第10話 灰かぶりの偽証

 引きちぎれそうなほど痛むのどで息を吸い込んで、ボクは物置小屋の階段を登りきった。


 木とほこりの匂いが混ざりあった空気に、残照ざんしょうが差す。ありあわせの布をつないだ衣装、麦藁むぎわらがこびりついた木箱、蜘蛛くもの巣をかぶった子供用の木椅子。違う、どれも駄目だ。そう思ったところで、たなの一番上で光を弾く何かを見た。布からはみ出た小剣だった。


 あぁこれなら、人を殺すこともできるだろう。安堵あんども淡い期待も、身震いするほど冷たくて、剣へ伸ばす手が少しだけにぶる。


 そこで、背中に衝撃がはしった。息が詰まる。棚に胸を叩きつけるようにして、抑え込まれる。


「逃げないで」


 ぞっとするほど冷たい姉さんの声を耳元で聞いて、ボクは悲鳴をあげた。恐怖がぶり返して必死にもがく。それでも結局、体を反転させるのが精一杯だった。


 背中を棚に打ちつける。今度は首に手をかけられる。目と鼻の先に、自分と瓜二うりふたつの姉さんの顔がある。


 双子の姉の、顔は蒼白だ。なのに、血走った紫水晶アメジストの目は異様なまでに輝いている。


 彼女は興奮気味にささやいた。


「ねぇ、暴れないでよ。あなたは、大人しく私に殺されてくれればいいの」

「い、やだ……」

「どうして? お姉ちゃんが仲間外れになってもいいの? そんなの、嫌だよ。私はあの人達についていかなきゃ」

「っ、それが、いやなんだってば……!」


 姉さんがいさめるようにボクの名前を呼ぶ。その声を聞きたくなくて、必死の思いで姉さんの手首にすがりついた。


「あの人達って、昨日の怖い男の人達でしょ!? ボク、聞いたんだから! 誰かを殺してるとか! 変な薬を渡してるとか! 嫌な話がいっぱい……っ、う」

「でまかせを信じないで」ボクのほおを平手で打って、姉さんは言った。「リンダルムの赤薔薇あかばらはいつだって正しいのよ」

「違うでしょ……ボクは、姉さんの正しさの話をしてるんだ……思い出してよ……」


 ボクは、黙り込んだ姉さんを見上げた。


「ここで、一緒に演劇ごっこしたじゃん……」

「……私が春の乙女で、あなたが冬の王だった」

「そうだよ。ボクたちのはじめての『五月の薔薇マイレースレ』だ……姉さんが椅子の上から落ちたりしてさ、父さんにたくさん怒られたでしょ……」

「私は役者になりたかったのよ」

「知ってる。だから、旅座についていったんだろ。ボクたちをおいて」

「……怒った?」

「綺麗だったよ」


 きょをつかれたような顔をする姉さんに、ボクは泣き笑いを浮かべた。


「姉さんの舞台、ほんとうに綺麗だった」


 色とりどりの光を閉じ込めた宝飾品ビジュー、ひらひらと春風をつかまえるシフォン生地のワンピース、レースをたっぷりとあしらったつば広帽子キャベリン。昼はふっくらと柔らかな薄薔薇色ベビーピンクを、夜にはしっとり濡れて輝く濃薔薇色ローズレッドを唇に。つまさきを美しくいろどる芸術品のような靴をはき、細い足首にはサテンのリボンをふわりとかけて。


 両親に黙って村を出て、手紙片手にたどり着いた見知らぬ街で、生まれて初めての舞台を見た。その中心で、美しく輝いていた姉さんを忘れない。誰も殺しあわない世界であれと、平凡でまぶしい祈りを歌ったあなたを、忘れられるわけがない。


 ぎゅっと手に力をこめて、ボクは呟いた。


「だから、もう、やめようよ……姉さん……こんなこと……」


 長い沈黙があった。姉さんの肩から力が抜け、ボクののどにかかっていた力がふと緩む。


「……やめられる、のかな」姉さんが顔をうつむける。「あの人達、が……私のことを見逃してくれると思う……?」

「大丈夫だよ。ボクが守ってあげるもん。母さんも、村の人達も、きっと助けてくれる」

「ほんとに? 私はおかしくなった、って、みんな言ってたよ? 誰からも愛されない……無価値な私になったって……そういうことじゃないの……?」

「変わってないよ。姉さんはぜんぜん、変わってない。ボクも、みんなも、大好きだよ。姉さんのこと。ね? だから、帰ろう?」


 姉さんのほほから、涙がすべり落ちた。「そうだね」と声を震わせる。「帰りたいよ」と何度もうなずきながら言う。


 ほっそりとした指先が、離れた。その手がけれど、次に握ったのは、薔薇ばらの模様が刻まれた短剣で。


 姉さんが、ボクの脇腹に、刃を突き立てる。


「……じゃあ、やっぱり殺さなきゃ」


 激痛に、ボクは悲鳴をあげた。うそ、どうして、なんで。断片的に叫ぶボクへ、姉さんがおおいかぶさる。ほほに血をつけたまま、彼女がぼんやりと言う。


「だって、私だけ幸せなんて、許されないもの」

「平和になるためには、早く戦争を終わらせるしかないんだもの」

「みんな、陛下のことを悪く言う、でしょ」

「でも、私の舞台を見れば、きっと陛下が正しいって思ってくれる」

「私の価値はそれだけだから、あの人達の仲間にならなきゃ」

「仲間になるには、家族を殺して、覚悟をみせなきゃ」

「ねぇ」

「そうでしょ」


 姉さんが短剣を引き抜いた。ボクはまた、悲鳴をあげるしかなかった。傷から氷の塊を押し込まれたような、真っ赤に燃えるたきぎを突っ込まれたような、痛みが、とにかく、痛くて、何も考えられなくて、嘘、違う、殺されるって、思って、ただただ、それだけを、思って。


 棚を手で、強く叩いた。

 棚上の剣がすべり落ちて、抜き身の刃が残照ざんしょうを弾くのがよく見えた。

 姉さんが短剣の切っ先をボクへ振り下ろしながら泣いた。


「ごめんね。私、変わっ、」


 途切れた言葉の先は、永遠に続かない。

 小さな剣が、姉さんの背中と心臓を、つらぬいたから。


 *****


 だからこれは、罪なのよ。冷めた思考のままにささやきそうになって、アンナは口元をおおった。


 目の前にはいまだ、夕陽に染まる物置小屋の光景が広がっている。剣の突き刺さった亡骸なきがらを抱きしめて、泣きわめく少年がいる。それはけれど、彼の罪なのだ。


 彼が、姉を殺した。

 ティカ・フェリスという一人の女性を殺した。


 ――いいえ、違うわ。アンナは首を振って、冷たい声を押しのけようとする。違うのよ。彼は、守りたかったのよ。たったひとりの姉を守りたかったの。


「ティカは優しい人だから?」


 温度のない声にどきりとして、アンナは振り返った。


 物置小屋の景色が消えて、真っ暗になる。少し離れたところに誰かがいた。顔も姿も見えないけれど、冷たく笑う気配がする。


「己の感情に流されて、公正な判断をくだせないのは愚王の証よ。罪の名前が見えたのなら、きちんと呼んでばつを与えなくては」

「……あ、なたは、誰」

「誰?」おうむ返しに問い返して、声の主が言う。「それを尋ねたいのは、わたくしのほう」


 アンナは、暗闇が自分の指先を染め始めていることに気がついた。だめ、と思う。なのに口元から手が離れる。唇が震える。


 罪の名前を、呼びたくない。そう思うのに、のどが、動いて。


「――アンナ!」


 鋭く名前を呼ばれた。ルーの声だった。


 冷たい暗闇が消える。代わりに、ぬくもりのある暗闇が見える。


 彼の手が、自分の目をおおっているのだ。

 そうして後ろから、抱きしめてくれている。


「ありがとう」アンナはほっと肩の力を抜いて、微笑んだ。「来てくれたのね」

「君のそばにいると、約束した」

「……うん」


 自分のためだけの優しさが、泣きたいくらいに嬉しい。それをぎゅっと胸の中に閉じ込めて、アンナはルーの手を目から外す。


 めちゃくちゃになった舞台が見えた。うずくまって悲鳴をあげているティカの周りで、紫水晶アメジストの光がいくつもまたたいている。


 魔女の力の暴走だ。引き起こしたのは、他ならぬアンナ・ビルツの目だ。胸が痛い。でもその痛みは自分勝手なものだから、飲み込むことができる。


 アンナは振り返った。静かな眼差しをしたルーのそばで、フラウが蒼白な顔をしている。


「約束どおり」ルーが言った。「フラウ・ライゼンを連れてきた」

「助かるわ。想定外トラブルはなかった?」

「素人の奇襲ごとき、僕の問題にはならないな」

「頼もしいわ。ならば、計画どおりに行きましょう」


 灰をまぶした炎色の目をまっすぐに見つめる。ちりと罪悪感が心臓を刺した。こうして彼の力を利用することだって、本当はしたくない。けれど。


 そんな、アンナの子供じみた迷いを見抜いたかのようだった。ルーが少しだけ目元を緩め、音もなく唇を動かしてくれる。約束する。


 短い言葉は、あの冬の暖かさそのものだ。痛みは消えないけれど、彼がそばにいてくれる。何を失っても、その約束だけは、最後まで残る。


 そう思えた。だから、アンナは言った。


「わたくしのために戦って――〈暗夜の銀狼〉ルー・アージェント

うけたまわった」


 ぱち、と二人の間で銀の光が弾ける。それをつかんだルーは、ティカに向かって駆け出した。


「ま、待って……!」フラウがアンナの腕を強く握った。「だめ……! ティカちゃんを傷つける気なら、私、許さないんだから……!」

「わたくしたちは何もしないわ」

「うそ」

「本当よ」


 アンナは眼鏡をかけながら息を整え、フラウのほうを向く。


「あなたがティカさんの、罪の名前を呼ぶの」


 フラウが目を見開いた。胸元が不自然に動き、「うそ」とぽつりと呟く。


「呼ばない……呼ばないよ……だって、ティカちゃんは罪なんておかしてないもん……」

「ティカさんは姉を殺したわ。人殺しよ」

「知ったふうなこと言わないでよっ」


 胸ぐらをつかんでフラウが泣く。動きそうになった指先を強く握りしめて、アンナは言葉を重ねた。


「あなたにティカさんの罪を教えましょう。彼女が何をしたのか。どうして姉を殺すことになったのか。そのうえで罪の名前を呼べば、ティカさんの魔女の力は止められるわ」

「いやだよ! アンナちゃん、なんでこんなに、ひどいことをするの……っ! ティカちゃんの友達だと思ってたのにっ……!」

「……友達なんかじゃないのだわ。だって、ティカさんのそばに一番長くいたのは、わたくしではない」


 フラウの肩をつかんで、引きがした。涙に濡れた目でにらまれる。それを無視して、アンナはゆっくりと言った。


「あなたが、ティカさんの友達なの。ならば、良いことも、悪いことも、ぜんぶ引き受けてあげて。あなたが呼ぶのは、ティカさんの罪の名だわ。でも、今を生きるために必要な鍵でもある。だからこそ、彼女を支えてあげられる人が、その名前を呼ぶべきなのよ」


 *****


 銀光から掴んだ湾曲刀シミターを振り下ろせば、黒髪の少女は小剣で軽々と受け止めた。


「おにーさんったら」紫水晶アメジストの目を輝かせ、少女が笑う。「女の子相手に刃を向けるなんて、顔に似合わず残忍ざんにんね」

「君は女ではないだろう」

「私は女の子だよっ。そこで泣いてるばっかりの偽物と違ってさあ!」


 刃が離れる。距離を取りながら、ルーは素早く周囲を確認した。


 自分に刃を向けるのは、ティカそっくりの黒髪の少女。その足元でうずくまって動かないのがティカ・フェリス本人。紫の光はいつの間にか消えているが、意図的に消された可能性もある。恐らくは後者だ。ならば、あの光の役割はなにか。


 ルーは足裏で舞台を強く踏み、再び黒髪の少女へ切りかかった。剣で受け止められる。ここまでは予想通り。


 一瞬の拮抗をついて、ルーはふところに忍ばせていた短剣を投擲とうてきした。刃が少女の腹に刺さる。その顔がゆがむ。そして。


「ばんっ」


 ひどく軽やかな声で少女が呟いた瞬間、ルーの足元に転がっていた花瓶に紫の光がともり、爆ぜた。


 硝子ガラスの欠片が飛び散る。足首にわずかばかりの痛み。間一髪のところで距離をとったルーをあざ笑い、無傷の少女が短剣を床に投げ捨てる。


「残念。どんな攻撃も、私には通じないよ。だって、痛いのはもう、嫌だもの」

「……身代みがわりか」

「せーいかい! だから、こんなこともできちゃうんだよね!」


 少女は、自分の指先を小剣の刃に押しつけた。ルーのすぐ右手、小道具らしき木の枝に紫の光が灯る。


 間をおかず、木の枝が内側からぜた。ルーは舌打ちとともに飛び退ってかわすが、視界の端、今度は若草色の敷物しきものに紫の光が灯る。


「ほらほら! 避けてるだけじゃ、なーんにも終わんないよ!」


 少女の楽しそうな声とともに、次々と生まれる爆発がルーを追いかけはじめた。


 足は止めない。それ以上の速度で、ルーは思考を巡らせる。爆発の前には必ず光が灯るから、避けること自体は難しくない。加えて、爆発しているのは小道具だけのようだ。共通点といえば、その程度だが。


 ――いや、。短い時間で結論を出し、ルーは舞台背景を蹴りつけて宙空へ身をおどらせた。


 少女が投げつけてきた宝飾品ビジューに紫の光が散る。それをあえて避けずに、湾曲刀シミターで斬りつける。眼前で爆発。致命傷だけは避けて着地。まずは一つ。これで半分だ。


 身を低くして、ルーは少女に向かって走り始めた。あちこちで紫の光が生じる。視界に映る数は三十二。全てではないだろうが、少女の近くの数だけわかれば十分だった。


 息を短く吐き、湾曲刀シミターを動かす。銀の光から生まれる武器の形は気まぐれだが、湾曲刀は〈王狼おうろう〉の仲間が扱っていた武器だ。その記憶をなぞるように手を動かし、紫の刻印が灯る小道具に剣を叩き込む。


 十六、八、四、二。斬りつけたものを半減させる。その四度の斬撃の後、最後の一つをかわす。


 これでゼロ


 ルーは爆煙から飛び出した。黒髪の少女が香水瓶こうすいびんを投げつけ、剣の刃で指先を切る。


 けれどそこで、彼女は目を見開いた。


「っ、光が……!」

ともらない、だろう?」ルーは淡々と言って、湾曲刀シミターを振り上げた。「当然だ。印の刻まれた物体は全て消した」


 ルーはがら空きになった少女の胸元を斬りつけた。


 鮮血が噴き出る。少女が目を見開いて後ずさる。されど倒れる寸前で踏みとどまり、彼女が絶叫する。


「許されない……許されないよっ! こんなのっ! 身代みがわりになってっ!」


 倒れているティカの体に、紫の光がともった。彼女が薄く目を開く。何事か口を動かしたが、音にはならない。


 それでも、声は届いたのだ。届くべき人の元へ。


『止まれ、〈灰かぶりの偽証〉ヴェイル……!』


 フラウの泣き叫ぶような声が響いた。それはまさしく、ティカ・フェリスの罪の名前だった。


 紫の光が消え、黒髪の少女の絶叫が止まり、彼女の手から落ちた小剣が舞台に突き刺さる。


 *****


 まるで夢の終わりのように、音もなく、呆気なく、残滓ざんしすら残さず、ティカの魔女の力は消えた。


 壊れてしまった舞台の上を、フラウは足をつっかえさせながら歩く。


 美しい世界は見る影もない。


 客も役者も逃げてしまった。

 きらめく宝飾品ビジューは砕け散り、春風をつかまえて踊るはずだったワンピースは千切れてしわだらけ。

 親友を彩る薔薇色ばらいろべにはどこにもなく、彼女の足は素足のままだ。


 それが悲しくて、やりきれなくて、フラウはたどり着いた先で泣き崩れた。


「ごめんね……ティカちゃん……」フラウは鼻をすすって、こうべれる。「守ってあげられなくて、ごめんね……大切なあなたを、罪人つみびと呼ばわりして、ごめんね……」

「……馬鹿」


 緩慢かんまんにまぶたをあげたティカが小さく笑い、フラウの手をそっと握った。


「ありがと、フラウ」


 硝子ガラスの欠片がきらきらと輝く。

 二人だけの舞台は、こうしてひっそりと、幕をおろしたのだった。

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