第10話 笑って
雨の音で、ルーは目を覚ました。
ビルツ
そばに置かれた椅子には誰も座っていなかった。
もしかして、君がそばにいてくれたのだろうか。
一瞬でもそう期待した己の浅はかさを、ルーは
金属の
どうしようもない、なんて。そんな言葉で片付けてしまう自分に、ますます腹が立つ。ルーは上がけを強く握りしめた。情けないとか、もどかしいとか、そんな生ぬるい言葉では、今の気持ちをとうてい言い表せない。
僕は、アンナを殺そうとした。体は勝手に動くばかりで、見ていることしかできなかった。最悪だ。ほっとしたような嬉しそうな、そんな彼女の目が、
笑わせてくれる。本当に怖かったのは、怯えていたのは、彼女のほうだ。僕じゃない。僕は。
君を傷つけたくなんてない、のに。
「……どうして」
この疑問でさえ、きっとアンナが言うべきもののはずだ。ルーは奥歯を
僕は、僕を許せない。
*****
気を失ったルーを運んで、屋敷へ戻ってきた。その頃には日が暮れていて、夜もふける頃には雨が降り始めた。
「
足元においていた籘籠がひっくり返った。
わざとらしいくらいの独り言が途切れた。
雨が屋根を叩くくぐもった音が大きくなる。
夜の空気はひやりと湿っている。
急に息苦しくなって、アンナは
凍りついた彼の目を思い出す。純粋な殺意が込められた、彼の
「あ、はは……」アンナはつっかえるように笑った。「大丈夫よ……大丈夫……もっと怖いことなんて、たくさんあったんだから……」
そもそも怖いなんて。あるはずがないでしょう。
あの時のルーさまの様子は、明らかにおかしかった。まるで冬の時みたいに……そう、それよ。理屈は分からないけれど、誰かに命令されたとか、そういうことなんじゃないかしら。
「とにかく、きっと事情があるのよ」静寂を遠ざけるために、アンナは明るい声で呟く。「だから、心配しなくていいの」
笑顔でいることだわ。アンナは言い聞かせた。今、大変なのはルーさまなんだから。心配させるような顔をしちゃ駄目なのよ。
よし、と気合をいれて、アンナは散らばった物を拾い集めた。膨らんだ籘籠を抱えて、倉庫を出る。
廊下は暗い。雨が窓を叩く音が大きくなる。心が沈んでしまいそうになったので、アンナは自分の足音だけに集中した。
階段をあがり、二階へ進む。廊下の端にある、ルーの部屋が見えた――そう思ったところで、扉が開く。
アンナは足を止めた。廊下に細い光が差し、アルヴィムが部屋から出てくる。
「……先生」
「あぁ、君だったか」アルヴィムが後ろ手に扉を閉めた。廊下が再び暗くなる。「ルーが目を覚ましたよ。
アンナは、体から力が抜けるのを感じた。よかった。心の底からそう思う。本当に、よかったのだわ。
「ただ、ね」アルヴィムがゆっくりと言った。「君には会いたくないそうだ」
アンナは固まった。また、
会いたくないと言われているのなら、会わなくていいんじゃない。
だって、わたくしも、ルーさまに会うのが、怖い。
……ううん、違う。
違うのだわ。
「そう、なの」アンナは、意識して明るい声で尋ねた。「理由を、教えてくださる?」
「君を傷つける可能性があると」
「まぁ。心配なさらなくても大丈夫なのに。傷ついてなんて、ないのだわ」
「本当にそうかい?」
「そうよ」首を閉められた時の、彼の指の冷たさを思い出した。アンナは慌てて、記憶を追い払う。「だって、ルーさまがわたくしを傷つけようとしたことなんて、ないのよ」
「本当に?」
重ねて問われた。アルヴィムにしては厳しい声音だった。きっとそのせいだ。
アンナは、返事に詰まった。
アルヴィムがため息をつく。「ルーのあれは、鍵が原因だ」
アンナは目を瞬かせる。いつもはへらへらと笑っているだけの白銀の青年は、静かにこちらを見つめている。アンナはふと、疑問に思った。
「先生は、どこまで知ってらっしゃるの」
「君が知っている限りのことは」アルヴィムは呼吸一つ分の沈黙のあと、付け足した。「俺は元々、〈
アンナは口を閉じた。驚きがあった。けれどそれ以上に、納得した、という気持ちのほうが強い。どうりで、鍵のことを知っているはずだ。ルーの看病を買って出たのも、〈
ルーさまも、きっと、気づいてらっしゃったのね。アンナは顔をうつむけた。なら、わたくしなんかより、先生のほうが安心するはずなのだわ。
胸がちくりと痛む。たぶん、これは
駄目よ。笑って。
笑ったほうがいい。
「……分かったのだわ」アンナはぎこちなく微笑んだ。「ルーさまに、よくお休みになって、って伝えて。それから、この籠も……色々と入ってるから」
アルヴィムは籠を受け取り、うなずいた。
アンナは足早に、その場を後にした。自分の部屋に飛び込む。そこで急に膝から力が抜けて、アンナはその場に座り込んだ。
青のサマーワンピースが目にはいる。あぁ、今日のわたくしは、本当に浮かれていたのね。不意にそのことを自覚して、
「笑って」
アンナはぽつりと呟いて、膝を抱えた。涙は出なかった。
自分にしては上出来だった。
*****
「
椅子に座ったアルヴィムを横目で見やり、ルーは息をついた。自分から彼女を遠ざけたくせに、早くも後悔しているのだから救いようがない。
「……ありがとう、ございます。先代」
「構わないさ。それで? 気分はどうかな」
「特には」
「そう。
「はい」
会話が途切れた。アンナは大丈夫だったんですか、と問いかけて、ルーは言葉を飲み込む。
傷つけた本人が、彼女の無事を聞くなんて、馬鹿げている。そんな資格があるはずがない。まして、会いたいと望むことだって。許されない。
「
アルヴィムに問われ、ルーは
記憶している限りのことは、既に伝えてある。教会で戦った魔女の
アルヴィムは、難しい顔をする。彼が〈
「もしもそれが真実なら、何者かが鍵を持ち出して、悪用しているということになる」
「現在の所有者は、メレトスと記憶していますが」
「
「……元、ですか」ルーは
「ダナン公が婚約破棄したそうだよ。育て親が婚約破棄というのもおかしな話だけど、あの人ならやりかねない」アルヴィムは肩をすくめた。「いずれにせよ、メレトスの屋敷の様子は一度見てこよう……あの男らしからぬやり方だけど、一番疑わしいのは間違いない」
「手間をかけさせて、申し訳ありません」
「なにを言ってるんだい。君と俺の仲だろう」
アルヴィムが呆れたように笑った。やっぱり、懐かしい表情だった。ここに
仲間のことを思い出し、ルーの胸が痛んだ。彼らは、自分が殺した。それでも〈
彼らとの
けれど。
「先代」
「うん?」
「これは、どうにもならないものなんでしょうか」ルーは目を伏せて問いかけた。「命令されるだけで、誰かを傷つけてしまう……この体を、変えることはできないんでしょうか」
視界の端で、アルヴィムが唇を引き結んだ。
*****
「あれはなんなんですか」
レイモンドは、強い口調でダグラスへ問いかけた。
ダグラスの私室だった。既に日付は変わろうとしている。こんなに夜遅い訪問になったのは、ディエンたちの目をかいくぐる必要があったからだが、レイモンドとしてはもどかしくて仕方なかった。
ルーの様子が急におかしくなった。きっかけはおそらく、若い男だ。そこまではいい。いいや、少しもよくはないが、今は重要じゃない。
「ルーが」
紅茶を一口飲み、老いた男はため息をついた。卓の上で、カンテラの炎がゆらりと揺れる。
「それが〈
「ですが」
それは、ルーにとって、どうしようもないことだ。主人が悪の道にはしったとき、従者はそれに従うしかない。そういうことではないのか。諸々の
ダグラスの表情が険しくなった。
「どうにかするつもりなのかね。君に、そこまでする義理が?」
「不正は正されるべきです」レイモンドはむきになってダグラスを見た。「俺は、ルーが悪であるとは思わない。彼を悪用する何かがある。それを
「義に
「なんとでも。それで、どうなんです。方法はあるんですか」
レイモンドは重ねて問いかけた。値踏みするような沈黙のあと、ダグラスが根負けしたように口を開く。
「方法は分からないが、アルヴィム・ハティに関する
「……たしか、彼も〈
「そうだ。あの男は初代〈
*****
「……方法はあるけど、おすすめはしない」
ルーは、はっとしてアルヴィムを見やった。
「あるんですか? 方法が?」
「おすすめはしないと、俺は言ったよ」
アルヴィムはきっぱりと言った。拒否にも近い声音は、本当に言いたくないのだろう。それを承知で、ルーはアルヴィムをじっと見つめる。
「教えてください」
「嫌と言ったら?」
力ずくでも。ルーは、そう言おうとした。出来なかった。一体いつの間に。アルヴィムがルーの
羽ペンであることに、意味はないだろう。アルヴィムの手元にあったのが、たまたまそれだったからだ。あるいは、彼の手元には偶然、武器がなかったから。
黙り込んだルーを、アルヴィムは失笑した。羽ペンを下ろし、指先でもてあそぶ。
「勝てないよ。君じゃあ、俺にはね。そういう実力差が分からないほど、愚かな人間ではなかったと記憶しているけど」
ルーはゆっくりとつばを飲み込んだ。
「……分かっています。そんなことは」
「でも、諦めきれないわけだ」
「はい」
「どうして?」
「傷つけたくないんです」ルーは迷わず言った。「アンナを、傷つけたくない。僕は、彼女のそばにいたい。それだけです」
アルヴィムはしばらく何も言わなかった。考えは読めない。そもそもルーが、先代の考えを読めた試しは一度もない。それでも今回は、確信があった。
アルヴィムはきっと教えてくれるだろう。そうでなければ、『方法がある』という回答をするはずがない。
若葉色の目をふせ、アルヴィムはため息をついた。「たとえ、取り返しのつかないことになっても?」
ルーはうなずいた。アルヴィムは一度ゆっくりと口を開け閉めする。
「鍵は、一種の暗示だ」アルヴィムは、ゆっくりと話し始めた。「〈
彼はそこで、重苦しく息を吐いた。
「でも、分かるだろう? 感情を壊すということは、君が、君であるための核を壊すのと同じようなものだ。たった一つとはいえ、ね。失った心は戻らない……だから、まるきり違う人間になることを覚悟すべきだ」
*****
翌朝の目覚めは最悪だった。
そもそもほとんど眠れていない。だから目覚めという表現も適切じゃない。目をつぶって、どうすべきかを考えて、ルーの凍りついた眼差しを思い出して、それを消すためにもっと怖かった記憶を引っ張り出して、そんなふうに過去を消費する自分に嫌気がさして、じゃあ、改善するためにどうすべきなのかを考えた。その繰り返しだ。
解決策は見つからなかった。
寝不足の頭痛と、風邪をひく間際の肌寒さが残っただけだ。
これじゃあ駄目だからと、鏡の前で何度か笑う練習をした。
結果的には、それで正解だった。
「昨日の説明をさせてほしい」朝食の終わる頃、
ルーがアンナを見た。落ち着きをはらった態度だ。けれど一瞬だけ、彼の眼差しに不安が混じる。
心配してくれているのだ。
それが分かっただけで、アンナにとっては十分だった。
「大丈夫よ」
「いや、そこで力こぶ見せるのはおかしいでしょ」
ティカのつっこみは鋭いが、正直に言えば救われた。「あらあら、そうかしら」と、アンナはへらりと笑う。
うん、そう。こんな感じよ。アンナは心のなかで、自分を励ました。いつもどおりなのだわ。
ルーは何かを言いかけたようだ。けれど結局、唇を閉じてしまった。灰をまぶした炎色の目を伏せ、いささかの沈黙のあとに、「すまない」と呟く。
気にしなくていいのに。
「昨日のことだが――」
ルーはそうやって、話し始めた。
驚いたことに、彼は〈
ルーは教会で、若い男に襲われた。彼にとどめを刺す直前で、金属のこすれる音と、殺せという声を聞いた。金属の音は〈
ボクたちを攻撃する可能性はあるわけ、とティカが問いかけた。
鍵が使われない限りは、心配しなくていい、とルーは答えた。
誰が鍵を使ったのかは分かっているのか、とディエンが問うた。
分からないが、心当たりは探してみるつもりだよ、とアルヴィムが応じた。
あとの反応はまちまちだ。レイモンドは眉間に
「思うんだがね」
落ち着きをはらった
「君は、この屋敷から出ていくべきじゃないか? いくら命令されているとはいえ、
アンナは血の気がひいた。ルーの表情もこわばっている。
「待ってください、ダナン
「ただの人間であれば、誰かを殺すことさえしないはずだ。ましてそれが、大切な人間であるなら、なおのことだ」
「〈
「人殺しの
アンナはテーブルを叩いて立ち上がった。ダグラスと目があう。叔父はおそらく、アンナの反論も予期していたはずだ。それがわかったから、アンナはあえて笑ってみせた。
「
ダグラスが渋い顔をした。
「
「わたくしは、ルーさまのことが好きなの」
アンナは強い口調で言って、ルーのほうへ近づいた。彼の瞳が
ルーの胸元をつかんで、身を寄せる。口づけをしよう。好きな相手であるというなら、それくらいのことが出来て当然だ。そう思った。だからアンナは背伸びをした。そこで、バランスを崩した。
後ろ向きに倒れる。
「っ、アンナ……!」
慌てたような声とともに、ルーに手首を掴まれる。アンナは息を
怖い。
「あ……っ……」
不意に息がしづらくなって、アンナは
彼は、アンナを手放した。顔をそむける。
ごめん、という、小さな声が聞こえた。
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