第7話 それじゃあ、ばいばい

「ティカちゃん!」


 自室の扉を開けたティカは目を丸くする。ほっとしたような声とともに、フラウが胸元に飛び込んできたからだった。


 ぐずぐずと鼻を鳴らす音が聞こえる。ティカは払いのけようとしたものの、そういえばかれこれ三日も話していないことを思い出した。


 たぶん、というか、間違いなく、ボクが会いたくないって空気を出してたからだよね。後ろめたい気持ちになって、結局ティカは、フラウの体をぎゅっと抱きしめる。


「ごめんね、フラウ。起きて待っててくれたの」

「ん……いいんだよ……全然……ティカちゃんが帰ってきてくれたんだもん……私、ほんとに心配してた……アンナちゃんに悪いことされてないか……って……」

「そんなわけないじゃん」ティカは呆れ笑いをした。「お人好しすぎて、綿毛みたいな考え方しかできないのがアンナでしょ。その証拠にほら」


 紙幣と硬貨の詰まった麻袋を広げて見せれば、フラウが小さく歓声をあげた。


「すごい……これどうしたの……?」

「もらったんだよ、アンナから。あっ、待って。こういう言い方はなんだか微妙だよね……えっと……」

「奪ったのね」


「いやだな、物騒なこと言わないでよ」と軽い口調で訂正しかけて、ティカは口を閉じた。フラウがやけに確信に満ちた表情で、にっこりと笑ったからだ。


「ティカちゃん、すごい……これで舞台も、もっと良いものになるね……」

「えっと……」

「私ね……ティカちゃんのそういうところ、大好きだよ……夢を叶えるって、言葉だけじゃないもん……ちゃんと行動してるもんね……だから私も、見習おうって思って……あっ、そうだ」


 フラウははっとしたように、ティカの両手をとった。なんだろう、いつものフラウらしくない。妙な違和感にティカはまゆをひそめるが、彼女はそれさえも気づいていないようだった。


 鼻歌でも歌いだしそうなほどに軽い足取りで、フラウが歩き始める。部屋の外へ、屋敷の外へ、庭の外へ。


「ねぇ、フラウ。どこに行くの」

「ふ、へへ……そんなの決まってるでしょう……? 舞台だよ……劇場……」

「劇場?」

「そうだよ……ふへ……ティカちゃんのためにね、頑張って準備したの……でもね、これはティカちゃんのための舞台だから……やっぱり最終確認を……してほしくて……」

「ちょ、ちょっと待ってよ。全然話が見えない。準備ってどういうこと? あんたがやったの?」

「もちろん……舞台の準備だよ……あ、もしかして心配してる……? なら大丈夫……私もね、準備したけど……みんなが手伝ってくれたんだ……」

「……みんなって、誰」

「みんなだよ」劇場の扉を開けたフラウが、まるで演者のようにひらりと手を振って明かりの灯った舞台を示す。「役者のひと。裏方のひと。ティカちゃんの演技を見たいって思ってくれてるひと。みーんな、ティカちゃんのこと……待ってたんだよ」


 ティカは凍りついた。おんぼろの劇場は、今までに見たことがないくらいに人であふれかえっている。


 薄暗い客席は立ち見がでるほどの盛況ぶり、明かりの灯された舞台には幾人かの役者が美しい衣装を来て並び、裏方が背景を春の森から冬の景色へ切り替える。


 けれど奇妙なことに、彼らは皆、ティカを見つめているのだった。

 そうして笑顔で声をかけてくれる。


「おかえり。私たちの舞台の女神よ」


 嬉しさと愛しさが混じった合唱に、ティカは思わず後ずさった。

 隣に立ったフラウが、不思議そうな顔をする。


「どうしたの……ティカちゃん……?」

「……なに、これ……」

「舞台、だよ?」

「違うでしょ……」ティカはフラウの両腕をつかんだ。「フラウ、どうしたの? 変なこと言わないでよ。こんな朝早くから、人が来るわけない……そもそも役者だって、ボクのこと嫌ってたんだよ……?」

「あぁ……それなら大丈夫だよ……んふ、ティカちゃんのこと、嫌いなひとなんていないもんね……」

「そういうことじゃなくて……っ」


 勢いのまま言葉を続けようとして、ティカは口を閉じた。どうしてこんなに人が集まっているんだろう、という問いに対する答えに、遅ればせながら気づいたからだ。


 ティカは信じられない思いで、フラウから手を離す。


「……もしかして、魔女の力、使ったの……?」

「ふ、へへ! 正解……!」フラウは子供のように無邪気に、両手を叩いた。「みんなにお願いしたんだよ……お客さんを集めるのはね、ちょっと大変だったけど……大衆記事タブロイドを作ってるお兄さんに協力してもらったの……ほら見て……アンナちゃんの悪口を書いてね……ここに来るよってお知らせして……それから、私の声を、」


 血濡れの革命家。国を二分した大罪人。のうのうと生き残った人殺し。気分が悪くなるような記事の見出しに耐えられず、ティカは差し出された紙切れを払い落とした。


 フラウが驚いたような顔をする。けれど、そんな顔をしている理由のほうが、ティカには理解できない。


「どうして……」ティカは唇を震わせた。「どうして、こんなことをするんだよ……こんな、ひどいこと……」

「ひどくなんか、ないよ……だって、アンナちゃんは、アンナ・ビルツだもの……ここに書いてあることだって、真実でしょう……?」

「っ、そうかもしれないけど、言っていことと悪いことがあるでしょ!」

「どうして?」

「どうして、って、」

「良いことも、悪いことも……舞台のためなら、全部やるんでしょう……? じゃあ、区別なんて、いらないよね……?」


 そこまで言って、フラウが悲しそうな顔をした。


「それとも、ティカちゃん……舞台のこと、どうでもよくなっちゃったの……?」


 ざっと顔から血の気が引き、ティカは体を震わせた。


「……そ、れは……」

「ティカちゃんも、分かってるでしょ……これ以外に舞台を成功させる方法なんて、ないんだよ……。お客さん、誰も来なくなってもいいの……? 役者さんたち、みんなやめちゃったら、どうするの……? 誰かに見てもらいたくて、舞台の準備、してたんでしょ……? だから、アンナちゃんをだましたんじゃないの……?」


 ティカは口を閉じた。

 そうとしか、言えない。でも、けれど。それは正しくは、なくて。


「駄目だよ、フラウ。いじめないであげて」


 やわらかな少女の声がした。振り返ったティカは、すぐ後ろに自分と瓜二うりふたつの黒髪の少女の姿を認める。


 偽物であるはずの彼女は、さびしげに笑った。


「私は分かってるよ。あなたは優しいもの。アンナのこと、大切になってしまったんだよね。悪いことしたな、って思っちゃったんだ。いいの。それは自然なこと。生きるって、忘れることだものね」

「……違う」ティカは呆然ぼうぜんと呟いた。「違うよ。ボクは、忘れてなんか、ない」

「うそ」

「嘘なんかじゃない」

「うそだよ」


 少女はきっぱりと言った。笑みを消し、紫水晶色アメジストの目を細める。


「私を殺して自分だけ生き残ったこと、忘れてるでしょう? だから舞台なんて、どうでもよくなっちゃったんだ。ずるいよね。あなたは舞台の外でも生きていける。でも私は、舞台の上でしか、もう、生きられないのに」


 置いていくのね、と少女が華やかに笑う。それはまさしく、死の間際まぎわの姉の表情とそっくりで、だからこそティカは魅入みいってしまって。


 視界の端で、胸飾りブローチが輝いた。


 ――魔女の力は感情と関係しているようなの。怒りとか、悲しみとか、そういう負の感情よ。


 ふと、アンナの言葉を思い出した。ティカは我に返って身震いする。


 違う。目の前の少女は偽物だ。

 だって本物は、自分が殺したんだから。


「っ、」


 逃げなくちゃ。目の前の魔女の力に捕まる前に。

 ぼんやりとした頭でそれだけを思い、ティカは少女を突き飛ばして劇場の外へ出る。


 *****


 外套がいとうを取りに戻る間も惜しんで、アンナはビルツていを飛び出した。ティカとフラウの部屋に誰もいないことに気づいたからだった。


 晴天の庭をぬうようにもうけられた細道を駆けながら、アンナは唇の裏をむ。時刻はすでに昼を過ぎていて、屋敷中のどこにもティカの姿はなかった。


 きっと外に出たんだわ。それも、朝の時間。わたくしが眠ってる間に。

 でも、どうして。


 嫌な胸騒ぎがして呼吸が乱れる。不安をなんとか息とともに吐き出し、アンナは閉ざされた門を開けた。


 目の前に、人だかりが飛び込んでくる。


「な、に……?」


 アンナは思わず足を止めた。


 商人らしき服装をした壮年の男、粗末な身なりの老人、赤子を抱えた若い女。一貫性のない集団だ。けれど皆一様に暗い顔をして、アンナをじっと見つめている。


 アンナ・ビルツだ、と誰かがささやいたのをきっかけに、次々と声が聞こえた。


「灰色の髪と眼鏡。間違いない」

「人殺しだ。革命家……あの記事のとおり……」

「本当に、のうのうと生きていたのね。私の主人は、帰ってこれなかったのに」

「なんて図々ずうずうしいんだろう」

「人殺し」

「人殺しだわ」

「人殺しだ」


 冷たい空気に凍りついていたアンナは、腕をつかまれて我に返った。はっとする間に、乱暴に引っ張られて、地面に叩きつけられる。


「っ……」


 頬が、じんと痛む。すりむいた。最悪だ。冬の夜なら、こんな失敗なんてしなかったのに。


 違う。今はもう春だ。一人きりの冬ではなくて、ティカを探しに行かなければならない。


「……ど、いて……」ふらふらと立ち上がったアンナは、人垣ひとがきをかきわけて歩き始めた。「用があるのなら、後で聞くのだわ……今は、行くところがあるの……」

「行くところだって」

「民をさしおいて、やるべきことなんて、あるかい」

「ないよ。あるはずない」

「そうだとも、まったくもってそのとおり」

「っ、う……! やめて……っ」


 髪の毛を引っ張られて、後ろ向きに引き倒される。立ち上がろうとしたところで、腰元を強く蹴りつけられた。鈍い痛み。アンナはうめいて、思わず身を丸くする。


 再び髪を引かれて、顔を上げる。春のあたたかな日差しは、すぐに人垣ひとがきに遮られて見えなくなった。冷たくて暗い目がいくつもいくつも並んでいて、アンナは身震いする。


 怖いと思った。冬の夜、息をひそめて狩人かりうどから逃げていたときと寸分たがわぬ寒さが、じわりと腹の底からにじむ。凍りついて、動けなくなる。


 見知らぬ男がこぶしを振りあげるのが見えた。ひそひそとかわされるささやき声に、どこか慌てたような声が混じった気がした。髪の毛を掴んでいた手が不意にゆるんだ。


 そして、目眩めまいがするほど強い花の香りが、鼻先で漂う。


「――どうして諦めないんだ、君は」


 苦々しそうなルーの声が耳元で響く。それを最後に、アンナの意識はふつりと途切れた。


 *****


「おいおい、どういうことだよ。これ」


 寝室に呼び出されたレイモンドは、戸惑った声をあげた。呑気のんきな反応に苛々しながら、ルーは藤かごを押しつける。


「アンナの傷を手当してくれ。目を覚ましそうになったら、この薬を飲ませてくれればいい」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。いったい、どういうことなんだ?」

野次馬やじうまに襲われていたから助けた」

「襲われた? あんた、ディエンと一緒にアンナさんの様子を見てたんだろう?」

「あえて手を出さなかった」

「はあ?」

「多少痛い思いをしたほうが、いい教訓になるだろう……誰かを助けるにしろ、まずは自分の身を守ることができるさくを選ぶべきだ」


 批難ひなんめいたレイモンドの視線を無視して、ルーはアンナの眠るベッドへ近づいた。彼女のほおにじむ血の赤が鮮やかすぎて、胸がつきりと痛む。


 小さなうめき声をあげ、アンナが薄く目を開いた。


「ルー、さま……?」

「さすがは王族」ルーは苦笑した。「毒に強いのも考えものだな」


 近づいてきたレイモンドの藤かごから小瓶を取り出し、ルーは液体を口に含んだ。アンナがなにかを言う前に、唇を重ねる。


 舌先で優しく口をあけさせて、鎮静薬を注いだ。びくりとアンナの体がこわばる。それに気づかぬふりをして、指先で彼女のあごをすくい、無理矢理に飲み込ませた。


 唇が離れる。苦しげに胸を上下させて、アンナがかすれた息を漏らす。小さな手がルーの腕を掴んだ。目と鼻の先、分厚い眼鏡のレンズ越しに、青の目が悲しげにゆがむ。


「っ、や、だ……ど、して……ルーさま……」

「おやすみ、アンナ」きっと彼女が望むであろう優しい笑みを浮かべて、ルーはひたいに口づける。「しばらく眠っておいで」


 ずるりと彼女の手が落ちる。浅い呼吸が寝息に変わったのを確認して、ルーは身を離した。


 そのまま立ち去ろうとすれば、青い顔をしたレイモンドに肩をつかまれる。


「何をする気なんだ」

「ティカ・フェリスの魔女の力を封じる。君はアンナを見張っていてくれ」


 返事を待たず、ルーは足早に部屋を出た。廊下で待っていたディエンが、ひょいとまゆを上げる。


「説得は終わったのか?」

「それが無理なことは、はじめから分かっているだろう」

「はは。違いない」わざとらしく笑ったあと、禿頭とくとうの大男はいささか落胆したように付け加えた。「あれでは、ただの綺麗事を並べるだけの小娘だからな」

「……君の感想は不要だ。行くぞ」


 ディエンを一瞥いちべつし、ルーは歩き始めた。


 *****


「ティカちゃん……っ! 待って……っ!」


 悲鳴のようなフラウの声を無視して、ティカはよろよろと屋敷へ通じる細道をたどる。日は傾き始めていた。道の左右に糸杉いとすぎ、それから名前も知らない背の高い雑草。ティカたちの他には誰もいない。けれど、たぶん、それは少しだってなぐさめにならない。


 あの少女は人ではないのだ。彼女がその気を出せば、あっという間に自分は捕まってしまう。ずきずきと痛む頭を振って、ティカは胸飾りブローチを握りしめた。


「……アンナに、会わなきゃ……」

「それは残念だったな」


 低い声が響いて、ティカはびくりと足を止めた。屋敷の方角から現れたのは、二人の男だ。夜明け色の髪をもつ青年と、禿頭に犬の人形を抱えた壮年の男。そのどちらもが、油断ない眼差しのまま立ち止まる。


 冷たい声で、ルーが言った。


「彼女は君に会わない」

「……っ、は」ティカはなんとか笑った。「冗談はやめてよ。ボクがアンナに用事があるの」

「冗談ではないさ。君は危険だ。だから、彼女と会わせるわけにはいかない」

「なんのことだよ。言いがかりは、」

「アンナは野次馬に襲われた。大衆記事タブロイドの悪評に踊らされた連中に、だ」


 ティカは血の気が引いた。


「そん、な……」

「大した演技だな」ルーが冷ややかに言い、ふところから短剣を取り出した。「さすがは舞台俳優だ」


 とん、と軽すぎる足音がした。そう思ったときには、ルーが眼前にまで迫っている。


 ティカは悲鳴をあげて後ずさった。金属音。振り下ろされた短剣はしかし、見慣れない小ぶりの剣で弾かれている。


 いつの間に現れたのだろう。剣の持ち主は、黒髪の少女だった。偽物、魔女の力、そして逃げるべき相手だ。なのに、体が動かない。


 そんなティカの何もかもを見透みすかしたように、少女は薄く笑う。


「助けてあげるね」

「待っ……!」


 ティカの制止も聞かず、少女はルーへ向かって飛び出した。


 ルーの短剣を、剣でいなす。裸足はだしで地面を蹴り、素早くふところに飛び込む。そして剣先を男の喉元のどもとへ突き出す。


 互角だ。あるいは少女のほうが押している。

 嘘。そんなこと、あるはずがない。


 視界の端で、ディエンが何かを放り投げた。ルーが短剣を左手に持ち替えているのが見えた。それでやっと、ティカは少女が誘い込まれていることに気がついた。


 駄目、と言う前に、ディエンの低い声が響く。


四天の白翁Es werde Licht.


 少女の周囲で光がぜ、細い鎖になって絡みついた。驚いたように少女が動きを止める。その脇腹に向かって、ルーが短剣を突き刺す。


 焼けるような痛みに、悲鳴をあげて地面にうずくまった。


 嘘。なんで。刺されたのはボクじゃないのに。混乱しながら、左の脇腹に触れる。血はやっぱり流れていない。なのに、熱い。息をするたびに痛みが大きくなる。あの時と同じだ。姉に刺された、あの時と同じ。


「おい!」


 乱暴な手つきで、ルーに抱き起こされた。


 なにか予想外のことでも起きたのか、夜明け色の髪をした青年は焦ったような表情を浮かべている。暴れるフラウはディエンに押さえつけられ、偽物の少女は、血を流して地面に横たわっていた。それらをぼんやりと眺めたところで、ルーにあごをつかまれ、目をわせられた。


 灰がかった赤色の瞳だ。何かを探しているのに、見つけられない。そんなルーの表情に、ティカはぼんやりとさとる。


 彼は、自分の罪の名前を暴こうとしているのだ。


 そうだよ、だって当然じゃないか。魔女の力は危険なものなんだから。どうみたって、ボクは力を制御できてないんだから。それから逃げたいとさえ、思ったんだから。


 でも、じゃあ、魔女の力を封じられたら、ティカ・フェリスはどうなるんだろう。不意に浮かんだ疑問に、ティカの腹にひやりとしたものが落ちる。


 彼女の唯一の生きられる場所である舞台は?

 その舞台を守ろうとしてたフラウの立場は?

 ボクの、生きてきた意味は?


 全部、魔女の力と一緒に、手放せってこと?


「……っ、い、やだよ……」


 ティカは唇を震わせ、ルーの手首を握る。


 ごめん、とびた。それはなによりも、胸飾りブローチをくれた彼女に向けた言葉だった。きっと悲しい顔をすると思ったからだ。


 でも、駄目だ。これだけは駄目。アンナ、ごめん。でもボクが捨てられるものがあるとすれば、やっぱり君なんだよ。


 そう思う。だからティカは、顔をこわばらせた青年から目を離さずに、口を動かす。


『……〈泡姫の誘歌〉セイレーン


 *****


 ティカが低く呟いた。それは魔女の罪の名前だ。けれど、誰の。


 ルーの疑問はしかし、すぐに解消された。暴れていたフラウが不意に動きを止め、暗い声で呟いたからだ。


『離れて。私達から』


 ぎ、と筋肉が軋むような音がして、。ディエンも同じだ。


 意志に反して動く体には覚えがあって、ルーの背中にひやりとしたものが落ちる。


「……体を操作する……フラウの魔女の力か……」

「体だけじゃないよ」ふらりと立ち上がったティカが、フラウと手を握った。「やろうと思えば、心だって支配できる。そうだよね、フラウ?」

「ん……へへ、そうだよ……今のはね、手加減しただけ……ティカちゃんなら、そうしたいかな……って……」


 灰色の目をきらめかせて、フラウが嬉しそうに笑う。応じるティカの表情は固い。それを視界に収めながら、ルーは慎重に状況を確認した。


 少なくとも今は、自分の意志で手足を動かせるようだ。

 偽物の少女の姿は、いつの間にか消えている。

 ならば、目的は。


「まさか、まだ魔女の力を封じようって思ってる?」


 自分の心を読んだようなティカの声がする。再び彼女のほうを見やったルーは、まゆをひそめた。


 ティカはあでやかな笑みを浮かべ、紫水晶アメジストの目に悪意ある光を宿している。


「さっき分かったでしょう? おにーさんの目じゃ、の罪の名前は暴けないの」

「……お前、偽物か」

「いやだなあ。もうほとんど、私がティカ・フェリスだよ。おにーさんたちのおかげでね」


 ティカはフラウに耳打ちして、上機嫌に手を振った。


「それじゃあ、ばいばい」

『――この人達を殺して』


 フラウが歌うように命じる。

 周囲の草むらが揺れて、何人もの男たちが現れた。錆びた剣や棍棒を持っていればいいほうで、古びた農機具を持っている人間もいる。


「面倒なことになったな」


 自然と背中あわせになりながら、ディエンがのんびりと言った。ルーは舌打ちする。


「君の術で、ティカ・フェリスの偽物を一時的に止められるんじゃなかったのか」

「ふむ。鎖で足止めは出来ただろう。誤算の一つ目は、短剣の痛みが本物のほうにいったことだ」

「誤算の二つ目は、僕がティカ・フェリスの罪の名前を暴けなかったことか」

「冷静に分析いただけてなにより」ディエンが肩をすくめる。「まぁ、次は役割を交代すればいい。あるいは、ティカ・フェリスを殺すか」

「言われずとも」

「それで? 目の前のこいつらはどうする」

「殺す」ルーはためらい一つなく答えた。「操られているなら、それしか方法がない」


 ルーの短い返答が、乱闘の合図となった。


 手近な男の腹へ、ルーはこぶしを叩き込んだ。フラウの支配下にあって、男は痛みにもにぶくなっているらしい。身を折りながらも、びたおのを振り下ろす。それを最小の動きでかわし、ルーは男の手首をひねり上げた。


 武器が落ちる。男が前のめりになる。もがく体を押さえつけ、首裏の急所めがけて、ルーは取り出した短剣を振り下ろそうとする。


 目に見えぬ糸を断ち切るような、鋭い女の声が響いたのはその時だった。


泡姫の誘歌セイレーン……っ!』


 聞き覚えのある声に、ルーはすんでのところで刃を止めた。男たちの動きもぴたりと止まり、一拍遅れて崩れ落ちる。


 ディエンが拍子抜けしたような顔をして立ち尽くしていた。そのさらに向こう、黄昏たそがれに染まる道の先に、レイモンドに支えられたアンナが立っている。


 わずかにずらした眼鏡の奥で、青の目を怒らせて。


「何をしているの、あなたたち」

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