第10話 灰かぶりの偽証
引きちぎれそうなほど痛む
木と
あぁこれなら、人を殺すこともできるだろう。
そこで、背中に衝撃がはしった。息が詰まる。棚に胸を叩きつけるようにして、抑え込まれる。
「逃げないで」
ぞっとするほど冷たい姉さんの声を耳元で聞いて、ボクは悲鳴をあげた。恐怖がぶり返して必死にもがく。それでも結局、体を反転させるのが精一杯だった。
背中を棚に打ちつける。今度は首に手をかけられる。目と鼻の先に、自分と
双子の姉の、顔は蒼白だ。なのに、血走った
彼女は興奮気味にささやいた。
「ねぇ、暴れないでよ。あなたは、大人しく私に殺されてくれればいいの」
「い、やだ……」
「どうして? お姉ちゃんが仲間外れになってもいいの? そんなの、嫌だよ。私はあの人達についていかなきゃ」
「っ、それが、いやなんだってば……!」
姉さんが
「あの人達って、昨日の怖い男の人達でしょ!? ボク、聞いたんだから! 誰かを殺してるとか! 変な薬を渡してるとか! 嫌な話がいっぱい……っ、う」
「でまかせを信じないで」ボクの
「違うでしょ……ボクは、姉さんの正しさの話をしてるんだ……思い出してよ……」
ボクは、黙り込んだ姉さんを見上げた。
「ここで、一緒に演劇ごっこしたじゃん……」
「……私が春の乙女で、あなたが冬の王だった」
「そうだよ。ボクたちのはじめての『
「私は役者になりたかったのよ」
「知ってる。だから、旅座についていったんだろ。ボクたちをおいて」
「……怒った?」
「綺麗だったよ」
「姉さんの舞台、ほんとうに綺麗だった」
色とりどりの光を閉じ込めた
両親に黙って村を出て、手紙片手にたどり着いた見知らぬ街で、生まれて初めての舞台を見た。その中心で、美しく輝いていた姉さんを忘れない。誰も殺しあわない世界であれと、平凡でまぶしい祈りを歌ったあなたを、忘れられるわけがない。
ぎゅっと手に力をこめて、ボクは呟いた。
「だから、もう、やめようよ……姉さん……こんなこと……」
長い沈黙があった。姉さんの肩から力が抜け、ボクの
「……やめられる、のかな」姉さんが顔をうつむける。「あの人達、が……私のことを見逃してくれると思う……?」
「大丈夫だよ。ボクが守ってあげるもん。母さんも、村の人達も、きっと助けてくれる」
「ほんとに? 私はおかしくなった、って、みんな言ってたよ? 誰からも愛されない……無価値な私になったって……そういうことじゃないの……?」
「変わってないよ。姉さんはぜんぜん、変わってない。ボクも、みんなも、大好きだよ。姉さんのこと。ね? だから、帰ろう?」
姉さんの
ほっそりとした指先が、離れた。その手がけれど、次に握ったのは、
姉さんが、ボクの脇腹に、刃を突き立てる。
「……じゃあ、やっぱり殺さなきゃ」
激痛に、ボクは悲鳴をあげた。うそ、どうして、なんで。断片的に叫ぶボクへ、姉さんが
「だって、私だけ幸せなんて、許されないもの」
「平和になるためには、早く戦争を終わらせるしかないんだもの」
「みんな、陛下のことを悪く言う、でしょ」
「でも、私の舞台を見れば、きっと陛下が正しいって思ってくれる」
「私の価値はそれだけだから、あの人達の仲間にならなきゃ」
「仲間になるには、家族を殺して、覚悟をみせなきゃ」
「ねぇ」
「そうでしょ」
姉さんが短剣を引き抜いた。ボクはまた、悲鳴をあげるしかなかった。傷から氷の塊を押し込まれたような、真っ赤に燃える
棚を手で、強く叩いた。
棚上の剣がすべり落ちて、抜き身の刃が
姉さんが短剣の切っ先をボクへ振り下ろしながら泣いた。
「ごめんね。私、変わっ、」
途切れた言葉の先は、永遠に続かない。
小さな剣が、姉さんの背中と心臓を、
*****
だからこれは、罪なのよ。冷めた思考のままに
目の前にはいまだ、夕陽に染まる物置小屋の光景が広がっている。剣の突き刺さった
彼が、姉を殺した。
ティカ・フェリスという一人の女性を殺した。
――いいえ、違うわ。アンナは首を振って、冷たい声を押しのけようとする。違うのよ。彼は、守りたかったのよ。たったひとりの姉を守りたかったの。
「ティカは優しい人だから?」
温度のない声にどきりとして、アンナは振り返った。
物置小屋の景色が消えて、真っ暗になる。少し離れたところに誰かがいた。顔も姿も見えないけれど、冷たく笑う気配がする。
「己の感情に流されて、公正な判断をくだせないのは愚王の証よ。罪の名前が見えたのなら、きちんと呼んで
「……あ、なたは、誰」
「誰?」おうむ返しに問い返して、声の主が言う。「それを尋ねたいのは、わたくしのほう」
アンナは、暗闇が自分の指先を染め始めていることに気がついた。だめ、と思う。なのに口元から手が離れる。唇が震える。
罪の名前を、呼びたくない。そう思うのに、
「――アンナ!」
鋭く名前を呼ばれた。ルーの声だった。
冷たい暗闇が消える。代わりに、ぬくもりのある暗闇が見える。
彼の手が、自分の目を
そうして後ろから、抱きしめてくれている。
「ありがとう」アンナはほっと肩の力を抜いて、微笑んだ。「来てくれたのね」
「君のそばにいると、約束した」
「……うん」
自分のためだけの優しさが、泣きたいくらいに嬉しい。それをぎゅっと胸の中に閉じ込めて、アンナはルーの手を目から外す。
めちゃくちゃになった舞台が見えた。うずくまって悲鳴をあげているティカの周りで、
魔女の力の暴走だ。引き起こしたのは、他ならぬアンナ・ビルツの目だ。胸が痛い。でもその痛みは自分勝手なものだから、飲み込むことができる。
アンナは振り返った。静かな眼差しをしたルーのそばで、フラウが蒼白な顔をしている。
「約束どおり」ルーが言った。「フラウ・ライゼンを連れてきた」
「助かるわ。
「素人の奇襲ごとき、僕の問題にはならないな」
「頼もしいわ。ならば、計画どおりに行きましょう」
灰をまぶした炎色の目をまっすぐに見つめる。ちりと罪悪感が心臓を刺した。こうして彼の力を利用することだって、本当はしたくない。けれど。
そんな、アンナの子供じみた迷いを見抜いたかのようだった。ルーが少しだけ目元を緩め、音もなく唇を動かしてくれる。約束する。
短い言葉は、あの冬の暖かさそのものだ。痛みは消えないけれど、彼がそばにいてくれる。何を失っても、その約束だけは、最後まで残る。
そう思えた。だから、アンナは言った。
「わたくしのために戦って――
「
ぱち、と二人の間で銀の光が弾ける。それを
「ま、待って……!」フラウがアンナの腕を強く握った。「だめ……! ティカちゃんを傷つける気なら、私、許さないんだから……!」
「わたくしたちは何もしないわ」
「うそ」
「本当よ」
アンナは眼鏡をかけながら息を整え、フラウのほうを向く。
「あなたがティカさんの、罪の名前を呼ぶの」
フラウが目を見開いた。胸元が不自然に動き、「
「呼ばない……呼ばないよ……だって、ティカちゃんは罪なんて
「ティカさんは姉を殺したわ。人殺しよ」
「知ったふうなこと言わないでよっ」
胸ぐらをつかんでフラウが泣く。動きそうになった指先を強く握りしめて、アンナは言葉を重ねた。
「あなたにティカさんの罪を教えましょう。彼女が何をしたのか。どうして姉を殺すことになったのか。そのうえで罪の名前を呼べば、ティカさんの魔女の力は止められるわ」
「いやだよ! アンナちゃん、なんでこんなに、ひどいことをするの……っ! ティカちゃんの友達だと思ってたのにっ……!」
「……友達なんかじゃないのだわ。だって、ティカさんのそばに一番長くいたのは、わたくしではない」
フラウの肩をつかんで、引き
「あなたが、ティカさんの友達なの。ならば、良いことも、悪いことも、ぜんぶ引き受けてあげて。あなたが呼ぶのは、ティカさんの罪の名だわ。でも、今を生きるために必要な鍵でもある。だからこそ、彼女を支えてあげられる人が、その名前を呼ぶべきなのよ」
*****
銀光から掴んだ
「おにーさんったら」
「君は女ではないだろう」
「私は女の子だよっ。そこで泣いてるばっかりの偽物と違ってさあ!」
刃が離れる。距離を取りながら、ルーは素早く周囲を確認した。
自分に刃を向けるのは、ティカそっくりの黒髪の少女。その足元でうずくまって動かないのがティカ・フェリス本人。紫の光はいつの間にか消えているが、意図的に消された可能性もある。恐らくは後者だ。ならば、あの光の役割はなにか。
ルーは足裏で舞台を強く踏み、再び黒髪の少女へ切りかかった。剣で受け止められる。ここまでは予想通り。
一瞬の拮抗をついて、ルーは
「ばんっ」
ひどく軽やかな声で少女が呟いた瞬間、ルーの足元に転がっていた花瓶に紫の光が
「残念。どんな攻撃も、私には通じないよ。だって、痛いのはもう、嫌だもの」
「……
「せーいかい! だから、こんなこともできちゃうんだよね!」
少女は、自分の指先を小剣の刃に押しつけた。ルーのすぐ右手、小道具らしき木の枝に紫の光が灯る。
間をおかず、木の枝が内側から
「ほらほら! 避けてるだけじゃ、なーんにも終わんないよ!」
少女の楽しそうな声とともに、次々と生まれる爆発がルーを追いかけはじめた。
足は止めない。それ以上の速度で、ルーは思考を巡らせる。爆発の前には必ず光が灯るから、避けること自体は難しくない。加えて、爆発しているのは小道具だけのようだ。共通点といえば、その程度だが。
――いや、光が灯るということ自体が共通点か。短い時間で結論を出し、ルーは舞台背景を蹴りつけて宙空へ身を
少女が投げつけてきた
身を低くして、ルーは少女に向かって走り始めた。あちこちで紫の光が生じる。視界に映る数は三十二。全てではないだろうが、少女の近くの数だけわかれば十分だった。
息を短く吐き、
十六、八、四、二。斬りつけたものを半減させる。その四度の斬撃の後、最後の一つをかわす。
これで
ルーは爆煙から飛び出した。黒髪の少女が
けれどそこで、彼女は目を見開いた。
「っ、光が……!」
「
ルーはがら空きになった少女の胸元を斬りつけた。
鮮血が噴き出る。少女が目を見開いて後ずさる。されど倒れる寸前で踏みとどまり、彼女が絶叫する。
「許されない……許されないよっ! こんなのっ!
倒れているティカの体に、紫の光が
それでも、声は届いたのだ。届くべき人の元へ。
『止まれ、
フラウの泣き叫ぶような声が響いた。それはまさしく、ティカ・フェリスの罪の名前だった。
紫の光が消え、黒髪の少女の絶叫が止まり、彼女の手から落ちた小剣が舞台に突き刺さる。
*****
まるで夢の終わりのように、音もなく、呆気なく、
壊れてしまった舞台の上を、フラウは足をつっかえさせながら歩く。
美しい世界は見る影もない。
客も役者も逃げてしまった。
きらめく
親友を彩る
それが悲しくて、やりきれなくて、フラウはたどり着いた先で泣き崩れた。
「ごめんね……ティカちゃん……」フラウは鼻をすすって、
「……馬鹿」
「ありがと、フラウ」
二人だけの舞台は、こうしてひっそりと、幕をおろしたのだった。
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