第6話 すべての春が、あなたを歓迎するのだから
目を覚ましたティカは、春の日差しに染まった木目の天井を見た。
ビルツ
寝返りをうち、ふんわりと花の香りがするシーツに鼻先を埋めた。なんでここに、だなんて思わない。アンナがここに連れ帰ったのだろう。いつの間にかダサい魔女の正装になっていたから、ティカが女でないことにだって、気づいたはずだ。
「おせっかい」
演劇のことを、どうでもいいと言ったくせに。
「じゃあ、いらない?」
やわらかな声とともに、影が落ちた。ティカがのろのろと顔をあげた先で、
ティカは
「いつ出てきたの」
「最初からいたよ」
「……なにを」
「ぜんぶ」
ティカは目をそらした。目の前の少女が、死んでしまった姉のように見えたからだ。
視界の端で、少女が淡く微笑む。今度はティカの頭を撫でた。
「今日は、休んでていいよ」
「でも、練習が」
「演劇の、でしょ? 安心して。私が代わりに行くから。フラウにも、今日はここに来ないようにお願いしてあげる。ね?」
正直なところ、ほっとした。少女もそれに気づいたようだ。
ティカはベッドから出て窓辺に近づく。久しぶりによく寝たからか体が軽い。思い立って魔女の正装を脱ぎ、下着だけになって窓枠に腰掛けた。
ぽつぽつと雲の浮かぶ青空。雨でも降ったのか、風からは湿った新緑の香りがする。太陽の位置からして、たぶん昼頃だ。
伸びをして、お腹が鳴る。ぼんやりと窓のへりに手を置いた。その時だった。
窓の外から伸びてきた指が、ティカの手首をがっしりと掴む。
「っ……!?」
「おーなーかーのーすーくー子ーはーどーこーだー……?」
地を
結構というか、かなり怖い。ティカは顔をひきつらせる。
ただ、なんというか、そこからが長かった。
「あっ……ちょっと待って……思いのほか高いのだわ……ん、えっと、もう少し……えいっ……それっ……あれっ、待って、ぜんぜん上がらないのだわ……うそ、もしかして太った……?」
「……なにしてんの」
ティカは渋々と窓の外へ半身を乗り出した。ちょっと泣きそうな顔をしたアンナが、ぱっと輝かせる。
「おお、旅の人よ! ちょうどいいところに! 大変申し訳ないんですけれど、助けてくれないかしら!?」
「……ちょうどいいも、助けるも、なくない?」
「ああん、そこをなんとか! ね! お願い!」
ティカは唇をへの字に曲げ、仕方なくアンナに手を貸した。なにをもたついているのかと思えば、灰色の髪の女は背中に
「ピクニックかよ」
「ピクニック!」窓辺でワンピースの
「帰って」
「まあ! おかしなことを言うのね。ここがわたくしたちの家よ」
「帰れってば……! あっ、ちょっと!」
アンナの腕をつかもうとすれば、彼女にするりと避けられてしまった。もぐもぐとサンドイッチを食べつつ――それはボクのじゃないのかよ、という文句をティカはなんとかこらえる――、アンナはベッドの端に腰掛ける。
「本題に入りましょう。ティカさん、あなた魔女の力を使っているわね」
ティカは顔をしかめた。
「フラウから聞いたわけ」
「彼女だけではないわ。ルーさまとディエンさんが、あなたの偽物に会ったの」
「はあ? なんであいつらが、」
「どうしてルーさまたちが偽物と会ったのか、かしら」アンナはサンドイッチを食べ終え、一つ頷いた。「やっぱりね。あなた、魔女の力を制御できていないんだわ」
「……やっぱり、って。どういうことだよ」
「意図して偽物と接触させたのなら、どうして、とは思わないはずよ」
眼鏡越しだがアンナと目があい、ティカは思わずたじろぐ。
舞台の上で見たのとまったく同じ眼差しだ。何かを見透かすような――より正確に言うなら、何かを暴いてしまいそうな、冷たい青の目だった。
「力を制御する一番簡単なのは」と言いながら、アンナは立ち上がる。
「あなたが最も信頼を置く人に、罪の名前を呼んでもらうことよ」
目が離せない、とティカは思った。好意的な意味ではない。恐ろしいものを見てしまって、体が凍りつく。そういった
「名前はね、形を与えるということだから。紅茶をカップに注げば飲みやすくなる。想像できるかしら」
は、とティカは短く息を吐いた。目の前で立ち止まったアンナが、薄く笑って手を伸ばす。
「もちろん、カップを壊してしまえば、どうしようもないのだけれどね」
「っ……」
「というわけで、じゃじゃーん!」
決死の思いで目をつむった。それと同時に、場違いなほど明るい声が響く。
ティカはそろりと目を開けた。鼻先に見えるのは、緑の革表紙だ。
「歌劇『
「そういうこと」
アンナはティカに本を押しつけた。軽やかな足取りでベッドに戻り、同じ本をもう一冊取り出す。
「図書室で色々と調べてみたのだけれど」ぱらぱらとページをめくるアンナは、すっかりいつものお人好しの声音に戻って言う。「魔女の力は感情と関係しているようなの。怒りとか、悲しみとか、そういう負の感情よ。だから、感情を制御できれば、罪の名前もいらないはずなのね……はい、そこでわたくしが今回独自に考えた特訓法の出番よ! 題して、『ドキドキ!? 演劇で魔女の特訓!? ~ぽろりもあるよ・純情編~』。んふ、我ながら良作の香りがする
「ちょ、ちょっと待ってよ! おばさんは、ボクの罪の名前を呼びに来たんじゃないの?」
話が進む速度についていけず、ティカは思わず尋ねた。
されどもアンナは、はて、と小首をかしげる。
「だって、罪の名前、呼ばれたくないんでしょう?」
「それは、そうだけどさ……! ボクがどうしたいかとかは、関係ないでしょ。危ない生き物には首輪をつけておくとか、そういう話なんじゃないの」
「まあ。ティカさんは自分が危険な人物だと思ってらっしゃるの? うふふ、可愛いのね」
「あのねえ……!」
そういうことじゃないし、今さりげなく馬鹿にしたでしょ。
色々な意味で腹が立ったティカが思わず拳を握れば、アンナは待ってました、と言わんばかりに本を開いた。
「ちょうど良いわね! さあ、その怒りを練習にぶつけていきましょう!」
「誰が練習なんかするもんか!」
「方法は簡単よ。わたくしが今の
「だからボクは練習しないって、」
「『おお、春よ。どうして私を祭りに招待してくれなかったのかぁ?』」
アンナの台詞に、ティカは
声音だけは
下手くそどころか、壊滅的だ。
えっ。それでボクの相手をしようとかいうわけ?
「…………」
「んんん? お返事が聞こえないわ……あっ、わたくしのあまりの演技力の高さに感動してるのかしら」
「……と……」
「しょうがないわね! じゃあもう一度言いましょう! 『おお、春よお、』、むぐ」
「ちょっと」
大股で近づいて、アンナの口を
ティカは引きつった笑みを浮かべた。
「まずは黙ろうか、大根役者」
*****
アンナのなかの計画は完璧だったのだ。
「ティカさんは舞台女優で……う、っく……魔女の力の制御には感情が関わってて……うう、……だったら、演劇で練習したら……っ、ううう……」
「はい。今お腹の力抜いたよね。もう一回」
「んんん……っ、待って……待って待って……っ……!」
無情なティカの声に、アンナは涙目になって崩れ落ちた。
晴天の下、
もうかれこれ三日ほど、こんな状況である。
こんな、とはつまり、何故かアンナがティカに
「ティカさん……わたくしはね……」引きつるように痛む腹の筋肉に顔を
「はいはい。おばさんがもう少しマシな演技ができるようになったらね」
「わたくしだって、ちゃんとできてるもの! 『あぁ、ここはなんと
「ボクの許可なく台詞を言おうとするな」
ごつんと頭を本の角で叩かれた。ティカが鼻を鳴らし、椅子に座り直す。
「あのね、演じるっていうのは台詞を言えばいいってわけじゃないの。抑揚、目線、呼吸。一瞬一瞬で全てを完璧に調節して、本物であるかのように虚構を演じなきゃ。なのに、おばさんのはなに? わたくし、いかにも素晴らしい役者ですう、みたいなのが、透けて見えてるんだよ。最悪。最低。そんなのだったら、子供のお遊戯のほうがよっぽど上手。てか、おばさんはそれでも上手くできるか分かんないよね。いっそ、大根役とかでもやってれば?」
「ううう、そんなに言わなくても……! ちょっとくらい
「あっ、ちょっと! 土まみれの手でボクに触るな……うわっ!」
半泣きのアンナがワンピースの
淡紅、白、青。濃淡様々な花びらが青空に舞って、アンナたちの上に注ぐ。
「だいたいさ」ティカがぼそりとつぶやいた。「なんでよりにもよって、『
「調べたのよ。あなたがこれを演じるって」
「演劇に興味ないって言ってたくせに」
「そんなこと言ってないわ。劇場が駄目って言っただけ。あそこを借り受けるためのお金、もう残ってないでしょう」
「…………」
「まぁ、『
アンナは
「本を読んだときにね、今の季節にぴったりだと思ったのよ。春の乙女が動物や春風を招待して、祭りをひらく。そこに冬の王が現れて、すべてを凍らせてしまう。悲しみにくれながらも乙女は春の歌を歌って、冬を追い払う」
「『こうして、世界に春は訪れた。すべての命に幸いをもたらす、美しい春が』」
ティカが『
本に書かれた文言と全く同じだ。けれどティカが読み上げた今のほうが、よっぽど美しいように思う。
アンナはそろりと起き上がり、にっこりと笑った。
「うん、やっぱり素敵なお話なのだわ」
ティカは浮かない顔でアンナを見つめたあと、おもむろに右手を伸ばした。
「ひゃっ!?」
「知ったような口を聞かないでよ、大根のくせに」アンナの脇腹をつねり、ティカは立ち上がった。「帰る。お腹で呼吸する練習、あと五回はやっておいてよ」
「ええっ!? でも、」
ティカはさっさと藤の花の揺れる
振り返る。生け垣のそばに、暗い顔をしたフラウが
「あ、えっと……フラウさん、大丈夫かしら?」
「……そんなのじゃ、ティカちゃんの助けになんないよ」
フラウはぼそりと呟いた。アンナが返事に惑う間に、さっと道具を拾い集めて立ち去ってしまう。
アンナは、春の庭で立ち尽くす。そんなのじゃ、助けにならない。暗い声に、じわりと弱気が滲んだ。
一向に態度が変わらないティカのこと、やけに人を寄せつけない態度になってしまったフラウのこと、恐らくはアンナの考えに同意していないであろうルーとディエンのこと。
蘇りそうになった不安を、アンナはふるふると首を振って追い払う。
「駄目よ。駄目。わたくしが信じなくて、誰が信じるのかしら。うん、そうよね。自信をもって」
両手をぐっぐっと握れば、ちょっとだけ気分が持ち直した気がした。よし、この調子と、さらに
こんな時にぴったりの言葉があったはずだわ。この前読んだ
「ハッピーエンドのおまじない! ひとつ、友情! ふたつ、努力! みっつ、勝、りー……っ」
アンナはふるふると唇を震わせた。
「……れ、レイモンドさん……」
「あぁ……うん……」レイモンドはぎこちなく視線を空のほうへやった。「見てないよ」
「ほんとうに? じゃあ、さっきのわたくしの言葉は?」
「友情、努力、勝利……あ」
アンナは顔を真っ赤にして、レイモンドの両腕をつかんで揺さぶった。
「やっぱり聞いてらっしゃたんじゃないの! 忘れて! お願い!」
「は、反射だよ! 受験生に質問しないでくれ! 聞かれたら答える思考回路になってるんだから! というか!」
アンナは手を緩めた。レイモンドは若干目を回しつつも、庭の片隅を指差す。
「ティカ、だっけ? あの子、外に出ていったみたいだけどいいのか?」
「え」
「生け垣に穴が空いてるんだ。そこを通るのを見かけたんだけど」
*****
「いやあ、お嬢さん。可愛いねえ」
「んふ、そうでしょお。さっすがおじさん、見る目があるう」
これでもかというくらい甘い声で返事をしてやれば、酒に酔った中年男がでれでれと笑う。
ほんっと、ちょろいんだからさ。にっこりと微笑んだ裏で毒づきながら、ティカは酒のはいった
これで六軒目……いや、七軒目の酒場だっけ。屋敷を抜け出して回った店の数までは思い出したものの、誰と会ったのか、何を飲んだのかについてはいまいちだ。前の店までは、きちんと覚えていた、ような気がする。多分。
あぁ嫌だな。最悪だ。ティカは
「大丈夫かい。よかったらこれも飲むといい」
「わ。ありがと。甘くて美味しいね」ティカは弱気な顔をしてみせた。「でも、こんなにいいの? ボク、お金とか持ってないんだよ?」
「いいんだよ。俺がお金を出すからね」
「ええっ。すごく高そうなお酒なのに?」
「もちろん。実はここだけの話なんだがね……」
男の手が背中をなでおろし、腰元をつかんで引き寄せてくる。あからさまな態度には吐き気がしたが、彼がこっそりと見せてきた袋の中身にティカは目を細めた。
夜空にひっそりと輝く星のような、いくつもの
「……あぁ」ティカは息をついて、薄汚い男の手に指を絡めた。「すごい。これ全部おじさんの?」
「そうさ。ティカ・フェリスちゃん」
ティカは、宝飾品へ伸ばしかけた手を止めた。名乗ってもいないのに、という動揺を、息を吐き切る前に殺して笑みに変える。
「嬉しいな。ボクのこと知ってるの」
「でなければ近づかないよ。舞台の花乙女よ! あなたという美しい花に触れたいと、あの頃はよく思ったものさ。革命が始まった頃の君は、平和を歌うばかりのつまらない演技ばかりだったが」
「そう」
「あなたが故郷に帰る前の舞台だけはよかったな。覚えているだろう? 王家のために命を捨てよと
「……そう、だね」
女神のようだった、なんて。
ティカは目を伏せた。男の言葉は、笑い草でしかない。
女神のよう、ではない。女神だったのだ。彼女は。
ねぇ、と記憶のなかの彼女が笑う。納屋の片隅、夕日を弾く短剣の刃、乱れた黒髪、その隙間で美しく輝く
これが正しいことなんだよ。だって、みんな陛下の味方じゃないんでしょ? じゃあ、戦いを終わらせるには、殺さなくちゃ。あの人たちが、そう言ってたもの。
そうでしょ? お姉ちゃん、あってるよね? 平和のためには仕方ないんだものね?
ねぇ、そうだよね……?
「ティカ・フェリスちゃん」
男に名前を呼ばれて、両肩に手を置かれた。あっという間に記憶は彼方に消え去り、薄暗くて小汚い酒場の一角に引き戻される。
ティカはぐっと唇を
男が何かを言う前に、
テーブルだとか椅子だとか、所狭しと並んだ障害物を片っ端から押し倒して進んだ。出口が遠い。背後から怒号。慌ただしい男達の足音。
「飛んで!」
鋭い女の声が響き、ティカは深く考えもせずに地面を
「よっし、ティカさんを確保!」
古びた木箱を積み上げた物陰で、明るい声とともに抱きしめられた。びっくりして顔をあげれば、満面の笑みを浮かべたアンナがいる。
「おばさん……なんでここが……?」
「えっへん。甘く見ないでちょうだい」
アンナのそばに立っていた男が、控えめな咳払いをした。誰だよこいつ、とティカは目を
「……あんた、レイモンド?」
「そうだよ。なんかすごく、失礼な見分け方をされた気がするんだけどさ」レイモンドはやけくそ気味の口調で言いながら、そわそわと辺りを見回した。「それよりアンナさん。これ、どうするんだ。向こうはまだこっちを探してる」
「あっ、それについては今考えるから、少し待って」
アンナの
「おいおい。ここまで大胆に行動しておいて、急に無計画とか言わないよな?」
「む。無計画とは失礼なのだわ。臨機応変とおっしゃって」
「あのね。俺はそういう言葉遊びをしたいんじゃなくて、」
「ねぇ、ちょっと待ってよ」ティカは二人の
アンナは首を傾げた。悪気のない仕草に、なんとなく返答が予想できて、ティカの気が重くなる。
「もちろん、ティカさんを助けにきたのよ。悪い商人に捕まりそうだったでしょう?」
「……ボクは助けてなんて言ってないでしょ」
「そうね。でも、わたくしは
にっこりと笑うアンナの
「俺は巻き込まれただけだから」
「まあ、レイモンドさんったら! そんな言い方じゃ、物語の
「ああもう、ヒーローとか、そういうのはどうでもいいから! 俺は役人になるって最初に言っただろ!」
この二人は、締まらない会話をしないと気がすまない病にでもかかっているに違いない。ティカは呆然と思う。
そもそも、答えも意味わかんないし。全然、ちっとも、この状況の危険さと、二人の利益が釣り合ってもいないし。あぁなるほどね。簡単な計算もできないほど馬鹿ってこと? それなら納得だよ。
ほんとに、どうしてこう、ボクは幸運なのかな。
「……周りがこんなに、お
無粋なことに、レイモンドはティカの独り言を聞きつけたらしい。妙な顔をする男の顔面に向かって麻袋を投げつけて、ティカはアンナを見た。
「ボクの分の
アンナがぱっと目を輝かせた。
「もちろんなのだわ。作戦は……あっ!? もしかして、わたくしとティカさんで夢の共演とか……!?」
「おばさんは土台だよ、ボクの」
「え……ど、土台……?」
「ああもう、うっとうしいから泣きそうな顔しないで。こんなところで顔出しなんて危険すぎるでしょ。だから、どうでもいい顔のほうで演技するってだけ」
「つまり、こいつね」
「俺……」
「なるほど……?」
「いや待って、なるほどじゃないよね、アンナさん!? 今のって単純に俺の悪口で、
「ピーピー
アンナが
都合がいい。ただ、引きつった顔はどう見たって怪しかったし、何人かの男はレイモンドに気がついたようだ。
「まぁ、それくらい目の
ティカはぼそりととつぶやいて、アンナに
「あぁ、我が
感極まった声音でティカは呼びかけた。ぎょっとするレイモンドの首に腕を回して飛びつき、周囲の人間が自分の背の低さに気づく前に、赤銅色の髪に指先を絡めて引き寄せる。
生き別れの恋人。酒場で果たした偶然の再会。この世で何よりもかけがえのない愛しい人との特別な瞬間。適当に組み上げた設定を呼吸と視線と指先にのせ、ティカは涙ながらに微笑する。
そうして、
*****
「も、も、もう……! 最高だったのだわ……! 情熱的で! 感動的な! き……きき……んんんん!」
「キスね」
「そう! それ!」
きゃあ、と悲鳴をあげながら、アンナが興奮した様子でソファの上に倒れ込む。それに
騒がしく、いささか危険な酒場から無事に逃げ出す代償は、レイモンドの
とにもかくにも、アンナたちが借りていた馬に乗り、念のためと追手をまくようにしてビルツ
時刻は夜を通り越して、朝焼け間近だ。客間の空気は薄暗く、疲れた体には心地いい。
「あ。そういえば」
なにか思い出したような声をあげて、アンナが見覚えのある
あぁ、とティカは苦笑いする。酒場で取り返した
「いいよ、それ。ボクのじゃないもん」
「いいえ、あなたのだわ」
「おばさんの
演技だったら、いくらでも言えるのに。
いやだな、今の自分は、すごく弱気だ。
「ティカさん、こっちを見て」
アンナの困ったような声に顔をあげたティカは、目を丸くした。
薄いクッションの上に、アンナが麻袋の中身を開ける。出てきたのは、幾枚もの
ティカは顔を青くする。
「嘘……間違えた……?」
「まぁ! 大丈夫よ。間違えてなんかないわ。これはね、帰り道に換金してきたの。ちょうどティカさんがうたた寝してる間にね」
「は……?」
「演劇に使って。これだけあれば、しばらく劇場を借りることができるはず」アンナはやわらかく微笑んで、ティカの胸元に手を伸ばした。「そこでいっぱい練習して……いつか、あなたの舞台を見せてくれると嬉しいわ」
ぱちん、というささやかな音とともに、アンナの手が離れた。ティカの胸元で輝くのは、見覚えのある
淡紅色の宝石を中心に、その周りを白真珠が囲う。いずれも色良し、形良し、大きさ良しだ。
窓から差し込み始めた朝の光を浴びて、ささやかに輝いている。
本当に、馬鹿みたいだ。
「『
アンナがぱちりと目を瞬かせた。
「最後って……ええっと、冬の王を、春の乙女が追い払う……っていう?」
「そう。ありきたりでつまんないでしょ。だから、アンナの意見を聞かせてよ。今からボクが
「ええ? そんないきなり……」
「『あぁ、冬よ。あなたは何故泣いているの』」
戸惑う声を無視して、ティカは春の乙女の台詞を言った。
朝日が空気を染め始める。凛とした光は、ティカたちへ平等に降り注ぐのだった。
「『春を探しに来たのだ』」ゆっくりと、アンナが続きを紡ぎ始めた。「『けれど、私は冬。
「『
「『あぁそうだとも。春の人。けれど許しておくれ。私はぬくもりを愛している。絡めた指先に
「『馬鹿なひと』」ティカは目を
台詞が途切れた。ティカはひょいと片眉をあげて、アンナを見る。
「この台本はいいな。さすがボクってかんじ?」
「まあ!
アンナの表情は少しばかり不満げだが、眼鏡の奥では青の目が楽しげにきらきらと輝いている。
変な顔だ。
けれどきっと、自分も同じような顔をしているんだろうな、と思ったから、ティカは目元を
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