第7話 これくらいの想定外なら、対処できる

 店の外からの悲鳴を聞きつけ、ルーはまっさきに店を飛び出した。


 先の革命で戦火を免れた路地は、石畳いしだたみにおおわれ、三階建ての飾り窓付き家屋テラスハウスが整然と両脇に並んでいる。良く言えば閑静かんせい、幸運なことに人通りの少ない場所だ。


 その中央に、いた。巨体をくずすように、一匹の獣が座り込んでいる。そのあたりの荷馬車よりも、ずっと大きな体だった。口から突き出した黄ばんだきばと、夏の陽光を浴びて、ぬらりと輝く黒ずんだ体毛。足は妙な形にねじ曲がっていて、腹は水風船のように大きく膨らんでいる。


 ぎょろぎょろと動く濁った黒の目といい、体型だけはカエルそのものだ。動きもにぶい。異形の獣は、湿った粘着音をたてて前足を振り上げた。ひれつきの指先には、黒ずんだつめがいくつも並ぶ。その一つ一つが、びたやいばのようだった。


 後ろから、アンナの焦ったような声が飛んでくる。


「人がいるのだわ!」


 短剣を一度つかみそこねたのは、さっきの彼女の姿が脳裏をよぎったからだ。色とりどりの服を着てみせたアンナは、可愛かったし、美しかったし、思わず手をつかんで、引き止めたいほどで。


 集中しろ。ルーは舌打ちして、ふところの短剣を強くつかんだ。石畳いしだたみを強くる。獣の足元にへたりこんだ若い男が見えた。


 そういえば、アンナはちゃんと外套フードを着ているのか?


「っ、くそったれ」


 悪態あくたいはもちろん、自分に向けてだ。


 ルーは、男とカエルもどきの間に身を滑り込ませた。


 短剣を横薙よこなぎにふるい、黒いつめごと獣の腕を右にそらす。ぐらりと揺れた巨体の横腹に、思い切り蹴りを叩き込んだ。八つ当たり。そうかもしれない。そうでなければ、やってられないとも言うが。


 風船に水をいっぱいに詰め込んだような、湿って鈍い嫌な感触だ。されども大蛙オオガエルは、ゲバゲバっという珍妙な鳴き声をあげて脇道に吹き飛んだ。


 ルーは振り返った。アンナが、頭からすっぽりと外套がいとうを被っていることに安心する。


「あの、ルーさま」アンナが遠慮がちに言った。「今日はなんだか、ずいぶんと乱暴ね……?」

「いつもどおりだ」果たして、この返事がいつもどおりかどうか。違う、これも余計な感想だ。「その服でいいと思う。僕は」


 視線だけで外套がいとうを示してめれば、アンナが一瞬だけ眉根まゆねを寄せた。不満なのか。だが、さっきの君を誰かに見られるなんて……駄目だ、考えないほうがいい。気が散る。


 レイモンドが咳払いした。アンナがはっとしたように体を震わせ、獣に襲われた男の近くで身をかがめる。真剣な顔つきで彼の様子を確認した後、ティカとディエンに声をかけた。「手伝ってくださる? 彼をここから移動させましょう」


「魔女の未練みれんを傷つけない選択は正しかったよ」


 横から声をかけられ、ルーは渋々しぶしぶアンナから視線を外した。レイモンドが、呆れと苛立ちのまざった表情を浮かべている。


「ただ、アンナさんの言うとおり雑だ。神鍵クラヴィスを打ち込むには、あいつの動きを止めないと」

「……分かっている」ルーは素っ気なく返した。

「あぁそう。それは何よりだ」


 レイモンドが半分疑いの目で返事をしたところで、再び魔女の未練の妙な鳴き声が響いた。


 粘着質な跳躍音ちょうやくおんとともに影が差し、二人は両脇に飛びのく。石畳いしだたみくだけて、砂塵さじんが舞った。


 魔女の未練は鈍重だが、柔らかすぎる。ルーは、先よりもいくぶん冷静にカエルを分析した。蹴りも効きが悪かったのだろう。ならば、やいばるほうが有効か。


 レイモンドが怒鳴った。


「血を流させるな! 魔女の力がぞ!」


 ルーは舌打ちのかわりに地面を蹴った。大蛙オオガエルのほうへ飛び込むようにして、振るわれたつめをかわす。背後をとる。巨体が振り返るより早く、首裏と思しきところにりをいれた。


 先ほどとは違う、かたい感触。甲羅こうらのような。ルーは奥歯を噛んだ。獣の目がぬらりと細められる。


星砂の命者トレミー!』


 ルーが退くと同時に、ディエンの声が響いた。それは魔女の罪の名前に違いなく、この場で呼ばれうるとすればただ一人しかいない。


心臓コル地を這う翼アシュレシャ結び目ウクダ』ほのかに光る指先で中空をなぞり、レイモンドが魔女の力を使うための言葉をつむぐ。『めいを示せ、海蛇座ハイドラ!』


 大蛙オオガエルの足元に青の亀裂きれつが走り、きらめくうろこを持つ大蛇だいじゃが地面を割って現れた。


 へびが魔女の未練に、するりと長い胴体どうたいを巻きつける。とらえられた黒の獣は、嘔吐音にも似た不愉快な音を鳴らしたあと、口をガバリと開けた。


 野太い鳴き声とともに、真っ黒な粘液が辺りにき散らされる。避けるのはさほど難しくない。


 されど、水底みなぞこに突き落とされたように、あたりが一気に冷える。


「っ、ルーさま……!」


 振り返ったルーは、顔をこわばらせた。アンナの足元が大きな黒い沼地に変わり、若い男やディエン、それにティカもろとも地面へ飲み込もうとしている。


 魔女の未練は、薔薇十字ロザリオを求める。レイモンドの言葉を思い出した。今さらだ。


 ルーはアンナのほうへ駆け寄った。伸ばされたアンナの指先をつかみそこねる。


 彼女の姿を飲み込んだ沼は、呼吸一つの間もおかずに、石畳いしだたみに吸い込まれて消えた。


 *****


 真っ黒な沼に飲み込まれた。肌をじっとりとらすような冷気を感じた。それなのに服は汚れていないし、怪我けがらしいものも見当たらない。


 まるで、何もなかったみたいだわ。目を覚ましたアンナは、途方に暮れて周囲を見回した。


 夏の日差しに照らされた石畳いしだたみの通りに、立ち並ぶ三階建ての飾り窓付き家屋テラスハウス。先とまったく同じ光景が目の前に広がっていて、けれど、アンナたち以外に人の気配はなく、魔女の未練みれんの姿もない。


 本物の世界に似せた作り物。

 それとも、これ自体が幻という可能性もある?


「ひゃっ……!?」


 突然後ろから抱きつかれて、アンナは飛び上がった。ティカだ。彼女はアンナの外套がいとうを手早くめくり、その中の服――青と白の水兵セーラー風のサマーワンピース――の無事を確認して地面にへたり込んだ。


「はぁぁぁ……よかった……」いつになく安心した声で、ティカが言う。「服が汚れてたり破れてたりしたら、どうしようかと……」

「まぁ」アンナは思わず笑ってしまった。「こんな時なのに、服の心配なんて」

「するでしょ。当然じゃんか。あのエインズワース服飾店ふくしょくてんだよ? アンナだって、そのワンピースが一番気に入ったから、最後に着たんだろ」

「それは、ね……」


 もちろんなのだわ。でも、ルーさまは好きじゃなかったみたい。


 きかけた弱音を、アンナはなんとか飲み込んだ。ルーさまに好きって言ってもらうのよ。一度否定されたからって、諦めてちゃ駄目なのだわ。


 そのためにも、なんとかして、この状況から脱出しなくちゃ。


 少し離れた場所にいたディエンに、手招きされた。家屋の壁にもたれた若い男は、配達員のようだ。気を失ってこそいないものの、何を話しかけても言葉を返さない。


「心ここにあらずって感じ?」ティカが男のほおをぺちぺちと叩いた。

「それを言うなら、ヘビにらまれたカエルじゃないか?」ディエンが片眉かたまゆをあげる。

「もう、面白がらないでちょうだい」アンナは二人をいさめ、もう一度、男の様子を眺めてからうなずいた。「とにかく、怪我けがはないみたい。なら次は、どうやってここを出るか、という話をすべきよ」


 ディエンが両腕を組んだ。誰よりも早く目を覚ました男は、周囲を一通り確認し終えていたようだ。


「今のところは、何もないな。ここには」

「思ったんだけど、ボクたち以外に人間とかっている? 猫とか犬とか、生き物でもいいんだけど」ティカが尋ねる。

「いない」ディエンは明確に否定したあと、小脇こわきかかえていたウサギの人形を差し出した。「ウサちゃんはいるぞ。寂しいなら、持っているといい」

「わ、ちょっと押しつけないでよ……! そういうのはいらないからっ!」


 ティカの迷惑そうな声に少しだけ笑ってから、アンナはディエンに尋ねた。


「この場所は、魔女の未練が原因だと思う?」

「そうだろうな」


 ディエンは首肯しゅこうする。


 ティカが、不貞腐ふてくされたように、辺りの様子を見に行った。それを見送ってから、ディエンはさらに言葉を重ねる。


「ただ、この手の能力については経験がない。大概たいがいは、妙な形の獣になるくらいなんだがね」

「そう」アンナは目を伏せて考えた。つま先で地面を叩き、たしかな感触を確認する。「仕掛しかけは分からないけれど……まぼろしというよりは、本物に似せた偽物の世界に閉じ込められた、って感じかしら。目的は、わたくしの薔薇十字ロザリオのはずよね。なら……」


 アンナはふと顔を上げた。ディエンの物言いたげな表情に、ぱちりと目を瞬かせる。


「どうかなさった?」

「ふむ」ディエンはあごをさする。「あなたは、助けを待つ姫君には、なれないのだな、と」

「……わたくしたちは、怪我けがもしてないのよ」試すような視線が気に食わず、アンナは少しだけ口調を固くした。「ルーさまもレイモンドさんも、魔女の未練の対処で忙しいでしょう。なら、脱出の方策はわたくしたちだけで考えるべきだわ」

「もちろん、あなたが正しいとも。だが、男の中には、か弱い姫が好きなやつもいるからな」


 え、嘘。


「安心するといい」ディエンは、さりげなくアンナの手を取った。「俺は強い女のほうが好きだ」


 指先だけをすくう仕草は思いのほかやわらかく、うやうやしささえあった。


 アンナは唇の裏を噛む。ディエンは本気なのだろうが、どうにも、からかわれているような気がしてならない。


「わたくしは、あなたのことが好きではないわ」ディエンの手を失礼のない程度にそっけなく払って、アンナは言う。「だって、ヴィナさんとニケさんを上手く使おうとしているし」

「おや、バレていたか。なかなか、いい作戦だと思ったんだが」

「それに……」アンナは少し迷ってから付け足した。「あなたが見ているのは、わたくし以外の誰かのような気がするもの」


 ディエンが目を細めた。


「面白いことを言う。今も昔も、俺は一途いちずにあなたを想っているさ。アンナ嬢レディ・アンナ」ディエンはひらりと手を振って、肩をすくめた。「なにぶん、誰かの下についているほうが好きな性分しょうぶんでね。どうせ従うなら、強い相手のほうがいい」

「……わたくしは強くないし、あなたを従える気だってない」

「アンナ・ビルツが、何をおっしゃる」


 含みのある言葉に、アンナは唇をとがらせた。ディエンの余裕の態度はくずれず、それにまた腹が立つ。


「そう機嫌をそこねないでくれ」ディエンはくちびるゆがめて笑った。「俺はただ、少しは誰かを頼ってもいいんじゃないか、という提案をしたかっただけさ」

「別に、今でも十分に頼りにしているのだわ。あなたとティカさんのこと、」

「そうではなく、外の人間のほうだ」

「ルーさまたちは忙しいと、わたくしは言ったわよね。ディエン」アンナはぎゅっと眉をひそめた。

「レイモンドのほうは、そうでもない」ディエンはなぜか自信ありげに返した。「これくらいの想定外なら、対処できる。ほら」


 ディエンが空へ右手をかかげると同時、力強い羽音がした。


 アンナは目を丸くする。ディエンの手に舞い降りたのは、一羽のはとだ。ほのかに青く光る羽毛をぶるっと震わせた鳥は、小粒な目を何度か瞬かせてから、くちばしを開く。


『……やっと見つけたぞ、ディエン』


 神経質な声音は、レイモンドのものだ。どういう仕掛しかけか、電話のように声を届けることができるらしい。


 ディエンが軽い口調で応じる。


「時間が、かかったな。お前なら、すぐに何とかしてくれると思っていたが」

『……はぁ?』レイモンドが不機嫌に言った。『こっちは、逃げた魔女の未練も探しながらなんだぞ? そもそも、お前がそばにいたんなら、こんなことにだって、』

『そこに、アンナはいるのか』感情を抑えた声が割り込んできた。


 ルーさまだわ。アンナは、ぱっと顔を輝かせた。ディエンの腕へすがるようにして、はとを引き寄せる。


「いるのだわ! あとはティカさんと、男の人も……えっと、誰も怪我はしていなくて……!」

『そうか』ルーの表情が、少しだけ緩んだような気がした。『君が無事なら、よかった』


 ぽっと胸のあたりが暖かくなった気がして、アンナは肩の力を抜く。


「ルーさまは、大丈夫? 怪我とか、なさってない?」

『あの程度の敵に、僕がおくれをとる訳がない』

「うん……っ。そうね、そうなのだわ……っ」

『あー……っと、そういうのはあとで、やってもらうとして』レイモンドが呆れた口調でさとした。『君たちが、そこから出る方法を話し合いたいんだけど』


 我に返って、アンナは口を閉じる。ディエンの面白がるような視線が注がれて、首をすくめた。


 だって仕方ないじゃない。ルーさまとお話できたんだもの……。心のなかで少しだけ愚痴ぐちったところで、アンナはティカが戻ってきているのに気づいた。彼女は何故か、通りの向こう側をじっと見つめている。


『結論から言うと』レイモンドが言った。『君たちが今いる場所と、こっちの世界で大蛙オオガエルがいる場所とを、ぴったり一致させる必要がある。どうも水鏡みずかがみのような能力を持っていてね。これに気づいた経緯けいいなんだけど、』

「げ」

『げ?』


 ティカが呟いた言葉を、レイモンドがそっくりそのまま復唱した。


 それにしたって、普段のティカらしからぬ声だ。しかも、こちらを振り返る彼女の動きもぎこちない。顔色が良くないというか、見たくないものを見たというか。


 アンナはそろりと尋ねた。


「どうかなさったの……?」

「あれ」指で通りの向こうをさしたティカは、ひきつった顔で言った。「ボク、しばらくカエルはごめんかも」


 とおりが、真っ黒に染まっていた。アンナが真っ先に抱いた感想はそれだ。次に黒全体が波打つようにうごめいていて、その一つ一つが点であることに気付く。


 いいや、点というよりは丸だ。

 もっと正確に言うならば、カエルだ。

 裏庭バックガーデンでもよく見かける大きさの、けれど色と形は、さっきの大蛙オオガエルにそっくりな。


 アンナたちは一斉に回れ右して逃げ出した。飛び立ったはとが、アンナの肩に降り立つ。ディエンが若い男を抱えてくれたのは、機転きてんくというほかない。


『どうしたんだよ!? そっちの状況は!?』レイモンドが焦ったように言う。

カエルだよ! いっぱい! たくさん!」ティカがやけくそ気味に叫んだ。「もう、一体なんなわけ……!? ボクたちが何かした!? してないよね!?」

「魔女の未練の狙いは、薔薇十字ロザリオのはずだ。なら、あのカエルも十字架に引き寄せられてるんじゃないか」ディエンが冷静に言う。

「なら、二手に分かれるのはどうかしら……っ!?」アンナはカエルとの距離を測ろうとしてやめた。今振り返れば、足がすくんでしまいそうだ。「薔薇十字ロザリオを持ってるのは、わたくしなんだから……!」

『……あぁもう、分かってるよ! ルー!』レイモンドが苛々した声を出す。『アンナさんを一人にすべきじゃない! ディエン、お前もついてくれ! ティカは男の人をつれて、今から俺が言う場所に向かって、』

「無理っ!」ティカがわめく。

『無理!? なんで!?』

「だって、ボクも薔薇十字ロザリオ持ってるもんっ!」


 はぁ!? と叫んだのはレイモンドだったが、ティカ以外の全員が同じ気持ちだったはずだ。


 黒髪の少女は、胸元に手を突っ込んで首飾くびかざりを突き出した。彼女の瞳を映したかのような紫水晶アメジスト色で、細かな装飾もアンナのものとは少し違う。それでも紛れもなく薔薇十字ロザリオだ。


「嘘……」アンナは思わず尋ねた。「どういうことなの、ティカさん。薔薇十字ロザリオの話なんて、今まで一度も……」

「前に、魔女の未練に襲われた時っ! リネン室で見つけたのっ! 洗濯物の間に挟まっててっ!」ティカは、息を切らしながら返事をした。「っていうか、ボクだって相談しようとしたってば! なのにアンナの恋の相談になっちゃったからっ!」

「な……っ! あっ、あのときは、ティカさんだって乗り気だったでしょう……っ!?」


 アンナが思わず反論したところで、びたんっ、という粘着質な跳躍音ちょうやくおんが一斉に響いた。


 アンナたちは、ほとんど前に転がるような形で、カエルの群れの第一波を避ける。もちろん、第二波、第三波は控えているようだったし、最初の蛙の群れも元気いっぱいに、うごめいていた。


 げばげばっという奇妙な鳴き声で、小蛙たちが歌う。アンナとティカが顔をひきつらせるなか、ディエンが「ふむ」と普段通りの声音で言った。


「とりあえず、逃げるのが先決だな」

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