第5話 恋は人を盲目にする

 ビルツていの魔女たちへ挨拶あいさつを終え、土産に持ってきた美しい装丁の本の紹介をすませたダグラスは、食堂ダイニングの椅子に座ったまま、にこにこと微笑んだ。


「それで、愛しいお嬢さんマイ・レディは誰が好きなんだい?」


 いい歳をした男の、開口一番の無邪気な問いかけだ。一緒についてきていたレイモンドが「どうするんだよ、これ」という視線をよこしてくるが、そうやって問いかけたいのはアンナのほうである。


 というよりも、逃げ出したかった。

 実際、同じ質問をしたのがアルヴィムなら、ほおを叩いて会話を終わらせていたところだ。


 でも、それができないのよ。アンナはなんとか自分に言い聞かせた。だって、相手は叔父様おじさまなのだもの。


 かつての王弟おうてい、幼いアンナ・ビルツの教育者、今のアンナの事情を知る唯一の家族だ。ここまでそろって、無下むげにできるはずがない。


 アンナは覚悟を決めた。なんとかして話をそらそう、という覚悟だ。


「まぁ叔父様。久しぶりに会ったのに、そんな話から始めるなんて」アンナは向かいに座りながら、レイモンドに機嫌よく目配せした。「申し訳ないのだけれど、お茶を用意してもらえるかしら」


 レイモンドが出ていくのを確認してから、アンナは切り出した。


「それにしたって、叔父様が屋敷にいらっしゃるなんて。突然でびっくりしたのだわ」

「おや。アルヴィムに言伝ことづてしていたんだけどね」ダグラスはひょいとまゆをあげて苦笑した。「その様子だと、あいつはまた、君に伝え忘れていたらしい」


 また、ではなく、ほぼいつもよ……という愚痴ぐちめいた返事を、アンナはなんとか飲み込んだ。


 ダグラスが天井を見上げ、「そうだね」とのんびりと言う。


「私が今、議会に呼ばれているのは知っているね?」

「えぇ」アンナは背筋を正して頷いた。「わたくしの代わりに、よね」


 革命後、この国は議会によって治められることとなった。けれど、はじめから全てを民に任せるわけにもいかない。アンナ・ビルツは設立初期の議会に必要最低限の知識を貸し、彼女が記憶を失ったあとは、叔父のダグラスがこれを引き継いだ。


 当の男はしかし、柔和にゅうわに目を細める。


「そう緊張しなくていいんだよ。お嬢さんレディは本当によくやっていてね……少し前までは、せいぜい新しい国名をどうするか、っていう議論くらいにしか、私は呼ばれなかったのさ。一応、元王族の人間に、そういうことを聞く配慮の無さもどうかと思うけれどね」


 貴婦人と世間話をするときのような軽い口調だったので、ダグラスのそれは冗談だろう。アンナが気になったのは、『少し前までは』という前置きのほうだった。


「今は、なにか別のことで呼ばれてらっしゃるの?」


 ダグラスが笑みをおさめた。ちらりと厨房キッチンのほうを見やって、声を落とす。


「魔女のことで、色々とだ。君が魔女と結託けったくして、良からぬことをたくらんでいるとか。あるいは、魔女の力を奪う研究をしているとかね。とにかく議会の中には、アンナ・ビルツをけなすことだけに心血を注ぐやからがいる」いささか苛立ったように、ダグラスは息をついた。「まったく馬鹿げた能無し共だよ。君が魔女たちと暮らすことに、一切の問題はない。そうだろう? 結局のところ、庭師の代わりというだけのことなんだから」

「それだけじゃないわ」アンナははっきりと言った。「みんなは大切な友人で、家族のようなものよ」

「素晴らしい。良いことだ」ダグラスはにっこりと笑った。「ならば、恋人のような関係がはぐくまれていても、おかしくはないということだね。先の宣言もあったことだし」

「あっ、えっ、と……」


 しまった。話がふりだしに戻ってしまった。


 レイモンドが紅茶を運んできた。全然進展がないじゃないか、という無言の非難に、アンナは首をすくめる。


 ダグラスは紅茶に口をつけ――黒灰色チャコールグレーの目を嬉しげに輝かせて、さらに二口ほど続けて飲んだ。


「さて。私が屋敷に来た理由だが」レイモンドが席に座るのを待って、ダグラスは穏やかに言う。「私はね、アンナ。君の婿むこを探しに来たんだ。世間の悪意から君を守ってくれる、頼りがいのある婿をね」


 アンナは紅茶を変なふうに飲み込んでしまい、思わず咳き込んだ。レイモンドが疑いの眼差しを向ける。


 ダグラスは、年を重ねた人間らしい困り顔で、苦笑いした。


「ひとつ言っておくと、先のティカお嬢さんレディ・ティカの宣言のことは全く知らなかったんだよ。この点は偶然だ。私の地位と誇りにかけてね」

「……えぇ、まぁ、そう仰るのなら」レイモンドはまったく納得していない顔つきで言った。「ですが、どうしてまた、婿探しを?」

「そりゃあ君。愛しのお嬢さんマイ・レディ婚約者が、とんでもないボンクラだったからさ」


 ダグラスが肩をすくめた。

 レイモンドに無言で説明を促され、アンナは身を縮こまらせながら口を開く。


「婚約者が、いるのよ。わたくしには。メレトスさまっていう……」アンナはちらりとダグラスを見やった。「でも、叔父様。『元』というのは、どういうことかしら……?」

「文字どおりだよ」ダグラスは待ってましたとばかりに応じる。「メレトス・ハンザは婿むこにふさわしくない。あの婚約は、議会が君に押しつけたもので気に食わなかったし……聞けば君は、彼に暴力を振るわれていたそうじゃないか! まったく、私のちっちゃなお嬢さんマイ・リトル・レディがそんな目にあうなんて、おじさん、とても耐えられなくてね……! だから色々とがんばって、おじさんが婚約破棄こんやくはきしておきました!」


 二本指でも立てそうなほど嬉しげな報告に、アンナは目を丸くして繰り返した。


「婚約破棄」

「そう」ダグラスはにっこりと笑いつつ、両手で何かをひねって千切る動作をした。「こう、いいかんじにね。断っておいたんだ」


 レイモンドが、明らかに物騒なことしてるだろ、という顔つきをする。


 アンナもまったく同じ気持ちだ――けれど、心のどこかでは身勝手にも喜ぶ自分がいた。


 だって、ルーさまに好きって伝えてもいいってことでしょう。

 あるいは、それ以上の関係になることだって出来るかもしれない。


「でもね。おじさんは、ルー・アージェントはおすすめしないな」


 幼子をたしなめるようなダグラスの言葉に、アンナははっとした。叔父は、彼女の気持ちを見抜いているかのような眼差しで、首を横に振る。


「主人と従者という関係はね、ゆがみやすいものだ。今の君には、なかなか理解できないかもしれないが」


 アンナが何も言わないので、ダグラスは気を取り直すように明るい声で続けた。


「なにより、視野を広げるのもいいものだよ。幸い、他にも良い人はいっぱいいるだろう? ディエンくんは思慮深くて、子供を愛する優しい心をもっているし。隣にいるレイモンドくんだって、なかなかの整った顔だ。なにより、紅茶の美味い人間に悪人はいないからね。あぁもちろん、ここにいる人間で無理に決める必要も、」

「る、ルーさまと、わたくしは!」


 アンナは、ダグラスの言葉を遮って立ちあがった。反発心がぐっと膨らみ、思わず声が上ずる。


「主人と従者という関係ではないわ。それに、彼にだって、いいところはたくさんあるの」

「恋は人を盲目にする」ダグラスが少しばかり憐れむように言った。「私のお嬢さんマイ・レディ、冷静になって物事を見つめるのも、重要なことだよ」

「わたくしは冷静よ。とってもね」


 少しも説得力のない声音で言って、アンナは食堂ダイニングを飛び出した。


 大股で廊下を歩き、階段をのぼる。


 あんなの、ルーさまへの悪口だわ。アンナは怒りで震える心臓を、薔薇十字ロザリオごと握りしめた。いくら叔父様だって、言っていいことと、悪いことがあるのよ。


 だって、ルーさまと、レイモンドさんたちの間には、なんの違いもない。

 あるとすれば、わたくしが誰を好きと思うか、それだけの違いだけ。


「……そうよ」アンナは立ち止まり、大きく息を吐いて呟いた。「結局は、そういうことなのだわ」


 アンナは、ティカとフラウの私室へ駆け込んだ。魔女二人が何かを言う前に、こう宣言する。


「わたくし、ルーさまを夢中にさせてみせるわ。他の女の人のことなんて、考えられなくなるくらい」


 窓際に腰かけていたティカが、待ってました、とばかりに顔を輝かせた。


「もしかして、いよいよ、ルーが君に告白する、」

「いいえ。好きとお伝えするの。七日後に」

「……あれ、そっち?」


 ティカが妙な方向になってきたぞ、という顔つきで呟くが、決意に燃えるアンナの耳には届かない。


 ルーさまが、わたくしのことを好きになってくれなくてもいい……なんて、弱気な考えは捨てるべきよ。

 だって、先に好きになったのはわたくしなのだから――彼に好いてもらう努力だって、精一杯にすべきなのだわ。


 そうして告白して、幸せな恋人同士になるのだ。どんな言葉を尽くすよりも、アンナ自身の意思を明確に示すことのほうが、叔父おじも納得するはずなのだから。


 *****


 あぁまったく、誰かの前で好きと宣言するなんて。


「馬鹿らしいと思ってますが?」

「ほらなぁ! やっぱり!」


 アルヴィムのあきれ顔に、ルーはむっとした。


 屋敷へ戻ろうとした矢先に東屋ガゼボへ連れ込まれ、質問に応じた途端にこれである。その質問だって、そう、先の回答のとおりに馬鹿馬鹿しいものだ。


 ティカ・フェリスの告白に関する提案をどう思うか。


 アンナの先生にして、かつての〈王狼おうろう〉の長――すなわち、ルーにとっての師匠は、これみよがしにため息をつく。


「そんな態度じゃ駄目だよ、ルー。アンナ嬢レディ・アンナが、誰かにとられたら、どうするんだい?」

「とられるなんて」ティカの顔が脳裏をよぎり、ルーは眉間みけんに力を込めた。「ありえません。アンナは物ではないし……」


 それに、自分と彼女の間柄は、親密以上の何かのはずだ。昨晩の二人きりの時間と、手のひらに残る彼女の肌の感触を思い出して、ルーは口を閉じる。


 世界中の幸福と、心地よい緊張と、無邪気な満足感を、一つに集めて飴玉あめだまに閉じ込めた。そう形容するのが相応しい甘い余韻の残る時間だったし、何よりも重要なのは、アンナもきっと、同じ気持ちでいてくれたであろうということだ。


 そうだとも。ルーは苛々と心の中で繰り返す。自分たちは互いに恋をしている。ならば今さらどうして、ティカ・フェリスごときの思いつきに、振り回される必要があるのか。


「でも君。アンナ嬢レディ・アンナには好きと伝えてないんだろう?」


 アルヴィムの鋭い指摘に、ルーの思考が停止する。何度かの失敗が蘇り、彼は目を泳がせた。


「……それは……そういう機会がなかっただけで」

「無能の言い訳だね」

「機を狙っているだけです」ルーはそれらしい言葉を繰り返した。「何事にも相応しい時がある。そう教えてくれたのは、あなたでしょう。先代」


 アルヴィムが鼻先で笑う。


「臆病になりすぎて、獲物えものを取り逃がさないように、とも教えたけどね」

「彼女は獲物では、」

「君は」アルヴィムはきっぱりと言った。「結局のところ、気恥ずかしさに負けてるんだ。違うかい?」

「……彼女の意思を尊重すべきと、考えているだけです」


 ルーはなんとか、残りの五割の理由を述べた。もちろん、残りの五割はアルヴィムの指摘のとおりだったが。


 アルヴィムの白けた視線に、ルーは咳払いをする。


「とにかく、このことで余計な口出しはしないでください」

「えぇー」アルヴィムが口をとがらせた。「それじゃあ、絶対に進展しないと思うけどなぁ」

「面白がっているだけでしょう。まったく……昨日はあんなに大人しかったのに、どうしてこういうことばかり、口が回るのか……」

「なんだい、子供扱いは良くないぞ。俺は君よりも大人なんだからね。ま、永遠の二十九歳なわけだけどさ」


 アルヴィムが胸に手を当てて、得意げに笑う。ルーは急に馬鹿らしくなって、屋敷へ足を向けた。


 東屋ガゼボに落ちる藤棚ウィステリアの影を踏む。


「それに」アルヴィムが思い出したように言った。「昨日は黙っている必要があったのさ。レイモンド・ラメドがどこまで知っているか、確認しておきたくてね」


 ルーは足を止めて振り返った。

 日陰のなか、アルヴィムはかすかな笑みを浮かべている。


 どこか謎めいた笑みだ。


 うずうずと唇の端が動いていることを除けば。


 さらにいえば、こちらの反応を期待するかのような――若葉色の目の輝きも、見なかったことにするのなら。


「……ちっ」


 ルーの舌打ちに、アルヴィムが大げさなくらいに傷ついた顔をした。


「ちょっとちょっと、ルー!? その反応は失礼じゃあないかい? もっとこう、あるだろ。どうして教えてくれなかったんですか、とか。何を知ってるんですか、とかさ?」

「それを聞いたとして、真面目に答えてくれるんですか?」

「いや、答えないけ……わーっ、待って待って。冗談だってば! 俺を置いて行かないでよっ。寂しいから!」


 自称永遠の二十九歳の寂しさほど、どうでもいいものはない。されども、アルヴィムが腕にすがってきたので、ルーは仕方なく日陰の縁で立ち止まった。


 一滴の涼しさを混ぜ込んだ、ぬるい夏風が吹く。陽光に照らされた草木がいっせいに葉をそよがせた。日陰から眺める世界は美しく、あと一歩踏み出すだけで手が届く。


 それは、幸福なことだ。

 今までの自分からは考えられないほどの、幸いだ。


 ルーは息をつき、表情を緩めた。


「必要以上に疑うことはしない、と約束したんです。アンナと」ルーは、いくばくかの信頼をこめて、アルヴィムをちらと見やった。「なにより、先代はレイモンド・ラメドのことを危険だとは思っていないのでしょう? ならば、無理に聞く必要はない……少なくとも、今の僕はそう判断しました」


 アルヴィムはあっけにとられた表情をしていたが、やがて、その顔にじわじわと喜びの色が広がった。


「ルー……君ってやつは……!」アルヴィムは感極まったように声をつまらせた。「いつの間に、こんなに成長したんだい!? 少し前までは、近づく人間は全員殺すみたいな雰囲気だったのに……!」


 ルーは思わず顔をしかめた。


「……さすがに、そこまでではなかったと思うんですが」

「いいや、そうだったさ! おまけに、俺の話も、全然本気で聞いてくれなかったし!」

「聞いてはいますよ。話半分なだけで」

「あはは、辛辣しんらつぅ!」


 アルヴィムがからかうようにルーの背中を叩いた。


 思いのほか強い力だ。けれどルーが文句を言おうとした時にはもう、白銀の髪の青年は東屋ガゼボの外へ踏み出している。


 夏風が吹いた。ちり、と金属がこすれるような音がした。けれどきっとそれは気の所為せいで、美しい庭がルーを待ってくれているだけなのだった。


 振り返ったアルヴィムが、穏やかな表情でうなずく。


「レイモンド・ラメドのことは信用していいよ。昨日の夜に彼が話したことは、すべて真実だ」

「そう、ですか」

「ほっとしたかい?」

「え?」

「そういう顔をしているよ」アルヴィムはくすくすと笑った。「まったく、君は本当に変わったね。一体誰のおかげか……なーんて、野暮やぼなことは言わないけどさ」


 ルーは反応に困って顔をそむけた。


 まぁ、ルーさまったら――今の自分を見れば、きっと彼女はそう言って笑うのだろう。世界中の幸せを、ぎゅっと詰め込んだような明るい表情で。


 その顔を想像するだけで、胸のあたりが暖かくなるのだから、本当に僕は、どうしようもない。


 アルヴィムが、「あ」となにかに気づいたように呟く。


「もしかすると、こういう時間が欲しくて、アンナ・ビルツは薔薇十字ロザリオを研究していたのかな」


 ルーは目をしばたいた。


薔薇十字ロザリオを研究、ですか。アンナが?」

「記憶を失う前の彼女だけれどね……そうか、君は知らないんだっけ」少しばかり考えたあと、アルヴィムは言葉を続けた。「革命が終わったあと、彼女は魔女たちと一緒に裏庭バックガーデンの世話をすることになった。そのことは知っているね?」


 ルーは頷いた。


 逃げた庭師のかわりに、アンナ・ビルツは魔女の助けを得ることにしたのだ。冬のビルツていで、アンナが語ってくれた言葉を思い出し――そこでふと、違和感に気づく。


「……彼女はわざわざ魔女を選んだ」ルーはゆっくりと言った。「そのことに意味がある、ということですか?」

「そういうことだ」出来のいい弟子をめるように、アルヴィムがちらと笑顔を見せた。「正確に言えば、彼女は薔薇十字ロザリオを探していた。もちろん、魔女たちとの生活も楽しんでいたみたいだけどね」

「どうして薔薇十字ロザリオを? あれは、魔女の未練のえさのようなものでしょう?」


 アルヴィムが苦笑する。


「レイモンドくんの説を採用するならね。けれど、ルー。実際には、薔薇十字については、何も分かっていないんだよ。だからこそ、色々な伝説やうわさがあって――アンナ・ビルツが特に注目していたのが、『無垢むく薔薇十字ロザリオが願いを叶える力を持つ』という噂だった」


 ルーの脳裏にふと、一人で立ち尽くすアンナの姿が浮かんだ。背中を向けた彼女の考えは読めない。真っ白な世界で、ただ一人、何かを焦がれるように空を見つめている。


 ただの想像だ。

 それなのに、ちりとルーの胸が痛む。


「……それは、真実だったんですか?」


 ルーが思わず尋ねれば、アルヴィムは「どうだろうねえ」と呟いた。


「結局、ビルツていを訪れた魔女のなかに、薔薇十字ロザリオを持つ者はいなかったからなぁ。確かめようがないというのが正直なところさ。まぁ、その気があるのなら、君が試してみてもいいけどね。なんといっても、アンナ嬢レディ・アンナが持っているのは、君の薔薇十字ロザリオだ。なにか願いをかければ、叶えてくれるかもしれないよ?」

「……なにか、って」

「ううん? そうだなあ」アルヴィムは両腕を組んで考えた後、若緑色の目をぱっと輝かせた。「たとえば、アンナ嬢レディ・アンナとの甘くて情熱的なしょ、や、」


 ルーが投げつけた短剣は、皮一枚の至近距離でかわされてしまった。木の幹に突き立った刃を眺め、アルヴィムが引きつった笑みを浮かべる。


「あ、あはは……怖いなー……ルーったらさ……」

「……どうして避けるんですか」

「いや、避けないと、俺死んでるんだけど!?」


 死ぬべきではないが、その一言余計な口はなんとかして封じるべきだ。


 とりあえずは、短剣が当たらなかったらしでもしようと、ルーは夏の庭へ足を踏み出した。


 *****


「紅茶、美味しかったね。感動したよ」


 そんな言葉をかけられて、レイモンドはドアノブへ伸ばしていた手を止めた。


 アンナが食堂ダイニングを飛び出し、仕方なく彼女の叔父おじと意味もない会話を重ね、適当なところで切り上げた。その矢先のことだ。


 正直なところ、レイモンドは面倒と感じていたし、苛立ってもいた。


 なにせ、この屋敷の人間は全員のんきすぎるのだ。誰が誰を好きだとか。告白ができるとかできないとか。婚約者こんやくしゃがどうだとか。


 子供かよ。

 そんなことよりも、魔女の未練みれんへの対策を考えるべきだろ。


 ――へぇ。それが今の君が考える正義ってわけ。かつての親友が心のなかでせせら笑い、レイモンドはぐっと手を握りしめる。


「褒めて頂けて、光栄です」


 元王族が好きそうな愛想笑いを浮かべながら、レイモンドは振り返る。


 アンナの叔父は、テーブルの上で指を組んだ。整えられた口ひげも、品のいい老紳士といった風貌ふうぼうも、貴婦人ならばチャーミングと騒ぎそうな笑みも先と変わらない。


 それなのに、レイモンドは一瞬だけ鋭い視線を感じた。

 たかのような……ではない。写本で見かけた、ドラゴンのような。


「君はアンナと仲がいいのかい」


 ダグラスの穏やかな声に、レイモンドは、はっと身震いした。目の前の老紳士は人好きのする笑みを浮かべている。


 見間違いだったのか。

 いいや、そう判断するのは軽率すぎる。


「どうでしょうか」呼吸一つにも満たない間に違和感を吟味ぎんみし、レイモンドは当たりさわりのない返事をすることにした。「俺は、今年の春からここに来た身ですから。仲が悪いというわけではないと思いますけど」

「そうか。いやなにね。こうやって、あの子と一緒に食堂ダイニングまで来てくれたものだから」


 それは、アンナが勝手にルーと距離を置いているせいだ。この上なく面倒くさくて、馬鹿らしい恋愛模様を説明するのも億劫おっくうで、レイモンドは肩をすくめる。


「偶然ですよ。それで、ご要件は?」


 ダグラスが、ちらとテーブルの脇に積んだ本の山を見やった。

 間の悪いことに、一番上に置かれていたのは星図の本だ。レイモンドが目をそらしたところで、ダグラスが口を開く。


「君に、ルーのことを調べてほしい」


 レイモンドは思わずまゆをひそめた。


「調べる、ですか? 何を?」

「すべてを、だ。彼がアンナにふさわしい男かどうか吟味ぎんみしたい、というのが主目的だが」あぁなるほど親馬鹿か、とレイモンドがしらけたところで、ダグラスはさらに言葉を続けた。「この屋敷そのものに、私は違和感を覚えていてね。それを明らかにしてほしい」


 それこそのある依頼だな。レイモンドは胸中で十五点をつけた。でも、ただのというわけでもなさそうだ。


 いささか興味をひかれたので、レイモンドは表情を緩めて返事をする。


「……随分とまた、曖昧あいまいですね」

「そうだな。曖昧だ。だが、それこそが最大の手がかりであるようにも思えてね」

「具体的には?」

「この屋敷は綺麗すぎるし、穏やかすぎる。まるで、三年前の革命のことなど、なかったかのようだ」ダグラスは言った。「もちろん、真実、そうであるのならばいいのだがね。何か良からぬことを隠すために、上辺うわべだけの美しさをよそおっているのなら、話は別だ」


 目の前の男が急に老けこんだように見えた。心労しんろうのせいか。ならば原因はなんだろう。


 レイモンドがじっと観察するなか、ダグラスは話を続ける。


「アンナ・ビルツが魔女と暮らし始めた頃、彼女の相談役がアルヴィム・ハティだった。あの男と、ルー・アージェントは〈王狼おうろう〉という組織に所属していた人間だ。国王の直属で、かぎを使って命じられれば、どんな仕事であろうと確実にこなす。彼らが最後に受けた命令は、国王に反意を示したアンナ・ビルツを殺すことだった」

「……そんな人間が、今さらアンナさんと仲良く暮らすはずがない、と?」

「それだけであれば、まだマシだがね。〈王狼おうろう〉の連中は、我々が思う以上にさかしい」


 ダグラスは一度言葉を切った。迷うような沈黙のあと、さらに言葉を付け足す。


「私見だが、アンナ・ビルツが魔女と暮らし始めたきっかけは、アルヴィムにあるのではないかと、私は思う。彼は魔女に何かを求めていて、だからアンナ・ビルツに魔女と暮らすよう助言した。この屋敷にいる限りは、外の人間の目をごまかせるからね」

「ずいぶんと具体的な話ですが……なにか根拠でも?」

「アンナ・ビルツからの昔の手紙に、妙な一言があった――『無垢むく薔薇十字ロザリオこそが、望みを叶える唯一のしるべ』、と書かれていたんだ」


 レイモンドは背中にひやりと冷たいものを感じた。自室の抽斗ひきだしに隠した差出人不明の手紙――そこに書かれた文言と、一言一句違わず同じだ。


 出来すぎだ。理性の半分が冷笑する。魔女の未練が現れ、薔薇十字ロザリオの意義について、アンナたちに説明した。その矢先に、薔薇十字に絡む相談を持ちかけられることがあるだろうか。


 だが、どうだろう。これは絶好の機会とも考えられるんじゃないか。もう半分の理性で、レイモンドは慎重に考える。ダグラスにどんな真意があるにせよ、俺が薔薇十字と魔女の未練について知りたいと考えているのは事実だ。


 だからこそ、ビルツていにやってきたのだから。


 レイモンドはダグラスをじっと見た。


「このことを、わざわざ俺に相談した理由をお聞かせ願えますか?」

「君のいれる紅茶が美味かったからだ」ダグラスは微笑んだ。「私がまだ王城に暮らしていた頃――親しかった教会の人間がよくれてくれた味と、瓜二うりふたつだったよ。だから、君のことは信用に足ると判断したんだ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る