第6話 君が、あいつを惚れさせるんだろ
翌朝、アンナは早速ティカとフラウの部屋に足を運んだ。
「なんといっても計画だよ」アンナの前を行ったり来たりしながら、ティカが言う。「男を
「任せて、ティカさん。昨日の夜、しっかり予習してきたのだわ」
ベッドの端に腰掛けたアンナは、いそいそと膝の上で帳面をめくった。心の師匠である
「なによりも初手が大事なのよね。相手へ印象づけるために、心情的な揺さぶりをかけることが重要なのだわ。さりげなく背後をとって、二の腕を掴んでひねり上げる……あっ、違うわね。これは護身術の書き違いだわ」
ティカがぴたりと足を止めた。アンナは万年筆を走らせて、帳面を訂正する。
「えっと、さりげなく背後をとって、身を寄せる、ね。上目遣いをする時は、絶対に目を離さないこと。野生の王者は、目をそらした瞬間に鋭い
「アンナ」
「話す時には、ささやき声で。遠回しな質問を重ねて相手の注意を引いて、ここぞとばかりに身体的距離を近づけること。
ティカに帳面を取り上げられた。渋い顔をする彼女に、アンナは目を
「『どきっ!? まさかこんなタイミングで!? ~ぽろりもあるよ、
「なにが、『あるわよ?』だよ。馬鹿。全部却下」
「ええっ……!? 自信作なのに……!?」
「じゃあ聞くけど」ティカが半眼になった。「今の作戦のどこかで、手をつなぐ予定はあった?」
手をつなぐ。ティカの言葉をそのまま復唱したところで、ルーと過ごした夏の夜を思い出した。つないだ手のひらの熱さとか、彼の赤く染まった頬だとか。
手を、つながないか。
これも……君が嫌でなければ、だが。
「ひょ……え……」
「ひょえ?」
ティカに不信の眼差しを向けられて、アンナはなんとか悲鳴を飲み込んだ。急に頬が熱くなるのを感じながら、顔をうつむける。
「そっ、そんな
「……
「それは大丈夫よ」アンナは慌てて言う。「わたくしの計画はこうよ。まずは相手に馬乗りになって、急所を確保してから、可愛らしくおねだり、わぷっ」
ティカが特大のため息をつき、アンナの口元へ帳面を押しつけた。窓際の
「……ティカちゃんの困り顔……かーわい……」
「笑い事じゃないし、ボクはいつでも可愛いでしょ、フラウ」ティカは苛々と髪をかきあげた。「ねぇ、なんなの。この女? 読んでる本が物騒だし、変に知識が混ざってるせいで、手に負えないし。てか、何を読んで、どう妄想したら、そういう解釈になるんだよ?」
「ベースは『
「そういうことを聞いてるんじゃない」
帳面ごしに、ティカの指がアンナの口をふさいだ。
質問に答えただけなのに、とアンナが抗議するまえに、ティカが断言する。
「手をつなぐ、キスをする、ベッドにはいって一発ヤる。はい、繰り返して」
「ゔっ……」想像するだけで変な声が出たが、アンナはなんとかもごもごと呟いた。「て、手をつなぐ、キスをする……べ、ベッドにはいって一発……やる……」
「よし」ティカが両腕を組み、尊大に頷いた。
「んふ」フラウが面白がるように呟く。「ティカちゃん……最後のところは、夜這いとほぼ一緒だね……?」
「うっるさいなあ。アンナのお
「お粗末なんかじゃないもの……」
ティカに
「君が、あいつを
それを言われると、何も言えない。
アンナが首をすくめて
「
「うっ、ううう……」
「いい年した女が泣かないの。ほら、さっさとする!」
ティカに引きずられるようにして、アンナは
アンナはぎくしゃくとルーの隣へ移動し、椅子を引いて、席についた。
向かいで参考書を読んでいたレイモンドからは、
「おっ、おはよう、ございます……ルーさま」
「……おはよう、アンナ」食後のコーヒー片手に新聞をめくっていたルーは、ちらとアンナのほうを見た。「食事は?」
「あっ」
しまった、取り忘れた。
「おっ、お腹があまり
ルーの指先が動いたらしく、新聞ががさっと音を立てた。彼はさっと新聞へ目を落とす。返事はない。というか、微妙に
アンナはちらっと
「きょ、今日もいい天気ね……」
アンナは無難すぎる言葉を口にしながら、テーブルの上を見た。ルーの手は新聞を次から次へとめくっている。
ほっそりとしているけれど、男らしい手なのだわ。アンナは
なによりルーさまは、たくさん
あの指先で。
わたくしの指を。
素肌に
いけないことなのだわ。すごく。
でも、もう一度……ううん、何度だって、わたくしはルーさまと手をつなぎたいのよ。
ルーの指先が止まった。
「君、部屋にいなかったな」
「えっ」
アンナは慌てて顔をあげた。ルーは新聞を眺めたまま、ぶっきらぼうに言う。
「朝。朝食の前」彼の指先がしきりに新聞を
「そ、あっ、えっと……」アンナは指先を目で追いかけながら、必死に頭を働かせる。「早起き、なのよ……わたくし……」
「それは知ってる。だが、食事当番でないかぎり、君はいつも部屋にいるだろう。
「今日は、ティカさんの部屋に行ってて」
「ティカ・フェリスの部屋に?」
ルーの指先が、ぐっと新聞の紙束に沈む。アンナは体の内側が舞い上がるような心地がした。んんん、そうやってぎゅっと握られたら、わたくしはどうなってしまうのかしら。
昨日読んだ
舞台は夜のベッドの上。ぽつんとランプの明かりが
だってわたくしは、とっておきの
それから、あの、ルーさまが、ご自身のシャツのボタンをゆっくり外したりとか、されて、あの、その。
「アンナ」
でも、とにかく手をつないだのよ。満足感と浮かれた気持ちのはざまで目を開けたアンナは、つかんだ手がずいぶんと小さいことに気づいた。
小さいし、なんだか二人分だ。
二人分?
「はえ……?」
「ふふっ、マミィの手、あったかーい」ルーとアンナ、二人の
「んふふ、マミィがわたしたちのこと大好きで、とっても嬉しい」双子の男の子、金髪のニケもふんわりと微笑んだ。
「安心して。わたしたちも、マミィのことが、とっても大好きだよ」
双子が声をそろえて甘えるように言う。
アンナはそろりと目だけをあげた。ルーが渋い顔で両腕を組んでいる。
「君は、子供が好きなのか」
「ゔ……」
嫌いじゃないわ。でも、違うの。今はルーさまと手をつなぎたいって、思ってて。
「マミィはわたしたちのことが嫌い……?」
「ううう……」
あぁもう、そんなに泣きそうな目で見ないで。わたくしだって、あなたたちに意地悪をしたいわけじゃなくて。
「
たしなめるような声がした。アンナたちが振り向いた先で、
「今のは何も、ヴィナとニケだけを注意したわけじゃないぞ」
「……僕は君の子供ではないが?」ルーが不愉快そうに言った。
「そうだろうとも。俺が家族になりたいのは、
「あっ、あのっ……!」
アンナは慌てて声をあげた。男たちの視線に赤面しながらも、分厚い眼鏡越しにディエンを見る。
「わたくしが誰と家族になりたいのかは、わたくしが決めることなのだわ」
「もちろんだとも」
双子をテーブルから引きはがしながら、ディエンが面白がるように言った。
「願わくば、そのリストの中に、俺の名前があると嬉しいというだけさ」
「残念だけど、あなたの名前は……」
「なんといっても、ヴィナたちが喜ぶし、」ディエンは意味ありげに、テーブルを見やる。「俺なら、あなたが望んだ時に手をつないで差し上げよう。どこかの誰かと違って」
見抜かれていたのだわ。アンナは
「はいはいはい!」
妙な空気を吹き飛ばすように、ティカが手を叩いた。いつの間にやらレイモンドの隣に立っていた彼女は、視線が集まったことを確認して大きくうなずく。
「提案なんだけど、服がほしいんだよね」
「は?」レイモンドが迷惑そうに言った。「なにをいきなり、」
「夏でしょ。六日後に告白するんでしょ。じゃあ、おめかしでしょ!」たたみかけるように言ったあと、ティカはアンナたちを見回した。「だって、君たちの着てる魔女の正装ってのが、地味でダサすぎなんだよ。黒と白だけなんてさ。だから衣替えしたいの。分かる? ま、嫌味で細かいレイモンドくんには、理解できないかもだけどさ」
「は? おいちょっと待てよ。最後の一言はいらないだろ」
レイモンドが抗議の声をあげるなか、アンナはちらとルーを見やった。
買い物。洋服選び。どちらも心がおどる単語だ。
けれど案の定、ルーはきっぱりと首を横に振る。
「駄目だ。危険すぎる」
「そう、よね……」
庭に何度か投げこまれた心無い手紙を思い出し、アンナはしゅんと肩を落とす。アンナ・ビルツに対する街の人間の
そんな状況であるのに、洋服店でのんきに服を選ぶなんて。
「どうしてだい? 行ってくればいいじゃあないか」
ダグラスが、のんびりと口を挟んだ。
アンナの叔父は、テーブルの端でアルヴィムと向かい合うように座っている。そのアルヴィムはといえば、「あれっ、それ俺が言おうと思ったのに」といわんばかりの顔つきをしていた。
仕立てのいい白シャツを品よく着崩したダグラスは、サラダへ伸ばしかけたフォーク片手に、アンナ達を不思議そうに見やる。
「おや。なにか、おかしなことを言ったかな?」
「いえ。おかしいということはありませんが……」ルーが気乗りしない様子で言った。「
「ふむ?
ダグラスはナプキンで指先を
「わお、ほんと? エインズワース
*****
ティカは上機嫌だった。なんといっても、店が最高すぎるからだ。まったく、持つべきものは友。いやいや、お金持ちで、話の分かるおじさまである。
かつての王家御用達。布地から縫い目の
それがエインズワース服飾店だ。
その店にあって、今はティカたちの貸し切りであり、気になった服を次々と試すことができるという、この状況である。
「最っ高……」
優美な曲線で囲まれた
「最っ高……」
貴婦人の隠れ家を想起させる店内の床は、磨き抜かれた寄木細工だ。
大きな窓からは夏の光が注ぐ。けれど、光は
店のあちこちに置かれているのは
「最っこ、」
「もういいよ。十分」
何度目か分からぬティカの幸せなため息は、心底面倒くさそうなレイモンドの声で遮られた。
ティカは、むっとして隣を見る。美しい真紅の布がはられた
「たかが洋服の店だろ。なんでそんな」
「分かってないっ!」ティカはレイモンドを
「……乙女心って、君は男だろ……」
「はぁ? 美に性別なんて関係ないんですう」ティカは、じとりとレイモンドを見た。「君だって、前にボクがキスしたときは、どきどきしてただろ」
「は、ぁ!? そんなわけないだろ!」レイモンドは顔を赤くして、ソファから腰を浮かせた。「あれは突然だったからだし、そもそも君みたいにがさつな人間に、俺がどうにかなるなんて、ありえない……!」
そこまで言ったところで、ガリ勉の青年はルーたちの視線に気づいたらしい。
ティカのにやにやとした笑顔を
「とにかく、俺が言いたいのは」レイモンドが責任ある大人を装った声音で言った。「こんなことしてる場合じゃないってことだ。魔女の
「それに、試験勉強できないって?」
「そうだよ。君たちは遊びで時間を浪費できるだろうけど、俺は人生がかかってる」
「大げさだなぁ」ティカは指先に髪を巻きつけながら言った。「屋敷へ来る時に、もらったお金があるでしょ?
「そんなの、貯金に決まってるだろ……子供は、ただでさえ金がかかるんだから……」
「ふうん?」
「なんだよ」
レイモンドに
「なんだかんだで、ヴィナとニケのこと気にしてるじゃん、ってだけ」
レイモンドが心底嫌そうな顔をした。
図星さされると、すぐにこれだもん。ほんとにお子ちゃまだよね。ティカは呆れまじりに思いながら、店内を観察する。
のんびりと歩き回っているのはディエンで、店主による服の説明を聞きながらも、試着室のほうをちらちらと見ているのがルーだ。もちろん、試着室の中にはアンナがいる。
店にいる人間はこれで全員で、双子とフラウ、それから保護者組――
ううん、それにしたって、野郎どもが服に興味なさすぎるんだよね。白シャツに黒のズボン。以上終了、なんてさ。
魔女の正装を着たままの男性陣を眺めながら、ティカは監督よろしく
「なぁ」レイモンドが声をかけてきた。
「なに」ティカは上の空で返事をする。
「君は、ルーの身の上について、なにか知ってるのかい?」
ティカが無言で続きを
「ずいぶんと、応援してるじゃないか。アンナさんと彼との仲を……」
「だって、腹が立つもん」
「……だから、ルーのことも、なにか知ったうえで応援とか……えっ、なんだって? 腹が立つ?」
「そうだよ。だってさあ、どこからどう見たって両思いなのに、いつまでも同じところをぐるぐるしてるんだよ? 毎回相談されるボクの気持ちを考えてみて?」
「あぁ、まあ、それは……ね……」レイモンドはため息をついた。「えっと……じゃあ、それ以外は本当に何も知らないのかい?」
「ルーがアンナにぞっこんなのは知ってるけど」
「それは俺も知ってるし、たぶん、本人たち以外の全員が知ってるね……」
レイモンドが
ティカは、ぱっと駆け寄る。アンナは
「どっ、どうしましょう、ティカさん……ここの服、すっごく可愛い……ぜんぶ素敵……ちっとも選べない……」
「うんうんうん、分かる分かる……!」ティカもつられて声を弾ませながら、耳打ちした。「ね。せっかくだから幾つか試しに着てみてさ、ルーに見せていこうよ。普段と違う顔を見せたら、ぜったい
アンナが何度も
そうはさせるかと、振り返ったティカは片手を上げた。
「ちゅうもーく! 今から
足を止めたルーが、不服きわまりない顔でぼそりと呟く。
「……アンナは
「あーあーあー、ぜんっぜん聞こえないなぁ!」ティカは満面の笑みで無視した。「はい、それじゃ野郎ども。女の子のとびきりの可愛いを、目に焼きつけておきなよ!」
内側からカーテンが開かれた。
ルーが息をのんだ。青と紫の大人びたサマードレスに身を包んだアンナは、どこか堂々とした微笑みを浮かべて見せる。
そうそう、その反応だよ。ティカはにんまりと笑いながら、解説を始める。
「一着目はサマードレス。白地に
カーテンが閉じて、開く。二着目。アンナがとるささやかなポーズにあわせて、ティカはうきうきと言葉を重ねる。
「お
いいね、すっごく乗ってきたってかんじ。ティカは心のなかで称賛を送る。
再びカーテンが開いて、三着目。今度も抜群にお似合いで、ティカは大きく頷いた。
「あぁもう、素敵。今度のテーマは、深窓のお嬢様だね。白のブラウスは装飾なしでシンプルに。そのぶん、濃紺色の
ブルーブラックのサンダルを
アンナはルーの目の前で立ち止まった。夏の淡い陽光。こぼれた灰色の髪の
サテンのリボンが、誘うようにふわりと舞った。ルーの指先が一瞬だけ動く。されどもアンナは、気まぐれな猫のように歩き去ってしまうのだ。
ルーのなんともいえない表情に、ティカは内心でほくそ笑んだ。
分かりやすいヤツ。
まぁ、好きな子にここまで
それにしたって、これはいよいよ、夜が楽しみってやつじゃない?
カーテンが閉じて、再び開く。ティカはうめいた。あぁもう、最高だよ。好きとか嫌いとか、そんな感情抜きに、
彼女が着ているのは、目の覚めるような青の生地に、白のレースが上品にあしらわれたワンピースだ。可愛らしさのなかにも、制服のようなきちんとした雰囲気が漂っているのは、
大きくつばを折り返した帽子を片手で押さえ、アンナが笑った。眩しい太陽の下、大切な誰かを見つけて無邪気に喜ぶ。少女というには大人っぽく、女性というには子供らしい、
ティカは全身を震わせた。可愛い。これはもう優勝じゃない? っていうか、ボクもあわせて服を着てみたいし、並んで歩いて、野郎どもの視線をかっさらっちゃいたいよね……?
「あぁもう、アンナ!」ティカは思わず声を大きくした。「最高だよ! ちょっと首を
駆け寄ろうとしたところで、店の外から悲鳴が響いた。アンナがはっと顔をこわばらせる。振り返ったティカは、窓越しに大きな黒い影が横切るのを目撃した。
四足歩行だ。体のサイズは大人ほどもあり、全身を毛で
「最っ悪」
ティカは舌打ちする。可愛いであふれた、夢のような時間がぶち壊しだ。
現れたのは、魔女の
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