第7話 これくらいの想定外なら、対処できる
店の外からの悲鳴を聞きつけ、ルーはまっさきに店を飛び出した。
先の革命で戦火を免れた路地は、
その中央に、いた。巨体を
ぎょろぎょろと動く濁った黒の目といい、体型だけは
後ろから、アンナの焦ったような声が飛んでくる。
「人がいるのだわ!」
短剣を一度つかみそこねたのは、さっきの彼女の姿が脳裏をよぎったからだ。色とりどりの服を着てみせたアンナは、可愛かったし、美しかったし、思わず手をつかんで、引き止めたいほどで。
集中しろ。ルーは舌打ちして、
そういえば、アンナはちゃんと
「っ、くそったれ」
ルーは、男と
短剣を
風船に水をいっぱいに詰め込んだような、湿って鈍い嫌な感触だ。されども
ルーは振り返った。アンナが、頭からすっぽりと
「あの、ルーさま」アンナが遠慮がちに言った。「今日はなんだか、ずいぶんと乱暴ね……?」
「いつもどおりだ」果たして、この返事がいつもどおりかどうか。違う、これも余計な感想だ。「その服でいいと思う。僕は」
視線だけで
レイモンドが咳払いした。アンナがはっとしたように体を震わせ、獣に襲われた男の近くで身をかがめる。真剣な顔つきで彼の様子を確認した後、ティカとディエンに声をかけた。「手伝ってくださる? 彼をここから移動させましょう」
「魔女の
横から声をかけられ、ルーは
「ただ、アンナさんの言うとおり雑だ。
「……分かっている」ルーは素っ気なく返した。
「あぁそう。それは何よりだ」
レイモンドが半分疑いの目で返事をしたところで、再び魔女の未練の妙な鳴き声が響いた。
粘着質な
魔女の未練は鈍重だが、柔らかすぎる。ルーは、先よりもいくぶん冷静に
レイモンドが怒鳴った。
「血を流させるな! 魔女の力が漏れるぞ!」
ルーは舌打ちのかわりに地面を蹴った。
先ほどとは違う、
『
ルーが退くと同時に、ディエンの声が響いた。それは魔女の罪の名前に違いなく、この場で呼ばれうるとすればただ一人しかいない。
『
野太い鳴き声とともに、真っ黒な粘液が辺りに
されど、
「っ、ルーさま……!」
振り返ったルーは、顔をこわばらせた。アンナの足元が大きな黒い沼地に変わり、若い男やディエン、それにティカもろとも地面へ飲み込もうとしている。
魔女の未練は、
ルーはアンナのほうへ駆け寄った。伸ばされたアンナの指先を
彼女の姿を飲み込んだ沼は、呼吸一つの間もおかずに、
*****
真っ黒な沼に飲み込まれた。肌をじっとりと
まるで、何もなかったみたいだわ。目を覚ましたアンナは、途方に暮れて周囲を見回した。
夏の日差しに照らされた
本物の世界に似せた作り物。
それとも、これ自体が幻という可能性もある?
「ひゃっ……!?」
突然後ろから抱きつかれて、アンナは飛び上がった。ティカだ。彼女はアンナの
「はぁぁぁ……よかった……」いつになく安心した声で、ティカが言う。「服が汚れてたり破れてたりしたら、どうしようかと……」
「まぁ」アンナは思わず笑ってしまった。「こんな時なのに、服の心配なんて」
「するでしょ。当然じゃんか。あのエインズワース
「それは、ね……」
もちろんなのだわ。でも、ルーさまは好きじゃなかったみたい。
そのためにも、なんとかして、この状況から脱出しなくちゃ。
少し離れた場所にいたディエンに、手招きされた。家屋の壁にもたれた若い男は、配達員のようだ。気を失ってこそいないものの、何を話しかけても言葉を返さない。
「心ここにあらずって感じ?」ティカが男の
「それを言うなら、
「もう、面白がらないでちょうだい」アンナは二人を
ディエンが両腕を組んだ。誰よりも早く目を覚ました男は、周囲を一通り確認し終えていたようだ。
「今のところは、何もないな。ここには」
「思ったんだけど、ボクたち以外に人間とかっている? 猫とか犬とか、生き物でもいいんだけど」ティカが尋ねる。
「いない」ディエンは明確に否定したあと、
「わ、ちょっと押しつけないでよ……! そういうのはいらないからっ!」
ティカの迷惑そうな声に少しだけ笑ってから、アンナはディエンに尋ねた。
「この場所は、魔女の未練が原因だと思う?」
「そうだろうな」
ディエンは
ティカが、
「ただ、この手の能力については経験がない。
「そう」アンナは目を伏せて考えた。つま先で地面を叩き、たしかな感触を確認する。「
アンナはふと顔を上げた。ディエンの物言いたげな表情に、ぱちりと目を瞬かせる。
「どうかなさった?」
「ふむ」ディエンは
「……わたくしたちは、
「もちろん、あなたが正しいとも。だが、男の中には、か弱い姫が好きなやつもいるからな」
え、嘘。
「安心するといい」ディエンは、さりげなくアンナの手を取った。「俺は強い女のほうが好きだ」
指先だけをすくう仕草は思いのほか
アンナは唇の裏を噛む。ディエンは本気なのだろうが、どうにも、からかわれているような気がしてならない。
「わたくしは、あなたのことが好きではないわ」ディエンの手を失礼のない程度にそっけなく払って、アンナは言う。「だって、ヴィナさんとニケさんを上手く使おうとしているし」
「おや、バレていたか。なかなか、いい作戦だと思ったんだが」
「それに……」アンナは少し迷ってから付け足した。「あなたが見ているのは、わたくし以外の誰かのような気がするもの」
ディエンが目を細めた。
「面白いことを言う。今も昔も、俺は
「……わたくしは強くないし、あなたを従える気だってない」
「アンナ・ビルツが、何をおっしゃる」
含みのある言葉に、アンナは唇をとがらせた。ディエンの余裕の態度は
「そう機嫌を
「別に、今でも十分に頼りにしているのだわ。あなたとティカさんのこと、」
「そうではなく、外の人間のほうだ」
「ルーさまたちは忙しいと、わたくしは言ったわよね。ディエン」アンナはぎゅっと眉をひそめた。
「レイモンドのほうは、そうでもない」ディエンはなぜか自信ありげに返した。「これくらいの想定外なら、対処できる。ほら」
ディエンが空へ右手を
アンナは目を丸くする。ディエンの手に舞い降りたのは、一羽の
『……やっと見つけたぞ、ディエン』
神経質な声音は、レイモンドのものだ。どういう
ディエンが軽い口調で応じる。
「時間が、かかったな。お前なら、すぐに何とかしてくれると思っていたが」
『……はぁ?』レイモンドが不機嫌に言った。『こっちは、逃げた魔女の未練も探しながらなんだぞ? そもそも、お前がそばにいたんなら、こんなことにだって、』
『そこに、アンナはいるのか』感情を抑えた声が割り込んできた。
ルーさまだわ。アンナは、ぱっと顔を輝かせた。ディエンの腕へすがるようにして、
「いるのだわ! あとはティカさんと、男の人も……えっと、誰も怪我はしていなくて……!」
『そうか』ルーの表情が、少しだけ緩んだような気がした。『君が無事なら、よかった』
ぽっと胸のあたりが暖かくなった気がして、アンナは肩の力を抜く。
「ルーさまは、大丈夫? 怪我とか、なさってない?」
『あの程度の敵に、僕がおくれをとる訳がない』
「うん……っ。そうね、そうなのだわ……っ」
『あー……っと、そういうのは
我に返って、アンナは口を閉じる。ディエンの面白がるような視線が注がれて、首をすくめた。
だって仕方ないじゃない。ルーさまとお話できたんだもの……。心のなかで少しだけ
『結論から言うと』レイモンドが言った。『君たちが今いる場所と、こっちの世界で
「げ」
『げ?』
ティカが呟いた言葉を、レイモンドがそっくりそのまま復唱した。
それにしたって、普段のティカらしからぬ声だ。しかも、こちらを振り返る彼女の動きもぎこちない。顔色が良くないというか、見たくないものを見たというか。
アンナはそろりと尋ねた。
「どうかなさったの……?」
「あれ」指で通りの向こうをさしたティカは、ひきつった顔で言った。「ボク、しばらく
いいや、点というよりは丸だ。
もっと正確に言うならば、
アンナたちは一斉に回れ右して逃げ出した。飛び立った
『どうしたんだよ!? そっちの状況は!?』レイモンドが焦ったように言う。
「
「魔女の未練の狙いは、
「なら、二手に分かれるのはどうかしら……っ!?」アンナは
『……あぁもう、分かってるよ! ルー!』レイモンドが苛々した声を出す。『アンナさんを一人にすべきじゃない! ディエン、お前もついてくれ! ティカは男の人をつれて、今から俺が言う場所に向かって、』
「無理っ!」ティカが
『無理!? なんで!?』
「だって、ボクも
はぁ!? と叫んだのはレイモンドだったが、ティカ以外の全員が同じ気持ちだったはずだ。
黒髪の少女は、胸元に手を突っ込んで
「嘘……」アンナは思わず尋ねた。「どういうことなの、ティカさん。
「前に、魔女の未練に襲われた時っ! リネン室で見つけたのっ! 洗濯物の間に挟まっててっ!」ティカは、息を切らしながら返事をした。「っていうか、ボクだって相談しようとしたってば! なのにアンナの恋の相談になっちゃったからっ!」
「な……っ! あっ、あのときは、ティカさんだって乗り気だったでしょう……っ!?」
アンナが思わず反論したところで、びたんっ、という粘着質な
アンナたちは、ほとんど前に転がるような形で、
げばげばっという奇妙な鳴き声で、小蛙たちが歌う。アンナとティカが顔をひきつらせるなか、ディエンが「ふむ」と普段通りの声音で言った。
「とりあえず、逃げるのが先決だな」
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