第6話 君が、あいつを惚れさせるんだろ

 翌朝、アンナは早速ティカとフラウの部屋に足を運んだ。


「なんといっても計画だよ」アンナの前を行ったり来たりしながら、ティカが言う。「男をれさせるには、それしかない。きっちり雰囲気を作って、時が来たら一気に仕留める。これにきるわけ」

「任せて、ティカさん。昨日の夜、しっかり予習してきたのだわ」


 ベッドの端に腰掛けたアンナは、いそいそと膝の上で帳面をめくった。心の師匠である熱々アツアツ恋愛指南書以下略をベースに、各状況シチューエションを名だたる戦術書と比較しながら再検討し、交渉や調略ちょうりゃくで使われる技術も組み込んだ超大作だ。


「なによりも初手が大事なのよね。相手へ印象づけるために、心情的な揺さぶりをかけることが重要なのだわ。さりげなく背後をとって、二の腕を掴んでひねり上げる……あっ、違うわね。これは護身術の書き違いだわ」


 ティカがぴたりと足を止めた。アンナは万年筆を走らせて、帳面を訂正する。


「えっと、さりげなく背後をとって、身を寄せる、ね。上目遣いをする時は、絶対に目を離さないこと。野生の王者は、目をそらした瞬間に鋭いつめきばで襲いかかってくる。後退のときも視線を外さず、急に動かない。これがクマに出会ったときの対処法……」

「アンナ」

「話す時には、ささやき声で。遠回しな質問を重ねて相手の注意を引いて、ここぞとばかりに身体的距離を近づけること。甘い罠ハニートラップとして、足を軽く絡めるのも効果的。ここで塩少々を加えると甘いパンケーキ……んんん、違う違う。これはお菓子のレシピで……あっ」


 ティカに帳面を取り上げられた。渋い顔をする彼女に、アンナは目をしばたく。


「『どきっ!? まさかこんなタイミングで!? ~ぽろりもあるよ、夜這よばい編~』もあるわよ?」

「なにが、『あるわよ?』だよ。馬鹿。全部却下」

「ええっ……!? 自信作なのに……!?」

「じゃあ聞くけど」ティカが半眼になった。「今の作戦のどこかで、手をつなぐ予定はあった?」


 手をつなぐ。ティカの言葉をそのまま復唱したところで、ルーと過ごした夏の夜を思い出した。つないだ手のひらの熱さとか、彼の赤く染まった頬だとか。


 手を、つながないか。

 これも……君が嫌でなければ、だが。


「ひょ……え……」

「ひょえ?」


 ティカに不信の眼差しを向けられて、アンナはなんとか悲鳴を飲み込んだ。急に頬が熱くなるのを感じながら、顔をうつむける。


「そっ、そんな破廉恥はれんちなこと……できないのだわ……」

「……夜這よばいのほうが、よっぽど破廉恥だと思いますけどお?」

「それは大丈夫よ」アンナは慌てて言う。「わたくしの計画はこうよ。まずは相手に馬乗りになって、急所を確保してから、可愛らしくおねだり、わぷっ」


 ティカが特大のため息をつき、アンナの口元へ帳面を押しつけた。窓際の椅子いすに座っていたフラウが、にやっと笑う。


「……ティカちゃんの困り顔……かーわい……」

「笑い事じゃないし、ボクはいつでも可愛いでしょ、フラウ」ティカは苛々と髪をかきあげた。「ねぇ、なんなの。この女? 読んでる本が物騒だし、変に知識が混ざってるせいで、手に負えないし。てか、何を読んで、どう妄想したら、そういう解釈になるんだよ?」

「ベースは『熱々アツアツ恋愛指南書』よ? そこに戦略的視点から、図書室の本を少々、ふみゅっ」

「そういうことを聞いてるんじゃない」


 帳面ごしに、ティカの指がアンナの口をふさいだ。

 質問に答えただけなのに、とアンナが抗議するまえに、ティカが断言する。


「手をつなぐ、キスをする、ベッドにはいって一発ヤる。はい、繰り返して」

「ゔっ……」想像するだけで変な声が出たが、アンナはなんとかもごもごと呟いた。「て、手をつなぐ、キスをする……べ、ベッドにはいって一発……やる……」

「よし」ティカが両腕を組み、尊大に頷いた。

「んふ」フラウが面白がるように呟く。「ティカちゃん……最後のところは、夜這いとほぼ一緒だね……?」

「うっるさいなあ。アンナのお粗末そまつな計画より、ましでしょ」

「お粗末なんかじゃないもの……」


 ティカににらまれた。


「君が、あいつをれさせるんだろ」


 それを言われると、何も言えない。

 アンナが首をすくめてうなずいたのを合図に、ティカが腕をとった。


食堂ダイニングに行くよ。まずはそこで、ルーと手をつなぐこと」

「うっ、ううう……」

「いい年した女が泣かないの。ほら、さっさとする!」


 ティカに引きずられるようにして、アンナは食堂ダイニングに入った。昨晩、屋敷に泊まっていたダグラスも含め、全員が思い思いに朝食をとっている。


 アンナはぎくしゃくとルーの隣へ移動し、椅子を引いて、席についた。


 向かいで参考書を読んでいたレイモンドからは、奇異きいの眼差しを向けられたが、これは無視する。


「おっ、おはよう、ございます……ルーさま」

「……おはよう、アンナ」食後のコーヒー片手に新聞をめくっていたルーは、ちらとアンナのほうを見た。「食事は?」

「あっ」


 しまった、取り忘れた。


「おっ、お腹があまりいてなくて……」アンナは普段のやりとりを思い出しながら、ぎこちなく笑った。「うふ。ルーさまのこと、食べちゃってもいいのよ? なーんて……」


 ルーの指先が動いたらしく、新聞ががさっと音を立てた。彼はさっと新聞へ目を落とす。返事はない。というか、微妙にまゆがひそめられているような。


 アンナはちらっと厨房キッチンのほうを見やった。柱の影から様子を見守っているティカが、不機嫌そうな顔で唇だけ動かす。余計なこと言うなよ、馬鹿。


「きょ、今日もいい天気ね……」


 アンナは無難すぎる言葉を口にしながら、テーブルの上を見た。ルーの手は新聞を次から次へとめくっている。


 ほっそりとしているけれど、男らしい手なのだわ。アンナはれとした。肌は白くてなめらか。指を曲げるたびに、骨と筋が陰影を描いては、消えていく。


 なによりルーさまは、たくさんでてくれたのよ。

 あの指先で。

 わたくしの指を。


 素肌にきぬが触れたときのような、感触を思い出した。気恥ずかしさから、アンナは靴の中で、ぎゅうとつま先を丸める。


 いけないことなのだわ。すごく。


 でも、もう一度……ううん、何度だって、わたくしはルーさまと手をつなぎたいのよ。


 ルーの指先が止まった。


「君、部屋にいなかったな」

「えっ」


 アンナは慌てて顔をあげた。ルーは新聞を眺めたまま、ぶっきらぼうに言う。


「朝。朝食の前」彼の指先がしきりに新聞をではじめたせいで、アンナは早速気が散るはめになった。「部屋に行ったが、君はいなかった」

「そ、あっ、えっと……」アンナは指先を目で追いかけながら、必死に頭を働かせる。「早起き、なのよ……わたくし……」

「それは知ってる。だが、食事当番でないかぎり、君はいつも部屋にいるだろう。裏庭バックガーデンにもいなかったし」

「今日は、ティカさんの部屋に行ってて」

「ティカ・フェリスの部屋に?」


 ルーの指先が、ぐっと新聞の紙束に沈む。アンナは体の内側が舞い上がるような心地がした。んんん、そうやってぎゅっと握られたら、わたくしはどうなってしまうのかしら。


 昨日読んだ浪漫ロマンス小説のワンシーンが浮かんだ。


 舞台は夜のベッドの上。ぽつんとランプの明かりがともっていて、わたくしに馬乗りになった彼の、余裕のない眼差しが注がれているのよ。手首を掴まれているだけなのに、わたくしはきっと動けなくて。でも、骨までとらえてしまうほど、強くて荒々しい彼の手の力を感じているの。素肌ごしに。


 だってわたくしは、とっておきの夜着ネグリジェ一枚で、間違いなくすそが乱れてるはずだもの。


 それから、あの、ルーさまが、ご自身のシャツのボタンをゆっくり外したりとか、されて、あの、その。


「アンナ」


 とがめるような低い声で名前を呼ばれて、アンナはたまらない気持ちになった。ぎゅっと目を閉じる。なるようになれ……っ! とやけくそに念じながら、左手を新聞めがけて突き出した。


 れた。やわらかい感触。ルーさまの手。やった。やってしまった。心臓が爆発して、幸せの大洪水だ。待って。なんだか、大洪水って表現な気がするわ。


 でも、とにかく手をつないだのよ。満足感と浮かれた気持ちのはざまで目を開けたアンナは、つかんだ手がずいぶんと小さいことに気づいた。


 小さいし、なんだか二人分だ。

 二人分?


「はえ……?」

「ふふっ、マミィの手、あったかーい」ルーとアンナ、二人の椅子いすの間から顔をのぞかせて、赤毛のヴィナがにっこりと笑う。

「んふふ、マミィがわたしたちのこと大好きで、とっても嬉しい」双子の男の子、金髪のニケもふんわりと微笑んだ。

「安心して。わたしたちも、マミィのことが、とっても大好きだよ」


 双子が声をそろえて甘えるように言う。

 アンナはそろりと目だけをあげた。ルーが渋い顔で両腕を組んでいる。


「君は、子供が好きなのか」

「ゔ……」


 嫌いじゃないわ。でも、違うの。今はルーさまと手をつなぎたいって、思ってて。


「マミィはわたしたちのことが嫌い……?」

「ううう……」


 あぁもう、そんなに泣きそうな目で見ないで。わたくしだって、あなたたちに意地悪をしたいわけじゃなくて。


アンナ嬢レディ・アンナを困らせるのはやめなさい」


 たしなめるような声がした。アンナたちが振り向いた先で、禿頭とくとうの大男が、にやっと笑って見せる。


「今のは何も、ヴィナとニケだけを注意したわけじゃないぞ」

「……僕は君の子供ではないが?」ルーが不愉快そうに言った。

「そうだろうとも。俺が家族になりたいのは、アンナ嬢レディ・アンナであって、お前じゃない」

「あっ、あのっ……!」


 アンナは慌てて声をあげた。男たちの視線に赤面しながらも、分厚い眼鏡越しにディエンを見る。


「わたくしが誰と家族になりたいのかは、わたくしが決めることなのだわ」

「もちろんだとも」


 双子をテーブルから引きはがしながら、ディエンが面白がるように言った。


「願わくば、そのリストの中に、俺の名前があると嬉しいというだけさ」

「残念だけど、あなたの名前は……」

「なんといっても、ヴィナたちが喜ぶし、」ディエンは意味ありげに、テーブルを見やる。「俺なら、あなたが望んだ時に手をつないで差し上げよう。どこかの誰かと違って」


 見抜かれていたのだわ。アンナは羞恥心しゅうちしんから固まった。えっ、うそ。どこから……? もしかして、わたくしの夜の妄想も……?


「はいはいはい!」


 妙な空気を吹き飛ばすように、ティカが手を叩いた。いつの間にやらレイモンドの隣に立っていた彼女は、視線が集まったことを確認して大きくうなずく。


「提案なんだけど、服がほしいんだよね」

「は?」レイモンドが迷惑そうに言った。「なにをいきなり、」

「夏でしょ。六日後に告白するんでしょ。じゃあ、おめかしでしょ!」たたみかけるように言ったあと、ティカはアンナたちを見回した。「だって、君たちの着てる魔女の正装ってのが、地味でダサすぎなんだよ。黒と白だけなんてさ。だから衣替えしたいの。分かる? ま、嫌味で細かいレイモンドくんには、理解できないかもだけどさ」

「は? おいちょっと待てよ。最後の一言はいらないだろ」


 レイモンドが抗議の声をあげるなか、アンナはちらとルーを見やった。


 買い物。洋服選び。どちらも心がおどる単語だ。

 けれど案の定、ルーはきっぱりと首を横に振る。


「駄目だ。危険すぎる」

「そう、よね……」


 庭に何度か投げこまれた心無い手紙を思い出し、アンナはしゅんと肩を落とす。アンナ・ビルツに対する街の人間の心証しんしょうは、いっこうに良くならない。だからこそ、春から今まで、アンナは屋敷で過ごしていたのだ。


 そんな状況であるのに、洋服店でのんきに服を選ぶなんて。


「どうしてだい? 行ってくればいいじゃあないか」


 ダグラスが、のんびりと口を挟んだ。


 アンナの叔父は、テーブルの端でアルヴィムと向かい合うように座っている。そのアルヴィムはといえば、「あれっ、それ俺が言おうと思ったのに」といわんばかりの顔つきをしていた。


 仕立てのいい白シャツを品よく着崩したダグラスは、サラダへ伸ばしかけたフォーク片手に、アンナ達を不思議そうに見やる。


「おや。なにか、おかしなことを言ったかな?」

「いえ。おかしいということはありませんが……」ルーが気乗りしない様子で言った。「アンナ嬢レディ・アンナの身の安全を考えると、軽率な判断をしないほうが」

「ふむ? 私のお嬢さんマイ・レディを守るのが、君の役割だと考えているんだがね」ダグラスはサラダを食べながら天井をちらと見やったあと、納得したように頷いた。「あぁだが、元王族が出かけるともなれば、たしかに人払いが必要かな。わかった。じゃあ、おじさんがひと肌脱ぐとしよう――レイモンドくん、ペンと紙を貸してくれるかい?」


 ダグラスはナプキンで指先をき、受け取ったペンで何かを書きつけた。ダグラスに近づいたティカが、紙切れを見るなり歓声をあげる。


「わお、ほんと? エインズワース服飾店ふくしょくてんの貸し切りじゃん……!」


 *****


 ティカは上機嫌だった。なんといっても、店が最高すぎるからだ。まったく、持つべきものは友。いやいや、お金持ちで、話の分かるおじさまである。


 かつての王家御用達。布地から縫い目の一針ひとはりにいたるまで、こだわり抜かれた高級一点物オートクチュール。決して華美ではなく、日常生活に溶け込む――されど、日常生活らしからぬ可憐かれんさや優雅さ、瀟洒しょうしゃな雰囲気を兼ね備えた服を作り続ける、服飾界最高峰――いやいや、もはやあらゆる流行に関わる業界における、頂点を極めた店。


 それがエインズワース服飾店だ。


 その店にあって、今はティカたちの貸し切りであり、気になった服を次々と試すことができるという、この状況である。


「最っ高……」


 優美な曲線で囲まれた小部屋アルコーヴは、隠れ家のような試着室に改装されている。青を基調としたクラシックな花装飾の壁紙が貼られていて、床には踏み心地抜群の東欧絨毯じゅうたんが敷かれていた。


 楕円宝石カルトゥーシュの刻まれた姿見があるだけでもため息が出るのに、美しい鳥と花で天板を彩った小円卓が用意されているのが憎らしい。もちろん、部屋を仕切るカーテンは、気鋭の芸術家ウィル・メリス考案の葉薊模様アカンサスが描かれている。


「最っ高……」


 貴婦人の隠れ家を想起させる店内の床は、磨き抜かれた寄木細工だ。


 大きな窓からは夏の光が注ぐ。けれど、光は繊細せんさいなレースのカーテンで遮られて、木造人形マネキンがまとう服飾を柔らかく輝かせるばかりなのである。


 店のあちこちに置かれているのは小箪笥コモードで、黒と金の象嵌細工ぞうがんざいくが息をむほど美しい。


「最っこ、」

「もういいよ。十分」


 何度目か分からぬティカの幸せなため息は、心底面倒くさそうなレイモンドの声で遮られた。


 ティカは、むっとして隣を見る。美しい真紅の布がはられた大型ソファシェーズロングに座っているというのに、レイモンドは、しみったれた参考書片手に、不満そうな顔をしていた。


「たかが洋服の店だろ。なんでそんな」

「分かってないっ!」ティカはレイモンドをしかりつけた。「この! この計算しつくされた優美さ! 乙女心をくすぐる以外の何物でもないの! 馬鹿!」

「……乙女心って、君は男だろ……」

「はぁ? 美に性別なんて関係ないんですう」ティカは、じとりとレイモンドを見た。「君だって、前にボクがキスしたときは、どきどきしてただろ」

「は、ぁ!? そんなわけないだろ!」レイモンドは顔を赤くして、ソファから腰を浮かせた。「あれは突然だったからだし、そもそも君みたいに人間に、俺がどうにかなるなんて、ありえない……!」


 そこまで言ったところで、ガリ勉の青年はルーたちの視線に気づいたらしい。


 ティカのにやにやとした笑顔を一睨ひとにらみし、ソファに座り直す。


「とにかく、俺が言いたいのは」レイモンドが責任ある大人を装った声音で言った。「こんなことしてる場合じゃないってことだ。魔女の未練みれんが、やってくるかも分からないのに……」

「それに、試験勉強できないって?」

「そうだよ。君たちは遊びで時間を浪費できるだろうけど、俺は人生がかかってる」

「大げさだなぁ」ティカは指先に髪を巻きつけながら言った。「屋敷へ来る時に、もらったお金があるでしょ? ひとなら、一、二年は遊んで暮らせるくらいの額だったじゃん」

「そんなの、貯金に決まってるだろ……子供は、ただでさえ金がかかるんだから……」

「ふうん?」

「なんだよ」


 レイモンドににらまれたので、ティカは「べつにい」と肩をすくめる。


「なんだかんだで、ヴィナとニケのこと気にしてるじゃん、ってだけ」


 レイモンドが心底嫌そうな顔をした。


 図星さされると、すぐにこれだもん。ほんとにお子ちゃまだよね。ティカは呆れまじりに思いながら、店内を観察する。


 のんびりと歩き回っているのはディエンで、店主による服の説明を聞きながらも、試着室のほうをちらちらと見ているのがルーだ。もちろん、試着室の中にはアンナがいる。


 店にいる人間はこれで全員で、双子とフラウ、それから保護者組――アンナの叔父ダグラスと、胡散臭い白銀の髪の青年アルヴィム――は、屋敷に留守番なのだった。


 ううん、それにしたって、野郎どもが服に興味なさすぎるんだよね。白シャツに黒のズボン。以上終了、なんてさ。


 魔女の正装を着たままの男性陣を眺めながら、ティカは監督よろしくあごをさすった。せっかくアンナのおじさんのおごりなんだし、こいつらもなんとかその気にさせて、服を選ばせないと。


「なぁ」レイモンドが声をかけてきた。

「なに」ティカは上の空で返事をする。

「君は、ルーの身の上について、なにか知ってるのかい?」


 ティカが無言で続きを催促さいそくすれば、レイモンドが気まずそうに付け足した。


「ずいぶんと、応援してるじゃないか。アンナさんと彼との仲を……」

「だって、腹が立つもん」

「……だから、ルーのことも、なにか知ったうえで応援とか……えっ、なんだって? 腹が立つ?」


 頓狂とんきょうな声をあげるレイモンドに、ティカは呆れ顔を向けた。


「そうだよ。だってさあ、どこからどう見たって両思いなのに、いつまでも同じところをぐるぐるしてるんだよ? 毎回相談されるボクの気持ちを考えてみて?」

「あぁ、まあ、それは……ね……」レイモンドはため息をついた。「えっと……じゃあ、それ以外は本当に何も知らないのかい?」

「ルーがアンナにぞっこんなのは知ってるけど」

「それは俺も知ってるし、たぶん、本人たち以外の全員が知ってるね……」


 レイモンドが憂鬱ゆううつそうに参考書の表紙へ目を落とす。一体どうしたというのか。ティカが尋ねかけたところで、試着室のカーテンから、アンナが顔だけのぞかせた。


 ティカは、ぱっと駆け寄る。アンナは瓶底びんぞこ眼鏡めがねの奥で青色の目を輝かせ、興奮気味にささやいた。


「どっ、どうしましょう、ティカさん……ここの服、すっごく可愛い……ぜんぶ素敵……ちっとも選べない……」

「うんうんうん、分かる分かる……!」ティカもつられて声を弾ませながら、耳打ちした。「ね。せっかくだから幾つか試しに着てみてさ、ルーに見せていこうよ。普段と違う顔を見せたら、ぜったいれなおすに決まってるんだから」


 アンナが何度もうなずいて、カーテンの奥に消えた。ルーの足音が近づく。十中八九、苦言のふりをした嫉妬しっとを口にするに違いない。


 そうはさせるかと、振り返ったティカは片手を上げた。


「ちゅうもーく! 今からアンナ嬢レディ・アンナのお披露目ひろめ会をはじめまーす!」


 足を止めたルーが、不服きわまりない顔でぼそりと呟く。


「……アンナは見世物みせものじゃないんだが……」

「あーあーあー、ぜんっぜん聞こえないなぁ!」ティカは満面の笑みで無視した。「はい、それじゃ野郎ども。女の子のとびきりの可愛いを、目に焼きつけておきなよ!」


 内側からカーテンが開かれた。


 ルーが息をのんだ。青と紫の大人びたサマードレスに身を包んだアンナは、どこか堂々とした微笑みを浮かべて見せる。


 そうそう、その反応だよ。ティカはにんまりと笑いながら、解説を始める。


「一着目はサマードレス。白地に菫色ヴァイオレットの幾何学模様が、モダンでお洒落な逸品だね。ポイントはウエストからすそにかけて、ふんわりと広がるペプラムスカートだ。涼しげだけど、今風なシルエットがたまらない。アンナ、まわってみせて――ほら、見た? 首元にまいたリボンは表が濃い紫で、裏が黒なんだよ? 下手な装飾品アクセサリーより、よっぽど品があるよね?」


 カーテンが閉じて、開く。二着目。アンナがとるささやかなポーズにあわせて、ティカはうきうきと言葉を重ねる。


「おつぎは、舞台女優らしい、危うい色香ただようワンピースだ。灰色と白のストライプで胸元はすっきりと、大きく広がる膝丈ひざたけのスカートは、レースを重ねて甘い仕上がり。さてさて、君たちが気になるのは、スカートの下からのぞく、薄手の黒タイツル・コランじゃないかな? 後ろを振り返った時に分かるんだけれど、ふくらはぎから、ハイヒールで美しくのびた足首のところまで、黒のラインがはいってるでしょ。これがエレガントで、色っぽいってやつだよね」


 し目がちにアンナがルーを見やってから、カーテンを閉める。


 いいね、すっごく乗ってきたってかんじ。ティカは心のなかで称賛を送る。


 再びカーテンが開いて、三着目。今度も抜群にお似合いで、ティカは大きく頷いた。


「あぁもう、素敵。今度のテーマは、深窓のお嬢様だね。白のブラウスは装飾なしでシンプルに。そのぶん、濃紺色のひだつきプリーツスカートがよく映える。歩いてるところを見てよ。布が二層に分かれてるだろ。バックフリルの隙間から、赤と濃紺のストライプ柄が見えたり隠れたりするのさ。腰元で大きく蝶結びされた、赤いサテンのリボンも大注目だ。これをほどくのはきっと、彼女の心に触れることができる運命の人だけなんだから」


 ブルーブラックのサンダルをいたアンナが、試着室から歩み出た。細いヒールは高く、動くたびに、かかとに結ばれたリボンが揺れる。


 アンナはルーの目の前で立ち止まった。夏の淡い陽光。こぼれた灰色の髪の一房ひとふさを耳にかけ、彼女は儚く微笑んで身をひるがえす。


 サテンのリボンが、誘うようにふわりと舞った。ルーの指先が一瞬だけ動く。されどもアンナは、気まぐれな猫のように歩き去ってしまうのだ。


 ルーのなんともいえない表情に、ティカは内心でほくそ笑んだ。


 分かりやすいヤツ。

 まぁ、好きな子にここまであおられるとね。

 それにしたって、これはいよいよ、夜が楽しみってやつじゃない?


 カーテンが閉じて、再び開く。ティカはうめいた。あぁもう、最高だよ。好きとか嫌いとか、そんな感情抜きに、今日一きょういちでアンナに似合っている。


 彼女が着ているのは、目の覚めるような青の生地に、白のレースが上品にあしらわれたワンピースだ。可愛らしさのなかにも、制服のような雰囲気が漂っているのは、水兵セーラー風のシルエットだからだろう。


 大きくつばを折り返した帽子を片手で押さえ、アンナが笑った。眩しい太陽の下、大切な誰かを見つけて無邪気に喜ぶ。少女というには大人っぽく、女性というには子供らしい、可憐かれんで美しい笑みだ。


 ティカは全身を震わせた。可愛い。これはもう優勝じゃない? っていうか、ボクもあわせて服を着てみたいし、並んで歩いて、野郎どもの視線をかっさらっちゃいたいよね……?


「あぁもう、アンナ!」ティカは思わず声を大きくした。「最高だよ! ちょっと首をかたむけてみて! いいね……すごくいい! せっかくだから、これにあわせて髪型も変えてみ、」


 駆け寄ろうとしたところで、店の外から悲鳴が響いた。アンナがはっと顔をこわばらせる。振り返ったティカは、窓越しに大きな黒い影が横切るのを目撃した。


 四足歩行だ。体のサイズは大人ほどもあり、全身を毛でおおわれている。


「最っ悪」


 ティカは舌打ちする。可愛いであふれた、夢のような時間がぶち壊しだ。


 現れたのは、魔女の未練みれんに違いなかった。

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