第11話 上手くいってるだろ

「……裏庭バックガーデン……」

「再生計画ぅ?」

「ふむ。センスの無い題名タイトルだな」

「おい、ディエン。君のは、ただの悪口だろ」


 レイモンドはすかさず文句をつけたが、禿頭とくとうの大男はひょいと肩をすくめるばかりだ。隣のティカは胡乱うろんな顔で紙片メモをつまんでいるし、向かいのフラウは相変わらずの陰気な笑みを浮かべるばかりで、何を考えているのか今いちつかめない。


 レイモンドは、隣の部屋から運んできた円卓を指先で叩いた。とにかく、苛立ちをそれで発散させて、彼は昼食もそこそこに、客間ゲストルームに集めた魔女たちを見回す。


「今朝の食堂ダイニングで分かっただろ。俺たちが、ルーとアンナさんの仲をどうにかしなくちゃいけない」

「……わたしたちが、っていうのは……」フラウがぼそっと呟いた。「どうなんだろ……ね……ティカちゃん……?」

「ボクに聞かないでよ」ティカがほおをふくらませた。「まぁそりゃ、気まずいかんじだったけどさ……アンナがルーの手をたたいちゃった時とか……」

「かんじだった、じゃなくて、実際に気まずいだろ」レイモンドは、より正確な表現で言い直す。

「気まずいけど」ティカがじろっとレイモンドをにらんだ。「ボクが納得いかないのは、なんで君が張り切ってるのかってことだよ」

「俺のほうが、君たちより上手くやれる」

「はぁ?」

「君たちには計画性がないだろ」


 かちんときたようなティカを無視して、レイモンドは紙片メモに目を落とした。


 裏庭バックガーデン再生計画。要するに、ルーとアンナの関係をいかに修復するか――そのための工程と、各個人の役割、それから気をつけるべき点をまとめたものだ。食堂のやりとりのあと、自室にこもってまとめた。ティカたちの手元にあるのは、これを複写したものだ。


「しばらくは、ルーとアンナさんを引き離したほうがいい」紙片メモに沿って、レイモンドは言う。「その間に、〈王狼おうろう〉のかぎを探す。それさえ手元にあれば、ルーは普通の生活を送れるわけだし、」


 ふくれっつらのまま、ティカがびっと片手を挙げた。


「異議あり。紙片メモのここ。朝昼夜の食事当番」

「……それがなんだよ」レイモンドは、横目でティカを見た。

「ボクの当番が多くない? 嫌なんだけど」ティカが、紙を指先で何度も叩いた。

「しょうがないだろ。アンナさんとルーは、分けて行動させるんだから。俺たちのうちの誰かと組ませる必要がある」

「それにしたって、だよ。だってさあ、君の当番は少ないじゃん。ここほら、三回もさぼってる」

「さぼってない。俺は他にやることがあるんだ」

「なにそれ。ただの言いわけじゃんか」

「ティカ・フェリス」


 レイモンドはさらに言い返そうとして、やめた。まるで子供みたいなやりとりに付き合ってやる義理はない。代わりに、真剣な表情に切り替えて、黒髪の少女を見た。


「仮にも、ルーとアンナさんの仲を応援してた立場だろ。告白大会まで企画してさ。それなのに今さら、二人を見捨てるっていうのか?」


 ティカが唇をひん曲げた。一番痛いところをついてやったのだから、当然だ。


 そのあと、レイモンドは手早くそれぞれの行動を確認した。ティカとフラウは、アンナの様子を見守ること。ディエンは、魔女の未練みれんや、不審ふしんな人物を警戒すること。このことを、ダグラスとアルヴィムにさとられないようにすること。


「じゃあ、お前は何をするんだ?」


 客間からティカとフラウを追い出して早々、ディエンが尋ねてきた。それもけれど、予想通りだ。


 レイモンドは椅子に座り直して、まっすぐに彼を見つめる。


「〈王狼おうろう〉のかぎを探す。だから、俺の罪の名前を呼んでくれ」

「今? 魔女の力を使うのか?」

偵察ていさつ用のはとを飛ばしておきたい。情報は、少しでも多いほうがいいだろ」

「なるほどな。それで誰を偵察するんだ?」


 ディエンが、興味深そうに目を光らせた。

 風であおられた雨粒が、窓をたたく音がする。


「アルヴィムだよ」おくすることなく、レイモンドは答えた。「彼は、初代〈王狼おうろう〉のおさだった。鍵についても一番詳しいはずだ」

「ふむ。お前はずいぶんと、この件に詳しいんだな」

「ダグラスさんから聞いた。これ以上の情報は出てこなかったから、調べてもらうようにお願いしてるけどね。教えてもらえるかはあやしいだろうな。元より彼は、ルーのことをこころよく思ってないし……なぁ、なんだよ。その顔は?」

「いや?」


 ディエンはテーブルに片肘かたひじをつき、にやっと笑った。「お前は、俺をよく信用してくれると思ってな」


 レイモンドは半眼はんがんになった。二人で話しているときに限って、こういうことがある。妙なタイミングで、ディエンに感心されるというか。どこか含みがあるというか。


「……ディエン。お前、俺のこと馬鹿にしてるだろ」

「む? 尊敬しかしてないぞ」

「その返事からして馬鹿にしてる」レイモンドは赤銅色しゃくどういろの髪をぐしゃりとかいて、立ち上がった。「ほら、庭に行くぞ。俺がはとの準備をしている間、見張りをしててくれ」


 もちろんだとも、とディエンが上機嫌に返事をする。全く、今の話のどこに機嫌が良くなる要素があるんだ。レイモンドはあきれながら廊下へ出た。


 窓の外の雨足は弱いが、何も持たずに庭へ行けばれてしまいそうだ。かさを持ち出すべきか、濡れるに任せてしまうか。レイモンドが思案したところで、ディエンがすまし顔で言う。


「それにしても、ずいぶんティカと仲良くなったな。付き合うつもりか?」

「は、ぁ!?」レイモンドは、ディエンをにらんだ。「何をどう見たら、そういう勘違いになるんだよ……!?」

「洋服屋で、仲良く話してたじゃないか。紙片メモだって、ティカの分だけ厚かった」

「服屋はただの世間話だし、メモが分厚いのは、ほうっておいたら、ティカが無神経な行動をするからで、」

「あぁ、違うぞ。レイ。俺は惚気話のろけばなしを聞きたいんじゃない。忠告をしておこうと思ってな」


 だから、今のどこが惚気話のろけばなしなんだよ、という文句を、レイモンドはかろうじて飲み込んだ。「忠告ってなんだよ」


「ティカ・フェリスの姉は、リンダルムの赤薔薇あかばらに関わって破滅した」ディエンは、レイモンドの右肩のあたりを見やった。「お前がいいやつなのに疑いはないが、過去を話す時機は慎重に見極めたほうがいい」


 *****


 話すべき過去なんて、あるわけない。


 リンダルムの赤薔薇あかばらのことか? 革命の頃の武装集団、麻薬と恫喝どうかつ憐憫れんびんという名の支配で、人々の人生を滅茶苦茶にした赤薔薇あかばらが、教会の分派であるということ? 薬のあつかいにけた彼らが、神鍵クラヴィスを作り、魔女の未練みれんを産んだこと? あるいは、その創始者が、自分の親であるということか?


 そんなのもの、言うわけがない。強く否定したところで、レイモンドは顔をしかめた。ディエンの言葉を思い出したからだ。


 ――ティカ・フェリスの姉は、リンダルムの赤薔薇あかばらに関わって破滅した。


 だからなんで、ティカに関する忠告なんだ。


「ねぇ。本当に、なにもいらないわけ」


 ティカの声に、レイモンドは現実に引き戻された。


 裏庭再生計画から二日後。食堂の昼食どきだ。ティカは、街へ買い出しに出かけるらしい。雨よけのケープ片手に、アンナと話し込んでいる。


「大丈夫よ」ほとんど食事に手をつけぬまま、アンナは控えめに微笑んだ。「お菓子も、日用品も、全部そろってるもの」

「そういうことじゃなくてさ。ボクが聞いてるのは、君が欲しい物が、なにかってことで、」


 アンナの両隣に座った双子たちが、一斉に声を上げた。


「じゃあ、わたしたちは甘いキャンディがほしいな」赤毛のヴィナがねだる。

「ビスケットも。ミルクにひたして食べたい」金の巻き毛のニケが言葉を続けた。


 いや、君たちの話は聞いてないんだけど? と言わんばかりに、ティカが顔をひきつらせた。アンナは双子の頭をなでて、苦笑する。「じゃあ、キャンディとビスケットをお願いできるかしら」


 五十五点だな。ティカが渋々しぶしぶとうなずくのを眺め、レイモンドは採点した。アンナの気をまぎらわせるような会話は、計画どおりだ。ただし、ヴィナたちに苛々させられている程度にはお子様だから、五点減点。


 とにかく、問題は生じていないのだから、良しとしてやろう。レイモンドは結論を出して、席を立った。


 昼食の片付けをディエンとこなしたあと、レイモンドはルーの部屋の扉をたたいた。


 裏庭再生計画の発足から二日。これで六度目の訪問だ。見舞いという側面もあるが、〈王狼おうろう〉の鍵に関する情報を得るためでもある。


 結局のところ、ルーは当事者なのだ。かぎについて、〈王狼おうろう〉について、彼に尋ねることで理解が深まることは多々あった。


 いわく、〈王狼おうろう〉は、革命軍の罠にかかって、関係者や家族もろともとらえられた。彼らは互いに殺し合いをさせられ、ルーだけが生き残った。


『革命軍……ということは、アンナ・ビルツが君たちを殺す指示を出したのか?』レイモンドの質問に、ルーは、はっきりと首を横に振った。『彼女の指示にしては低俗だ。革命軍の下っ端が、暇つぶしとして、僕たちで遊んでいたんだろう』


 とにかく、あそこまで教えてくれたんだ。レイモンドは意気込いきごみを新たにする。彼が俺を信頼してくれているのは間違いない。だったら当然、俺はルーの期待に答えて――彼を助けてやるべきで。


 そこで、はた、とレイモンドは我に返った。


 ノックをしたにも関わらず、やけに部屋が静かじゃないか?


 嫌な予感にかられて、レイモンドは取っ手を回す。普段から鍵のかけられていない部屋だ。すんなり開いた。中は薄暗く、雨に濡れた草木くさきの香りがする。


 開け放した窓の前に、ルーが立ちつくしていた。霧のような雨の降る曇天どんてんを、ぼんやりと眺めている。


「……いるなら、返事くらいしてくれよ……」レイモンドは、ほっと胸をなでおろした。

「すまない」ルーがちらりとレイモンドのほうを見て、ため息をついた。「考え事をしていたんだ」


 レイモンドは、ルーのそばに近づいた。窓を閉めながら、はげますように明るく声をかける。


「ダグラスさんのことなら気にするな。言っただろ。俺が鍵を探すって」

「……あぁ。分かっている」

「アンナさんも、本気で君を嫌ってるわけじゃないだろうし。とにかく、色々落ち着いてから話をすれば、きっと元通りになるはずだ」

「そうであればいい」

「そうなるさ。俺に任せてくれよ」レイモンドは、ルーの肩を軽く叩いた。「ほら。なにか気晴らしでもしないか? 本を読むとか。ちょっとした遊戯盤ゲームなら、俺が相手になるし」


 ルーは曖昧あいまいにうなずいたが、動く気配はない。レイモンドは仕方なく、部屋のあちこちに目をやった。


 空っぽの戸棚とだな、雨粒で濡れた小卓テーブル、毛布のたたまれたベッドと、小さなスツールが一つ。


「頼みたいことがあるんだが」


 ルーに声をかけられて、レイモンドは、ぱっと振り返った。


「なにか、やりたいことでも浮かんだか?」レイモンドは、はりきって尋ねた。「遠慮せずに、なんでも言ってくれ。俺にできることなら何でもする」

「……神鍵クラヴィスを、分けてもらうことはできるか?」


 本か、食事か、チェス盤か。そんなふうに心づもりをしていたから、ルーの言葉に、一瞬反応できなかった。「神鍵クラヴィス?」


 我ながら、間抜けなおうむ返しだ。されども夜明け色の髪の青年は、静かに頷いて言う。


「心を壊す薬と言っていただろう。あれを使いたい」


 ――レイモンドさまのために、使いたいんです。あれを飲めば、きっとお役に立てるって、聞いたから。


 不意に、無邪気な誰かの声がよみがえって、レイモンドは血の気が引いた。違う、誰かじゃない。リンダルムの赤薔薇あかばらにそそのかされて、神鍵クラヴィスを飲んで、挙句の果てに化け物になった。教会の子供の一人の声だ。


 どうして今さら、そんなことを思い出したのか。

 そんなの、考えるまでもない。ルーの言い方がそっくりだったからに決まってる。


「なんで……」レイモンドは硬い口調で尋ねた。「魔女の未練みれんにでもなるつもりか?」

「違う」

「じゃあ、必要ないだろ」

「必要だ」ルーはきっぱりと言った。「〈王狼おうろう〉の人間は、かぎに心を預けているらしい。だから、鍵と結びついている心を壊せば、誰からも支配されなくなる」

「誰がそんなこと言ったんだ?」

「アルヴィムさんだ」


 かつての〈王狼おうろう〉の長。あるいは、〈王狼おうろう〉のかぎの支配から、唯一逃れた男。


 レイモンドの思考の片隅で、白銀がまたたいた。それはまさしくアルヴィムの色で、不吉な予感そのものだ。


「できない」レイモンドは首を横に振った。「神鍵クラヴィスは渡せない。そういう目的で使うべきじゃない」


 ルーが口を閉じた。反論されるか、実力行使に出られるか。レイモンドは身構えたが、〈王狼おうろう〉の青年は、背を向けただけだった。


「今日は帰ってくれ」


 *****


 レイモンドは、計画書をなおしていた万年筆を止めた。


 帰れって。なんだよ、それは。


 自室は夜を向かえている。双子たちはベッドのなか、ディエンは魔女の未練の見回りに出かけていた。


 部屋には、雨音が響くばかりだ。

 書物机かきものづくえの上で、ランタンの炎が空気を焦がす。


 明確な拒絶に対する動揺。自分の気遣いを無下にされたことへの怒り。妙な提案をしてきたアルヴィムに対する不信感。なにより、それしきのことで揺らいでしまう自分の不甲斐ふがいなさに対する失望――そこまで自覚したところで、レイモンドはぐしゃりと頭をかいた。


 駄目だ。気晴らしをしよう。自分に言い聞かせて、部屋を出る。

 夜の廊下を歩いている間も、現状を客観的に採点することに全力を注いだ。


 七十点だ。ルーとアンナを引き離すこと自体は成功している。おかげでアンナはいつもどおりだし、神鍵クラヴィスの一件を除けば、ルーの様子も落ち着いていると言えるだろう。見回りのおかげか、魔女の未練も現れていない。順調か? おおむね、そうだ。


 〈王狼おうろう〉とかぎ、それからアルヴィムの情報が手に入らないだけで。ダグラスからの返事の無さ、空振り続きの偵察用ていさつようはと。それらを立て続けに思い出し、レイモンドの気分は沈んだ。それって、どれも俺の担当じゃないか。


 やっぱり、お前が誰かを助けるなんて、到底無理な話なのさ。死んだ親友のさげすみの声が聞こえた。もちろん幻聴だ。分かっている。


 それでも、レイモンドの足が止まりかけて。


「勝手に沈んだ顔すんなっての」

っ……!?」


 背後から声をかけられると同時、すねに激痛が走った。


 レイモンドは悲鳴を押し殺してうずくまる。かかとの高い靴が、目の前の床を叩いた。涙目で見上げた先で、ティカが両腕を組んでいる。


「なにするんだよ、いきなり」レイモンドは、ティカをにらんだ。

「言い出しっぺのくせに、辛気臭しんきくさい顔してるからでしょ」ティカが不機嫌そうに応じた。

「はあ? 相変わらず訳の分からない理由だな」

「計画、このままで良いと思ってんの」


 レイモンドは言葉に詰まった。目をそらして返事をする。


「上手くいってるだろ」客観的に現状を眺めなおし、レイモンドは成果だけを口にした。「アンナさんは、いつもどおりだ。双子の面倒も見てくれてるし、家事もやってくれてるんだから」

「へえ。君にはそう見えるわけ」

「……なんだよ、その言い方」


 ティカは答えず、レイモンドの手を強引に引っ張って立たせた。「来て」


 文句は全て無視された。連日の雨のせいで重く沈んだ夜闇のなかを、二人で進む。ティカの手は思ったよりも骨ばっていて、彼女が男であるという事実を、レイモンドは脈絡なく実感する。


 目的地を尋ねることはできなかった。

 それよりも早くティカが足を止めたからだ。


 アンナの部屋だった。レイモンドはぎょっとする。ティカが迷いなく扉を開けて、中にはいった。


「ちょっ……、」


 さすがに失礼だろ、という言葉を、レイモンドは飲み込んだ。


 真っ暗な部屋だった。アンナは、ベッドのそばの床に、ひざを抱えて座り込んでいる。とうに寝る時間は過ぎているのに、白と黒の魔女の正装を着たままだ。


 なにより、驚いたようにあげられた顔は、涙でれていた。


「ティカさん……レイモンドさん……」アンナはかすれた声で呟いた。

「ほらね、やっぱり泣いてた」ティカがレイモンドの手を離し、アンナのほうへつかつかと歩み寄った。「ていうか、せめてベッドの上で泣けばいいじゃん。なんで床なわけ?」

「えっ、あっ、そう……そうね……」


 アンナは、ふらりと立ち上がってベッドの端に腰かけた。驚きすぎて、いまいち思考が追いついていないといった感じだ。「それで……あの、二人はどうしてここに?」


 ティカが、アンナの隣に座り、口を開く。


「最近のボクたちが、めちゃくちゃ気を使ってるってこと。分かってるよね?」


 レイモンドは内心で焦った。おい。そういうことは言うなって、紙片メモに書いただろ。視線だけで訴えるが、もちろんこれもティカに無視される。


 案の定、アンナの表情がくもった。


「ごめんなさい……わたくし……」

「謝って欲しいんじゃないんだよ。ボクたちが勝手にやってることなんだからさ」

「……うん」

「でも、良い対応じゃなかった」ティカは言外げんがいに、レイモンドの計画を切り捨てた。「君がこうやって、な泣いてるんだからさ。だから、ボクたちはここに来たんだよ……ねぇ、アンナ。君はどうしたいの?」


 沈黙が落ちた。


 レイモンドにとっては、痛いほどの沈黙だった。ティカにとってはどうだったのだろうか。少なくとも平然としていた。あるいは誠実に、アンナの答えを待っているようでもあった。


「わたくし……は……」アンナは顔をうつむけた。分厚い眼鏡が少しだけかたむく。「わたくし……どうしよう……分からないの……」

「そう」

「ルーさまのことがね、好きなのよ。それは本当なの。あのときだって、目を覚ましてくれるかどうか、不安で不安で、仕方なかったの……ううん、それだけじゃない。魔女の未練と戦ってるときだって、怪我けがをなさらないかどうか、心配してて……でも、なのに……」アンナは声を震わせた。「怖いって、思っちゃったの……首をめたのは、ルーさまの本心じゃないって分かってるのに……ううん、むしろ、わたくしが彼のことを、信じてあげなきゃいけないのに……息がね、上手にできなくて……どうして……」

「…………」

「大好きで、会いたいのに。会えなくて、ほっとしてる、の……もうやだ……わたくし……」


 ぐず、とアンナが鼻を鳴らした。ティカが身動みじろぎする。ハンカチでも出すのかと思ったが、違った。


 ティカが差し出したのは、ふた付きの化粧箱だ。手のひらに収まるくらいの大きさでしかない。濃紺色のうこんいろの箱に、白色のリボンがかけられている。


「とっておきのチョコレートだよ。あげる」

「とっておき……?」アンナがぼんやりと尋ねた。

「そうさ。最近人気なんだよ。媚薬びやく入りってことでね……ま、しょせん、うわさだろうけどさ」


 ティカは、ぽかんとするアンナの手に箱をのせた。真剣な表情で言う。


「これを食べて、ルーのところに行くんだ。今思ってること、感じてること、ぜんぶ正直に話したほうがいい。都合の悪いことは全部、チョコレートやボクたちのせいにしていいから」


 アンナは口を閉じた。迷うような沈黙のあと、ぽつりと言う。


「それで、もしもルーさまに嫌われちゃったら……?」

「その時はもう、飲むしかないね」


 ティカは、ふ、と笑みをうかべた。冗談めかしているが、どんな言葉よりも真摯で優しい笑顔だった。


「安心しなよ。ルーの不甲斐ふがいないところを、十個でも百個でも並べてやるからさ。美味しいものたくさん食べて、朝まで騒いで、すっきりしよ」

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