第9話 どうして

 教会にたどり着き、扉を開く。あとは、ルーとレイモンドが、元の世界で大蛙オオガエルの動きを止めてくれればいい。


 なんて。


「ふむ。そう簡単に行くはずもないか」若い男をかついだディエンが、頭を下げて小蛙コガエルの群れを避ける。

「のんきに感想言ってる場合じゃないでしょ!?」ティカが半泣きになりながら振り回したウサギの人形の顔面に、カエルがぺちりとぶつかった。「あぁもう最悪! この感触! やだ! もう帰るっ!!」

「なるほど、カエルだけに」

「ディエンさん!」アンナは思わず叱責しっせきした。「そういういの手もいらないからっ、ひゃっ!」


 カエルが三匹飛んできて、アンナは慌てて柱の影に隠れた。なんというか、なかなか嫌な音がしたような気がするが、確認したくない。


 そもそも、教会にたどり着くまでも、それなりの数のカエルの群れに出くわしたのだ。炎天下のなか、なんとか逃げ切った自分たちはめられるべきで……教会のなかでカエルに待ちぶせされているなんて、考える余裕はなかったし、それくらいの見落としは許してもらいたいというか。


「みえっ!」


 さらに教会の奥へ進もうとしたところで、アンナは外套がいとうを引っ張られた。目の前に黒っぽいかたまりがぼたっと落ちて顔を青くする。


「なかなか、可愛らしい悲鳴だったな」外套がいとうすそを離し、ディエンが面白がるように肩をすくめてみせる。

「っ、か、からかわないでくださる……!?」アンナは赤面して、ディエンをにらんだ。「お礼は言うけれどっ……ありがとう……っ!」

「どういたしまして」


 例の、治安の悪そうな笑顔を浮かべられた。まったく、何も面白くないのだわ。アンナは唇を曲げ、息をく。


「というか、男の人はどうなさったの?」

「ティカに預けてきた」なにやら悪態あくたいをついているティカをあごで示し、ディエンが言った。「これと交換でな」


 禿頭とくとうの大男がぶら下げてみせたのは、紫水晶色アメジスト薔薇十字ロザリオだ。


 なるほど、魔女の未練みれん薔薇十字ロザリオかれてくるわけだから。アンナは思わず納得しかけ……あることに気づいて、顔をひきつらせた。


「……それって、わたくしたちのほうに、カエルさんたちが来るってことね……?」

「御名答」ディエンが楽しげに目を細めた。「ケロちゃんたちを存分にぶっつぶせるというわけだ」

「っ、そういうのはいらないのだわっ……!」


 というか、ケロちゃんって、そんな可愛かわいらしいものでもないでしょうに! と言うひまだってない。


 げこ、という小蛙コガエルの群れの合唱を合図に、アンナとディエンは再び走り始めた。


 教会は、入り口から続く長い側廊そくろうと、奥に祭壇さいだんを備えた構造をしている。規模は大きく、壁面や柱をかざる白の彫像や装飾も見事だ。けれど、床には長椅子ながいす残骸ざんがいが散らばっているし、祭壇さいだん近くの屋根は破けて陽光が差し込んでいた。おそらくは三年前の革命で破壊され、修理の手が入らずそのまま、ということなのだろう。


 いずれにせよ、隠れる場所はほとんどない。祭壇さいだんの裏手には、露台バルコニーが見えるから、二階に通じる階段があるのかもしれないが。


 登ったって、追い詰められるだけでしょうし……っ。息を切らしながら弱気になったところで、アンナはディエンがうずうずとこぶしを震わせていることに気づき、泣きたくなった。


 潰すつもりなのかしら。

 駄目よ。そんなの、絶対に夢見が悪くなるのだわ……っ。


 からからののどで空気を吸い込んだところで、アンナの足がもつれる。


「っ、」


 なんとか倒れずに踏みとどまったが、瓶底眼鏡びんぞこめがねがずれた。アンナは慌てて眼鏡の縁を押さえたが、視界に小蛙コガエルが一匹飛び込んできて。


 目があった。

 そう思った次の瞬間には、小蛙コガエルの姿が


 アンナは息をのむ。どうして? 単純な問いかけには、同じくらい単純な答えが返ってきた。


 もしかして、カエルさんたちも魔女の力と同じなんじゃないかしら。

 だから、わたくしの目で殺せたとか?


 ……そのためには、ちゃんと蛙さんを見ないといけないわけだけれど。早速浮かんだ懸念事項を、アンナはなんとか無視した。勇気を出すのよ。がんばって。今日の夢見が心配だけれど。何よりもう、今から泣きそうだけれど……っ!


「ディエンさん!」


 ディエンは、壁からはいだタペストリーで小蛙コガエルの群れをなぎはらった。アンナの呼びかけに振り返った男は、ひょいと両眉を上げる。


「さすがはアンナ嬢レディ・アンナ。そのぶんだと、名案を思いついたようだ」


 *****


 右、左、右、右、それから下。大蛙オオガエル鉤爪かぎづめをすべて短剣でさばききって、ルーは素早く体の重心を移動させる。蛙の巨大な腹はがら空きで、そこにりをいれた。


 荒れ果てた教会中に、げっ、という低い鳴き声が響く。大蛙オオガエルの体は、後ろ向きに吹っ飛んだ。けれど黒の粘液は吐き出されない。


 大蛙は、ほおをやけに膨らませていた。意地でも粘液を出さないつもりらしい。ルーたちを嘲笑あざわらっているようにさえ見える。


 腹の立つ顔だ。ルーはを描くように大蛙との距離を詰めながら、冷めた心地で吐き捨てる。それでもそう、さっきよりはよほど冷静だった。


 アンナの無事が分かったうえで、彼女の姿がここにないからだ。気が散る理由がどこにもない。


 これが彼女を助けるために必要なことであるというのなら、なおのことだ。


 ルーは走りながら、短剣を構えた。右足で、強く地面を踏み込む。大蛙オオガエル祭壇さいだんに追い詰められた。なれど、れた目にはあなどりの光がある。


 黒の体毛で覆われた後ろあしが、ふくらむ。跳躍ちょうやくする気なのだろう。これまでどおりに。


 あるいは、ルーたちの目論見もくろみどおりに。


閃光ダリム金剛砂インタン祝福ディーヤ』後方から、レイモンドの声が高らかに響いた。『めいを示せ、炎炉フォルナクス!』


 ルーは目を閉じた。ばちん、と空気がぜる音がして、まぶたの裏にも分かるほどの白光びゃっこうが散る。


 大蛙オオガエルの哀れっぽい鳴き声。それを聞いたときにはもう、ルーは地面をっている。目を開けた。巨体を震わせる標的を視界におさめる。


 ごく短い距離だが、ルーは石造いしづくりの壁をななめに走り、大蛙オオガエルめがけて飛び降りた。


 巨体が揺れた。視界の外からの衝撃しょうげきに、魔女の未練は驚いたらしい。ルーは暴れる大蛙オオガエルの首に腕を回し、あらかじめつかんでおいた小瓶こびんを指先で砕く。


 レイモンドから教えられたとおりに、ルーは呟いた。


四天の白翁Es werde Licht.


 びんのなかに閉じ込められていた神鍵クラヴィスが空気に触れ、淡く輝く金の鎖を生む。


 細い鎖は大蛙オオガエルの首に強く巻きついた。げばっ、という湿った声とともに、蛙の口から粘液が吐き出される。少し大きな水たまり程度の量だが、十分だ。


 ルーは短剣を逆手に持って、大蛙オオガエル上顎うわあごに突き刺した。不快な鳴き声がむ。大蛙オオガエルがぎょろりと不自然に目を動かした。


 刺されたにも関わらず、あざ笑うように大蛙オオガエルの目が光る。短剣を突き立てた傷口から、血が流れ出ようとしていたからだ。


 それは黒いもやだ。薔薇十字ロザリオに染みついた魔女の力ののこかすで、武器になる。


 レイモンドは、そうやってルーに説明した。

 だから自分たちは、対策をたてたのだ。


「傷つけたな、とでも言いたいのか」ルーは冷ややかに笑った。「愚かだな。血を流すなと言われているんだ。僕が不用意に刃物を使うわけがないだろう?」


『――めいを示せ、時追機フォロジウム


 レイモンドの声が響き、短剣のやいばに青の燐光りんこうともる。


 がちん、と歯車がきしんで、悲鳴をあげるような音がした。


 大蛙オオガエルが動きを止める。傷口からあふれそうになったもやも、それ以上広がらない。より正確にいえば、まるで止まったかのように錯覚するほど、極端に動きが鈍くなったのだ。そこだけ、時間の流れが遅くなったように。


 床の上で、大蛙オオガエルの吐き出した黒い沼に、ゆらりと水紋すいもんがたった。


祭壇さいだんの近く、西側の床! 日が当たっているところだ!」レイモンドがはとを通じて、アンナたちを急かす。「早く! 入り口は長くたないぞ!」


 *****


 ティカがはとにむかって怒鳴どなり返した。


「あぁもう、わかってるけどっ! そういうのは、このカエルの山を見てから言えっての……っ!」

「ティカさん、頭を下げて!」


 もうやだっ! と文句を言いながらも、ティカは隣を走る若い男の腕を強く引いて、その場にうずくまってくれた。


 アンナは眼鏡めがねを外し、ティカたちの背後からせまっていた小蛙コガエルの群れを視界におさめる。数にして十数匹の群れは、アンナが見るなり一瞬にして姿を消した。


 派手な音も光もない、地味な作業だ。

 それでもなんとか、祭壇さいだんへ続く道ができ、ティカたちが再び駆け出す。


 アンナは眼鏡をかけなおし、周囲をさっと見回した。


 アンナたちは、一足先に祭壇さいだんまで辿り着いていた。すぐそばにいるディエンは、ちぎれたまくやら、壊れた長椅子ながいすあしやらを武器にして、小蛙コガエルからアンナを守ってくれている。


 黒い水たまりは足元にあった。ティカたちと合流できさえすれば、すぐにでも飛び込むことができる距離だ。


 順調。

 そのはずなのに、アンナのなかで何かが引っかかる。


 カエルさんの数が減ってないせいかしら。ティカたちのために、別の群れを消しながら、アンナは考える。そのとおりかもしれない。教会の白い壁にも、床板にも、いまだあちこちで黒の群れがうごめている。


 アンナが見れば、小蛙コガエルたちは消える。けれど、少々消したくらいでは何の影響もないくらいに、数が多い。あるいは減った分だけ増えているのか。とにかく、すべてを消しきるのは到底無理だ。


 でも……いいえ、違うわ。気になるのは、そこじゃない。アンナは眼鏡のふちを指で触った。色々なことが、少しずつ、普段と違うのよ。だから引っかかってるの。


 本来であれば、アンナの目は魔女に対しての効力しか持たないはずだ。目と目をあわせれば、魔女の罪を暴いて彼ら彼女らを狂い殺す。魔女の力によって生み出されたものを見れば、それを消すことができる。たとえば、冬の屋敷で、狩人かりうど猟銃りょうじゅうだけを消すことができたように。


 ならばどうして、小蛙コガエルたちにアンナの目が有効なのか。


 カエルが魔女の未練の一部だから? たしかに、未練の体の中には薔薇十字ロザリオが埋め込まれていて……だから魔女と似たような力になる。そういう仮説は筋が通るような気もする。でも、そうではなくて。


 魔女を殺すときに見えるはずの罪の名前が、見えないのだ。そのことに気づくと同時に、アンナの背中にひやりと冷たいものが走った。


 魔女の未練には罪の名前が存在しないから。単純に、それだけの理由であればいい。


 けれどもしも、魔女の未練にも罪の名前があるとしたら? 小蛙コガエルたちのすべてがおとりで、罪の名前を持つ本体が別にいる。その可能性はないか。大蛙オオガエルすらも陽動である。そういう仮説だって、成立するのではないか。


 だって、魔女の未練は薔薇十字ロザリオを求めているのだから。


 ティカが辿り着いた。その後ろで、配達員の男が顔をあげた。アンナは己の迂闊うかつさをのろう。


 今まで、どうして気づかなかったのだろう。

 若い男の目は、深く、底のしれない泥沼のように濁っている。


 アンナはティカを突き飛ばし、素早く眼鏡をはずした。


 教会中に響き渡っているはずのカエルの鳴き声も、ティカたちの焦ったような声も、なにもかもが一気に遠ざかる。ここまではいつも通りだった。


 いつもならはっきりと見えるはずの罪の過去は、しかし、全く見えない。

 真っ暗だ。

 まるで、本のページをインクで真っ黒に染めたように。


 そうであるのに、罪の名前だけはアンナの脳裏にはっきりと浮かぶ。


『――欺き蛙グルヌイユ


 薄気味悪さを覚えながらも、アンナがぽつりとつぶやく。


 配達員の男の口角が、つり上がるのが見えた。


 *****


「な、んっ……!」


 突然のことに、レイモンドは言葉を詰まらせてしまった。


 黒い水たまりが大きく波打った。何かが飛び出した。何かじゃない、黒いもやをまとった男だ。


 若い男。

 自分たちが助けた配達員。


 彼はまるでえた獣のように、ルーに飛びかかった。オオカミのようなうなり声をあげていたから、実際のところ、獣同然だったかもしれない。いずれにせよ、大蛙オオガエルの頭は、足場が悪い。ルーはとっさに引き抜いた短剣で攻撃を受けたが、若い男の勢いに押されて、祭壇さいだんの裏手に向かって落ちる。


 大蛙オオガエルの巨体が震えた。時追機フォロジウムの効力が解ける。短剣の傷口から、ぼこりと黒いもやがせり上がる。嘔吐おうとする寸前のような不吉な低い音が、大蛙の喉元から漏れる。


四天の白翁Es werde Licht.


 ディエンの低い声に、レイモンドは我に返った。


 いつものとおりに、ちぎれた人形の四肢という教育上よろしくない触媒しょくばいが投げ込まれ、それは一瞬にして淡く光る金の鎖となり、大蛙の動きを封じる。


 そうだ。まずは魔女の未練を消滅させることだ。レイモンドは、神鍵クラヴィスのはいった小瓶こびんを掴んだ。若い男の襲撃くらい、ルーなら何とかできるだろう。


 ルー・アージェントは〈王狼おうろう〉という組織に所属していた人間だ。脈絡なく、ダグラスの言葉がよみがえった。なんで今。関係ないだろ。


 集中しろ。油断するな。レイモンドは己を叱りつけて、神鍵クラヴィスを放つ。


塵芥に帰せZertreten dir den Kopf.


 小瓶が割れ、神鍵クラヴィス大蛙オオガエルに降りかかった。液体は金の炎に転じ、黒毛に覆われた巨体を燃やす。


 レイモンドはすぐさま、ルーのほうへ向かった。加勢は必要ない。そのはずだったし、実際そうだった。


 陽の光が届かぬ薄暗い地面で、ルーが若い男に馬乗りになっている。暴れる男の体を、片手で器用に押さえているのは流石さすがとしか言いようがない。少なくともレイモンドには無理な芸当だ。人間の構造を理解して、戦ったことがある。知識と経験がそろっていなければ、実戦で使えるはずもない。


 ルーはためらいなく短剣を振りかざした。若い男の体のあちこちから、黒いもやれている。襲撃者が人間ではないのは明らかだ。だからこそルーは迷わなかったのだろう。


 ルーがやいばを振り下ろす。その最中で、レイモンドは二つの音を聞く。


 一つは、金属のこすれるような、かすかな音。

 そしてもう一つは、若い男がささやき声。


『殺せ』


 短剣が、若い男の胸に突き立った。その体は一度大きくはね、次の瞬間には黒いもやが吹き出した。レイモンドは一瞬だけ慌てたが、なんのことはない。すぐにもやは消えてしまう。


 短剣が、乾いた音をたてて地面に落ちた。


 ルーはしかし、微動だにしない。背を向けたまま、地面に座り込んでいる。彼の周りの空気は奇妙なまでに静かで、冷たかった。


 まるで、冬の夜のように。


「……ルーさま……?」


 不安そうな声が聞こえて、レイモンドは振り返った。アンナだった。柱のかげから、そろりと顔をのぞかせている。無事に、戻ってこられたのだろう。レイモンドは安堵あんどした。


 ルーが、ふらりと立ち上がった。アンナに近づき、なんの躊躇ためらいもなく、彼女の喉元のどもとを右手でつかむ。


 空気が凍りついた。


「っ、は……?」


 レイモンドは呆然ぼうぜんとする。アンナも目を見開いていたが、すぐに苦しげな表情に変わった。当然だ。だって、首を絞められている。


 誰に? ルーにだ。待てよ。待て。なんでなんだ?


 ルーの指先が、アンナののどに深く沈む。彼の横顔は美しく、けれどおよそ、人間らしい感情がない。ただ、純粋な殺意だけがあった。


 本気なのだ。本気で、アンナを殺そうとしている。レイモンドは動けなかった。情けないことに、おびえたのだ。けれど、は違った。


 駆け寄ってきたディエンが、ルーの首裏くびうら手刀しゅとうを打つ。


 凍てつくほどの殺気がゆるんだ。夜明け色の髪を持つ青年の体がかたむく。その手が、アンナからすべり落ちる。


 ルーが地面に倒れ込んだ。アンナも首元を押さえ、地面に座り込む。近づいてきたティカが話しかけたが、アンナの反応はかんばしくない。荒い呼吸のまま、泣き出しそうな顔で呟く。


「……どうして……ルーさま……こんな……まるで冬みたいな……」


 ルー・アージェントは〈王狼おうろう〉という組織に所属していた人間だ。立ち尽くすレイモンドの耳に、再びダグラスの言葉が蘇った。国王の直属で、かぎを使って命じられれば、どんな仕事であろうと確実にこなす。




 彼らが最後に受けた命令は、国王に反意を示したアンナ・ビルツを殺すことだった。

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