KHM060 / 第三章 落星とイコンの楽園歌
第1話 君が僕を好いてくれるのは、純粋に嬉しい
ビルツ
石造りの洗い場と、
アンナは
例えば、
例えば、焼きあげたばかりのスコーンの甘い香りを、一番のりで胸いっぱいに吸いこめること。
例えば今みたいに、お茶会の準備を口実にして、彼と二人きりになれること。
「
「せっかくだから、
アンナは声を弾ませながら、両手を叩いた。
作業机には、淡い黄色のガーデンカクテルの大瓶のほかに、スコーンや、サンドイッチが置いてあって、小窓から差し込む夏の光につやつやと輝いている。使い終わった食器を洗えば、これらを籐籠に詰めて
本当に楽しみだわ。ティカさんたちも、きっと喜んでくれるはず。お茶会への期待を膨らませつつ、アンナは隣のルーを見やって、ますます頬を緩ませた。なによりも大切なのは、彼と一緒に準備できたということなのよ。
だって今、わたくしたちは隣り合って立っているのだわ。ねぇ、信じられるかしら。この広い
そしてやっぱり、今日もルーさまは美しいのだわ。
アンナはうっとりと片思いの相手を見つめた。夏の日差しが、ルーの夜明け色の髪を美しく照らしている。ここ数日の暑さのためか、彼は少しばかり長い後ろ髪を
えぇえぇ、もちろん。見えそうで見えないちらりずむにも
やっぱり夏の
「ルーさまの素肌……」
「……声に出ているが? アンナ・ビルツ」
ルーに呆れ声で指摘され、アンナは慌てて顔を引き締めた。
ため息をついた彼は、
「妄想は、ほどほどにすべきだな。顔がだらしない」
「だ、大丈夫なのだわ! ルーさまでしか、夢を
「綺麗な言い回しをすれば良いってわけでもない」ルーはうんざりしたように言った。「だいたい、僕なんかのことを考えてどうするんだ。もっとあるだろう。他に大事なことが」
「もちろん、おっしゃるとおりよ。でも、今考えなきゃいけないのはルーさまのことだけ」
「……あのな」
「本当よ」ルーの
指先を組む。黒のワンピースの胸元で白銀の
アンナは顔をあげる。
「ティカ・フェリスの一件があったのは春の終わりだ」ルーはカクテルをぐるぐると回しながら言った。「そこから数ヶ月、一つも問題は起こっていない。
「……この前の洗濯物のたたみ方、とか?」
アンナはそろりと言った。ルーが手を止め、瞳に愉快そうな光を宿しつつ、真面目くさった顔で
「あれは最近でも、一番のいさかいだったな。シーツを縦にたたむか、横にたたむか。おまけにレイモンド・ラメドは
アンナは思わず笑った。
「ふふ、そうね。さすがに彼ほど、きちんとしなくてもいいとは思うけれど……ティカさんは縦にたたんだり、横にたたんだりってかんじだから、しまうときにちょっとだけ困るのよね。ほら、たたんだ後の大きさが違うでしょう」
「だからレイモンド過激派に目をつけられたというわけだ」
「大論争だったわ。どっちも自分の考えを
「最終的には、君から解決策を掲示してやっただろう?
「わたくしだけの解決策ではないわ。ルーさまと、フラウさんと、ディエンさんと……みんなで話して決めたのよ。そのことがきっと、大事なのよね。平和で、平等ってことだから」
三年前の革命がもたらした、唯一にして最大の幸福を思って、アンナは目元を緩めた。こればかりは乾いた書物の文章からだけでなく、今も実感できることで、素直に喜ばしい。
ルーが
「うん、笑顔に戻った」
アンナは一気に顔が熱くなるのを感じた。慌てて目をそらし、
「……ルーさまが、
「そういう?」
「笑いかけてくださる、のが」
そこまで言いさして、アンナは急いで顔をあげた。
「あっ、違うのよ! 笑ってくださるのはいいのっ! ルーさまの笑顔は素敵だし、可愛らしいし、わたくしも大好きだから……っ! ただその、突然という、の、が、」
アンナは息を
ばくばくと鳴る心臓の音を聞きながら、アンナは夜明け色の髪の青年を見あげる。彼は少しの間だけ視線をそらした。それなのに親指の腹は、アンナの指先をしきりに
まるで夢の中のくちづけみたいと、アンナは思った。
そう。夢の彼は、花びらに
しっかりしなくちゃ、と言い聞かせて、アンナは目を開けた。
分厚い眼鏡ごしにルーと目があい、夢のなかの
ルーさまも、照れてらっしゃるのだわ。わたくしと同じように。
「……どんな、理由であれ」ゆっくりと言ったあと、ルーは気持ちを落ち着かせるように深く呼吸をした。「君が僕を
「う、れ……しい……?」
「適当には、できない。いや、君からすれば、今までの僕は、適当にあしらっていたように見えていたかもしれないが……」
「ルーさ、」
「アンナ」
なにか意を決したように、ルーがアンナの名前を呼んだ。心臓があまりに
待って、と思った。されどももちろん、吸いこむべき空気は二人の間に消えてしまったし、ルーの言葉も止められない。
「……アンナ。春の終わりから、ずっと伝えようと思っていた。僕は、」
彼が驚いた顔して口を閉じる。アンナは足をもつれさせながら後ずさり、丸椅子に置いていた空っぽの籐籠をつかんで叫んだ。
「わっ、わたくし……っ! 外の様子を見てくるわ! ルーさまはここで待ってらして!」
*****
「……だからぁ……わたくしに原因があるとするなら、そこなのよ……ぉ……」
「めんっっどくさ」
アンナが半べそをかきながら締めくくれば、テーブルの向こう側でティカが心底うんざりした顔で呟いた。
みっともない逃走劇から一転、
すなわち、サンドイッチやスコーンやガーデンカクテルの到着を、ということである。
されども、アンナがつかんだのは空っぽの籐籠だったのだから、いつまで待っても到着するはずがない。
ティカが
結局ティカはしかめつらをし、空のグラスをとりあげてアンナに突きつける。
「早く食べ物とってきて。お腹すいた」
「いやよ」アンナは鼻をすすり、肩を縮こまらせた。「だって……分かるでしょう? 気まずいのよ。わたくしが一方的に飛び出してきたんだから」
「ボクには理解できない理由でね」
「まぁ! さっき、きちんと説明したでしょう? なんだったら、もう一度する? わたくしはルーさまとガーデンカクテルを作ってて……」
「のろけ話はいいんだってば!」
やってられないと言わんばかりに、ティカは手足を投げ出した。今日の彼女は
「はぁもう、一体なんなの!? お菓子と飲み物があるっていうから、テーブルの準備をしたっていうのにさ!」
「ふ、へへ……」フラウが陰気に笑った。「ティカちゃん、たくさん指示してくれたもんね……日陰で、じっとしてるだけだったけど……」
「余計なことは言わなくていいんだよ、フラウ。とにかく、だ。自分で言い出したことの責任は、自分でとるのが大人ってもんでしょ。気まずいとか、子供みたいな理由で逃げるな。とっとと手をつなぐなり、キスするなり、一発ヤるなりして
ティカの乱暴な言い方に、アンナは顔を真っ赤にし、テーブルを叩いて立ち上がった。
「そっ、そんな
ティカが半眼になった。
「でも、キスはしたんでしょ」
「手は
「妄想は?」
「毎晩してるに決まってるのだわ!」
「……うわ、してるんだ」
「そうよ! でもね、違うのよ! だからこそ問題なの!」
ティカがうんざりした顔をする。アンナは椅子に座り直して、繰り返した。
「ぜんぜん、違うのよ。わたくしの想像なんかよりもずっと、ルーさまの笑顔は子供みたいに可愛くて。頬が赤くなるくらいに照れてらっしゃって、わたくしの指を何度も
うっかりこみあげてしまった涙を、まばたきを繰り返してなんとか誤魔化す。
ティカが気まずそうに顔をしかめた。ややあって、彼女は食事をとってくるようにフラウへ頼み、隣に座っていたレイモンドの背を叩く。
うめき声を上げる彼に体を寄せて、ティカが早口で言った。
「ね、ねぇ! 聞いてないフリしないで、なんか言いなよ。ガリ勉男」
「ちょ、そういう言い方はないだろ。というか、俺は君たちの話なんて聞いてない」
レイモンドが顔をしかめた。ティカは眉をひそめ、「じゃあ」と尋ねる。
「アンナがルーとできていないことはなにか?」
「手をつなぐこと……あ」
反射的に答えたレイモンドが、しまったという顔つきになる。ティカは勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「ほらね、やっぱり聞いてたんじゃないか」
アンナはそろりと、レイモンドを見やった。彼は気まずそうに視線を泳がせ、ぼそぼそとティカへ反論する。
「俺がここにいるのは、おしゃべりのためじゃないんだ。部屋が暑くて、勉強に集中できなかったからで……そもそも、彼女を泣かせたのは君だろ。責任を押しつけないでくれるかな」
「う、うるさいなあ……!」ティカがますます気まずそうに反論する。「ボクは事実を言っただけで……」
「言えばいい、ってものじゃないだろ。配慮とか思慮とか……とにかく君は、そういうのをいい加減に勉強すべきで……洗濯物のたたみ方の時にも、話したけどさ……」
「はぁ? このタイミングで説教とかする? あのねえ、」
「あ、あのっ!」不穏な空気に、アンナは声をあげた。「わたくしは、大丈夫よ! 泣いてなんかないもの! ちょっと、その、泣きそうなだけで……っ」
沈黙が落ちた。ティカが居心地悪そうに身動ぎし、レイモンドがわざとらしく咳払いをする。
「ええと、だからその、なんというのかな」レイモンドはアンナのほうを向き、いささか明るすぎる声で言った。「ティカの言うとおり、ルーのことで心配する必要はないというか……彼も嫌ってはないんじゃないかな、君のこと」
「そ、れは……もちろんね、そうあってほしいと思うけれど……」ルーの名前が出てきて、アンナは再びしゅんと肩を落とす。「でもほら、わたくしって、騒がしい女じゃない。ルーさまに話しかけて頂けるだけで、子供みたいにはしゃいじゃうし……なによりね、ルーさまはティカさんのことが好きなのよ」
「それこそありえないってば」ティカがぶっきらぼうに言った。「というか、ボクはあいつのこと好きじゃないし」
「えっ」
一瞬だけ思考が止まり、次いでアンナは目を丸くした。
「ええええっ!? じゃあ、ルーさまの……片思い……!?」
「あー……アンナさん、待って。一つ確認したいんだけど」レイモンドが手を上げて制した。アンナが口を閉じたのを確認し、神妙な面持ちで尋ねる。「ルーが君のことをどう思ってるか……いや、こういう
アンナはぱちぱちと目を瞬かせ、首を
「なにも、おっしゃってないけれど」
ティカとレイモンドは互いに顔を見あわせ、どちらからともなく呟いた。
「……それが原因か……」
「そう、それが原因なのさ!」
夏のはじめに
そんな男は、上機嫌に言う。
「久しぶりだね、
得意げに手を胸に当てて自己紹介をすませたアルヴィムへ、アンナは顔をしかめた。
なんといっても、春先に旅行へ行くと言いおいて、結局二ヶ月近くも帰ってこなかった男である。彼の発言が適当なのは今にはじまったことではないが、それにしたって今回のは無責任すぎだ。
「なにより、先生が来ると話がややこしくなるのだわ」
「あっはは、
「まぁ、先生。あえて言ってるんですのよ。気づいてくださって何より……あっ、ちょっと。どうして隣に座るの!」
「そりゃあ、俺は客人だからね。ところで、」
「えっと……」ティカが控えめに問いかけた。どうにかこうにか、お前は誰だよ、という問いを押し殺して、といった感じの口調だ。「何を考えたっていうの?」
アルヴィムが待ってましたとばかりに、ぱちりと指を鳴らす。
「それはもちろん、俺たちでルーをたきつけてやるのさ!」
*****
妙な悪寒がして、ルーは
籐籠へスコーンを詰めていた手を止め、
アンナが出ていって、
洗い場に重ねた食器を
「不愉快そうな顔だな」
「そう見えているのなら何より」ルーは淡々と返しながら、最後のスコーンを籐籠にいれた。「お前と一緒にいる時間ほど、無駄なものはない」
「まったく同感だ。俺も
「……僕のせいではないが?」
一緒に食事を準備している間の優しい時間と、つかんだ指先の
それから、またしても伝えられなかった言葉。
思い出したくもない事の
「まぁ、心配するな。いざお前が失敗するとなっても、俺がいるからな」
ルーはむっとして応じる。
「意味が分からないな。情報伝達は正しくすべきじゃないのか」
「お前がふられたら、俺が
「ありえない」
「どっちがありえないんだ?」
言葉に詰まり、ルーは籐籠の
お前がアンナと付き合うほうに決まってるだろうが。そう吐き捨ててやりたいのをなんとかこらえられたのは、アンナを想うからこそだった。
彼女の気持ちは、彼女自身が決めるべきだと、ルーは思う。
昔とは違う。今の彼女はもう、血筋だとか肩書だとか、面倒なしがらみから解放されて自由のはずなのだから。
ちり、と頭の片隅で金属の
あと一歩のところで逃げてしまった彼女の背中を思って、少しばかり気分が沈んだ。僕は彼女に、嫌われてはいない……はずだ。たぶん、おそらく。
そこで、かたん、というささやかな物音がした。
年の頃は十歳ほどだろうか。
双子らしき子供達は、何も言わないルーを見やり、それからディエンのほうを見て、ぱあっと顔を輝かせた。
「やっと見つけた! ダディ!」
*****
ビルツ
みずみずしい葉の緑の間で、
きらきらとした空気と、舞踏会が始まる直前のような弾ける寸前の陽気。
それらに祝福されて、記憶喪失の彼女と、
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