第12話 好きだ

 チョコレートの箱を片手に、湿って冷たい夜の廊下ろうかを一人で歩いた。その間中ずっと、言葉を探していて、けれど結局、見つけられないままに、彼の部屋にたどりつく。


 扉をたたく。さして間を置かずに開いた。たったそれだけのことにほっとしながら、アンナはルーを見つめる。


「お話をしにきたの。いれてくださる?」


 いくばくかの沈黙ののち、ルーは目を伏せた。かすかにうなずき、道をゆずる。何を考えているかは分からなかった。少なくとも、突然の訪問に驚いている様子はない。アンナがここに来る前から、足音に気づいていたのかもしれない。


 部屋は暗い。カーテンは開いていて、庭の草木の黒々とした影が見えた。備えつけの家具に私物はなく、空っぽの棚に夜闇がたまっている。


 アンナは息をついた。ベッドのそばで立ち止まる。「明かりはつけないで」


 何かを置く音がした。きっと燭台しょくだいだろう。そのあと彼はうなずいたのだろうか。分からなかった。単純に振り返る勇気がなかったせいだ。


「話、というのは」ルーが静かに切り出した。「僕のことだろう」

「えぇ」

「迷惑をかけてすまない」

「迷惑なんかじゃないのだわ」

「だが、君に怖い思いをさせた」

「そんなこと、」

「そんなことじゃない。僕は君を殺そうとしたんだ。アンナ」


 強い口調で否定され、アンナは唇の裏をきゅっとむ。身震みぶるいはこらえたが、小箱を持つ手が揺れるのは止められなかった。


 そのことを、ルーは素早く見抜いたのだろう。短いけれど痛いほどの沈黙の後、彼は言う。「明日、僕はここを出ていくつもりだ」


 胸がぎゅっと縮んだ。アンナは目を強くつぶる。あぁ。


 言葉を探す。

 どうして、と問うのは簡単だ。きっと彼は、アンナのためにと答えるだろう。

 やめて、と訴えることもできる。けれど彼は、これしか方法がないのだとさとしてくるに違いない。


 ならもう、黙って見送るしかない?


「……いやよ」


 ぽつと呟いて、アンナは振り返った。ルーに詰め寄る。身を引こうとした彼の手首をつかまえた。のどつかまれた時の恐怖が戻ってきて、息が乱れた。ルーの目に、おびえがよぎった。


 また、自分は彼を傷つけたのだ。


 身勝手な自分に対する嫌悪を、しかし、アンナはチョコレートのふたと一緒に床へ捨てる。一粒だけのチョコレートを口に放り込む。


 奥歯で噛んで飲み込んだ。ほろ苦い余韻よいんが冷めやらぬまま、アンナはきっとルーをにらむ。


「わたくし今、媚薬びやくりのチョコレートを食べたから」

「……は?」


 さすがのルーも驚いたらしく、目を丸くする。ここぞとばかりに、アンナは彼を引っ張った。寝台ベッドのそばにたどり着き、さらに強く手を引く。その頃には頭がふわふわし始めていて、彼を押し倒すことができると根拠もなく思ったのだ。


 けれどもちろん、彼は動かなかった。両手で引っ張ってもびくともしなかったので、アンナはやけになりながら命じる。「こっちに来て」


「駄目だ」ようやく我に返ったらしいルーは、頭痛をこらえるようにひたいを押さえた。「待て。アンナ、一体どういうことなんだ……? 媚薬びやく? なんでそんなものを君が?」

「もらったの」

「誰に?」

「一緒にベッドにはいってくれるなら、お答えするわ」

「どうして、そういう話になるんだ」

「わたくしが、ルーさまとをしたいからよ」声が少しだけうわずったのは、きっとチョコレートのせいだ。「お別れをするつもりなら、わたくしを滅茶苦茶めちゃくちゃにして。今すぐに」


 灰をまぶした炎色の目が大きく揺れた。それでもやっぱり、ルーは動かない。彼は優しいのだ。けれど今、アンナが欲しいのは優しさなんかじゃなかった。


 引き結ばれた彼の唇に、アンナはみつくようにして、自身の唇を重ねる。


 こんな状況なのに、口づけで体が甘く震えた。けれどそれ以上に、泣きたいくらいの後悔があった。何をしているんだろう。こんなの、ふしだらな人間がすることだ。絶対に嫌われる。


 それなのに、やめたくない。

 置いていかないでほしい。


「……ねぇ」体の火照ほてりを逃がすように息をき、鼻先が触れ合う距離で、アンナはねだる。「口を開けて」

「…………、」

「お願い」

「……っ……」

「ルーさま、」

「っ、駄目だ……!」


 アンナは、ベッドに向かって突き飛ばされた。二人の間の熱がほどけそうになる。それが怖くて、アンナは自分の服の襟元えりもとに手をかけた。


 もういっそ、脱いでしまえばいいのだ。彼を襲って、既成事実きせいじじつを作ってしまえばいい。もう十分に嫌われているんだから、これ以上は何をしたって同じだ。そう思ったのだ。


 けれど、できなかった。ルーがアンナの両手をつかんだからだ。


「やめろ!」ルーがしかりつけるような、懇願こんがんするような声で言った。「やめてくれ、アンナ! どうしてそう、自分の体を軽々かるがるしくあつかうんだ……!?」

「軽々しくなんてないのだわ! 精一杯、上手にやるつもりだもの! だから、離してっ!」

「駄目だ! アンナ、頼むから落ち着いてくれ! 君の気持ちは、よく分かってるから、」

「何を分かってるっておっしゃるの!?」


 アンナは声を張り上げた。ルーが、はっとしたように動きを止める。どうしようもなく腹が立って、アンナは荒い呼吸のままに、まくしたてた。


「わたくしが、ルーさまのことを怖いって思っていること!? そうよ! それは本当よ! でも、それだけのはずないでしょう!? ルーさまがずっと目を覚まさないんじゃないかって、心配してた! 先生からルーさまが無事だって聞いて、安心した! ルーさまの手をたたいてしまって、後悔してた! ずっと会えなくて、寂しくて……っ……! だって、わたくしは、ルーさまのことが好きでっ……! でもルーさまが好きなのは、記憶を失う前のわたくしかもしれなくて……っ! それが不安でっ……!」


 のどがひきつって、言葉尻ことばじりが揺れる。アンナはルーの手をぎゅっと握って、うなだれた。


 離したくなかった。早く、この手で無茶苦茶むちゃくちゃにしてほしい。ここからいなくなるのなら、消えない傷を残してほしい。なんて浅ましい考えだろう。嫌いだ。こんな自分が嫌い。彼を怖いと思ってしまう自分も嫌い。


 嫌い、嫌い、嫌い。

 でも。


「好きになって、よ……」アンナは、ぼろぼろと泣きながら言った。「好きって、わたくしが思うだけじゃ、もう足りないの……ルーさまに、好きになってほしいの……怖いって思う気持ちを忘れられるくらい、たくさんたくさん、好きって言ってほしいの……ねぇ……」


 空気が揺れた。彼は何を言いたかったのだろう。やっぱり分からなかった。手さえ微動びどうだにしない。息が詰まるほど長い沈黙のあと、彼の声が聞こえた。「……できない」


 アンナは唇の裏をぎゅっとかんだ。こみ上げてくる何かがこぼれてしまう前に、息を止めて、耐える。


意気地いくじなし」


 八つ当たりで呟いて、ルーの手をふりほどいた。アンナは部屋を飛び出す。


 苦しい。息をしなきゃ。暗い廊下を早足で進みながら、そう思う。口を開いた。のど痙攣けいれんするように震えて、もう、駄目だった。


 アンナは立ち止まる。


「っ、馬鹿……」


 馬鹿なのは、わたくしよ。アンナはののしる。こうなることは、分かりきっていたじゃない。


 でも、じゃあ、どうすればよかったの。


 聞き分けのいい淑女しゅくじょであるべきだった? 笑顔でお別れを受け入れるべきだった? えぇ、そうよね。きっと、そのとおりなのだわ。そうすれば、余計な傷を負わずにすんだ。わたくしも、ルーさまも。


 結局のところ、ルーさまはいつだって、わたくしに優しいのよ。

 そしてわたくしは、いつだって彼の優しさを踏みにじるような選択しかできない。


 みっともなく泣いて、目をうででこすって、アンナは、とぼとぼと廊下を歩き始める。一階へ降りたところで、行く先に明かりが差した。食堂ダイニングから、ティカとレイモンドが出てくる。


 待っててくれたのだ。それにアンナはほっとし、少しだけ笑った。泣きながら笑うなんて、さぞみっともないだろうと思ったけれど、ティカたちなら、きっと許してくれるはずだ。


 わたくし、ふられてしまったのよ。そんな愚痴ぐちから始まって、朝まで飲み明かせばいい。アンナは二人に向かって、手をふろうとする。


 *****


 意気地いくじなしという言葉が、耳にこびりついて離れない。


 ルーは空っぽの手を握り、ひたいに当てる。床に座り込んだ。とてもじゃないが、ベッドに戻る気分にはなれない。さっきまで彼女がいたのだ。泣いていた。媚薬びやくを飲んだといった。抵抗する力は弱かった。


 それから僕たちは、口づけをしたのだ。


 意気地いくじなし。


「くそ……っ」


 不意に怒りがこみあげて、ルーは立ち上がった。


 部屋を出て、廊下を走る。長雨をもたらした雲は、去りつつあった。気まぐれに月明かりが差し込んで、行く先を照らしては消える。


 ルーが彼女を殺そうとした、あの冬の夜とは違うのだ。

 彼女と一緒にいられるだけで幸せだった、数日前の夏の夜とも違う。


 僕たちは、同じままではいられない。


 好きになって欲しいと、君が願ったから。いいや、違う。違うだろう。

 僕が君に、好きになって欲しいと望んだからだ。


「っ、アンナ!」


 名前を呼んだ。ティカたちのところに行こうとしていたアンナが、振り返った。泣きはらした目を丸くしている。その手を強くつかみ、ルーは引っ張るように歩き出した。


「ルー、さま……っ?」アンナが戸惑ったように声をあげる。「待って、痛いっ……手……っ」

「黙れ」ルーは苛々と返して、裏庭バックガーデンへ通じる扉を開ける。「くそっ……気持ちを理解してないだって……? それは、君のほうじゃないか……!」


 絹糸のような雨が、月明かりと一緒に降りかかった。せめて雨よけを、というアンナの声を無視し、ルーは闇雲に足を進めながら一方的に話す。


「鍵に支配されない方法ならあるんだ。先代が教えてくれた。鍵と結びついている僕の心を壊せばいい」


 藤蔦ウィステリアおおわれた東屋ガゼボを抜けた。


「レイモンド・ラメドが教えてくれた。神鍵クラヴィスは本来、心を壊すために作られた薬だって」


 湿った草木を踏むたびに、つぼみや葉から、銀の雨雫あましずくがこぼれた。


「だから、僕が神鍵クラヴィスを飲めばいい。簡単な話だ。そもそも、君と距離を置いたとしても、僕が君を傷つける可能性をぜろにはできない。戦略的に考えても、神鍵クラヴィスを使うほうがいいに決まってる」


 丸池ポンドに映る細い月は、ささやかな雨が水面を打つたびに揺れていた。


「それなのに、僕は、」


 薔薇園ばらえんに辿り着いて、ルーは足を止める。行き止まりだ。当然だった。ここはただの庭だ。ひたすらに歩けば、いつかはどこにも進めなくなる。


 永遠に目をそらして、逃げ続けることはできない。


「僕は、怖くて選べなかった! その選択肢を!」ルーは彼女の手を握ったまま、やけくそになって怒鳴った。「君を傷つける未来よりも、君への気持ちを忘れて、まるきり違う人間になってしまうことを恐れたんだ! 意気地いくじなしと笑えばいい! だが、仕方ないじゃないか! 君に関することで、失いたいものなんて、何一つないんだ! だからせめて、君との距離を置こうと思ったんだ! それしか、僕にはできないから! 君が幸せになってくれるなら、いくらでも我慢できるし、覚悟だって決められる! そのはずだったんだ!」


 一息に言って、ルーは振り返った。雨にれたアンナを見る。目元を真っ赤にした彼女を。涙でうるんだ、美しい青の目を。


「そのはず、なんだ」ルーは奥歯をみ、アンナを抱き寄せた。「それなのに、君が欲しいと思ってしまった……踏ん切りをつけたはずなのに、君のそばにいたいと、いまだに僕は思ってる」

「ルー、さま……」

「好きだ」


 耳元で、アンナが息をむ音がした。ささやかな音でさえ、心をかき乱すには十分だ。


 少しだけ体を離す。彼女の後ろ髪に手を差し入れて、もう一度引き寄せた。唇を重ねる。薄く開いた唇から舌をさしいれれば、彼女はたどたどしく応じてくれる。上手だなんて、とても言えない。


 まったく口づけ一つでさえ、この有様なのに。これ以上のことを彼女は望み、あまつさえ、上手くやれると尊大に言ったのだ。あわれで、いじらしい。けれど他ならぬ僕のためだと思えば、この上なく嬉しい。


 結局僕は、君を諦めることなんて、できないのだ。


 唇を離した。互いの前髪から、雨のしずくがしたたった。体を密着させたまま、ルーは、アンナの真っ赤な頬を右手でこすって、呟く。


「好きだ、アンナ。僕はもう、君を手放せない。どんなに傷つけることになっても、手放したくない」

「……手放さなくて、いいのだわ」アンナはぽろぽろと泣きながら、不器用に笑った。「だって、それがわたくしの望みなのよ」

「僕と一緒にいて、怖い思いをすることになっても?」

「大丈夫。言ったでしょう? ルーさまの『好き』があれば、わたくしは何だって乗り越えていけるの」


 嘘だ。好きだなんていう言葉だけでは、暴力は止められない。降りかかる災厄さいやくから、君を守ることもできない。僕が君を傷つける、そんな恐ろしい未来を、回避することだってできない。


 僕たちが足を踏みいれようとしているのは、泥沼どろぬまのような道だ。君は、けれどきっと、気づいているのだろう。気づいた上で、僕を信じてくれるのだろう。


 僕たちの、恋を。


「泣かないで、ルーさま」


 目元にはりついた髪を指先で払い、アンナが目元に口づけてくれる。


 泣いているのではなく、雨のせいだ。そんな言葉の代わりに、ルーは彼女の体を強く抱きしめた。好きだ、と何度も繰り返した。


 ささやかな雨が、月明かりに染まった薔薇ばらつぼみを、優しく濡らしている。


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