第5話 恋は人を盲目にする
ビルツ
「それで、
いい歳をした男の、開口一番の無邪気な問いかけだ。一緒についてきていたレイモンドが「どうするんだよ、これ」という視線をよこしてくるが、そうやって問いかけたいのはアンナのほうである。
というよりも、逃げ出したかった。
実際、同じ質問をしたのがアルヴィムなら、
でも、それができないのよ。アンナはなんとか自分に言い聞かせた。だって、相手は
かつての
アンナは覚悟を決めた。なんとかして話をそらそう、という覚悟だ。
「まぁ叔父様。久しぶりに会ったのに、そんな話から始めるなんて」アンナは向かいに座りながら、レイモンドに機嫌よく目配せした。「申し訳ないのだけれど、お茶を用意してもらえるかしら」
レイモンドが出ていくのを確認してから、アンナは切り出した。
「それにしたって、叔父様が屋敷にいらっしゃるなんて。突然でびっくりしたのだわ」
「おや。アルヴィムに
また、ではなく、ほぼいつもよ……という
ダグラスが天井を見上げ、「そうだね」とのんびりと言う。
「私が今、議会に呼ばれているのは知っているね?」
「えぇ」アンナは背筋を正して頷いた。「わたくしの代わりに、よね」
革命後、この国は議会によって治められることとなった。けれど、はじめから全てを民に任せるわけにもいかない。アンナ・ビルツは設立初期の議会に必要最低限の知識を貸し、彼女が記憶を失ったあとは、叔父のダグラスがこれを引き継いだ。
当の男はしかし、
「そう緊張しなくていいんだよ。
貴婦人と世間話をするときのような軽い口調だったので、ダグラスのそれは冗談だろう。アンナが気になったのは、『少し前までは』という前置きのほうだった。
「今は、なにか別のことで呼ばれてらっしゃるの?」
ダグラスが笑みをおさめた。ちらりと
「魔女のことで、色々とだ。君が魔女と
「それだけじゃないわ」アンナははっきりと言った。「みんなは大切な友人で、家族のようなものよ」
「素晴らしい。良いことだ」ダグラスはにっこりと笑った。「ならば、恋人のような関係が
「あっ、えっ、と……」
しまった。話がふりだしに戻ってしまった。
レイモンドが紅茶を運んできた。全然進展がないじゃないか、という無言の非難に、アンナは首をすくめる。
ダグラスは紅茶に口をつけ――
「さて。私が屋敷に来た理由だが」レイモンドが席に座るのを待って、ダグラスは穏やかに言う。「私はね、アンナ。君の
アンナは紅茶を変なふうに飲み込んでしまい、思わず咳き込んだ。レイモンドが疑いの眼差しを向ける。
ダグラスは、年を重ねた人間らしい困り顔で、苦笑いした。
「ひとつ言っておくと、先の
「……えぇ、まぁ、そう仰るのなら」レイモンドはまったく納得していない顔つきで言った。「ですが、どうしてまた、婿探しを?」
「そりゃあ君。
ダグラスが肩をすくめた。
レイモンドに無言で説明を促され、アンナは身を縮こまらせながら口を開く。
「婚約者が、いるのよ。わたくしには。メレトスさまっていう……」アンナはちらりとダグラスを見やった。「でも、叔父様。『元』というのは、どういうことかしら……?」
「文字どおりだよ」ダグラスは待ってましたとばかりに応じる。「メレトス・ハンザは
二本指でも立てそうなほど嬉しげな報告に、アンナは目を丸くして繰り返した。
「婚約破棄」
「そう」ダグラスはにっこりと笑いつつ、両手で何かをひねって千切る動作をした。「こう、いいかんじにね。断っておいたんだ」
レイモンドが、明らかに物騒なことしてるだろ、という顔つきをする。
アンナもまったく同じ気持ちだ――けれど、心のどこかでは身勝手にも喜ぶ自分がいた。
だって、ルーさまに好きって伝えてもいいってことでしょう。
あるいは、それ以上の関係になることだって出来るかもしれない。
「でもね。おじさんは、ルー・アージェントはおすすめしないな」
幼子をたしなめるようなダグラスの言葉に、アンナははっとした。叔父は、彼女の気持ちを見抜いているかのような眼差しで、首を横に振る。
「主人と従者という関係はね、
アンナが何も言わないので、ダグラスは気を取り直すように明るい声で続けた。
「なにより、視野を広げるのもいいものだよ。幸い、他にも良い人はいっぱいいるだろう? ディエンくんは思慮深くて、子供を愛する優しい心をもっているし。隣にいるレイモンドくんだって、なかなかの整った顔だ。なにより、紅茶の美味い人間に悪人はいないからね。あぁもちろん、ここにいる人間で無理に決める必要も、」
「る、ルーさまと、わたくしは!」
アンナは、ダグラスの言葉を遮って立ちあがった。反発心がぐっと膨らみ、思わず声が上ずる。
「主人と従者という関係ではないわ。それに、彼にだって、いいところはたくさんあるの」
「恋は人を盲目にする」ダグラスが少しばかり憐れむように言った。「
「わたくしは冷静よ。とってもね」
少しも説得力のない声音で言って、アンナは
大股で廊下を歩き、階段をのぼる。
あんなの、ルーさまへの悪口だわ。アンナは怒りで震える心臓を、
だって、ルーさまと、レイモンドさんたちの間には、なんの違いもない。
あるとすれば、わたくしが誰を好きと思うか、それだけの違いだけ。
「……そうよ」アンナは立ち止まり、大きく息を吐いて呟いた。「結局は、そういうことなのだわ」
アンナは、ティカとフラウの私室へ駆け込んだ。魔女二人が何かを言う前に、こう宣言する。
「わたくし、ルーさまを夢中にさせてみせるわ。他の女の人のことなんて、考えられなくなるくらい」
窓際に腰かけていたティカが、待ってました、とばかりに顔を輝かせた。
「もしかして、いよいよ、ルーが君に告白する、」
「いいえ。わたくしがルーさまに好きとお伝えするの。七日後に」
「……あれ、そっち?」
ティカが妙な方向になってきたぞ、という顔つきで呟くが、決意に燃えるアンナの耳には届かない。
ルーさまが、わたくしのことを好きになってくれなくてもいい……なんて、弱気な考えは捨てるべきよ。
だって、先に好きになったのはわたくしなのだから――彼に好いてもらう努力だって、精一杯にすべきなのだわ。
そうして告白して、幸せな恋人同士になるのだ。どんな言葉を尽くすよりも、アンナ自身の意思を明確に示すことのほうが、
*****
あぁまったく、誰かの前で好きと宣言するなんて。
「馬鹿らしいと思ってますが?」
「ほらなぁ! やっぱり!」
アルヴィムの
屋敷へ戻ろうとした矢先に
ティカ・フェリスの告白に関する提案をどう思うか。
アンナの先生にして、かつての〈
「そんな態度じゃ駄目だよ、ルー。
「とられるなんて」ティカの顔が脳裏をよぎり、ルーは
それに、自分と彼女の間柄は、親密以上の何かのはずだ。昨晩の二人きりの時間と、手のひらに残る彼女の肌の感触を思い出して、ルーは口を閉じる。
世界中の幸福と、心地よい緊張と、無邪気な満足感を、一つに集めて
そうだとも。ルーは苛々と心の中で繰り返す。自分たちは互いに恋をしている。ならば今さらどうして、ティカ・フェリスごときの思いつきに、振り回される必要があるのか。
「でも君。
アルヴィムの鋭い指摘に、ルーの思考が停止する。何度かの失敗が蘇り、彼は目を泳がせた。
「……それは……そういう機会がなかっただけで」
「無能の言い訳だね」
「機を狙っているだけです」ルーはそれらしい言葉を繰り返した。「何事にも相応しい時がある。そう教えてくれたのは、あなたでしょう。先代」
アルヴィムが鼻先で笑う。
「臆病になりすぎて、
「彼女は獲物では、」
「君は」アルヴィムはきっぱりと言った。「結局のところ、気恥ずかしさに負けてるんだ。違うかい?」
「……彼女の意思を尊重すべきと、考えているだけです」
ルーはなんとか、残りの五割の理由を述べた。もちろん、残りの五割はアルヴィムの指摘のとおりだったが。
アルヴィムの白けた視線に、ルーは咳払いをする。
「とにかく、このことで余計な口出しはしないでください」
「えぇー」アルヴィムが口をとがらせた。「それじゃあ、絶対に進展しないと思うけどなぁ」
「面白がっているだけでしょう。まったく……昨日はあんなに大人しかったのに、どうしてこういうことばかり、口が回るのか……」
「なんだい、子供扱いは良くないぞ。俺は君よりも大人なんだからね。ま、永遠の二十九歳なわけだけどさ」
アルヴィムが胸に手を当てて、得意げに笑う。ルーは急に馬鹿らしくなって、屋敷へ足を向けた。
「それに」アルヴィムが思い出したように言った。「昨日は黙っている必要があったのさ。レイモンド・ラメドがどこまで知っているか、確認しておきたくてね」
ルーは足を止めて振り返った。
日陰のなか、アルヴィムはかすかな笑みを浮かべている。
どこか謎めいた笑みだ。
うずうずと唇の端が動いていることを除けば。
さらにいえば、こちらの反応を期待するかのような――若葉色の目の輝きも、見なかったことにするのなら。
「……ちっ」
ルーの舌打ちに、アルヴィムが大げさなくらいに傷ついた顔をした。
「ちょっとちょっと、ルー!? その反応は失礼じゃあないかい? もっとこう、あるだろ。どうして教えてくれなかったんですか、とか。何を知ってるんですか、とかさ?」
「それを聞いたとして、真面目に答えてくれるんですか?」
「いや、答えないけ……わーっ、待って待って。冗談だってば! 俺を置いて行かないでよっ。寂しいから!」
自称永遠の二十九歳の寂しさほど、どうでもいいものはない。されども、アルヴィムが腕にすがってきたので、ルーは仕方なく日陰の縁で立ち止まった。
一滴の涼しさを混ぜ込んだ、ぬるい夏風が吹く。陽光に照らされた草木がいっせいに葉をそよがせた。日陰から眺める世界は美しく、あと一歩踏み出すだけで手が届く。
それは、幸福なことだ。
今までの自分からは考えられないほどの、幸いだ。
ルーは息をつき、表情を緩めた。
「必要以上に疑うことはしない、と約束したんです。アンナと」ルーは、いくばくかの信頼をこめて、アルヴィムをちらと見やった。「なにより、先代はレイモンド・ラメドのことを危険だとは思っていないのでしょう? ならば、無理に聞く必要はない……少なくとも、今の僕はそう判断しました」
アルヴィムはあっけにとられた表情をしていたが、やがて、その顔にじわじわと喜びの色が広がった。
「ルー……君ってやつは……!」アルヴィムは感極まったように声をつまらせた。「いつの間に、こんなに成長したんだい!? 少し前までは、近づく人間は全員殺すみたいな雰囲気だったのに……!」
ルーは思わず顔をしかめた。
「……さすがに、そこまでではなかったと思うんですが」
「いいや、そうだったさ! おまけに、俺の話も、全然本気で聞いてくれなかったし!」
「聞いてはいますよ。話半分なだけで」
「あはは、
アルヴィムがからかうようにルーの背中を叩いた。
思いのほか強い力だ。けれどルーが文句を言おうとした時にはもう、白銀の髪の青年は
夏風が吹いた。ちり、と金属がこすれるような音がした。けれどきっとそれは気の
振り返ったアルヴィムが、穏やかな表情でうなずく。
「レイモンド・ラメドのことは信用していいよ。昨日の夜に彼が話したことは、すべて真実だ」
「そう、ですか」
「ほっとしたかい?」
「え?」
「そういう顔をしているよ」アルヴィムはくすくすと笑った。「まったく、君は本当に変わったね。一体誰のおかげか……なーんて、
ルーは反応に困って顔をそむけた。
まぁ、ルーさまったら――今の自分を見れば、きっと彼女はそう言って笑うのだろう。世界中の幸せを、ぎゅっと詰め込んだような明るい表情で。
その顔を想像するだけで、胸のあたりが暖かくなるのだから、本当に僕は、どうしようもない。
アルヴィムが、「あ」となにかに気づいたように呟く。
「もしかすると、こういう時間が欲しくて、アンナ・ビルツは
ルーは目を
「
「記憶を失う前の彼女だけれどね……そうか、君は知らないんだっけ」少しばかり考えたあと、アルヴィムは言葉を続けた。「革命が終わったあと、彼女は魔女たちと一緒に
ルーは頷いた。
逃げた庭師のかわりに、アンナ・ビルツは魔女の助けを得ることにしたのだ。冬のビルツ
「……彼女はわざわざ魔女を選んだ」ルーはゆっくりと言った。「そのことに意味がある、ということですか?」
「そういうことだ」出来のいい弟子を
「どうして
アルヴィムが苦笑する。
「レイモンドくんの説を採用するならね。けれど、ルー。実際には、薔薇十字については、何も分かっていないんだよ。だからこそ、色々な伝説や
ルーの脳裏にふと、一人で立ち尽くすアンナの姿が浮かんだ。背中を向けた彼女の考えは読めない。真っ白な世界で、ただ一人、何かを焦がれるように空を見つめている。
ただの想像だ。
それなのに、ちりとルーの胸が痛む。
「……それは、真実だったんですか?」
ルーが思わず尋ねれば、アルヴィムは「どうだろうねえ」と呟いた。
「結局、ビルツ
「……なにか、って」
「ううん? そうだなあ」アルヴィムは両腕を組んで考えた後、若緑色の目をぱっと輝かせた。「たとえば、
ルーが投げつけた短剣は、皮一枚の至近距離でかわされてしまった。木の幹に突き立った刃を眺め、アルヴィムが引きつった笑みを浮かべる。
「あ、あはは……怖いなー……ルーったらさ……」
「……どうして避けるんですか」
「いや、避けないと、俺死んでるんだけど!?」
死ぬべきではないが、その一言余計な口はなんとかして封じるべきだ。
とりあえずは、短剣が当たらなかった
*****
「紅茶、美味しかったね。感動したよ」
そんな言葉をかけられて、レイモンドはドアノブへ伸ばしていた手を止めた。
アンナが
正直なところ、レイモンドは面倒と感じていたし、苛立ってもいた。
なにせ、この屋敷の人間は全員のんきすぎるのだ。誰が誰を好きだとか。告白ができるとかできないとか。
子供かよ。
そんなことよりも、魔女の
――へぇ。それが今の君が考える正義ってわけ。かつての親友が心のなかでせせら笑い、レイモンドはぐっと手を握りしめる。
「褒めて頂けて、光栄です」
元王族が好きそうな愛想笑いを浮かべながら、レイモンドは振り返る。
アンナの叔父は、テーブルの上で指を組んだ。整えられた口ひげも、品のいい老紳士といった
それなのに、レイモンドは一瞬だけ鋭い視線を感じた。
「君はアンナと仲がいいのかい」
ダグラスの穏やかな声に、レイモンドは、はっと身震いした。目の前の老紳士は人好きのする笑みを浮かべている。
見間違いだったのか。
いいや、そう判断するのは軽率すぎる。
「どうでしょうか」呼吸一つにも満たない間に違和感を
「そうか。いやなにね。こうやって、あの子と一緒に
それは、アンナが勝手にルーと距離を置いているせいだ。この上なく面倒くさくて、馬鹿らしい恋愛模様を説明するのも
「偶然ですよ。それで、ご要件は?」
ダグラスが、ちらとテーブルの脇に積んだ本の山を見やった。
間の悪いことに、一番上に置かれていたのは星図の本だ。レイモンドが目をそらしたところで、ダグラスが口を開く。
「君に、ルーのことを調べてほしい」
レイモンドは思わず
「調べる、ですか? 何を?」
「すべてを、だ。彼がアンナにふさわしい男かどうか
それこそ違和感のある依頼だな。レイモンドは胸中で十五点をつけた。でも、ただののろけ話というわけでもなさそうだ。
いささか興味をひかれたので、レイモンドは表情を緩めて返事をする。
「……随分とまた、
「そうだな。曖昧だ。だが、それこそが最大の手がかりであるようにも思えてね」
「具体的には?」
「この屋敷は綺麗すぎるし、穏やかすぎる。まるで、三年前の革命のことなど、なかったかのようだ」ダグラスは言った。「もちろん、真実、そうであるのならばいいのだがね。何か良からぬことを隠すために、
目の前の男が急に老けこんだように見えた。
レイモンドがじっと観察するなか、ダグラスは話を続ける。
「アンナ・ビルツが魔女と暮らし始めた頃、彼女の相談役がアルヴィム・ハティだった。あの男と、ルー・アージェントは〈
「……そんな人間が、今さらアンナさんと仲良く暮らすはずがない、と?」
「それだけであれば、まだマシだがね。〈
ダグラスは一度言葉を切った。迷うような沈黙のあと、さらに言葉を付け足す。
「私見だが、アンナ・ビルツが魔女と暮らし始めたきっかけは、アルヴィムにあるのではないかと、私は思う。彼は魔女に何かを求めていて、だからアンナ・ビルツに魔女と暮らすよう助言した。この屋敷にいる限りは、外の人間の目をごまかせるからね」
「ずいぶんと具体的な話ですが……なにか根拠でも?」
「アンナ・ビルツからの昔の手紙に、妙な一言があった――『
レイモンドは背中にひやりと冷たいものを感じた。自室の
出来すぎだ。理性の半分が冷笑する。魔女の未練が現れ、
だが、どうだろう。これは絶好の機会とも考えられるんじゃないか。もう半分の理性で、レイモンドは慎重に考える。ダグラスにどんな真意があるにせよ、俺が薔薇十字と魔女の未練について知りたいと考えているのは事実だ。
だからこそ、ビルツ
レイモンドはダグラスをじっと見た。
「このことを、わざわざ俺に相談した理由をお聞かせ願えますか?」
「君のいれる紅茶が美味かったからだ」ダグラスは微笑んだ。「私がまだ王城に暮らしていた頃――親しかった教会の人間がよく
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