、現実だ。レイモンドはうなだれた。


「……分かってるよ。俺が……そういう考え方しかできない、最低なやつだって」


 グラスがテーブルに置かれた音がする。「もしかして君、」というティカの声に、レイモンドは渋々と顔をあげた。


 腹の立つことに、彼女は目を丸くしている。


「うっそ。もしかして泣いてる?」

「泣いてはないだろ」レイモンドはむっとして、ティカのグラスを引き寄せた。「泣いてない」

「あっ、ちょっと! それボクのワイン!」


 レイモンドはグラスの中身を一気に飲み干した。可愛らしい薄紅色をしているのに、結構な酒精アルコールの強さだ。


 ぐらっと頭が揺れる。最低じゃないか。馬鹿な若者が手っ取り早く酔って、空騒ぎしたい時に飲むような酒だ。ティカ・フェリスめ。いかにも君らしい軽薄な酒だよ。ほんとに。「分かってるんだよ」


 空のグラスを握ったまま、レイモンドは言った。


「正義の味方みたいになりたいんだよ……そういう考え方しかできないんだよ……俺は。仕方ないだろ……別に、君たちの気持ちがどうでもいいとか……そんなつもりはないんだ……困ってる人を放っておけないって、それも本当なんだ……でも、やっぱり、ちょっとくらい期待しちゃうじゃないか……感謝とか……見返りとか……そんなの気にしないっていえるほど、出来た人間じゃない……君みたいな……良いやつじゃないんだから……俺は」


 ワイングラスがひったくられた。グラスは人数分あるのに、たった一つのさかずきを奪いあうなんて、馬鹿げている。レイモンドはそう思うのだが、果たしてティカはどう考えているのやら。


 グラスにワインを注いだあと、ティカは自分でそれを飲み、ばっさりと言う。


「正義の味方なんて、どこにもいないでしょ」


 レイモンドは手をぎゅっと握りしめた。さっきから、耳に痛い言葉ばかりだ。なのに諦めきれなくて、結局反論してしまう。


「……君が、それを言うのか。ティカ・フェリス」

「なあに? もしかしてボクが、夢と現実の区別もつかない人間だと思ってる?」

「そこまでは……言ってないけど……」

「どうだか」ティカが鼻を鳴らした。「舞台が眩しいぶん、客席は暗く見えるものなんだよ。レイモンドくん」


 分かるようで、分からない言葉だった。いいや、これも嘘だ。分かろうとしていないだけだ。レイモンドは、己の狭量さに嫌気がさす。つくづく自分は、どうしようもない人間だ。そう思った。そこでさらに、ティカの声が聞こえた。


「だからこそ、憧れちゃうんだろうね。誰かを助けるとか、誰かを喜ばせるとか、そういうことにさ」


 レイモンドは顔を上げた。ティカはテーブルに頬杖ほおづえをつき、片手でワイングラスを揺らしている。


 夏の夜。ささやかな雨音。ふわりと揺れる燭台しょくだい灯火ともしび。そんな世界で、「君にだけは言うけどさ」と彼女は呆れたように笑いながら、目を閉じる。


「ボクとしてもね、春の罪滅ぼしのつもりだったわけ。許してもらえるといいな、っていう下心ばっかりだよ。実際のところさ」


 *****


 意外だった。


 ティカに下心があったということではなく、彼女がいまだに春のことを引きずっていたらしい、ということが。そういう過去の貸し借りとか、細かいことはすぐに忘れそうな人間だと思っていたのに。


 ……あぁ、でもそうか。魔女の力に振り回されていた春でさえ、彼女はフラウのことを気にかけていたのだった。意外と、ふところにいれた人間に対する情はあるのかもしれない。


「……いやいやいや……」


 レイモンドは頭を振り、二日酔いの頭痛がぶり返して己を呪った。まったく、何をやっているんだ、俺は。


 ボトルを開けきらないうちにティカが寝入ってしまったので、仕方なく部屋に送り届けて、昨晩はお開きになった。そこまではいいのだが、今日の目覚めが最悪だ。


 朝食もそこそこに、レイモンドはタオルをつかんで浴室バスルームに飛び込む。上だけ脱いで、頭から冷水を何度かかぶった今、ようやく思考がはっきりしてきた、というかんじだ。


 そして腹の立つことに、ティカは翌日に引きずらないタイプらしく、けろりとした顔で朝食を楽しんでいた。


 いや、だからなんで、彼女のことを考えるんだ。レイモンドは、しずくの垂れる髪を絞ってかきあげる。手探りでタオルをつかんで、がしがしと顔をいた。別に、ティカがどうとか関係ないだろ。意外……そう、昨日のあれは単なる感想で。


 春の罪滅ぼしと言ったときの、ティカの顔を思い出す。

 自分の失敗を、穏やかな表情で語ることのできる彼女に、少しだけ憧れた。


「……あなた……もしかして……ティカちゃんに……懸想けそうしてる……?」


 おどろおどろしい女の声がして、レイモンドの心臓が飛びあがった。


 慌てて振り返る。浴室バスルームの戸口だ。室内帽に魔女の正装、なにより陰気な空気を背負ったフラウが、半身だけのぞかせて、こちらをじっとりとにらみつけている。


 レイモンドはぶるりと体を震わせた。


「い、いつの間に……」

「……ティカちゃんの……貞操ていそうを守るためなら……なんだってできるよ……?」

「貞操って……ティカは男だろ……」

「う、ふふ……ふふふふふ……」フラウが笑いながら、呪い殺しそうな視線をよこしてきた。「ティカちゃんに性別なんて関係ないですけど……? そんなことも分からずに……お近づきになろうとか……許せないんですけど……? 人生、やりなおす……? いっそ……ここで……? この場で……?」

「ま、待ってくれよ! 別に俺は、ティカと親しくなろうとか思ってない、」

「は、い……? ティカちゃんと仲良くできない……? それはそれで罪深い……」


 フラウの細指に力がはいり、みしっ、と戸口の柱から妙な音が鳴った。レイモンドは顔をひきつらせる。じゃあなんて言えばいいんだ……という泣き言は、もちろん誰にも届かない。


「……とりあえず……」妙に不安をあおる沈黙のあと、フラウがぼそっと言った。「服……着たら……」

「……は、はい……」レイモンドはこくこくと頷きながら、上着にそでを通す。

「それから……ティカちゃんのこと……好きになっても……嫌いになっても……駄目だから……」

「善処します……」


 妙な敬語になってしまったが、フラウは満足したらしい。ふらりと立ち去った彼女を見送って、レイモンドは胸をなでおろした。とにかく難は去ったのだ。いや、難って。


 廊下に出ながら、レイモンドは慌てて訂正した。すべて濡れ衣で、ありもしない罪で、つまるところ俺は悪くないだろ。そもそも、好きにも嫌いにもなるな、なんて。どういうことだ……? 意味不明じゃないか……?


 そこで、レイモンドは立ち止まった。階段をおりてきたばかりのルーと鉢合はちあわせたからだ。


 珍しいことに、ルーの右頬はいささか赤く、れている。


 *****


 ルーの自室に案内されたレイモンドは、目を丸くした。


なぐられた? ダグラスさんに?」

「そこまで、驚くようなことじゃない」薬草に浸した布を頬にあて、ベッドに浅く腰掛けたルーが肩をすくめた。「あの人にとって、アンナは大事なめいだ。僕のような人間が、近くにいることは耐えがたいだろう」


 それを承知で、ルーはダグラスに話をつけにいったらしい。すなわち、アンナのそばにいたいと、申し出た。


「君らしくない」レイモンドは呆れながら、椅子に座った。

「そうか?」

「そうだろ。絶対に反対されるって、分かりきってることじゃないか……それをわざわざ言うなんて……」

「言わなければと思ったんだ。すじを通す、といえばいいか」

「筋?」

「僕は、アンナのことが好きだ」ルーは目を伏せた。「彼女にふさわしい恋人でありたいと思う。だが、欠点ばかりの人間だから……一つでもそれを埋めたいと思ったんだ」


 予想以上にまっすぐな言葉で、レイモンドは口を閉じた。布を外したルーが、ちらりと視線をよこしてくる。


 開け放した窓から吹き込んだ夏風が、カーテンをゆらりと揺らした。


「やっぱり、僕らしくない、か?」

「あー……いや……」


 ほおをかきながら、レイモンドはゆっくりと言った。


「その、やけに素直で驚いてる」

「どこかの誰かが、余計な世話を焼いたからだろうな」

「おい待てよ。昨日の発案者はティカだぞ。俺は巻き込まれただけだ」

「なるほど。アンナに媚薬びやくを渡した犯人も、ティカ・フェリスである、と」

「そっ、そういう言い方は、あんまりじゃないか?」レイモンドはむっとして反論した。「やり方はさ、問題だったろうけど。結果として、君もアンナさんとよく話しあえたわけで……」


 あれ。なんで俺はティカの擁護ようごをしてるんだ。話の途中でそんなことに気づいて、言葉がしりすぼみに消えていく。


 ルーが小さく笑った。


「冗談だ。君たちには感謝しかない。ありがとう」


 虚をつかれて、レイモンドは目を瞬かせた。


「……俺は、何もしてないよ」なんとか言葉をさがして、レイモンドは言う。「言っただろ。ティカに巻き込まれただけって」

「それは昨日の夜の話だろう? その前から、僕に色々と協力してくれたじゃないか。〈王狼おうろう〉の鍵を探してくれたし……神鍵クラヴィスのことも、思いとどまるようにいさめてくれた」

「や、やめてくれ……!」


 むずがゆくなって、レイモンドは声を上げた。ルーがちょっと意外そうな顔をするが、それはわざとなのか素なのか。あぁもう、とにかく、だ。


「そういうのは、いちいち言わなくていいんだ。ルー」恥ずかしさをごまかすために布を奪い取り、レイモンドは意味もなくたたむ。「俺は友人として、当然のことをやっただけなんだから」

「友人、か」

「そうだ。そういうことだ。そうでしかない。だから、とにかく、ええと……俺としては、君とアンナさんが、早くおさまるべきところに収まってほしいっていうか」

「それなら、考えがある」

「へえ、そう、考えが……えっ、考えがある?」


 勢いで言葉を並べていたせいで、ルーの返事を聞き逃すところだった。


 ルーが立ち上がり、棚から一冊の本と小箱を持ってくる。そう、棚からだ。レイモンドは目を瞬かせた。この前来たときには、空っぽだったはず。ということは、昨日今日で、用意したものってことか。


 ルーが再びベッドに座り直した。気まずそうに咳払いをする。そこでやっと、レイモンドは、友人の頬が微妙に赤いことに気がついた。


「まず前提として」ルーがゆっくりと言う。「〈王狼おうろう〉の鍵のことは、解決する必要がある。僕ももちろん探すつもりだし……レイモンド、君の力を借りることもあると思う」

「それは、もちろん。俺にできることなら」

「その上で、だ。二日後に、あるだろう。ティカ・フェリスが提案した告白大会が……そこで、アンナにこれを贈ろうと思っているんだ」


 まだ作っている最中なんだが、と前置きして、ルーが小箱のふたを開けた。レイモンドは今度こそ、言葉を失った。


 柔らかな白布の上に、藤花ウィステリアのつるで編んだかんむりが収められている。よく磨かれた樹皮は、つややかなコーヒー色だ。


つたに花をせば……それなりに見栄えがすると、書いてあるんだ。ここに」ルーは図鑑を開いてみせたが、おそらくは気恥ずかしさを誤魔化すためだろう。「宝飾品ビジューも考えたんだが、アンナには花が似合うと……レイモンド? 大丈夫か?」

「じゅ……純情……」


 レイモンドは呆然と呟いた。幸いにして、ルーは不思議そうな顔をするだけだったが……いや、不思議そうな顔って。レイモンドは思わずつっこんでしまった。


 そこはもうちょっと……こう、あるだろ。年相応の表情というか。どんな表情かって聞かれても困るけど。というか、花冠かかんって。子供じゃあるまいし。今どきの若者なら、もっとこう、別のものを贈るんじゃないのか。じゃあ何を贈るのかって、それを聞かれても困るんだけど。もう何を聞かれても困ることしかないんだけど。


 レイモンドは、なんとか笑みを浮かべた。


「い、いいんじゃないかな。君たちらしくて」


 無難すぎる返事になったのは、結局のところ、お腹いっぱいになったからだった。甘酸っぱくて、聞いてるこっちまで気恥ずかしくて、耳をふさいでしまいたい。とにかく、処理しきれなかったのだ。レイモンドの中で。


 なぜか、ティカへ愚痴ぐちりたくなった。

 俺、いまだにルーたちの惚気話のろけばなしに巻き込まれてるんだけど。


 ……いや、だからなんで、ティカのことを考えてるんだ。俺は。


「花、か……」


 なんとも言えない空気を追い払おうと、レイモンドは意味もなく呟いて、花の図鑑へ目を落とした。


 *****


 言い訳がましいが、下心はどこにもないのだ。

 花を贈るのというのも、子供じみているし。


 ただまぁ、ビルツていには立派な裏庭バックガーデンがあって、季節は夏で、花には事欠かないわけで。


 一応、ワインのお礼はすべきで、彼女のことをずっと考えているのはワインの――そう、あくまでもワインの、だ――貸し借りが清算されていないからでは、と思い当たったからで。


 おりしも花の図鑑には、夏の花束の作り方が書いていたのであり。


 不本意ながら昨日の夜、ティカの言葉にはげまされたのも事実なのだから。丸一日かけて辿り着いた結論を最後に付け足して、レイモンドは立ち止まった。


 日の沈み始めた屋敷の廊下である。目の前にはティカの部屋の扉。レイモンドの右手には花束が一つ。


 花束は、けれど、ごく簡単なものだ。ふわふわとした薄紅ピンクの小花をつけた花を、白のリボンで束ねた。花の名前は雪下花アスチルベというらしい。図鑑に書いてあった。一緒に書かれていた花言葉については、見なかったことにした。


 とにかくだ。レイモンドは己をふるい立たせて、顔をあげる。さっさとこれを押しつけてしまおう。簡潔に、明快に、手早く要件だけを言って、また明日と挨拶あいさつする。そう。そうだとも。


 やるべきリストを再確認して、レイモンドは扉を叩いた。叩いた後で、フラウが出てくる可能性と、そもそも誰もいない可能性が脳裏をよぎった。

 

 そんな簡単なことに気づかなかったあたり、レイモンドは浮かれていたのだ。


「……君」


 扉が開き、ティカが驚いたように目を丸くする。まるで幽霊でも見たような顔つきで、レイモンドは思わずまゆをひそめた。


 なんだよ、その顔は。挨拶あいさつ代わりの文句はしかし、言いそびれた。ティカがレイモンドの手をつかんで、部屋の中に引き入れたからだ。


 彼女のほうが華奢きゃしゃで、背も頭一つ分低い。けれど。予想外ということもあって、気づけばレイモンドは壁に追い詰められていた。一体何がと問う暇さえなかった。


 ティカが、力任せにレイモンドのえりを開く。

 その視線が、レイモンドの右肩に――そこに刻まれた刺青に注がれて、止まる。


「……赤薔薇あかばらの模様……リンダルムの仲間……」


 こわばった表情で、ティカが呟いた。


 レイモンドは凍りつく。ティカの姉は、リンダルムの赤薔薇に関わって破滅した。ディエンの言葉を思い出した。今さらだ。


 いいや、違う。刺青いれずみは子供のころに、親にいれられただけで。

 俺自身はリンダルムのやり方を許せないと思っていて。

 君を想う気持ちに、下心はない。それが事実で。


 そう思う。なのにどうしてか、言葉にできない。その間にティカはふらりと後ずさり、責めるような眼差しで吐き捨てる。「なんで黙ってたの」


 なんで、だって?


「……君が、」ほとんど無意識のうちに、レイモンドは返事をしていた。「君がそういう反応をするから、だろ」


 考えうる限り、最悪の返事だ。

 案の定、まなじりを釣り上げたティカに思い切り頬をぶたれた。花束が床に落ちる。ティカの足音が遠ざかる。レイモンドはその場に座り込む。


 馬鹿馬鹿しい、と呟いた。

 もちろん、自分に対してだ。

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