第12話 好きだ
チョコレートの箱を片手に、湿って冷たい夜の
扉を
「お話をしにきたの。いれてくださる?」
いくばくかの沈黙ののち、ルーは目を伏せた。かすかにうなずき、道を
部屋は暗い。カーテンは開いていて、庭の草木の黒々とした影が見えた。備えつけの家具に私物はなく、空っぽの棚に夜闇がたまっている。
アンナは息をついた。ベッドのそばで立ち止まる。「明かりはつけないで」
何かを置く音がした。きっと
「話、というのは」ルーが静かに切り出した。「僕のことだろう」
「えぇ」
「迷惑をかけてすまない」
「迷惑なんかじゃないのだわ」
「だが、君に怖い思いをさせた」
「そんなこと、」
「そんなことじゃない。僕は君を殺そうとしたんだ。アンナ」
強い口調で否定され、アンナは唇の裏をきゅっと
そのことを、ルーは素早く見抜いたのだろう。短いけれど痛いほどの沈黙の後、彼は言う。「明日、僕はここを出ていくつもりだ」
胸がぎゅっと縮んだ。アンナは目を強くつぶる。あぁ。
言葉を探す。
どうして、と問うのは簡単だ。きっと彼は、アンナのためにと答えるだろう。
やめて、と訴えることもできる。けれど彼は、これしか方法がないのだと
ならもう、黙って見送るしかない?
「……いやよ」
ぽつと呟いて、アンナは振り返った。ルーに詰め寄る。身を引こうとした彼の手首をつかまえた。
また、自分は彼を傷つけたのだ。
身勝手な自分に対する嫌悪を、しかし、アンナはチョコレートの
奥歯で噛んで飲み込んだ。ほろ苦い
「わたくし今、
「……は?」
さすがのルーも驚いたらしく、目を丸くする。ここぞとばかりに、アンナは彼を引っ張った。
けれどもちろん、彼は動かなかった。両手で引っ張ってもびくともしなかったので、アンナはやけになりながら命じる。「こっちに来て」
「駄目だ」ようやく我に返ったらしいルーは、頭痛をこらえるように
「もらったの」
「誰に?」
「一緒にベッドにはいってくれるなら、お答えするわ」
「どうして、そういう話になるんだ」
「わたくしが、ルーさまとそういうことをしたいからよ」声が少しだけ
灰をまぶした炎色の目が大きく揺れた。それでもやっぱり、ルーは動かない。彼は優しいのだ。けれど今、アンナが欲しいのは優しさなんかじゃなかった。
引き結ばれた彼の唇に、アンナは
こんな状況なのに、口づけで体が甘く震えた。けれどそれ以上に、泣きたいくらいの後悔があった。何をしているんだろう。こんなの、ふしだらな人間がすることだ。絶対に嫌われる。
それなのに、やめたくない。
置いていかないでほしい。
「……ねぇ」体の
「…………、」
「お願い」
「……っ……」
「ルーさま、」
「っ、駄目だ……!」
アンナは、ベッドに向かって突き飛ばされた。二人の間の熱が
もういっそ、脱いでしまえばいいのだ。彼を襲って、
けれど、できなかった。ルーがアンナの両手を
「やめろ!」ルーが
「軽々しくなんてないのだわ! 精一杯、上手にやるつもりだもの! だから、離してっ!」
「駄目だ! アンナ、頼むから落ち着いてくれ! 君の気持ちは、よく分かってるから、」
「何を分かってるっておっしゃるの!?」
アンナは声を張り上げた。ルーが、はっとしたように動きを止める。どうしようもなく腹が立って、アンナは荒い呼吸のままに、まくしたてた。
「わたくしが、ルーさまのことを怖いって思っていること!? そうよ! それは本当よ! でも、それだけのはずないでしょう!? ルーさまがずっと目を覚まさないんじゃないかって、心配してた! 先生からルーさまが無事だって聞いて、安心した! ルーさまの手を
離したくなかった。早く、この手で
嫌い、嫌い、嫌い。
でも。
「好きになって、よ……」アンナは、ぼろぼろと泣きながら言った。「好きって、わたくしが思うだけじゃ、もう足りないの……ルーさまに、好きになってほしいの……怖いって思う気持ちを忘れられるくらい、たくさんたくさん、好きって言ってほしいの……ねぇ……」
空気が揺れた。彼は何を言いたかったのだろう。やっぱり分からなかった。手さえ
アンナは唇の裏をぎゅっとかんだ。こみ上げてくる何かが
「
八つ当たりで呟いて、ルーの手をふりほどいた。アンナは部屋を飛び出す。
苦しい。息をしなきゃ。暗い廊下を早足で進みながら、そう思う。口を開いた。
アンナは立ち止まる。
「っ、馬鹿……」
馬鹿なのは、わたくしよ。アンナはののしる。こうなることは、分かりきっていたじゃない。
でも、じゃあ、どうすればよかったの。
聞き分けのいい
結局のところ、ルーさまはいつだって、わたくしに優しいのよ。
そしてわたくしは、いつだって彼の優しさを踏みにじるような選択しかできない。
みっともなく泣いて、目を
待っててくれたのだ。それにアンナはほっとし、少しだけ笑った。泣きながら笑うなんて、さぞみっともないだろうと思ったけれど、ティカたちなら、きっと許してくれるはずだ。
わたくし、ふられてしまったのよ。そんな
*****
ルーは空っぽの手を握り、
それから僕たちは、口づけをしたのだ。
「くそ……っ」
不意に怒りがこみあげて、ルーは立ち上がった。
部屋を出て、廊下を走る。長雨をもたらした雲は、去りつつあった。気まぐれに月明かりが差し込んで、行く先を照らしては消える。
ルーが彼女を殺そうとした、あの冬の夜とは違うのだ。
彼女と一緒にいられるだけで幸せだった、数日前の夏の夜とも違う。
僕たちは、同じままではいられない。
好きになって欲しいと、君が願ったから。いいや、違う。違うだろう。
僕が君に、好きになって欲しいと望んだからだ。
「っ、アンナ!」
名前を呼んだ。ティカたちのところに行こうとしていたアンナが、振り返った。泣きはらした目を丸くしている。その手を強く
「ルー、さま……っ?」アンナが戸惑ったように声をあげる。「待って、痛いっ……手……っ」
「黙れ」ルーは苛々と返して、
絹糸のような雨が、月明かりと一緒に降りかかった。せめて雨よけを、というアンナの声を無視し、ルーは闇雲に足を進めながら一方的に話す。
「鍵に支配されない方法ならあるんだ。先代が教えてくれた。鍵と結びついている僕の心を壊せばいい」
「レイモンド・ラメドが教えてくれた。
湿った草木を踏むたびに、
「だから、僕が
「それなのに、僕は、」
永遠に目をそらして、逃げ続けることはできない。
「僕は、怖くて選べなかった! その選択肢を!」ルーは彼女の手を握ったまま、やけくそになって怒鳴った。「君を傷つける未来よりも、君への気持ちを忘れて、まるきり違う人間になってしまうことを恐れたんだ!
一息に言って、ルーは振り返った。雨に
「そのはず、なんだ」ルーは奥歯を
「ルー、さま……」
「好きだ」
耳元で、アンナが息を
少しだけ体を離す。彼女の後ろ髪に手を差し入れて、もう一度引き寄せた。唇を重ねる。薄く開いた唇から舌をさしいれれば、彼女はたどたどしく応じてくれる。上手だなんて、とても言えない。
まったく口づけ一つでさえ、この有様なのに。これ以上のことを彼女は望み、あまつさえ、上手くやれると尊大に言ったのだ。あわれで、いじらしい。けれど他ならぬ僕のためだと思えば、この上なく嬉しい。
結局僕は、君を諦めることなんて、できないのだ。
唇を離した。互いの前髪から、雨の
「好きだ、アンナ。僕はもう、君を手放せない。どんなに傷つけることになっても、手放したくない」
「……手放さなくて、いいのだわ」アンナはぽろぽろと泣きながら、不器用に笑った。「だって、それがわたくしの望みなのよ」
「僕と一緒にいて、怖い思いをすることになっても?」
「大丈夫。言ったでしょう? ルーさまの『好き』があれば、わたくしは何だって乗り越えていけるの」
嘘だ。好きだなんていう言葉だけでは、暴力は止められない。降りかかる
僕たちが足を踏みいれようとしているのは、
僕たちの、恋を。
「泣かないで、ルーさま」
目元にはりついた髪を指先で払い、アンナが目元に口づけてくれる。
泣いているのではなく、雨のせいだ。そんな言葉の代わりに、ルーは彼女の体を強く抱きしめた。好きだ、と何度も繰り返した。
ささやかな雨が、月明かりに染まった
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