第10話 笑って

 雨の音で、ルーは目を覚ました。


 ビルツていの自室だ。ルーはベッドから半身を起こした。ベッドサイドに置かれたカンテラだけが、唯一の明かりだった。炎は頼りなく、ベッドから数歩歩けば、すぐそこに夜闇がある。


 そばに置かれた椅子には誰も座っていなかった。

 もしかして、君がそばにいてくれたのだろうか。


 一瞬でもそう期待した己の浅はかさを、ルーは嘲笑わらった。そう都合のいい話があるわけがない。そもそも、君は僕のそばにいるべきじゃない。


 金属のこすれる音がした。殺せという言葉が聞こえた。あの言葉は、けれど、単なる言葉ではない。命令だ。だから体が動いたのだ。そこに意思の介在する余地はない。〈王狼おうろう〉であるというのは、そういうことだ。どうしようもない。本当にそうなのか。


 どうしようもない、なんて。そんな言葉で片付けてしまう自分に、ますます腹が立つ。ルーは上がけを強く握りしめた。情けないとか、もどかしいとか、そんな生ぬるい言葉では、今の気持ちをとうてい言い表せない。


 僕は、アンナを殺そうとした。体は勝手に動くばかりで、見ていることしかできなかった。最悪だ。ほっとしたような嬉しそうな、そんな彼女の目が、おびえと悲しみに塗り替えられる。あの光景が消えない。冷たい真綿まわたのどにじわじわと詰め込まれていくような恐怖だった。


 笑わせてくれる。本当に怖かったのは、怯えていたのは、彼女のほうだ。僕じゃない。僕は。


 君を傷つけたくなんてない、のに。


「……どうして」


 この疑問でさえ、きっとアンナが言うべきもののはずだ。ルーは奥歯をみ、息を止める。


 僕は、僕を許せない。


 *****


 気を失ったルーを運んで、屋敷へ戻ってきた。その頃には日が暮れていて、夜もふける頃には雨が降り始めた。


 蝋燭ろうそくの明かりを頼りに、アンナは倉庫の戸棚を次々と開く。


怪我けがはないはず、よね」抽斗ひきだしへ包帯を戻しかけ、アンナは考え直した。「いいえ、万が一ということもあるから……なら、痛み止めの薬も持って……ううん、その前に着替えたいって思うんじゃない……? だったら、タオルと新しい服も、あっ」


 足元においていた籘籠がひっくり返った。薬瓶くすりびん、包帯、果物に本……とにかく思いつきで詰め込んだ物が地面に散らばり、アンナは立ちすくむ。


 わざとらしいくらいの独り言が途切れた。

 雨が屋根を叩くくぐもった音が大きくなる。

 夜の空気はひやりと湿っている。


 急に息苦しくなって、アンナは喉元のどもとを押さえた。


 凍りついた彼の目を思い出す。純粋な殺意が込められた、彼の眼差まなざしを。冷たい指先が沈みこむ感触は生々しく、どれだけ力をこめても、彼の手を引きがせない。


「あ、はは……」アンナはつっかえるように笑った。「大丈夫よ……大丈夫……もっと怖いことなんて、たくさんあったんだから……」


 そもそも怖いなんて。あるはずがないでしょう。

 あの時のルーさまの様子は、明らかにおかしかった。まるで冬の時みたいに……そう、それよ。理屈は分からないけれど、誰かに命令されたとか、そういうことなんじゃないかしら。


「とにかく、きっと事情があるのよ」静寂を遠ざけるために、アンナは明るい声で呟く。「だから、心配しなくていいの」


 笑顔でいることだわ。アンナは言い聞かせた。今、大変なのはルーさまなんだから。心配させるような顔をしちゃ駄目なのよ。


 よし、と気合をいれて、アンナは散らばった物を拾い集めた。膨らんだ籘籠を抱えて、倉庫を出る。


 廊下は暗い。雨が窓を叩く音が大きくなる。心が沈んでしまいそうになったので、アンナは自分の足音だけに集中した。


 階段をあがり、二階へ進む。廊下の端にある、ルーの部屋が見えた――そう思ったところで、扉が開く。


 アンナは足を止めた。廊下に細い光が差し、アルヴィムが部屋から出てくる。


「……先生」

「あぁ、君だったか」アルヴィムが後ろ手に扉を閉めた。廊下が再び暗くなる。「ルーが目を覚ましたよ。怪我けがもないし、いつもどおりだ」


 アンナは、体から力が抜けるのを感じた。よかった。心の底からそう思う。本当に、よかったのだわ。


「ただ、ね」アルヴィムがゆっくりと言った。「君には会いたくないそうだ」


 アンナは固まった。また、のどの奥が苦しくなって、でも少しだけ安心する。


 会いたくないと言われているのなら、会わなくていいんじゃない。

 だって、わたくしも、ルーさまに会うのが、怖い。


 ……ううん、違う。

 違うのだわ。


「そう、なの」アンナは、意識して明るい声で尋ねた。「理由を、教えてくださる?」

「君を傷つける可能性があると」

「まぁ。心配なさらなくても大丈夫なのに。傷ついてなんて、ないのだわ」

「本当にそうかい?」

「そうよ」首を閉められた時の、彼の指の冷たさを思い出した。アンナは慌てて、記憶を追い払う。「だって、ルーさまがわたくしを傷つけようとしたことなんて、ないのよ」

「本当に?」


 重ねて問われた。アルヴィムにしては厳しい声音だった。きっとそのせいだ。


 アンナは、返事に詰まった。

 アルヴィムがため息をつく。「ルーのあれは、鍵が原因だ」


 アンナは目を瞬かせる。いつもはへらへらと笑っているだけの白銀の青年は、静かにこちらを見つめている。アンナはふと、疑問に思った。


「先生は、どこまで知ってらっしゃるの」

「君が知っている限りのことは」アルヴィムは呼吸一つ分の沈黙のあと、付け足した。「俺は元々、〈王狼おうろう〉にいた人間だからね」


 アンナは口を閉じた。驚きがあった。けれどそれ以上に、納得した、という気持ちのほうが強い。どうりで、鍵のことを知っているはずだ。ルーの看病を買って出たのも、〈王狼おうろう〉の事情を知ってこそのことだろう。


 ルーさまも、きっと、気づいてらっしゃったのね。アンナは顔をうつむけた。なら、わたくしなんかより、先生のほうが安心するはずなのだわ。


 胸がちくりと痛む。たぶん、これは嫉妬しっとだ。なんて、心が狭い。

 駄目よ。笑って。

 笑ったほうがいい。


「……分かったのだわ」アンナはぎこちなく微笑んだ。「ルーさまに、よくお休みになって、って伝えて。それから、この籠も……色々と入ってるから」


 アルヴィムは籠を受け取り、うなずいた。


 アンナは足早に、その場を後にした。自分の部屋に飛び込む。そこで急に膝から力が抜けて、アンナはその場に座り込んだ。


 青のサマーワンピースが目にはいる。あぁ、今日のわたくしは、本当に浮かれていたのね。不意にそのことを自覚して、びたやいばなぐられたときみたいに、のどが痛くなる。


「笑って」


 アンナはぽつりと呟いて、膝を抱えた。涙は出なかった。

 自分にしては上出来だった。


 *****


アンナ嬢レディ・アンナは帰ったよ」


 椅子に座ったアルヴィムを横目で見やり、ルーは息をついた。自分から彼女を遠ざけたくせに、早くも後悔しているのだから救いようがない。


「……ありがとう、ございます。先代」

「構わないさ。それで? 気分はどうかな」

「特には」

「そう。怪我けがもないようでよかったね。手心てごころを加えてくれたディエンくんには、お礼を言うように」

「はい」


 会話が途切れた。アンナは大丈夫だったんですか、と問いかけて、ルーは言葉を飲み込む。


 傷つけた本人が、彼女の無事を聞くなんて、馬鹿げている。そんな資格があるはずがない。まして、会いたいと望むことだって。許されない。


かぎの音を聞いたと言ったね」


 アルヴィムに問われ、ルーはうなずいた。


 記憶している限りのことは、既に伝えてある。教会で戦った魔女の未練みれんのこと。黒い沼から現れた若い男。金属をこすりあわせたような鍵の音と、『殺せ』という言葉。


 アルヴィムは、難しい顔をする。彼が〈王狼おうろう〉のおさであったころに、よく見せていた表情だ。


「もしもそれが真実なら、何者かが鍵を持ち出して、悪用しているということになる」

「現在の所有者は、メレトスと記憶していますが」

アンナ嬢レディ・アンナの元婚約者だね」

「……元、ですか」ルーはまゆをひそめた。

「ダナン公が婚約破棄したそうだよ。育て親が婚約破棄というのもおかしな話だけど、あの人ならやりかねない」アルヴィムは肩をすくめた。「いずれにせよ、メレトスの屋敷の様子は一度見てこよう……あの男らしからぬやり方だけど、一番疑わしいのは間違いない」

「手間をかけさせて、申し訳ありません」

「なにを言ってるんだい。君と俺の仲だろう」


 アルヴィムが呆れたように笑った。やっぱり、懐かしい表情だった。ここに眠り猿エイル・グノンがいれば、ルーの頭を撫でてきたかもしれない。あるいは欺き蛙グルヌイユならば、下手くそな慰めの言葉を口にしたか。


 仲間のことを思い出し、ルーの胸が痛んだ。彼らは、自分が殺した。それでも〈王狼おうろう〉は、大切な家族そのものだった。


 彼らとのきずなを捨てたいと思ったことは、一度もない。

 けれど。


「先代」

「うん?」

「これは、どうにもならないものなんでしょうか」ルーは目を伏せて問いかけた。「命令されるだけで、誰かを傷つけてしまう……この体を、変えることはできないんでしょうか」


 視界の端で、アルヴィムが唇を引き結んだ。


 *****


「あれはなんなんですか」


 レイモンドは、強い口調でダグラスへ問いかけた。


 ダグラスの私室だった。既に日付は変わろうとしている。こんなに夜遅い訪問になったのは、ディエンたちの目をかいくぐる必要があったからだが、レイモンドとしてはもどかしくて仕方なかった。


 ルーの様子が急におかしくなった。きっかけはおそらく、若い男だ。そこまではいい。いいや、少しもよくはないが、今は重要じゃない。


「ルーが」小卓テーブルの上で、レイモンドは手を握った。「彼が、本気でアンナさんを殺そうとしてるとは思えない。なのに、あんな」


 紅茶を一口飲み、老いた男はため息をついた。卓の上で、カンテラの炎がゆらりと揺れる。


「それが〈王狼おうろう〉という生き物だよ、レイモンド君。狼は主人にそむかぬよう、鍵に縛られている。命じられれば、なんだってするのさ。だからこそ、信用できない」

「ですが」


 それは、ルーにとって、どうしようもないことだ。主人が悪の道にはしったとき、従者はそれに従うしかない。そういうことではないのか。諸々の批難ひなんを飲みこみ、レイモンドはうめくように尋ねた。「どうにかする方法はないんですか」


 ダグラスの表情が険しくなった。


「どうにかするつもりなのかね。君に、そこまでする義理が?」

「不正は正されるべきです」レイモンドはむきになってダグラスを見た。「俺は、ルーが悪であるとは思わない。彼を悪用する何かがある。それをあばくべきだし、彼をそこから解放する方法があるなら、そうすべきだ」

「義にあつい。私のようなおじさんからすれば、愚かしくも見えるがね」

「なんとでも。それで、どうなんです。方法はあるんですか」


 レイモンドは重ねて問いかけた。値踏みするような沈黙のあと、ダグラスが根負けしたように口を開く。


「方法は分からないが、アルヴィム・ハティに関するうわさなら、聞いたことがある」

「……たしか、彼も〈王狼おうろう〉の人間、でしたか」

「そうだ。あの男は初代〈王狼おうろう〉の長だったが、革命が始まった頃に任を解かれた――なんでも、〈王狼おうろう〉を操るための鍵が効かなくなったから、らしい」


 *****


「……方法はあるけど、おすすめはしない」


 ルーは、はっとしてアルヴィムを見やった。


「あるんですか? 方法が?」

「おすすめはしないと、俺は言ったよ」


 アルヴィムはきっぱりと言った。拒否にも近い声音は、本当に言いたくないのだろう。それを承知で、ルーはアルヴィムをじっと見つめる。


「教えてください」

「嫌と言ったら?」


 力ずくでも。ルーは、そう言おうとした。出来なかった。一体いつの間に。アルヴィムがルーの喉元のどもとに羽ペンの先を突きつけている。


 羽ペンであることに、意味はないだろう。アルヴィムの手元にあったのが、たまたまそれだったからだ。あるいは、彼の手元には偶然、武器がなかったから。


 黙り込んだルーを、アルヴィムは失笑した。羽ペンを下ろし、指先でもてあそぶ。


「勝てないよ。君じゃあ、俺にはね。そういう実力差が分からないほど、愚かな人間ではなかったと記憶しているけど」


 ルーはゆっくりとつばを飲み込んだ。


「……分かっています。そんなことは」

「でも、諦めきれないわけだ」

「はい」

「どうして?」

「傷つけたくないんです」ルーは迷わず言った。「アンナを、傷つけたくない。僕は、彼女のそばにいたい。それだけです」


 アルヴィムはしばらく何も言わなかった。考えは読めない。そもそもルーが、先代の考えを読めた試しは一度もない。それでも今回は、確信があった。


 アルヴィムはきっと教えてくれるだろう。そうでなければ、『方法がある』という回答をするはずがない。


 若葉色の目をふせ、アルヴィムはため息をついた。「たとえ、取り返しのつかないことになっても?」


 ルーはうなずいた。アルヴィムは一度ゆっくりと口を開け閉めする。


「鍵は、一種の暗示だ」アルヴィムは、ゆっくりと話し始めた。「〈王狼おうろう〉の人間は、鍵にいちばん大事な感情を預けている。だから、その感情を壊せば、鍵とのつながりは絶たれて、支配から抜け出せる」


 彼はそこで、重苦しく息を吐いた。


「でも、分かるだろう? 感情を壊すということは、君が、君であるための核を壊すのと同じようなものだ。たった一つとはいえ、ね。失った心は戻らない……だから、まるきり違う人間になることを覚悟すべきだ」


 *****


 翌朝の目覚めは最悪だった。


 そもそもほとんど眠れていない。だから目覚めという表現も適切じゃない。目をつぶって、どうすべきかを考えて、ルーの凍りついた眼差しを思い出して、それを消すためにもっと怖かった記憶を引っ張り出して、そんなふうに過去を消費する自分に嫌気がさして、じゃあ、改善するためにどうすべきなのかを考えた。その繰り返しだ。


 解決策は見つからなかった。

 寝不足の頭痛と、風邪をひく間際の肌寒さが残っただけだ。

 これじゃあ駄目だからと、鏡の前で何度か笑う練習をした。


 結果的には、それで正解だった。


「昨日の説明をさせてほしい」朝食の終わる頃、食堂ダイニングに現れたルーは、まずそう言った。「それから、君に謝罪を」


 ルーがアンナを見た。落ち着きをはらった態度だ。けれど一瞬だけ、彼の眼差しに不安が混じる。


 心配してくれているのだ。

 それが分かっただけで、アンナにとっては十分だった。


「大丈夫よ」椅子いすに座ったまま、アンナは明るい声で言った。普段の自分をなんとか思い出し、黒のワンピース――いつもの魔女の正装だ――のそでをまくって、腕に力を込めてみる。「ほら、とっても元気なのだわ」

「いや、そこで力こぶ見せるのはおかしいでしょ」


 ティカのつっこみは鋭いが、正直に言えば救われた。「あらあら、そうかしら」と、アンナはへらりと笑う。


 うん、そう。こんな感じよ。アンナは心のなかで、自分を励ました。いつもどおりなのだわ。


 ルーは何かを言いかけたようだ。けれど結局、唇を閉じてしまった。灰をまぶした炎色の目を伏せ、いささかの沈黙のあとに、「すまない」と呟く。


 気にしなくていいのに。


「昨日のことだが――」


 ルーはそうやって、話し始めた。

 驚いたことに、彼は〈王狼おうろう〉のことや、鍵のことも説明したのだった。それら抜きに、昨日の出来事を理解してもらうことは難しい、という判断なのだろう。何度かアルヴィムと視線をわしていたから、昨晩のうちに相談していたのかもしれない。


 ルーは教会で、若い男に襲われた。彼にとどめを刺す直前で、金属のこすれる音と、殺せという声を聞いた。金属の音は〈王狼おうろう〉の鍵の音に違いなく、したがってルーは命令されたのだ。だから、アンナを手にかけようとした。


 ボクたちを攻撃する可能性はあるわけ、とティカが問いかけた。

 鍵が使われない限りは、心配しなくていい、とルーは答えた。


 誰が鍵を使ったのかは分かっているのか、とディエンが問うた。

 分からないが、心当たりは探してみるつもりだよ、とアルヴィムが応じた。


 あとの反応はまちまちだ。レイモンドは眉間にしわを寄せていた。フラウは、「ティカちゃんが危なくないなら、なんだっていい」という返事だった。双子ふたごはそもそも、事情をよく理解していないらしい。パンケーキを無邪気につついている。


「思うんだがね」


 落ち着きをはらった叔父おじの声に、アンナははっとした。ダグラスは腕を組み、ルーのほうへ厳しい視線を投げつけている。


「君は、この屋敷から出ていくべきじゃないか? いくら命令されているとはいえ、愛しのお嬢さんマイ・レディを傷つける可能性があるのだから」


 アンナは血の気がひいた。ルーの表情もこわばっている。


「待ってください、ダナンこう」二人にわって、アルヴィムが反論した。「それはあまりにも短絡的でしょう。鍵さえなければ、ルーがアンナ嬢レディ・アンナを攻撃することもないんですから」

「ただの人間であれば、誰かを殺すことさえしないはずだ。ましてそれが、大切な人間であるなら、なおのことだ」

「〈王狼おうろう〉は、人間ではないと?」アルヴィムが顔を歪めた。

「人殺しのけだものだろう」ダグラスが平然と応じる。


 アンナはテーブルを叩いて立ち上がった。ダグラスと目があう。叔父はおそらく、アンナの反論も予期していたはずだ。それがわかったから、アンナはあえて笑ってみせた。


叔父様おじさまったら、心配性なんだから。大丈夫よ。わたくしはルーさまのことを信用しているもの」


 ダグラスが渋い顔をした。


お嬢さんレディ、しかしだね、」

「わたくしは、ルーさまのことが好きなの」


 アンナは強い口調で言って、ルーのほうへ近づいた。彼の瞳がおびえたように揺れて、胸がつきりと痛む。それを、けれど、アンナは無視した。ささいな痛みよりも、ルーと会えなくなるかもしれないという焦りのほうがずっと強かったからだ。


 ルーの胸元をつかんで、身を寄せる。口づけをしよう。好きな相手であるというなら、それくらいのことが出来て当然だ。そう思った。だからアンナは背伸びをした。そこで、バランスを崩した。


 後ろ向きに倒れる。


「っ、アンナ……!」


 慌てたような声とともに、ルーに手首を掴まれる。アンナは息をんだ。彼の指先は、ひやりとした温度だった。昨日と同じだ。首を絞められた時と。


 怖い。


「あ……っ……」


 不意に息がしづらくなって、アンナはのどを押さえる。ルーも気づいたようだ。表情がたちどころに凍りついた。


 彼は、アンナを手放した。顔をそむける。

 ごめん、という、小さな声が聞こえた。


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