第4話 知らない女に負けっぱなしでいいわけ?

 たちの悪いことに、自分は過去の自分自身にさえ嫉妬しっとしているのだ。さらにのは、その気持ちに少しだって折り合いをつけられないまま、夜を明かしてしまったことなのである。


 結果、アンナは考えすぎて体調不良になり、翌日は朝食もそこそこに寝室へ引き上げる羽目になった。


 アンナは閉じたまぶたの上に片腕を置いた。鳥のさえずりとともに、肌に太陽のぬくもりを感じる。ベッドへ戻って、どれくらい時間が経ったのだろう。とにかく、うとうとしていたのだけは間違いない。部屋は少し暑いくらいだった。


 きっと、もうすぐ昼食よね。アンナはルーのことを思い出し、ひっそりとため息をついた。でも、起きたくない。


「恋のひけつ、そのさん。本命の男の前では、嫌な心を見せないこと」


 そのとおり、嫉妬しっとをする女の子は可愛くないのよ。


「恋のひけつ、そのよん。寂しいと伝えるのはほどほどに」


 四六時中ずっと一緒にいないと不安なんて、重い女すぎて嫌気がさしてしまうに違いないわ。


「恋のひけつ、その、」


 だから。


「待った」何気なく聞いていた声にはっとして、アンナはベッドから飛び起きた。「どうして、あなたたちがここにいるの?」


 ベッドの端にちょこんと腰かけた双子ふたごが、同時に振り向いた。『熱々アツアツ恋愛指南書~花の乙女の恋の歩き方~』の裏表紙を握るのが赤毛のヴィナ、表表紙を握るのが金髪のニケだ。


 アンナは慌てて二人から本を取り上げた。双子は互いに目配せし、アンナのほうをじっと見る。


「レイモンドのくれた退屈な本より面白いね。マミィ」

「ダディというものがありながら、浮気しようとしているんだね。マミィ」

「わたしたちという可愛い子どもがありながら!」

「……わたくしは、あなたたちのお母さんではないのよ」アンナは双子の合唱にため息をついた。「ねぇ、教えて。どうして、あなたたちはわたくしの部屋にいるの?」


 ヴィナとニケは悪びれもせずに答えはじめた。とにかく二人の声の調子はぴたりと一緒で、どちらが喋っているのか、途中からアンナも判別できなくなるほどだ。


「お屋敷の探検にあきちゃった」

「お部屋にもどっても、ダディはどこにもいないし」

「レイモンドは、私達のことがうるさいって」

「ろとうに迷った、かわいそうなわたしたち!」

「けれどさいわいにして、マミィのお部屋が開いてたのです」

「マミィを起こさないように、二人でご本を読んでたのよ。とびきりかわいい桃色ピンクの本で」

「でも、ちょっと分からないところもあったね」


 ひとしきり交互に話したあと、双子は無垢むくな眼差しでアンナを見上げた。


「どうして、男のひとと女のひとが一緒のおふとんで寝ると、子供ができるの」


 *****


「それで、パンケーキで口封くちふうじってわけ?」

「……だって、答えられないじゃない……子供の作り方なんて……」


 ティカの呆れた視線に肩を落としながら、アンナはフライパンにパンケーキの生地を落とした。


 昼食前の厨房キッチンに甘い香りが漂う。満月の形をした、つやつやとした生地になぐさめられながら、アンナはふと疑問に思って後ろを振り返った。


 作業台でスープ用の野菜を刻んでいるのはフラウだ。そのそばで、いかにも『見守るのが仕事です』と言わんばかりの顔つきで、ティカが丸椅子に座っている。


 アンナは尋ねた。


「ティカさん。今日はやけに早くから、ここにいるのね?」


 すまし顔から一転、ティカが居心地悪そうに目をそらす。


「食事当番だからだよ」

「嘘。いつもフラウさんに任せきりじゃない。あなたが来るのは、いつだって、配膳はいぜんの頃だし」

「う、うるさいなあ。適材適所ってやつで、空気読んでるんだよ。ていうかね、ボクだって本気を出せば、料理くらいできるんだから」

「んふ」包丁ほうちょうを動かしながら、フラウが陰気に笑った。「強がってるティカちゃん、可愛いね……」

「強がってもない」すかさず反論したあと、ティカは両腕を組んだ。「というか、アンナこそ大丈夫なわけ。体調悪いなんて珍しすぎでしょ」

「それは……だって……」


 ルーさまとの関係に悩んで眠れなかったの、という言葉を持て余して、アンナは口を閉じた。ため息のかわりにパンケーキをひっくり返す。


 まさか昔の自分に嫉妬しっとしているなんて、言えるはずがない。そもそもティカには、記憶喪失であることも伝えてないのだから。


 何とも言えない沈黙が落ちた。さりげなく振り返ったアンナは、同じように自分のほうを眺めていたらしいティカと目があう。


 互いに慌てて視線をそらした。


 そらしたものの、アンナはふと、ティカが自分に何かを相談したがってるんじゃないか、ということに気づく。そして、それはどうもティカも同じだったらしい。


「……あの、さ」ティカがいささか尊大に切り出した。「悩みとかあるなら、聞くけど。つまり、体調崩しちゃうくらいの相談ってことならさ」

「それをいうなら、ティカさんだって」アンナは苦労してパンケーキを皿へのせながら言った。「何か、わたくしに言いたいことがあるんじゃない? たとえばその……うっかり厨房キッチンに早く来ちゃうくらいの、困りごとというか」


 再びの沈黙。規則正しく響く包丁の音。ほとんど意味のない無言の駆け引き。


 最初に口火を切ったのは、フラウだった。


「じゃあ……私の恋の話……聞いてくれる……ティカちゃん……」


 アンナたちは驚いてフラウを見やった。え、嘘。今の聞き間違いじゃなかったよね、という心の声は、間違いなく二人の間で一致していたはずだ。


「恋って……」ティカがまじまじとフラウを見つめた。「フラウが? 四六時中しろくじちゅうボクのこと見てるくせに?」

「ふ、えへ……えへへ……」フラウはだらしなく笑った。「もちろん、ティカちゃんのことは好きだよ……一番はね、変わらないから安心して……」

「ありがと……っていやいや、そうじゃなくて!」ティカは身を乗り出した。「誰なの、相手は?」

「あの、白くてふわふわのお兄さん……」


 うっとりとフラウがつぶやいたので、アンナとティカは顔を見あわせた。


「アルヴィム先生のことだわ……」

「ちょっと、なんでよりにもよって、あんな得体の知れない男なんだよ……アンナ。その辺の監督かんとくはしっかりすべきなんじゃないの」

「そんな……! わたくしは先生の保護者じゃないのよ。そんなこと言われても困るし、むしろフラウさんに手を出した先生が許せな、」

「お兄さんは……」フラウが夢見心地の言葉で、アンナたちの言い争いを遮った。「強いんでしょ……うふ……ふふふ……強い人は何でも守れるもの……私が守りたいのはティカちゃんだけ……だけどね……強い人は……好き……」


 片手に包丁を持っていることも相まって、なんというかこう、どこかの戦闘部族のような恋の理由だ。


 もちろん、誰かを好きになる理由なんて、自由であるべきだけれど。結論らしきものに辿り着いたところで、ルーの姿が脳裏をよぎり、アンナの気分が沈む。


 誰かを好きになる理由と同じくらい、誰を好きになるかという自由もあるはずだ。


 だから、ルーさまが昔のわたくしのことを好きだったとしても、それを否定することはできないのよ。


 ひとしずくぶんの涙がこぼれそうになったところで、黒のワンピースが軽く引っ張られた。赤毛と金髪。女の子と男の子。


 ヴィナとニケは、服のすそをつかんだまま、アンナを見上げる。


「マミィ、だいじょうぶ? 泣きそう?」

「誰かにいじめられた?」

「悪い男は、正義の味方がやっつけようか?」


 双子たちがあまりにも真剣に言うので、アンナは目元をぬぐってごまかしながら微笑む。


「大丈夫よ。ちょっと目にゴミがはいっただけ」

「っていうのは、建前だね」


 ティカがねぎらうように、子供たちの肩を叩いた。黒髪の少女は床に膝をつき、双子たちと同じ位置からアンナを見上げてみせる。


「悩み事があるんでしょ。それも、ボクに相談したいやつがさ。当ててみせようか。きっとルーのことだ」


 先に相談しなよ、といわんばかりの勝ち誇ったティカの口調に、アンナは思わず唇をとがらせた。


「あっ、ティカさん。ずるい」

「ずるくもなんともない。そもそも、ボクの相談は急ぎじゃないし、このまま何もなければ、問題にもならないはずなんだから」ティカはそっけなく言って、アンナを見た。「それで? とうとうルーに告白でもされた?」


 えっ、とヴィナとニケが目を丸くしたので、アンナは慌てて首を横に振った。


「違うのだわ! その、えっと……」アンナは仕方なく、慎重に言葉を選ぶ。「ルーさまには、他に好きな人がいるんじゃないのかしらって……それだけよ」

「……は?」


 ティカの声が一段低くなったので、双子どころかアンナもびくりと肩を震わせてしまった。野菜を切り終えたフラウが楽しげに言う。


「へ、へへ……ティカちゃん、いらいらしてるね……」

「えええ……どうし、」


 アンナの戸惑いの声は途切れた。立ち上がったティカが、ずいと顔を寄せてきたからだ。


「どうして?」アンナの言葉の続きをゆっくりと繰り返し、ティカが不機嫌そうに言った。「こっちのセリフだよ。どうして、まだそんなことで悩んでるわけ?」


 剣幕けんまくにおされて、アンナは思わず目をそらした。


「そっ、そんなことって……」

「ボクはあいつのこと好きじゃないし、あいつはボクのことを好きじゃない。このことは何回も言ってるし、なんなら見りゃ分かるでしょ? それなのに、なにさ? 君ったら、春から今まで、何度も何度も同じところをぐるぐる、ぐるぐると犬みたいに……!」

「だって、仕方ないじゃない!」アンナは必死に反論した。「ルーさまの好きな人が、今の人とは限らないでしょう……っ!」


 ティカが両腕を組んで黙り込んだ。納得したというより、「あぁそう。そうくるんだ、ふうん」という顔つきだ。


 双子のヴィナとニケが心配そうに意見した。


「ねぇ。マミィは結局、ダディのことが好きなんだよね?」

「安心して。ダディはマミィのことが大好きだもん」

「だから、ルーってひとがどうであろうと、マミィは何も心配しなくていいんだよ?」


 アンナは返事に詰まった。そういうことではないの、と否定できなかったのは、またしても双子の泣きそうな眼差しに心が痛んだからだ。


 ティカがぱちりと指を鳴らし、「わかった」と結論づけるように言った。


「その腑抜ふぬけた態度から直そう。今後のボクの、快適な裏庭生活バックガーデンライフのために」

「んふ、ティカちゃん……」フラウが言う。「なにか良いこと思いついたって顔してるね……私も手伝う……?」

「当然。それから、君たちもだよ。ヴィナとニケ」


 双子がぱちぱちと目を動かした。


「わたしたちも?」

「そうだよ。君たちの働き次第では、アンナが本当にマミィになるかもね?」


 ティカの意味ありげな言葉に、子どもたちは期待に満ちた顔で互いを見やる。

 アンナは慌てて声をあげた。


「ちょ、ちょっと、ティカさん? なにを考えてらっしゃるの」

「舞台作り」ティカはまったく説明になっていない返事をして、アンナの手をつかんだ。「ほら、一緒に来て」


 ティカに引っ張られるようにして、アンナは裏庭バックガーデンへ出た。もちろん、フラウと子どもたちも一緒に、だ。


 心地よい夏風が吹き抜けて、橄欖オリーブ西洋人参木チェストツリーの葉を一斉に輝かせた。


 シルバーグラスのひげのような葉の隙間から、菖蒲アイリスの濃紫や、芹花オルレアの白、雛芥子ポピーの黄色が咲きこぼれている。奥で蝶を誘うように揺れるのは、藤空木ブッドレア濃桃色コーラルレッドと、玉薊タマアザミ瑠璃るり色の小さな花弁だ。


 白石の小道に落ちる夏影を互いに踏んで、アンナたちは東屋ガゼボをくぐり、花原メドウを抜け、薔薇園ばらえんのそばで小道をそれた。夏の陽気にあてられて、双子たちがはしゃいだ笑い声をあげる。ティカの険しい顔も、少しばかり緩んだように見えたのは気のせいか。


 池のそばで話し込む男性陣が、アンナたちに気がついた。


 ルーがはっとしたようにアンナを見る。美しいが、表情にとぼしい顔立ち。それでも高木ツリーの影のなかで、灰をまぶした炎色の目が少しだけ嬉しそうに輝く。


 二人きりの夜の時間を思い出して、アンナは頬を染めた。ルーの気持ちに対する悩みは尽きない。けれど彼を見れば、胸がくすぐったくなるような幸せを感じるのも事実なのだ。


 だって、ほんとうに嬉しかったのだもの。あのとき、あの時間は、わたくしとルーさましか知らない。裏庭の片隅でひっそりと咲く、小さな薔薇ばらみたいな秘密なんだから。


 ティカが咳払いをした。アンナが我に返り、池の近くにしゃがみこんでいたレイモンドが渋い顔で言う。


「なにしに来たんだ?」

「君には用ない」

「はぁ?」


 不愉快そうな声をあげるレイモンドを無視し、面白がるような顔つきのディエンとアルヴィムの横を通りすぎて、ティカはアンナとともに夜明け色の青年へ詰め寄る。


 ルーの眉尻まゆじりがぴくりと動いた。アンナは慌ててティカの手を離そうとするが、逆に強く握られてしまう。


 ティカがルーを見上げ、不敵に笑った。


うらやましいでしょ」


 ルーの眉間みけんに、美しいしわが一本刻まれる。アンナは自分が恥ずかしくなって、足元に目を落とした。


「……なんのことだか分からないな。ティカ・フェリス」

「そう? ならよかった。ルーが寛大かんだいな男で」ティカは花が咲き誇るような、明るい声で言った。「じゃあボクがアンナをっても、怒らないよね。君は、好きでもなんでもないんだから」


 空気が凍りついた。


 見え透いた挑発だ。それなのにルーの返事はない。アンナは不安になって、ルーをそろりと見上げる。彼は虚をつかれた表情を浮かべていたが、アンナと目があうなり視線を斜め下にずらした。


「いや、それは……」


 ルーの歯切れの悪い返事は、いくら待っても言葉が続かない。


 やっぱり、ルーさまが好きなのは、今のわたくしじゃないんだわ。アンナは血の気が引いた。どうしよう。どうすればいい……?


 突然、ティカがアンナの手ごと腕を上げた。一同の注目を集めたことを確認し、舞台女優ティカ・フェリスは、開幕をげるがごとく堂々と宣言する。


「それではここに、『第一回・わたしの真実の恋人は誰!? 以心伝心いしんでんしんなんてくそくらえ!』大会を開催します! 規律ルールは簡単! 気になる相手を見つけて全力でアピール! 今日から七日後の正午に、ボクたち全員の前で相手に告白すること!」


 アンナはぽかんと口を開けた。恋人。アピール。告白。いくつかの言葉が断片的に頭のなかで響いて、やっと、ティカの提案がとんでもないことに気づく。


「待って……待って待って待って!」アンナはティカの手を引きずり下ろして、ひそひそと抗議した。「いきなり何をおっしゃるの……! そっ、そんな破廉恥はれんちなこと、できるわけないのだわ……!」

「こうでもしなきゃ、君たちの腑抜ふぬけた態度なんて治んないでしょ」ティカが平然と言う。「それに、好きな相手になら告白できるよ。少なくともボクはそう」

「そんな、」

「ルーのこと、好きなんでしょ」ティカはアンナの胸元に指を突きつけた。「なら、昔の女ことなんか忘れさせるくらい、彼を夢中にさせてみなよ。知らない女に負けっぱなしでいいわけ?」


 ティカの言葉に、アンナの反論の意志がぐらっと揺らいだときだった。


 夏の庭に拍手が響く。アンナはさっとアルヴィムをにらんだが、彼は白銀の髪をぶんぶんと振って否定した。


「違う、俺じゃない。あっ、大会は全力で楽しみたいと思うけど」アルヴィム・・ハティは言い訳しつつ、アンナの後ろを指差した。「拍手したのは彼だよ」


 アンナは振り返り、目を丸くした。


 小道から現れたのは年嵩としかさの――しかしながら品のいい男だった。仕立てのいい黒のスーツは上着を腕にかけていて、白シャツの一番上のボタンだけを外している。山高帽やまたかぼうの下からのぞくのは、白髪まじりの黒灰色チャコールグレーの髪だ。口元とあごのまわりのもきれいに整えられていて、しわのきざまれた顔立ちには柔和な笑みが浮かんでいる。


 若い頃は、さぞ婦人たちを騒がせたであろう、老紳士である。

 そしてそれが真実であるとアンナは知っている。

 男はアンナの事情を知る、唯一の家族なのだから当然だ。


「……叔父様おじさま

「やぁ、愛しいお嬢さんマイ・レディ」アンナの叔父――ダグラス・ダナンは、にっこりと笑って帽子をあげた。「なんと面白い話をしているじゃあないか。おじさんも混ぜてくれないかな?」

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