第9話 みんなが待ち望んでいるのは、冬ではなく、春だもの

 あなたは私の罪を見た。


 それは雨の日。横転して砕け散った馬車の物陰。見知らぬ男たちが、互いに互いを剣で刺しあって、濡れた土の上でうめいている。


 私の手元で雨に打たれていたのは撮像機カメラで、泥まみれになっていたのは私の指輪だ。


 そして私は、私に馬乗りになって、私の首元に手をかける、あなたを見上げる。


 紫水晶色アメジストの、美しい瞳を。

 そこからこぼれる、優しい雨粒を。


「……おかえり、フラウ」

「……ティカ、ちゃん……」

「馬鹿」泥だらけの顔で、あなたが笑った。「そこはただいまって、言うところでしょ」


 あなたは私を抱きしめてくれて、そのまま血混じりのぬかるみに倒れ込んだ。


 泥だらけで、最低だって、あなたはきっと思ったでしょう。でも、私は嬉しかったの。あのときは泣いてたけど、ほんとうにほんとうに、嬉しかった。


 私の罪を見たあなたの指先は震えていた。それでも、おかえりと、言ってくれたから。私の罪を見なかったことにして、そばに居続いつづけてくれたから。


 だから。


『――〈泡姫の誘歌〉セイレーン


 歌うようなティカの声がして、フラウは現実に引き戻された。


 雑多な小道具と、木箱であふれた劇場の屋根裏やねうらだ。ほこりっぽい空気のなかで、燈籠ランタンの炎が頼りなく揺れる。


 ティカが一歩下がった。あの日と同じ、けれど決定的に違う紫水晶アメジストの目が、夜の闇にかげる。


「罪の名前は呼んだよ」ティカがにっこりと笑う。「さぁ、早くあいつらを倒しに行って」

「…………」

「フーラーウー?」


 逃げるように視線をそらせば、ティカが顔をのぞき込んでくる。口元には笑み、なのに目は少しも笑っていない。


 フラウは胸元を押さえた。

 怖い。こんなの、全然ティカちゃんじゃない。そう思うのに、体が動かない。


「分かってるでしょ、フラウ。このままじゃ、私の舞台が奪われちゃうんだよ。アンナ・ビルツとかいうムカつく女にさ!」大衆記事を踏みつけて、ティカは言った。「そんなの、嫌だよ。悲しくて、泣いちゃいそうだ。ねぇ、フラウ。あなたはそれでいいの? これがあなたの望みだった?」

「…………っ、そんなこと、ない……」

「そうだよね。だから今までずっと、協力してくれてたんだもんね。馬鹿な役者と客たちを、君の魔女の力で最高の人形にしてくれた。大衆誌タブロイドの記者に、アンナの悪口も渡してくれた」

「……そ、れは……あなたが、そうしろって、……」

「――そうだよ。ボクがそうしろって言った」


 不意に聞き慣れた声音にかわって、フラウは顔をあげた。間違えるはずがない。偽物なんかじゃない、ティカちゃんの声だ。


 戻ってきてくれたんだ。吸い込んだ息とともに膨れ上がった希望は、けれど、再び彼女と目があって、ぱちんと消えた。


 黒髪の少女は、紫水晶アメジストの目を意地悪そうに細めて、笑う。


「今のは、私の演技だよ。だまされたでしょう?」


 フラウは目を見開いた。うそ。間違えるなんて、嘘だ。

 偽物とティカちゃんを、取り違えることなんて、今まで一回もなかった。なのに。


「……あ……あぁ……」

「いやだな、フラウ。みっともない声で泣かないでよ」ぶるぶると震えるフラウの体を抱きしめて、ティカが子供をあやすように言う。「見分けられなくていいんだよ。だって、私がティカ・フェリスなんだもの。あなたの大好きな『ティカちゃん』なんだよ。ね?」


 だから守ってね、とティカが言う。

 声も、見た目も、体温も、全部同じのまま、彼女が言う。

 それが偽物であると、フラウは知っていたけれど、どうすることもできなかった。


 ティカを傷つけられたくないのなら、自分が守るよりほかに、方法はない。


 *****


 春の終わり、月明かりのさす静かな夜、役所の試験日まで残り二百五十三日。そんな貴重な一日を棒に振り、劇場に向かう大通りの真ん中で立ち止まる。


 万年筆のを何度も親指の腹でこすりながら、赤銅色の髪の青年はため息をついた。


「その、さ。思うんだよ俺」

「ふむ。そうだな」

「ティカたちに対して、無茶やってたのは君たちのほうだろ。じゃあ当然、アンナがしかってたのも君たちってわけだ」

「ふむ。そうだな」

「俺は巻き込まれただけでさ。じゃあもう、帰っていいと思うんだよな。試験勉強しなきゃいけないわけだし。陽動とか危ないし」

「お前は、役人には向かんだろう」

「……なんでそこだけ真面目に返すかな、ディエン」


 青年――レイモンドは、苦いため息をついて、隣を見やった。禿頭とくとう強面こわもて、本日抱えているのはうさぎの人形。そんなディエンが見据みすえる先、すなわちレイモンドの目の前には、十数人ほどの男たちが道をふさいでいる。


 男たちの目は、やたらとぎらついている。角材やら棒やらを持っているあたり、何百歩譲っても友好的には見えない。


 そりゃそうだ。

 なんてたって、こっちは招かれざる客devil’s dozenだもんな。


「あー……今のは穴埋めの単語問題イディオムで出そうだな……えっと、メモを、いでっ」


 背中を思い切りたたかれ、レイモンドは渋面を作った。相変わらず前を向いたままのディエンが、素知らぬ顔で言う。


「戦場で上の空とは、ずいぶんと大物だ」

「ここは戦場じゃないし、そもそも戦うんだろ」レイモンドは背中をさすりながらぼやいた。「アンナ・ビルツのこと、小娘って馬鹿にしてたくせにさ。まったく、びっくりするくらいの心変わりじゃないか」

れなおした」

「へぇ、そう。惚れ……ほれ……!?」


 うっかり万年筆を取り落としかけたレイモンドは、まじまじとディエンを見やった。相変わらず前を……っていやいや、そうじゃなくて。


「惚れなおす? え? 誰が? 誰に?」

「俺がアンナ嬢レディ・アンナに惚れなおしたということだな」

「なんで!?」

よめにするなら、強い女がいいだろう」

「いや、そっちのなんでじゃなくてさぁ……っ!?」


 ディエンに地面に突き飛ばされて、レイモンドはしりもちをついた。眼前をかすめた矢に「ひえ」と悲鳴をらせば、ディエンが愉快ゆかいそうに目を細める。


「ほら、雑談をしているひまはないぞ。さっさと俺の罪の名前を呼べ」

「とんでもない話題をふっかけたのはそっちじゃないか! あぁもう、どうしてそう勝手なことばっかりするかな!? 今までの計画が台無しじゃないか!」

「俺のせいばかりにするなよ。お前だって、俺と他人のフリをする計画を忘れているだろう」

「今は誰も見てないからいいんだよ!」


 不公平だな、と白々しく言いながら、ディエンが襲いかかってきた男の腕をつかんでねじり上げる。


 フラウの歌うような声が響いたのはその時だ。男たちが血相を変え、数人まとめて殺到してくる。


 レイモンドは仕方なく、ディエンの罪の名前を呼んだ。


〈無垢の遊炎〉ブルーダー!』


 にやっとディエンが笑って、人形を鷲掴わしづかみにした手を横薙よこなぎにふるった。うさぎの四肢から極小の光点が四つ生まれ、男たちの眼前で弾けて、彼らの体躯たいくを吹き飛ばす。


 砂粒すなつぶ混じりの爆風を、レイモンドは手をかざしてやり過ごした。そこまでは良かったのだが、気づけばディエンは嬉々ききとして男たちの群れに飛び込んでいる。


 レイモンドはあんぐりと口を開けた。今や自分は一人きり、爆風から逃れた数人の男に囲まれている。


「いやいやいや! そこは俺を守りながら戦うところだろ……っ!」


 返事の代わりに、男たちが雄叫おたけびをあげて襲いかかってきた。おのやら肉包丁にくぼうちょうやらがぎらぎらと輝く光景は、ぜったいに悪夢になること間違いなしだ。


「というかっ、お前らの返事は求めてないっての!」


 レイモンドは顔を青くしつつも、万年筆の先を男たちの足元に向けて叫んだ。


仔山羊アルゲディ屠殺者の幸運ダビーねじ巻きの尾デネブ!』


 呼び声に応じてあらわれるは、地面に輝く三つの星。それらが細い光で繋がり、いびつで巨大な三角形を描く。


 ぼこり、と内側の地面が沸き立ち、水たまりが現れた。勢い余った男たちは言わずもがな、ぎりぎりで立ち止まった男たちも、水面から飛び出した巨大な魚の尾に足をとられて水中へ引きずり込まれる。


 とはいえ、死人が出るのは寝覚めが悪いから、首より上は沈まないように調整しているけれど。


 うらめしげな悲鳴から目をそらしながら、レイモンドは「仕方ないだろ」と言った。


「俺だって魔女なんだし……なにより、陽動は派手にやれっていうのが指示なんだからさ」


 *****


 レイモンドの言葉を物陰で聞いていたフラウは、身を強張こわばらせた。そのすぐあとに、首裏くびうらに鈍い痛みがはしる。


 ぐらりとかしいだ体を、後ろから伸びてきた男の腕が乱雑に受け止めた。フラウは慌てて声をあげようとして、凍りつく。


 精一杯に口を開いて、どれだけのどに力を込めても、音が出てこない。


発声器官はっせいきかん麻痺まひだ。一時的なものだが」


 地面にへたりこんだフラウは、信じられない気持ちで男を――ルーを見上げた。


「(……っ、あ……なんで……)」

「その問いが、どうして自分が負けたのか、というものであるなら」フラウの唇の動きを読み、ルーは静かに応じた。「答えは、君が素人だから、という一点に尽きる。派手な陽動で注意を引き、その間に本隊が目標を仕留める。古典的だが堅実な戦術だな」

「(しとめる……殺すの……?)」


 糸杉いとすぎの並ぶ道での襲撃を思い出して、フラウは青ざめた。


 記憶のなかのルーたちの暴力は鮮烈だ。武器をもった男相手に、一切の容赦なく殴りかかっていた。躊躇ためらいなんてどこにもなかった。短剣の刃に滲んでいたのは純粋な殺意。あのときは、それでも、フラウ以外の誰かに向けられていたからよかったのだ。


 でも、今。この場所には自分しかいない。そのことが途方もなく恐ろしい。ティカちゃん、とフラウは繰り返し親友の名前を呼んだ。助けて、と何度も何度も念じた。


 その祈りは、通じない。


 けれど代わりに、ルーが戸惑いをにじませながら、言う。


「……怖がらせて、すまなかった」


 坂道を転がり落ちるように悪いほうへ向かっていた思考が、止まる。フラウがのろのろと顔をあげれば、心苦しそうな表情をしたルーと目があった。


「あの時の判断が、まったくの間違いだったとは思わない……だが、そうだ。たしかに君たちの気持ちを考えるべきだった。特に、フラウ・ライゼン。誰かを守るという君の気持ちくらいは、僕に理解できる部分もあったはずだ。だから、すまない」


 頭を下げたルーを、フラウは信じられない気持ちで見つめた。怖くて近寄りがたい氷の刃。そんな彼の印象と、目の前の光景は、まるきりかけ離れている。


「(どう、して……いきなり……)」


 戸惑いながら尋ねれば、顔をあげたルーが居心地悪そうに目をそらした。


「アンナに、しかられた」


 まるで、いたずらが見つかった時の子供のようだ。そんな微笑ほほえましい感想が浮かんだ自分にフラウは驚く。


 でも、少なくとも今のほうが怖くなかった。もしかして、思っているよりも悪い人では、ないんだろうか、とぼんやりと思った。それはまさしく、淡い期待そのものだった。


 そこで、けれど、フラウは青ざめる。


 ならば、自分が今までしてきた行為はなんだったんだろう。大衆記事に悪口をせて、アンナたちに敵をさしむけて、ティカを劇場へ案内して。


 その、行為の、意味は?


「(……や、やだ……)」

「フラウ・ライゼン?」

「(いや……いや、いや、いや……謝らないで……っ)」フラウは地面をするようにして後ずさった。「(それじゃあ、私がいる意味がなくなっちゃう……! ティカちゃんを守らなきゃいけないのにっ……!)」


 ルーが心配そうな顔で何事か言いかけた。


 それを聞くのが怖くて、フラウは口を大きく開ける。びりと痛むのどを無理矢理に動かして、叫んだ。


『誰か、この人を殺して!』


 頭上で、乱暴に窓が開けられる音がした。


 ルーが顔を跳ね上げる。ペーパーナイフを握りしめた中年の男が飛びおりてくる。


 途方もない罪悪感。

 それに足がすくむ前に、フラウは劇場に向かって走り出した。


 *****


 開幕のベルが鳴り響き、舞台に明かりが降り注いだ。


 日向ひなたで暖められた毛並みを思わせる茶色ブラウン、うっすらと色づいたすみれの薄紫、陽光にかざした若葉の緑。色とりどりのひだつきワンピースをまとった少女たちが、舞台のうえでくるくると舞う。


「季節は春。眠りから覚めた熊の親子、凍りついた土をはらった花々のつぼみ、そして長い旅路から戻ってきた春風は、すっかり祭りの準備をととのえて、春の乙女を今か今かと待っているのでした」


 舞台袖で立ちつくしたティカの背後で、女は静かにそう言った。


 彼女は、もうずいぶん前からそこにいたのだった。とももつけずに一人きり。フラウが差し向けた男たちの監視の目をかいくぐってたどり着いた。それは大変なことだろうと思うのに、彼女は何も言わないまま、舞台袖で歌劇オペラを眺めていたのだ。


 鐘が鳴って、幕が上がって、光が注ぐ。とうの昔に始まった舞台へ足を踏み出せない、ティカと一緒に。


「……帰りなよ」ティカはまぶしい世界を眺めながら言う。「ここはボクの舞台だ。横取りなんてさせないよ」

「そうおっしゃるのなら、早く劇に加わったらどうなの。みんな、あなたを待っているわ」

「気が向いたらね」

「そんな気まぐれが、まかり通るはずがないでしょう?」

「はは。わかってないなぁ。気まぐれでなんとかなるんだよ。ボクの舞台っていうのは、そういうことだ。ボクが出ても、出なくても、みんなが女優ティカ・フェリスをめてくれる。だから彼女は、生きていられる」

「いいえ。死んだ人間が生き返ることなんてないわ。彼らが求めているのは……ううん、彼らに求められたいと望んでいるのは、あなたよ。ティカさん」


 静かで真っ直ぐな女の返事に、ティカはさやに収まった小剣を握りしめた。


 舞台の明かりが消える。暗闇のなか、役者と客たちがささやきはじめた。


「そんなことはないよ、ティカ・フェリス」

「惑わされないで。そこの女は、あなたをおとしめようとしているだけ」

「美しく華やかで、誰からも愛されたわたしたちのティカ・フェリスが、みじめに殺されるなんてそんなこと」

「あるはずがない」

「なかったんだ」

「あの時間は」

「どこにも」

「――そう」熱に満ちた人々の声をついで、ティカは冷え切った声で呟く。「いなかったんだよ。はじめから。ボクなんて」


 そうしたら、あんなことにはならなかった。


「……わかったわ」


 足音が近づいた。隣で止まった。灰色の髪に分厚い眼鏡をかけた彼女は、いつものように黒と白のださいワンピースを着ている。


 人々の声に、彼女をけなす言葉がまじり始めた。人殺し、王家の面汚つらよごし、偽善者。彼女は誰かを守りたいのではない。ただただ、民を傷つけて楽しんでいるだけなのだ。


 だったら死んでしまえばいいのに。あぁそうだとも。死ぬべきじゃないか。死んでびるべき。一つに収束し始めた人々の声が、得体の知れない真っ黒な何かに変わる。


 ティカはやるせない気持ちで、舞台から目をそらした。だが、同時に少しだけ安堵あんどもする。


 これで彼女も諦めてくれるはずだ。今舞台の上に出ればどうなるか。罵詈雑言ばりぞうごんだけでは、決してすまされない。怪我をするだけで終わるとも、到底思えない。


 ティカはそう思う。

 それなのに彼女は、背中をまっすぐに伸ばしたまま、舞台を見据みすえる。


「あなたが出ないというのなら、わたくしが舞台に出ましょう」

「……は?」


 ティカは信じられない思いで、灰色の髪の彼女を見た。


「ちょ、ちょっと待ちなよ。耳でも悪くなった? 今のこれ、聞こえてるよね?」

「もちろん、聞こえているわ。わたくしの悪口がたくさんね」

「だったら分かるでしょ? あいつらは君を殺そうとしてるんだ。これは演劇なんかじゃない。本物で、」

「そうよ」場にそぐわぬほど穏やかな声でそう言って、彼女は――アンナは綺麗に微笑んだ。「舞台は虚構さえも本物にする。だからわたくしは、ここに来たの」


 ティカがぽかんとするなか、アンナは大股で舞台の中央へ向かって歩き始めた。


 光がそそぎ、酒瓶や果物の皮、大衆誌が投げ込まれる。そのいくつかを体に浴びて、それでもアンナはしんのある声で語る。


「あぁ哀れな民たちよ! 目を覚ませ! お前たちは春の乙女にだまされているのだ。たしかに、わたくしは革命をひきいた身。あなたがたに犠牲をいたのだから、人殺しも同然だ。けれど、わたくしには民を守るためという大義があった。そこの春の乙女が、自らの手で姉を殺したのとは違ってな!」


 ティカの体を、冷たいいかずちが打ちすえた。客席が静まり返り、舞台の中央でアンナが振り返る――その靴音がよく聞こえる。


「あの春の乙女は偽物だぞ。だからここに現れないのだ。彼女は君たちを愛するのではなく、恐れている。この舞台を偽物とあなどり、かろんじている。そのような人間をたたえる意味がどこにある?」

「ちょっと……ちょっとやめてよ……!」


 ティカは思わず叫んだが、アンナは肩をすくめただけだった。


「ほら。こうやって、舞台の外から無責任に話すことしかできない」


 幻滅したような物言いに賛同するかのように、客席がざわめいた。もしかして、彼女は本当に偽物なのか。ささやき声に、ティカは指先を震わせる。


 そんなに簡単に信じないでよ、と叫びたかった。どうしてこんなにひどいことをするの、と泣き言をぶつけたかった。でも、その答えを分かってもいた。


 自分が、魔女の力に頼りきって舞台を作ったからだ。自分が、最初にアンナを切り捨てたからだ。始まりはいつだって自分からで。だからきっと、これは愚か者へのばつに違いなくて。


「でも、諦めたくないんでしょう?」


 ティカは、はっとして顔をあげた。アンナがやわらかな表情で目を細める。


「じゃあ、取り返してみせなさい。あなたの手で、あなた自身の力を証明するのよ」

「……なんだよ、それ……」ティカはかすれ声で言った。「意味わかんない……あんたが無茶苦茶にしたのに……なんで今さら、そんなこと……」

「みんなが待ち望んでいるのは、冬ではなく、春だもの」


 穏やかな返事だ。だからこそ、ティカは気づいてしまった。

 アンナは変わっていない。二人で春と冬を演じたあの朝から、一欠片だって変わっていないのだ。


「――さぁ、春の乙女よ」


 ただ、彼女は覚悟を決めているだけ。


「偽物とそしられたくなくば、証明してみせろ」


 あの春の朝と同じように、冬の王を演じる覚悟を。


「舞台を奪われたくないのならば、立ちはだかってみよ」


 真っ先に彼女を裏切った、自分のために。


「後悔も恐怖も飲み込んで、最後まで演じきってみせろ! それがあなたの生きる証だ、ティカ・フェリス!」


 毅然きぜんとしたアンナの声に、ティカは小剣を握って飛び出した。


 気合の声とともに、さやをはらって斬りかかる。アンナが子供のおもちゃのような黒塗りの杖ステッキでこれを受ける。舞台の空気がぴんと張り詰める。


 涙がこぼれた。それでもティカは、客が望む言葉を紡ぐ。


「冬の王よ! 黙っていれば、自分に都合のいいことばかり! そんなもので、何かを救えると思うな!」

「自分の都合!? そんなはずがない! わたくしはいつだって、民のことを思って生きてきた!」

「だったらどうして、革命など起こした!」


 剣に力をこめ、杖を斜め下に払う。アンナがおよごしになったのを見逃さず、ティカは何度も刃を振るう。


「お前は私が、姉を殺したと言ったな! そうだとも! だが、そもそも革命さえなければ、私が姉を殺すことなどなかった! 私だけじゃない! この国中の恋人同士が、友人同士が、家族同士が、考え方の違いで殺しあうことなんてなかったんだ! それなのに、お前は争いを選んだ! たくさんの人間を殺して、それなのに、お前は生き残ったんだ!」

「っ、必要な犠牲だ! 誰も死なない戦争なんて、どこにもない!」

「だから仕方ないって!? 革命こそが正義だから!? 違う、そんなのはお前の自己満足だろう! 誰か一人でも死なせたのなら、もう、誰も守れてないんだよ……っ。それをっ……! 綺麗な言葉で飾り立てるな……! 尊い犠牲とか、仕方ないとか……! そんな言葉で片付けて……っ、過去にするな……っ!」


 喉元のどもとを狙った刃は避けられたが、アンナの体は無様に地面へ倒れ込んだ。


 客席からの歓声に、胸が痙攣けいれんする。こんなのの、なにが楽しいんだよ。そう思って、悲しい。涙が止まらない。それなのに――こんな状況なのに、アンナが満足げにうなずいて、耐えられなくなった。


 ティカは思わず駆け寄ろうとする。

 その一歩を踏み出した瞬間、頭上できしむ音がした。


 顔を跳ね上げる。その時にはもう、アンナめがけて、天井からるされていた装飾品が、粗く組まれていた木製の足場が、ほこりまみれの垂れ幕が、雪崩なだれのように降り注ぐ。


 アンナの姿はあっという間に見えなくなった。


「……う、そ……」


 ティカは呆然と立ち尽くす。剣が舞台に落ちて、虚しい残響を残す。

 自分と瓜二うりふたつの少女の声が、耳元で、響く。


「幸運だね」


 凍りつくティカの両頬をで、彼女はそっと体を寄せた。


「運良く、悪者が死んでくれたんだよ。さぁもっと喜んで」

「……悪者、なんかじゃない、でしょ……」

「まぁ、優しい」少女はあわれむように言った。「でもね、私たちを殺そうとするなら、それは悪なんだよ。相手がなんであろうと関係ない」


 だから、殺したんでしょう?

 姉さんを。

 そして、アンナを。


「……いいえ」


 きっぱりとした否定の声が、暗闇に沈みかけたティカの思考を引き上げた。


 瓦礫がれきの山のなかから、アンナがふらりと立ち上がる。ひたいから血が流れていた。それでも彼女は、まっすぐにティカを――そのすぐ後ろに立つ、ティカの偽物を見つめる。


「わたくしは、死なないわ。あなたの幸運なんかじゃ、絶対に殺されてあげない」


 アンナが眼鏡を外した。

 底のない泉のような深い青が、ティカ達をとらえる。

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