第3話 あいつらは、他の魔女の薔薇十字を欲しているからね
ティカたちの怪我の具合を確認し、嫌がる
「本で読むことと、実際に体を動かすことの……一番の違いよね……」
応接室の
「作り直しておいた」アンナと目があった彼は、灰をまぶした炎色の目に少しだけ心配そうな色をにじませる。「疲れているのなら、レイモンド・ラメドの話は僕が聞いておくが」
「いいえ、大丈夫よ」アンナはほっとしながら、冷たいグラスを受け取る。「わたくしも興味があるし……なにより、ルーさまが一緒にいてくれるのだもの」
整った顔立ちに、
危うくて、守ってあげたくて、でも、わたくしのことなんて必要ないくらいに、彼は強くて。
やっぱり大好きなのだわ。心のなかで幸せのためいきをつきながら、アンナはカクテルを一口飲んだ。
「ほんっとに最悪だよ」応接室へ入ってきたレイモンドは開口一番に悪態をついた。「ヴィナとニケのやつ……生意気なことばっかり言って。こんな場所に読み聞かせ用の絵本なんてあるわけないだろ」
「それはもう、三回も聞いたんだけど」後から入ってきたティカが、ぐったりした様子で返事をする。「で、結局どうやって悪ガキどもを寝かせたわけ」
「役人試験用の参考書。童話を哲学的に解釈した論説」
ティカにというよりは、ここにいない双子に向けた棘々しさで返事をして、レイモンドは応接室を見回した。ソファを除けば、古ぼけた
顔をしかめたレイモンドの横を通り過ぎ、ティカがさっさとアンナの近くで足を投げ出して座る。
「おつかれさま、ティカさん」
アンナのねぎらいの言葉に、ティカは「ほんとだよ」と肩をすくめた。
「あれくらいのガキが一番嫌いなんだよね。水かけただけで泣きわめいてさ」
「大変な仕事を押しつけてごめんなさい。フラウさんとディエンさんは?」
「フラウは服の裾上げ中。ディエンは子守り」そこまで言って、ティカは
「嫌だなあ! 胡散臭い男じゃなくて、アルヴィム・ハティ先生だよ!」
ばばーんと元気いっぱいに扉を開けて、アルヴィムが入ってきた。レイモンドの隣に立った彼は、部屋の空気にいち早く気づいたらしく、「あれあれっ」と首を傾ける。
「みんな、ずいぶんと疲れてない? 駄目だよ。俺より若いっていうのにさ」
全員を代表して、ルーが冷ややかに言った。
「先生以外は真面目に働いていただけですが」
「いやだなあ、ルー。俺だって真面目に働いてくたくただよ」アンナの隣に遠慮なく座って、アルヴィムが言う。「ねぇ聞いてくれるかい? この忙しいときにメレトスの屋敷から電話がかかってきてね」
レイモンドが咳払いした。全員の注目が集まったことを確認し、大げさに頷いて言う。
「改めて、夜遅くに集まってくれてありがとう。君たちを呼んだのは他でもない……」
「退屈なセリフすぎ」ティカが異国の模様を縫い込んだクッションを抱えて言った。「前置きは良いから、とっとと説明してよ。リネン室のあれはなんなの」
出鼻をくじかれたレイモンドは眉をひそめながらも、返答する。
「魔女の
馬鹿にしたような言い方に、ティカが顔をしかめた。
アンナは聞き馴染みのない言葉を繰り返し、レイモンドを見やる。
「そうね……少なくとも、わたくしは知らない言葉だわ。それは、さっきの獣を指す言葉なのかしら」
「そのとおり」レイモンドはアンナのほうへ近づきながら言葉を続けた。「より正確に言うならば、死体の中に、これをいれて作ったものだ」
鎖がこすれるささやかな音とともに、レイモンドが
アンナはどきりとする。
赤黒い血で汚れているが、薔薇の刻まれた十字架に違いなかった。
「
「そうだ。君が胸から下げているのと同じものだよ」アンナを見下ろして応じたレイモンドは、ゆっくりと
「……僕はまだ何も言ってないが」
「何も言わないから怖いんだ」
ルーの視線から逃げるように、レイモンドは赤黒い
「魔女のなかには、薔薇十字を持つ人間がいる。魔女の未練はそういう人間を狙うんだ。あいつらは、他の魔女の薔薇十字を欲しているからね」
「……どうして?」
アンナの質問に、レイモンドが一度口をつぐんだあと答えた。
「
ここだけ、やけに哲学的な回答だ。アンナはちらとルーを見た。彼は何も言わなかったが、灰をまぶした炎色の目は用心深くレイモンドを観察している。
ルーさまも、レイモンドさんの様子がおかしいことに気づいたんだわ。アンナは赤銅色の髪の青年へ視線を戻しながら考えた。なら、これについては後で議論する価値があるということのはず。
「教えてくれて、ありがとう」アンナはひとまず礼を言い、姿勢を正して指を組んだ。「ついで……というわけじゃないのだけれど、いくつか整理させてもらえるかしら。
「俺だって、もっと早く魔女の未練が現れると思っていたさ」
レイモンドが愚痴めいた口調で返事をした。予定通りにいかなくて、少し苛ついているといった感じの――すなわち、すっかりいつものとおりの態度で言葉を続ける。
「アンナさん。君が薔薇十字を持っていることは、初めから知ってたんだよ。だから屋敷の招待を受けたんだ。俺とディエンは、魔女の未練を殺す方法を知っていて……君を守る必要があると判断したのさ」
「でも、今日に至るまで魔女の未練はあらわれなかった」と繰り返し、レイモンドは難しい顔で腕を組む。
「その理由は分からない。俺たちも、あいつらの考えを全部知っているわけじゃないから……魔女を襲うきっかけに、
「未練を殺す方法を知っている、と言ったが」ルーが尋ねた。「獣に投げつけた小瓶がそうなのか? ディエンの人形も?」
「どちらもだ」レイモンドはよどみなく答えた。「鎖で縛って、クラヴィスで殺す。作業者を分ける必要はないけど、俺たちは分担してる。そっちのほうが効率的で、確実だ」
「クラヴィス?」
聞き慣れない単語をアンナが呟けば、レイモンドは頷いた。
「
「まぁ、不可思議の力を使ってるという点では魔女の力と一緒さ」レイモンドはひととおり説明したあと、そう言って肩をすくめた。「だから名前はあまり重要じゃないんだよ。神の信奉者が、不可思議な力を
レイモンドは部屋を見回した。アルヴィムは珍しく難しい顔で黙り込んでいて、ティカが落ち着かなさそうに身動ぎする。
アンナはティカの様子が気にかかったが、彼女が声をかける前に、レイモンドが大げさに頷いた。すっかり彼の
「とにかく、君たちにとっての幸運は、俺とディエンがここにいることだ。何かあったときは、すぐに相談してくれ。魔女の未練について、俺たちより詳しい人間はいないんだから」
*****
ティカがそそくさと立ち去ってしまったので、アンナは応接室を出て、
とにかくレイモンドの話を整理したかったからだ。この手の複雑な話は紙に書いて
そしてアンナにとっての幸運は、もう一人きりではない――ルーという心強い味方がいるということなのだった。
明かりを灯した書き物机で、ルーとともに記憶を補いあう。やがてアンナは、レイモンドとの会話を紙に書きあげた。
高価な図録くらいの大きさの紙が、一面びっしりと文字で埋まった光景は壮観だ。妙な達成感を覚えながら、アンナは万年筆を唇へあてて椅子へ背を預ける。
「魔女の未練、
「レイモンド・ラメドが情報を出し切っていないことも、今の状況をややこしくしているな」
書き物机のそば、壁に背を預けたルーが苦言を呈し、アンナはため息をつきながら頷いた。
ふと目にはいった窓の外では、
「疲れたか?」
ルーに声をかけられ、アンナは庭から
「そうね、さすがに」アンナは苦笑いした。「でも、これをどうやって整理しようかしら……っていう悩みのほうが大きくて。眠りたいけれど、ベッドがちらかってて落ち着かないってかんじなの」
同意する代わりに、ルーが片眉をあげた。
「君のベッドは、わりと散らかっているほうだと思うが。少なくとも、寝起きの君のベッドは、シーツも毛布もくしゃくしゃだろう」
「まぁ。それはルーさまを思うあまりに乱れた心を、目に見える形で現しているのよ」
ここ一ヶ月ほどのなかで、一番自分たちらしいやりとりだった。ルーが安心したように小さく笑ってくれたので、アンナはますますほっとする。
ささやかな気分転換を終え、二人はそろって紙を眺めた。
「この手の話をするときは、難しい言葉に惑わされないほうがいい」ルーが落ち着いた声で助言する。「自分がどうすべきか、という判断基準をたてたうえで、一つ一つの情報を見返していくべきだ」
アンナはゆっくりと呼吸して、頷いた。
「一番に優先すべきなのは、わたくしたちの身の安全よ」
「そうだな。今回の
「未練は
アンナは少し考えてから言葉を続けた。
「ルーさまの言うとおり、レイモンドさんが何かを隠してる、って感じがするのだわ。だから、すっきりしないんだと思う」
「君はどういう点が気になった?」
「
「そうだな」ルーが頷いた。「やけに不自然な重心の移動があったし、呼吸も深かった」
ルーはアンナから万年筆を受け取って、いくつかの会話に丸をつけた。
「ここからは僕の推測にすぎないが」と前置きして、ルーは言う。
「レイモンド・ラメドは、教会の関係者なんじゃないか。
アンナは頷いた。ルーがわざわざアンナ・ビルツと呼んだ理由もわかった上でのことだ。
三年前の革命直前まで、この国は
唯一神の代弁者である教会が、王に地上を治める権利を授け、そうであるがゆえに王は教会を守る。よくある統治機構で、分かりやすい権威づけの仕組みだ。だから教会は、王政とともに腐敗した。
アンナ・ビルツは、王と貴族を断頭台へ送るとともに、汚職にまみれた教会も厳しく処罰した。さすがに民の信仰心までは変えられなかったが、革命後に設けられた議会は、教会と完全に縁を切っている。もちろん、議会の設立に深く関わったのもアンナ・ビルツだ。
そして彼女は、教会が悪と定めた魔女を屋敷へ招き、
あなたが神を信じるほど
無くした記憶を書物で埋めただけの自分が、果たしてアンナ・ビルツと言えるのかどうか。
少なくとも、毎日欠かさず祈りを捧げるような……その手の信心深い人間でないことは確かだけれど。
「レイモンドさんは教会という立場から、わたくしたちを守ろうとしている……ってことかしら」アンナは不安を
「教会が
そこまでいって、ルーはいささか気まずそうに付け足した。
「もちろん、彼を敵視するという意味じゃない。春のようなまねはしないから」
「わかっているわ」彼の誠実さに心が暖かくなりながら、アンナは頷いた。「大丈夫よ。わたくしは、ルーさまのことを信じているもの」
ルーが何度か目を瞬かせ、書き物机へ目を落とす。独り言のように呟いた。
「君は、僕のことをいつだって信じてくれる」
当たり前のことをひどく真剣に言うさまは、思春期間近の子供のようでもある。いじらしさに、アンナは思わず微笑んだ。
「だってわたくしは、ルーさまのことが大好きなのだもの」
「……君は
ルーに疑いの眼差しを向けられ、アンナは固まった。ディエンに詰め寄られたときの失言を思い出し、あわあわと唇を震わせる。
「ちっ、違うのだわ……! あのときは、その、皆が見てて……っ、緊張してて……っ」
自分の発言を
ルーの表情が緩む。
「冗談だ」初めから分かっていたというよりは、確かめられて安心したというような顔つきで言ったあと、ルーはぎこちなく書き物机を眺めた。「そろそろ片付けようか。部屋まで送っていこう……君が嫌でなければ」
もちろん、いやなんかじゃない。だって、好きな人と一緒にいられる時間が長くなるのだもの。
そう言えればいいのに、またしてもうまく口にできない。アンナは結局、頬を染めながら頷いた。
紙をたたんで腕に抱え、図書室の明かりを消して扉をしめる。廊下は涼しく、夏の夜の空気を泳ぐように、二人は歩き始めた。
等間隔に並ぶ窓から、銀の月明かりがきらきらと注ぐ。夜闇は、雨上がりの深緑の葉を透かして見上げた空のようだった。しっとりとして
夢のようだわ、とアンナは心を浮き立たせながら思った。半歩先で揺れるルーの手を眺めて、紙を抱える腕に力を込める。ほんとうに、夢みたいに素敵な夜。
ルーが立ち止まった。
月明かりの届かない暗がりで振り返った彼は、何度かまばたきをしてから口を開く。
「手を、つながないか」さらに二度まばたきをして、ルーは付け足した。「これも……君が嫌でなければ、だが」
不意打ちの誘いに、アンナの心臓が高鳴った。これ以上なんてないと思っていたのに、またしても頬がじわりと熱くなる。
アンナが首をかすかに縦に動かせば、ルーがアンナの右手を紙から引き取って、大切そうに指を絡めてくれる。
月明かりに照らされた彼の頬は、たぶん、ほんの少しだけ赤かった。
二人はもう一度歩き始めた。先ほどよりもゆっくりとした足取りなのは、きっとアンナの気のせいではないはずだ。
近づいた体温のぶんだけ暖かくなった沈黙を遠ざけるように、アンナはぽそりと問う。
「……ルーさま、は、嫌じゃない?」
「なにが?」
「こうやって……手をつなぐこと」
「嫌だったら、提案なんてしない」ルーはアンナのほうを向く代わりに、指先を親指の腹で撫でて、
「嫌なんかじゃないわ! だって、好き、だもの……ルーさまのこと……」
今度の「好き」は、さっきよりもずいぶんと小さい声になってしまった。だというのに彼は、つないだ手に力をこめてくれる。
舞い上がるように嬉しさで、アンナの胸がぎゅっと締めつけられた。
「ねぇ、あのね。笑わないで聞いてほしいのだけれど」思い切って手を握り返しながら、アンナは言葉を続けた。「わたくし、男のひとと手をつなぐの初めてなのよ。力加減とか、そういうの、大丈夫かしら?」
ルーが小さく笑った。
まぁ。わたくしは真面目な話をしているのに。アンナが少しだけ唇をとがらせれば、彼は
「何も問題はないよ、アンナ。君はずっと変わらない。今も、昔も」
アンナは口を閉じた。
一つには、ルーに見とれたからだ。美しくて、かっこよくて、時に子供のように素直な彼が、同い年の親友のような気さくな表情を見せてくれたのは、アンナにとっては初めてのことだった。
そして、もう一つには。
「アンナ?」
「……いいえ」不思議そうなルーの視線にぎこちなく微笑んで、アンナはゆるりと首を振った。「大丈夫。なんでもないわ」
寝室にたどり着いたので、アンナはルーの手を離した。物言いたげな彼を不安にさせないよう、まっすぐに目を見てお礼を言う。
「ありがとう、ルーさま。ご一緒できて、本当に嬉しかった」
「……君が、そう思ってくれたのなら良かった」ルーはゆっくりと
「おやすみなさい」
ドアがぴたりと閉まる直前まで、ルーと視線をかわす。呼吸三つ分の沈黙のあと、彼の足音が遠ざかる音がした。
アンナは扉に背を預けて座り込み、紙に顔をうずめる。
本当は、手を離したくなかった。話をずっと続けていたかった。別れ際まで見つめあうんじゃなくて、一緒にいてと言いたかった。
「……でも、ルーさまが見ているのは、わたくしじゃないのよ……」
だって彼のそばに一番長くいたのは、アンナ・ビルツであるはずだから。
冬の頃にはたしかに覚えていたはずなのに、今の今まですっかり忘れていた事実を思い出して、アンナは深くため息をつく。
*****
部屋に戻ったレイモンドの目に飛び込んできたのは、
「……全然、似合わないんだよな……」
「壊れたものは直すべきだろう」
ディエンは、レイモンドのぼやきを正確に拾い上げた。ベッドサイドに置かれたオイルランプの明かりの中で、大男は右腕を縫い止めたばかりの犬の人形から顔をあげる。
「遅かったな。講義は盛況だったのか?」
「変な言い方はやめてくれ。俺が一方的に話して終わりだよ」
レイモンドは渋い顔をしながら、二つ並んだベッドの横を通り過ぎて机へ向かった。
窓を開け、湿った土と
少しばかりの逡巡の間に、視界の端が明るくなる。ディエンが炎を閉じ込めたランプを差し出していた。
「こんな時間まで勉強とはな」
「……役所の試験は待ってくれないんだよ」明かりを受け取りながら、レイモンドはぶっきらぼうに返した。「ヴィナたちが来なければ、もう少し早くから勉強できてたはずなのにさ」
「ふむ? だが、どちらにせよ魔女の未練は来ていただろう」
「アレをなんとかするのに、時間はかからないだろ。俺たちなら」
「人形を直す手間は必要だがな」
「
ディエンと出会って三年、正式に組み始めて二年半の間に、何度繰り返したか分からない不毛なやり取りだ。レイモンドが嫌そうな顔をし、ディエンがにやっと笑う、そんなところまでいつもどおり。
無意味な時間だ。
レイモンドは、ひりつくような疲れを訴える目をもみながら、ランプを机に置いた。窓の外、月明かりが注ぐ
「なぁ、今の俺はどう見えてる?」
レイモンドの漠然とした問いかけの答えは、暗くなったベットのほうから聞こえた。
「試験に備えて神経質気味の若者、魔女の未練に関する専門家、ただし屋敷にいる人間たちからは、大なり小なり不信感を
五十点、とレイモンドは渋い顔をしながら胸中で採点した。
「それから、自分のベッドにヴィナたちを寝かせてやる優しい兄貴分」レイモンドが気恥ずかしさから唇を曲げたところで、さらにディエンは付け足した。「安心しろ。お前はもう、リンダルムの
七十点。
最終点をつけ、レイモンドは
「当然だろ。俺は父さんとは違うんだから」
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