第3話 あいつらは、他の魔女の薔薇十字を欲しているからね

 ティカたちの怪我の具合を確認し、嫌がる双子ふたごたちをバスルームへ追いやり、めちゃくちゃになったリネン室を片付ける。言葉にするのは簡単だし、実際は手分けしたのだが、すべて終わる頃には、アンナはすっかりくたびれていた。


「本で読むことと、実際に体を動かすことの……一番の違いよね……」


 応接室の肘掛ひじかけに体を預けながら、アンナは呟いた。一足先に後片付けを終えたルーが――彼は破片まみれになったタオルを捨ててくれていたはずだ――、ガーデンカクテルのはいったグラスを差し出してくれる。


「作り直しておいた」アンナと目があった彼は、灰をまぶした炎色の目に少しだけ心配そうな色をにじませる。「疲れているのなら、レイモンド・ラメドの話は僕が聞いておくが」

「いいえ、大丈夫よ」アンナはほっとしながら、冷たいグラスを受け取る。「わたくしも興味があるし……なにより、ルーさまが一緒にいてくれるのだもの」


 整った顔立ちに、一匙ひとさじのほっとしたような色をにじませてルーが頷いた。アンナの好きな表情のひとつだ。美しい人なのに、子供のようでもある。


 危うくて、守ってあげたくて、でも、わたくしのことなんて必要ないくらいに、彼は強くて。


 やっぱり大好きなのだわ。心のなかで幸せのためいきをつきながら、アンナはカクテルを一口飲んだ。


「ほんっとに最悪だよ」応接室へ入ってきたレイモンドは開口一番に悪態をついた。「ヴィナとニケのやつ……生意気なことばっかり言って。こんな場所に読み聞かせ用の絵本なんてあるわけないだろ」

「それはもう、三回も聞いたんだけど」後から入ってきたティカが、ぐったりした様子で返事をする。「で、結局どうやって悪ガキどもを寝かせたわけ」

「役人試験用の参考書。童話を哲学的に解釈した論説」


 ティカにというよりは、ここにいない双子に向けた棘々しさで返事をして、レイモンドは応接室を見回した。ソファを除けば、古ぼけた絨毯じゅうたんを敷いた床にしか座れる場所がないことに気づいたらしい。


 顔をしかめたレイモンドの横を通り過ぎ、ティカがさっさとアンナの近くで足を投げ出して座る。


「おつかれさま、ティカさん」


 アンナのねぎらいの言葉に、ティカは「ほんとだよ」と肩をすくめた。


「あれくらいのガキが一番嫌いなんだよね。水かけただけで泣きわめいてさ」

「大変な仕事を押しつけてごめんなさい。フラウさんとディエンさんは?」

「フラウは服の裾上げ中。ディエンは子守り」そこまで言って、ティカはまゆを寄せた。「というか、あの真っ白い胡散臭うさんくさい男は? 速攻でいなくなったんだけど」

「嫌だなあ! 胡散臭い男じゃなくて、アルヴィム・ハティ先生だよ!」


 ばばーんと元気いっぱいに扉を開けて、アルヴィムが入ってきた。レイモンドの隣に立った彼は、部屋の空気にいち早く気づいたらしく、「あれあれっ」と首を傾ける。


「みんな、ずいぶんと疲れてない? 駄目だよ。俺より若いっていうのにさ」


 全員を代表して、ルーが冷ややかに言った。


「先生以外は真面目に働いていただけですが」

「いやだなあ、ルー。俺だって真面目に働いてだよ」アンナの隣に遠慮なく座って、アルヴィムが言う。「ねぇ聞いてくれるかい? この忙しいときにメレトスの屋敷から電話がかかってきてね」


 レイモンドが咳払いした。全員の注目が集まったことを確認し、大げさに頷いて言う。


「改めて、夜遅くに集まってくれてありがとう。君たちを呼んだのは他でもない……」

「退屈なセリフすぎ」ティカが異国の模様を縫い込んだクッションを抱えて言った。「前置きは良いから、とっとと説明してよ。リネン室のあれはなんなの」


 出鼻をくじかれたレイモンドは眉をひそめながらも、返答する。


「魔女の未練みれんだ。君たちは知らないだろうけど」


 馬鹿にしたような言い方に、ティカが顔をしかめた。

 アンナは聞き馴染みのない言葉を繰り返し、レイモンドを見やる。


「そうね……少なくとも、わたくしは知らない言葉だわ。それは、さっきの獣を指す言葉なのかしら」

「そのとおり」レイモンドはアンナのほうへ近づきながら言葉を続けた。「より正確に言うならば、死体の中に、これをいれて作ったものだ」


 鎖がこすれるささやかな音とともに、レイモンドが首飾りネックレスをぶら下げた。


 アンナはどきりとする。

 赤黒い血で汚れているが、薔薇の刻まれた十字架に違いなかった。


薔薇十字ロザリオ……」

「そうだ。君が胸から下げているのと同じものだよ」アンナを見下ろして応じたレイモンドは、ゆっくりとまばたきをして肩をすくめた。「あらかじめ言っておくと、俺はアンナさんをおびえさせたいわけじゃないからな。ルー」

「……僕はまだ何も言ってないが」

「何も言わないから怖いんだ」


 ルーの視線から逃げるように、レイモンドは赤黒い薔薇十字ロザリオを手のひらの中に隠した。改めてと言わんばかりに、アンナのほうを見る。


「魔女のなかには、薔薇十字を持つ人間がいる。魔女の未練はそういう人間を狙うんだ。あいつらは、他の魔女の薔薇十字を欲しているからね」

「……どうして?」


 アンナの質問に、レイモンドが一度口をつぐんだあと答えた。


薔薇十字ロザリオの定義は、文献によって色々だ。異端のしるし、罪の証、失った日々に対する墓標ぼひょう……でもね、俺は、薔薇十字が強い願いとか、執着の象徴だと思う。そういうものは、死者を強くきつけるんだよ。彼らにとって、命の代わりになりえるものだから」


 ここだけ、やけに哲学的な回答だ。アンナはちらとルーを見た。彼は何も言わなかったが、灰をまぶした炎色の目は用心深くレイモンドを観察している。


 ルーさまも、レイモンドさんの様子がおかしいことに気づいたんだわ。アンナは赤銅色の髪の青年へ視線を戻しながら考えた。なら、これについては後で議論する価値があるということのはず。


「教えてくれて、ありがとう」アンナはひとまず礼を言い、姿勢を正して指を組んだ。「ついで……というわけじゃないのだけれど、いくつか整理させてもらえるかしら。薔薇十字ロザリオを持っていたわたくしが、今まで、魔女の未練を見たことがなかったのは何故? そしてレイモンドさん。あなたはどうして、魔女の未練について詳しいの?」

「俺だって、もっと早く魔女の未練が現れると思っていたさ」


 レイモンドが愚痴めいた口調で返事をした。予定通りにいかなくて、少し苛ついているといった感じの――すなわち、すっかりいつものとおりの態度で言葉を続ける。


「アンナさん。君が薔薇十字を持っていることは、初めから知ってたんだよ。だから屋敷の招待を受けたんだ。俺とディエンは、魔女の未練を殺す方法を知っていて……君を守る必要があると判断したのさ」


 「でも、今日に至るまで魔女の未練はあらわれなかった」と繰り返し、レイモンドは難しい顔で腕を組む。


「その理由は分からない。俺たちも、あいつらの考えを全部知っているわけじゃないから……魔女を襲うきっかけに、薔薇十字ロザリオ以外のなにかがあるのか。ただの偶然か。このあたりはなんともだ」

「未練を殺す方法を知っている、と言ったが」ルーが尋ねた。「獣に投げつけた小瓶がそうなのか? ディエンの人形も?」

「どちらもだ」レイモンドはよどみなく答えた。「鎖で縛って、クラヴィスで殺す。作業者を分ける必要はないけど、俺たちは分担してる。そっちのほうが効率的で、確実だ」

「クラヴィス?」


 聞き慣れない単語をアンナが呟けば、レイモンドは頷いた。


神鍵クラヴィスだよ、アンナさん。あなたが神を信じるほど敬虔けいけんな人間であるかについては、議論が分かれるところだろうけどね」


 神鍵クラヴィスは、神に至るための鍵、ていにいうなら万病を治す貴重な霊薬、今回の文脈に沿って説明するなら、未練を殺すための特別な方法と、レイモンドは説明した。魔女の力を持たない人間であっても、未練に対抗できるようにと、編み出されたのだという。


「まぁ、不可思議の力を使ってるという点では魔女の力と一緒さ」レイモンドはひととおり説明したあと、そう言って肩をすくめた。「だから名前はあまり重要じゃないんだよ。神の信奉者が、不可思議な力を神鍵クラヴィスと名付けた。神を信じられない人間が、不可思議な力を魔女の力と名付けた。それだけのことだ」


 レイモンドは部屋を見回した。アルヴィムは珍しく難しい顔で黙り込んでいて、ティカが落ち着かなさそうに身動ぎする。


 アンナはティカの様子が気にかかったが、彼女が声をかける前に、レイモンドが大げさに頷いた。すっかり彼の独壇場どくだんじょうになった空気に、満足さえしているような口調で言う。


「とにかく、君たちにとっての幸運は、俺とディエンがここにいることだ。何かあったときは、すぐに相談してくれ。魔女の未練について、俺たちより詳しい人間はいないんだから」


 *****


 ティカがそそくさと立ち去ってしまったので、アンナは応接室を出て、図書室ライブラリへ向かうことにした。


 とにかくレイモンドの話を整理したかったからだ。この手の複雑な話は紙に書いて俯瞰ふかんすべきだし、記憶を失ったばかりの頃はいつもそうやって乗り切ってきたのである。


 そしてアンナにとっての幸運は、もう一人きりではない――ルーという心強い味方がいるということなのだった。


 明かりを灯した書き物机で、ルーとともに記憶を補いあう。やがてアンナは、レイモンドとの会話を紙に書きあげた。


 高価な図録くらいの大きさの紙が、一面びっしりと文字で埋まった光景は壮観だ。妙な達成感を覚えながら、アンナは万年筆を唇へあてて椅子へ背を預ける。


「魔女の未練、神鍵クラヴィス薔薇十字ロザリオ。考えることがいっぱいね」

「レイモンド・ラメドが情報を出し切っていないことも、今の状況をややこしくしているな」


 書き物机のそば、壁に背を預けたルーが苦言を呈し、アンナはため息をつきながら頷いた。


 ふと目にはいった窓の外では、裏庭バックガーデンが夜闇に沈んでいる。高木ツリーの頂上にあったはずの半月は、薔薇ばら園のほうへ移動していた。


「疲れたか?」


 ルーに声をかけられ、アンナは庭から図書室ライブラリへと視線を戻した。自分を見下ろす青年は、例の気遣わしげな眼差しをしている。


「そうね、さすがに」アンナは苦笑いした。「でも、これをどうやって整理しようかしら……っていう悩みのほうが大きくて。眠りたいけれど、ベッドがちらかってて落ち着かないってかんじなの」


 同意する代わりに、ルーが片眉をあげた。


「君のベッドは、わりと散らかっているほうだと思うが。少なくとも、寝起きの君のベッドは、シーツも毛布もくしゃくしゃだろう」

「まぁ。それはルーさまを思うあまりに乱れた心を、目に見える形で現しているのよ」


 ここ一ヶ月ほどのなかで、一番自分たちらしいやりとりだった。ルーが安心したように小さく笑ってくれたので、アンナはますますほっとする。


 ささやかな気分転換を終え、二人はそろって紙を眺めた。


「この手の話をするときは、難しい言葉に惑わされないほうがいい」ルーが落ち着いた声で助言する。「自分がどうすべきか、という判断基準をたてたうえで、一つ一つの情報を見返していくべきだ」


 アンナはゆっくりと呼吸して、頷いた。


「一番に優先すべきなのは、わたくしたちの身の安全よ」

「そうだな。今回の脅威きょういは、魔女の未練という獣だから、まずはそれを警戒すればいい」

「未練は薔薇十字ロザリオを求めてやってきて……それを倒す手段のひとつとして、神鍵クラヴィスがある。今のところ神鍵を使えるのはレイモンドさんたちだけだから、彼らと協力するのが一番ね。うん、そこまでは分かるのだけれど」


 アンナは少し考えてから言葉を続けた。


「ルーさまの言うとおり、レイモンドさんが何かを隠してる、って感じがするのだわ。だから、すっきりしないんだと思う」

「君はどういう点が気になった?」

薔薇十字ロザリオについての回答かしら。なんというか、曖昧あいまいだったでしょう?」

「そうだな」ルーが頷いた。「やけに不自然な重心の移動があったし、呼吸も深かった」


 諜報術ちょうほうじゅつの書物にしるされているような着眼点は、さすがは元〈王狼〉おうろうの長といったところだろう。


 ルーはアンナから万年筆を受け取って、いくつかの会話に丸をつけた。神鍵クラヴィス、神の信奉者、異端の印。


 「ここからは僕の推測にすぎないが」と前置きして、ルーは言う。


「レイモンド・ラメドは、教会の関係者なんじゃないか。神鍵クラヴィスは教会の手によって生み出された秘術で、


 アンナは頷いた。ルーがわざわざアンナ・ビルツと呼んだ理由もわかった上でのことだ。


 三年前の革命直前まで、この国は王政おうせいで治められていて、それと深く結びついていたのが教会だ。


 唯一神の代弁者である教会が、王に地上を治める権利を授け、そうであるがゆえに王は教会を守る。よくある統治機構で、分かりやすい権威づけの仕組みだ。だから教会は、王政とともに腐敗した。


 アンナ・ビルツは、王と貴族を断頭台へ送るとともに、汚職にまみれた教会も厳しく処罰した。さすがに民の信仰心までは変えられなかったが、革命後に設けられた議会は、教会と完全に縁を切っている。もちろん、議会の設立に深く関わったのもアンナ・ビルツだ。


 そして彼女は、教会が悪と定めた魔女を屋敷へ招き、裏庭バックガーデンの手入れをさせた。一部の書物において、アンナ・ビルツが反神論者と語られる理由だ。


 あなたが神を信じるほど敬虔けいけんな人間であるかについては、議論が分かれるところだろうけどね。レイモンドの皮肉めいた言葉を思い出し、アンナは複雑な気持ちになる。


 無くした記憶を書物で埋めただけの自分が、果たしてアンナ・ビルツと言えるのかどうか。


 少なくとも、毎日欠かさず祈りを捧げるような……その手の信心深い人間でないことは確かだけれど。


「レイモンドさんは教会という立場から、わたくしたちを守ろうとしている……ってことかしら」アンナは不安をまぎらわせようと、レイモンドの問題に注力することにした。「でもそれって、ちょっと不自然よね。教会はアンナ・ビルツのことを嫌っているはずじゃない?」

「教会が心根こころねを入れかえたか、レイモンド・ラメド自身が教会とは別の意志で動いているのか……仮説はいくつかたてられるが、決定打に欠けるな。だからこそ、彼の動きに注視する必要がある」


 そこまでいって、ルーはいささか気まずそうに付け足した。


「もちろん、彼を敵視するという意味じゃない。春のようなまねはしないから」

「わかっているわ」彼の誠実さに心が暖かくなりながら、アンナは頷いた。「大丈夫よ。わたくしは、ルーさまのことを信じているもの」


 ルーが何度か目を瞬かせ、書き物机へ目を落とす。独り言のように呟いた。


「君は、僕のことをいつだって信じてくれる」


 当たり前のことをひどく真剣に言うさまは、思春期間近の子供のようでもある。いじらしさに、アンナは思わず微笑んだ。


「だってわたくしは、ルーさまのことが大好きなのだもの」

「……君は色恋いろこいに興味がないんじゃなかったのか」


 ルーに疑いの眼差しを向けられ、アンナは固まった。ディエンに詰め寄られたときの失言を思い出し、あわあわと唇を震わせる。


「ちっ、違うのだわ……! あのときは、その、皆が見てて……っ、緊張してて……っ」


 自分の発言をのろいながら、アンナは必死で言い訳を探した。

 ルーの表情が緩む。


「冗談だ」初めから分かっていたというよりは、確かめられて安心したというような顔つきで言ったあと、ルーはぎこちなく書き物机を眺めた。「そろそろ片付けようか。部屋まで送っていこう……君が嫌でなければ」


 もちろん、いやなんかじゃない。だって、好きな人と一緒にいられる時間が長くなるのだもの。


 そう言えればいいのに、またしてもうまく口にできない。アンナは結局、頬を染めながら頷いた。


 紙をたたんで腕に抱え、図書室の明かりを消して扉をしめる。廊下は涼しく、夏の夜の空気を泳ぐように、二人は歩き始めた。


 等間隔に並ぶ窓から、銀の月明かりがきらきらと注ぐ。夜闇は、雨上がりの深緑の葉を透かして見上げた空のようだった。しっとりとしてあでやかな、深い青緑。世界中が寝静まって、二人きりで秘密の夜更かしをする。そんな言葉がぴったりの、やわらかな時間だ。


 夢のようだわ、とアンナは心を浮き立たせながら思った。半歩先で揺れるルーの手を眺めて、紙を抱える腕に力を込める。ほんとうに、夢みたいに素敵な夜。


 ルーが立ち止まった。

 月明かりの届かない暗がりで振り返った彼は、何度かまばたきをしてから口を開く。


「手を、つながないか」さらに二度まばたきをして、ルーは付け足した。「これも……君が嫌でなければ、だが」


 不意打ちの誘いに、アンナの心臓が高鳴った。これ以上なんてないと思っていたのに、またしても頬がじわりと熱くなる。


 アンナが首をかすかに縦に動かせば、ルーがアンナの右手を紙から引き取って、大切そうに指を絡めてくれる。


 月明かりに照らされた彼の頬は、たぶん、ほんの少しだけ赤かった。


 二人はもう一度歩き始めた。先ほどよりもゆっくりとした足取りなのは、きっとアンナの気のせいではないはずだ。


 近づいた体温のぶんだけ暖かくなった沈黙を遠ざけるように、アンナはぽそりと問う。


「……ルーさま、は、嫌じゃない?」

「なにが?」

「こうやって……手をつなぐこと」

「嫌だったら、提案なんてしない」ルーはアンナのほうを向く代わりに、指先を親指の腹で撫でて、ささやいた。「……むしろ、僕は君が無理をしていないかが心配だ。こういう誘いが嫌だとか、」

「嫌なんかじゃないわ! だって、好き、だもの……ルーさまのこと……」


 今度の「好き」は、さっきよりもずいぶんと小さい声になってしまった。だというのに彼は、つないだ手に力をこめてくれる。


 舞い上がるように嬉しさで、アンナの胸がぎゅっと締めつけられた。


「ねぇ、あのね。笑わないで聞いてほしいのだけれど」思い切って手を握り返しながら、アンナは言葉を続けた。「わたくし、男のひとと手をつなぐの初めてなのよ。力加減とか、そういうの、大丈夫かしら?」


 ルーが小さく笑った。


 まぁ。わたくしは真面目な話をしているのに。アンナが少しだけ唇をとがらせれば、彼はあきれとしたわしさが混じった優しい表情を向けてくれる。


「何も問題はないよ、アンナ。君はずっと変わらない。今も、昔も」


 アンナは口を閉じた。


 一つには、ルーに見とれたからだ。美しくて、かっこよくて、時に子供のように素直な彼が、同い年の親友のような気さくな表情を見せてくれたのは、アンナにとっては初めてのことだった。


 そして、もう一つには。


「アンナ?」

「……いいえ」不思議そうなルーの視線にぎこちなく微笑んで、アンナはゆるりと首を振った。「大丈夫。なんでもないわ」


 寝室にたどり着いたので、アンナはルーの手を離した。物言いたげな彼を不安にさせないよう、まっすぐに目を見てお礼を言う。


「ありがとう、ルーさま。ご一緒できて、本当に嬉しかった」

「……君が、そう思ってくれたのなら良かった」ルーはゆっくりとうなずいた。「ゆっくり休んで。おやすみ」

「おやすみなさい」


 ドアがぴたりと閉まる直前まで、ルーと視線をかわす。呼吸三つ分の沈黙のあと、彼の足音が遠ざかる音がした。


 アンナは扉に背を預けて座り込み、紙に顔をうずめる。


 本当は、手を離したくなかった。話をずっと続けていたかった。別れ際まで見つめあうんじゃなくて、一緒にいてと言いたかった。


「……でも、ルーさまが見ているのは、わたくしじゃないのよ……」


 だって彼のそばに一番長くいたのは、アンナ・ビルツであるはずだから。


 冬の頃にはたしかに覚えていたはずなのに、今の今まですっかり忘れていた事実を思い出して、アンナは深くため息をつく。


 *****


 部屋に戻ったレイモンドの目に飛び込んできたのは、双子ふたごの眠るベッドのそばで禿頭とくとうの大男が人形をつくろっている光景だった。


「……全然、似合わないんだよな……」

「壊れたものは直すべきだろう」


 ディエンは、レイモンドのぼやきを正確に拾い上げた。ベッドサイドに置かれたオイルランプの明かりの中で、大男は右腕を縫い止めたばかりの犬の人形から顔をあげる。


「遅かったな。講義は盛況だったのか?」

「変な言い方はやめてくれ。俺が一方的に話して終わりだよ」


 レイモンドは渋い顔をしながら、二つ並んだベッドの横を通り過ぎて机へ向かった。


 窓を開け、湿った土としげった葉の匂いがうんざりするほど濃く染みた夏風を部屋にいれる。単語帳と参考書を引っ張り出し、ランプへ火をいれようと抽斗ひきだしへ手をかけたところで、思いとどまった。


 少しばかりの逡巡の間に、視界の端が明るくなる。ディエンが炎を閉じ込めたランプを差し出していた。


「こんな時間まで勉強とはな」

「……役所の試験は待ってくれないんだよ」明かりを受け取りながら、レイモンドはぶっきらぼうに返した。「ヴィナたちが来なければ、もう少し早くから勉強できてたはずなのにさ」

「ふむ? だが、どちらにせよ魔女の未練は来ていただろう」

「アレをなんとかするのに、時間はかからないだろ。俺たちなら」

「人形を直す手間は必要だがな」

神鍵クラヴィスを綿に染み込ませて使うほうが悪い」


 ディエンと出会って三年、正式に組み始めて二年半の間に、何度繰り返したか分からない不毛なやり取りだ。レイモンドが嫌そうな顔をし、ディエンがにやっと笑う、そんなところまでいつもどおり。


 無意味な時間だ。


 レイモンドは、ひりつくような疲れを訴える目をもみながら、ランプを机に置いた。窓の外、月明かりが注ぐ裏庭バックガーデンをちらと見る。正確に言えば、高木ツリーが庭に落とす、黒々とした影を。


「なぁ、今の俺はどう見えてる?」


 レイモンドの漠然とした問いかけの答えは、暗くなったベットのほうから聞こえた。


「試験に備えて神経質気味の若者、魔女の未練に関する専門家、ただし屋敷にいる人間たちからは、大なり小なり不信感をいだかれている」


 五十点、とレイモンドは渋い顔をしながら胸中で採点した。


「それから、自分のベッドにヴィナたちを寝かせてやる優しい兄貴分」レイモンドが気恥ずかしさから唇を曲げたところで、さらにディエンは付け足した。「安心しろ。お前はもう、リンダルムの赤薔薇あかばらじゃない」


 七十点。


 最終点をつけ、レイモンドは裏庭バックガーデンの影からランプの炎へ目を移した。明るくて揺るぎない正しい光に表情をゆるめ、相方に向かって、いつものように返事をする。


「当然だろ。俺は父さんとは違うんだから」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る