第6話 すべての春が、あなたを歓迎するのだから

 目を覚ましたティカは、春の日差しに染まった木目の天井を見た。


 ビルツていに用意された共同部屋だ。開け放たれた窓からは小鳥の鳴き声が聞こえる。そういえば野次馬の声はいつの間にか聞こえなくなったな。ぼんやりとそんなことを思って、ティカはため息をついた。


 寝返りをうち、ふんわりと花の香りがするシーツに鼻先を埋めた。なんでここに、だなんて思わない。アンナがここに連れ帰ったのだろう。いつの間にかダサい魔女の正装になっていたから、ティカが女でないことにだって、気づいたはずだ。


「おせっかい」


 演劇のことを、どうでもいいと言ったくせに。


「じゃあ、いらない?」


 やわらかな声とともに、影が落ちた。ティカがのろのろと顔をあげた先で、瓜二うりふたつの顔をした少女がにっこりと微笑む。


 ティカはまゆをひそめた。


「いつ出てきたの」

「最初からいたよ」つややかな黒髪を揺らして首を傾げた少女は、心配そうな面持ちでティカの目元をでる。「ねえ、嫌になっちゃった?」

「……なにを」

「ぜんぶ」


 ティカは目をそらした。目の前の少女が、死んでしまった姉のように見えたからだ。

 

 視界の端で、少女が淡く微笑む。今度はティカの頭を撫でた。


「今日は、休んでていいよ」

「でも、練習が」

「演劇の、でしょ? 安心して。私が代わりに行くから。フラウにも、今日はここに来ないようにお願いしてあげる。ね?」


 正直なところ、ほっとした。少女もそれに気づいたようだ。


 やわらかな手が滑り落ちてきて、ティカのまぶたを優しく下ろす。きっとそのまま微睡まどろんでしまったのだ。次に目を覚ましたときには、少女の姿もなかった。


 ティカはベッドから出て窓辺に近づく。久しぶりによく寝たからか体が軽い。思い立って魔女の正装を脱ぎ、下着だけになって窓枠に腰掛けた。


 ぽつぽつと雲の浮かぶ青空。雨でも降ったのか、風からは湿った新緑の香りがする。太陽の位置からして、たぶん昼頃だ。


 伸びをして、お腹が鳴る。ぼんやりと窓のへりに手を置いた。その時だった。

 窓の外から伸びてきた指が、ティカの手首をがっしりと掴む。


「っ……!?」

「おーなーかーのーすーくー子ーはーどーこーだー……?」


 地をうような声にぎょっとした。ティカは慌てて逃げようとするが、ちっとも手を振りほどけない。そうこうするうちに、謎の手がさらに下から突き出てきた。


 結構というか、かなり怖い。ティカは顔をひきつらせる。

 ただ、なんというか、そこからが長かった。


「あっ……ちょっと待って……思いのほか高いのだわ……ん、えっと、もう少し……えいっ……それっ……あれっ、待って、ぜんぜん上がらないのだわ……うそ、もしかして太った……?」

「……なにしてんの」


 ティカは渋々と窓の外へ半身を乗り出した。ちょっと泣きそうな顔をしたアンナが、ぱっと輝かせる。


「おお、旅の人よ! ちょうどいいところに! 大変申し訳ないんですけれど、助けてくれないかしら!?」

「……ちょうどいいも、助けるも、なくない?」

「ああん、そこをなんとか! ね! お願い!」


 ティカは唇をへの字に曲げ、仕方なくアンナに手を貸した。なにをもたついているのかと思えば、灰色の髪の女は背中に麻袋あさぶくろ背負せおっている。


「ピクニックかよ」

「ピクニック!」窓辺でワンピースのすそをいそいそと整えていたアンナは、なぜかにっこりと笑った。「それも素敵ね。でも違うのよ。なんと、じゃじゃーん! わたくしはお昼のサンドイッチを持ってきたのでした!」

「帰って」

「まあ! おかしなことを言うのね。ここがわたくしたちの家よ」

「帰れってば……! あっ、ちょっと!」


 アンナの腕をつかもうとすれば、彼女にするりと避けられてしまった。もぐもぐとサンドイッチを食べつつ――それはボクのじゃないのかよ、という文句をティカはなんとかこらえる――、アンナはベッドの端に腰掛ける。


「本題に入りましょう。ティカさん、あなた魔女の力を使っているわね」


 ティカは顔をしかめた。


「フラウから聞いたわけ」

「彼女だけではないわ。ルーさまとディエンさんが、あなたの偽物に会ったの」

「はあ? なんであいつらが、」

「どうしてルーさまたちが偽物と会ったのか、かしら」アンナはサンドイッチを食べ終え、一つ頷いた。「やっぱりね。あなた、魔女の力を制御できていないんだわ」

「……やっぱり、って。どういうことだよ」

「意図して偽物と接触させたのなら、どうして、とは思わないはずよ」


 眼鏡越しだがアンナと目があい、ティカは思わずたじろぐ。


 舞台の上で見たのとまったく同じ眼差しだ。何かを見透かすような――より正確に言うなら、何かを暴いてしまいそうな、冷たい青の目だった。


「力を制御する一番簡単なのは」と言いながら、アンナは立ち上がる。


「あなたが最も信頼を置く人に、罪の名前を呼んでもらうことよ」


 目が離せない、とティカは思った。好意的な意味ではない。恐ろしいものを見てしまって、体が凍りつく。そういったたぐいのものだ。


「名前はね、形を与えるということだから。紅茶をカップに注げば飲みやすくなる。想像できるかしら」


 は、とティカは短く息を吐いた。目の前で立ち止まったアンナが、薄く笑って手を伸ばす。


「もちろん、カップを壊してしまえば、どうしようもないのだけれどね」

「っ……」

「というわけで、じゃじゃーん!」


 決死の思いで目をつむった。それと同時に、場違いなほど明るい声が響く。


 ティカはそろりと目を開けた。鼻先に見えるのは、緑の革表紙だ。げかかった金の文字で書かれたタイトルを、ティカはぼんやりと読み上げる。


「歌劇『五月の薔薇マイレースレ』……?」

「そういうこと」


 アンナはティカに本を押しつけた。軽やかな足取りでベッドに戻り、同じ本をもう一冊取り出す。


「図書室で色々と調べてみたのだけれど」ぱらぱらとページをめくるアンナは、すっかりいつものお人好しの声音に戻って言う。「魔女の力は感情と関係しているようなの。怒りとか、悲しみとか、そういう負の感情よ。だから、感情を制御できれば、罪の名前もいらないはずなのね……はい、そこでわたくしが今回独自に考えた特訓法の出番よ! 題して、『ドキドキ!? 演劇で魔女の特訓!? ~ぽろりもあるよ・純情編~』。んふ、我ながら良作の香りがする題名タイトルで、」

「ちょ、ちょっと待ってよ! おばさんは、ボクの罪の名前を呼びに来たんじゃないの?」


 話が進む速度についていけず、ティカは思わず尋ねた。

 されどもアンナは、はて、と小首をかしげる。


「だって、罪の名前、呼ばれたくないんでしょう?」

「それは、そうだけどさ……! ボクがどうしたいかとかは、関係ないでしょ。危ない生き物には首輪をつけておくとか、そういう話なんじゃないの」

「まあ。ティカさんは自分が危険な人物だと思ってらっしゃるの? うふふ、可愛いのね」

「あのねえ……!」


 そういうことじゃないし、今さりげなく馬鹿にしたでしょ。


 色々な意味で腹が立ったティカが思わず拳を握れば、アンナは待ってました、と言わんばかりに本を開いた。


「ちょうど良いわね! さあ、その怒りを練習にぶつけていきましょう!」

「誰が練習なんかするもんか!」

「方法は簡単よ。わたくしが今の雰囲気ふんいきにぴったりのシーンを選んで台詞せりふを読むから、ティカさんは感情を制御しつつ返事をしてちょうだい。はい、じゃあ二十五ページ三行目、冬の王の訪問のシーンから!」

「だからボクは練習しないって、」

「『おお、春よ。どうして私を祭りに招待してくれなかったのかぁ?』」


 アンナの台詞に、ティカは戦慄せんりつした。


 声音だけは仰々ぎょうぎょうしく、変なところに抑揚がついていて、妙に語尾が間延びしている。


 下手くそどころか、壊滅的だ。

 えっ。それでボクの相手をしようとかいうわけ?


「…………」

「んんん? お返事が聞こえないわ……あっ、わたくしのあまりの演技力の高さに感動してるのかしら」

「……と……」

「しょうがないわね! じゃあもう一度言いましょう! 『おお、春よお、』、むぐ」

「ちょっと」


 大股で近づいて、アンナの口をふさいだ。びっくりしたような顔をされるが、そういう顔をしたいのはこっちのほうだ。


 ティカは引きつった笑みを浮かべた。


「まずは黙ろうか、大根役者」


 *****


 アンナのなかの計画は完璧だったのだ。


「ティカさんは舞台女優で……う、っく……魔女の力の制御には感情が関わってて……うう、……だったら、演劇で練習したら……っ、ううう……」

「はい。今お腹の力抜いたよね。もう一回」

「んんん……っ、待って……待って待って……っ……!」


 無情なティカの声に、アンナは涙目になって崩れ落ちた。


 晴天の下、姫金魚草リナリア矢車菊コーンフラワーが咲き始めた花原メドウである。その脇で雑草を抜いているのはアンナ、日傘をさして椅子に優雅に座るのがティカだ。


 もうかれこれ三日ほど、こんな状況である。


 こんな、とはつまり、何故かアンナがティカに稽古けいこをつけられている、ということだ。


「ティカさん……わたくしはね……」引きつるように痛む腹の筋肉に顔をゆがめつつ、アンナは言葉を絞り出す。「あなたの稽古を……するつもりで……」

「はいはい。おばさんがもう少しマシな演技ができるようになったらね」

「わたくしだって、ちゃんとできてるもの! 『あぁ、ここはなんとわびし』、あう」

「ボクの許可なく台詞を言おうとするな」


 ごつんと頭を本の角で叩かれた。ティカが鼻を鳴らし、椅子に座り直す。


「あのね、演じるっていうのは台詞を言えばいいってわけじゃないの。抑揚、目線、呼吸。一瞬一瞬で全てを完璧に調節して、本物であるかのように虚構を演じなきゃ。なのに、おばさんのはなに? わたくし、いかにも素晴らしい役者ですう、みたいなのが、透けて見えてるんだよ。最悪。最低。そんなのだったら、子供のお遊戯のほうがよっぽど上手。てか、おばさんはそれでも上手くできるか分かんないよね。いっそ、大根役とかでもやってれば?」

「ううう、そんなに言わなくても……! ちょっとくらいめてくれたっていいじゃない……! わたくしは褒めて伸びるタイプなんだから……!」

「あっ、ちょっと! 土まみれの手でボクに触るな……うわっ!」


 半泣きのアンナがワンピースのすそを掴み、嫌そうな顔をしたティカが腰を浮かせ、結局互いにバランスを崩して花原メドウに倒れ込んだ。


 淡紅、白、青。濃淡様々な花びらが青空に舞って、アンナたちの上に注ぐ。


「だいたいさ」ティカがぼそりとつぶやいた。「なんでよりにもよって、『五月の薔薇マイレースレ』を選んだわけ」

「調べたのよ。あなたがこれを演じるって」

「演劇に興味ないって言ってたくせに」

「そんなこと言ってないわ。劇場が駄目って言っただけ。あそこを借り受けるためのお金、もう残ってないでしょう」

「…………」

「まぁ、『五月の薔薇マイレースレ』を選んだ理由は、それだけじゃないのだけれど」


 アンナはひたいについた花びらを陽の光に透かしながら、言葉を続けた。


「本を読んだときにね、今の季節にぴったりだと思ったのよ。春の乙女が動物や春風を招待して、祭りをひらく。そこに冬の王が現れて、すべてを凍らせてしまう。悲しみにくれながらも乙女は春の歌を歌って、冬を追い払う」

「『こうして、世界に春は訪れた。すべての命に幸いをもたらす、美しい春が』」


 ティカが『五月の薔薇マイレースレ』の最終節をぼんやりと口ずさむ。


 本に書かれた文言と全く同じだ。けれどティカが読み上げた今のほうが、よっぽど美しいように思う。


 アンナはそろりと起き上がり、にっこりと笑った。


「うん、やっぱり素敵なお話なのだわ」


 ティカは浮かない顔でアンナを見つめたあと、おもむろに右手を伸ばした。


「ひゃっ!?」

「知ったような口を聞かないでよ、大根のくせに」アンナの脇腹をつねり、ティカは立ち上がった。「帰る。お腹で呼吸する練習、あと五回はやっておいてよ」

「ええっ!? でも、」


 ティカはさっさと藤の花の揺れる格子棚パゴラをくぐってしまう。慌てて追いかけようとしたアンナは、がしゃんという耳障りな金属音に立ち止まった。


 振り返る。生け垣のそばに、暗い顔をしたフラウがたたずんでいた。足元にはスコップやバケツが散らばっている。


「あ、えっと……フラウさん、大丈夫かしら?」

「……そんなのじゃ、ティカちゃんの助けになんないよ」


 フラウはぼそりと呟いた。アンナが返事に惑う間に、さっと道具を拾い集めて立ち去ってしまう。


 アンナは、春の庭で立ち尽くす。そんなのじゃ、助けにならない。暗い声に、じわりと弱気が滲んだ。


 一向に態度が変わらないティカのこと、やけに人を寄せつけない態度になってしまったフラウのこと、恐らくはアンナの考えに同意していないであろうルーとディエンのこと。


 蘇りそうになった不安を、アンナはふるふると首を振って追い払う。


「駄目よ。駄目。わたくしが信じなくて、誰が信じるのかしら。うん、そうよね。自信をもって」


 両手をぐっぐっと握れば、ちょっとだけ気分が持ち直した気がした。よし、この調子と、さらにふるい立たせるために息を吸い込む。


 こんな時にぴったりの言葉があったはずだわ。この前読んだ冒険小説ファンタジーで……ええと、そうそう。


「ハッピーエンドのおまじない! ひとつ、友情! ふたつ、努力! みっつ、勝、りー……っ」


 こぶしを高く突き上げたところで、アンナは固まった。細道から現れた赤銅色しゃくどういろの髪の青年と、ばっちり目があってしまったからだ。


 アンナはふるふると唇を震わせた。


「……れ、レイモンドさん……」

「あぁ……うん……」レイモンドはぎこちなく視線を空のほうへやった。「見てないよ」

「ほんとうに? じゃあ、さっきのわたくしの言葉は?」

「友情、努力、勝利……あ」


 アンナは顔を真っ赤にして、レイモンドの両腕をつかんで揺さぶった。


「やっぱり聞いてらっしゃたんじゃないの! 忘れて! お願い!」

「は、反射だよ! 受験生に質問しないでくれ! 聞かれたら答える思考回路になってるんだから! というか!」


 アンナは手を緩めた。レイモンドは若干目を回しつつも、庭の片隅を指差す。


「ティカ、だっけ? あの子、外に出ていったみたいだけどいいのか?」

「え」

「生け垣に穴が空いてるんだ。そこを通るのを見かけたんだけど」


 *****


「いやあ、お嬢さん。可愛いねえ」

「んふ、そうでしょお。さっすがおじさん、見る目があるう」


 これでもかというくらい甘い声で返事をしてやれば、酒に酔った中年男がでれでれと笑う。


 ほんっと、ちょろいんだからさ。にっこりと微笑んだ裏で毒づきながら、ティカは酒のはいったさかずきを傾けた。


 これで六軒目……いや、七軒目の酒場だっけ。屋敷を抜け出して回った店の数までは思い出したものの、誰と会ったのか、何を飲んだのかについてはいまいちだ。前の店までは、きちんと覚えていた、ような気がする。多分。


 あぁ嫌だな。最悪だ。ティカはまゆをひそめた。やけに薄暗い店内なのに、隣に座った中年男はそれに気づいたらしい。新しい酒盃を差し出して、ティカの背中へ手をあてる。


「大丈夫かい。よかったらこれも飲むといい」

「わ。ありがと。甘くて美味しいね」ティカは弱気な顔をしてみせた。「でも、こんなにいいの? ボク、お金とか持ってないんだよ?」

「いいんだよ。俺がお金を出すからね」

「ええっ。すごく高そうなお酒なのに?」

「もちろん。実はここだけの話なんだがね……」


 男の手が背中をなでおろし、腰元をつかんで引き寄せてくる。あからさまな態度には吐き気がしたが、彼がこっそりと見せてきた袋の中身にティカは目を細めた。


 夜空にひっそりと輝く星のような、いくつもの宝飾品ビジューだ。


「……あぁ」ティカは息をついて、薄汚い男の手に指を絡めた。「すごい。これ全部おじさんの?」

「そうさ。ティカ・フェリスちゃん」


 ティカは、宝飾品へ伸ばしかけた手を止めた。名乗ってもいないのに、という動揺を、息を吐き切る前に殺して笑みに変える。


「嬉しいな。ボクのこと知ってるの」

「でなければ近づかないよ。舞台の花乙女よ! あなたという美しい花に触れたいと、あの頃はよく思ったものさ。革命が始まった頃の君は、平和を歌うばかりのつまらない演技ばかりだったが」

「そう」

「あなたが故郷に帰る前の舞台だけはよかったな。覚えているだろう? 王家のために命を捨てよと鼓舞こぶした、あの演説だよ。あれのおかげで、兵士の志願者がどっと増えたのさ。まったく、自身の命をかえりみない彼らの精神は本当に素晴らしいことだし、それを肯定してみせたあなたは、まさに女神のようだった」

「……そう、だね」


 女神のようだった、なんて。

 ティカは目を伏せた。男の言葉は、笑い草でしかない。


 女神のよう、ではない。女神だったのだ。彼女は。


 ねぇ、と記憶のなかの彼女が笑う。納屋の片隅、夕日を弾く短剣の刃、乱れた黒髪、その隙間で美しく輝く紫水晶アメジストの瞳。何もかもでティカをきつけて、彼女は言うのだ。


 これが正しいことなんだよ。だって、みんな陛下の味方じゃないんでしょ? じゃあ、戦いを終わらせるには、殺さなくちゃ。あの人たちが、そう言ってたもの。


 そうでしょ? お姉ちゃん、あってるよね? 平和のためには仕方ないんだものね?


 ねぇ、そうだよね……?


「ティカ・フェリスちゃん」


 男に名前を呼ばれて、両肩に手を置かれた。あっという間に記憶は彼方に消え去り、薄暗くて小汚い酒場の一角に引き戻される。


 ティカはぐっと唇をんだ。馬鹿みたい、と胸中だけでつぶやいて、顔をあげる。


 男が何かを言う前に、またの間を思いきり殴りつけた。聞くに耐えない悲鳴。それを無視して、宝飾品ビジューのはいった麻袋を掴んで駆け出す。


 テーブルだとか椅子だとか、所狭しと並んだ障害物を片っ端から押し倒して進んだ。出口が遠い。背後から怒号。慌ただしい男達の足音。


「飛んで!」


 鋭い女の声が響き、ティカは深く考えもせずに地面をった。人間が倒れる音と悪態あくたいが入り乱れる。一体何が、と思考が追いついたところで、横から伸びてきた手に引っ張られた。


「よっし、ティカさんを確保!」


 古びた木箱を積み上げた物陰で、明るい声とともに抱きしめられた。びっくりして顔をあげれば、満面の笑みを浮かべたアンナがいる。


「おばさん……なんでここが……?」

「えっへん。甘く見ないでちょうだい」野暮やぼったい外套がいとうを揺らして、アンナが胸を張る。「わたくしは天下のアンナ・ビルツなんだから、あなたの行く先くらい予想できて当然なのよ」


 アンナのそばに立っていた男が、控えめな咳払いをした。誰だよこいつ、とティカは目をらす。どことなく見覚えのある顔だ。いかにも神経質そうな、しぶい表情を浮かべている。


「……あんた、レイモンド?」

「そうだよ。なんかすごく、失礼な見分け方をされた気がするんだけどさ」レイモンドはやけくそ気味の口調で言いながら、そわそわと辺りを見回した。「それよりアンナさん。これ、どうするんだ。向こうはまだこっちを探してる」

「あっ、それについては今考えるから、少し待って」


 アンナの呑気のんきな返事に、レイモンドが唇の端を引きつらせた。


「おいおい。ここまで大胆に行動しておいて、急に無計画とか言わないよな?」

「む。無計画とは失礼なのだわ。臨機応変とおっしゃって」

「あのね。俺はそういう言葉遊びをしたいんじゃなくて、」

「ねぇ、ちょっと待ってよ」ティカは二人の外套がいとうの裾を引っ張った。「あんたたち、なにしに来たわけ? こんな薄汚い酒場にさ」


 アンナは首を傾げた。悪気のない仕草に、なんとなく返答が予想できて、ティカの気が重くなる。


「もちろん、ティカさんを助けにきたのよ。悪い商人に捕まりそうだったでしょう?」

「……ボクは助けてなんて言ってないでしょ」

「そうね。でも、わたくしは幸せの結末ハッピーエンドの物語が好きなのだわ。王子様がお姫様を助けに来てくれるような、ね」


 にっこりと笑うアンナのかたわらで、レイモンドが疲れ切った顔で付け足した。


「俺は巻き込まれただけだから」

「まあ、レイモンドさんったら! そんな言い方じゃ、物語の主人公ヒーローにはなれないわよ。悪党さんたちの足を引っかけるタイミングを計算してくれたのは、あなたなんだから」

「ああもう、ヒーローとか、そういうのはどうでもいいから! 俺は役人になるって最初に言っただろ!」


 この二人は、締まらない会話をしないと気がすまない病にでもかかっているに違いない。ティカは呆然と思う。


 そもそも、答えも意味わかんないし。全然、ちっとも、この状況の危険さと、二人の利益が釣り合ってもいないし。あぁなるほどね。簡単な計算もできないほど馬鹿ってこと? それなら納得だよ。


 ほんとに、どうしてこう、ボクは幸運なのかな。


「……周りがこんなに、お人好ひとよしばっかでさ」


 無粋なことに、レイモンドはティカの独り言を聞きつけたらしい。妙な顔をする男の顔面に向かって麻袋を投げつけて、ティカはアンナを見た。


「ボクの分の外套がいとうはある? しょうがないから、逃げるのに協力してあげる」


 アンナがぱっと目を輝かせた。


「もちろんなのだわ。作戦は……あっ!? もしかして、わたくしとティカさんで夢の共演とか……!?」

「おばさんは土台だよ、ボクの」

「え……ど、土台……?」

「ああもう、うっとうしいから泣きそうな顔しないで。こんなところで顔出しなんて危険すぎるでしょ。だから、どうでもいい顔のほうで演技するってだけ」


 外套がいとう目深まぶかに被り、ティカはレイモンドを指さした。


「つまり、こいつね」

「俺……」

「なるほど……?」

「いや待って、なるほどじゃないよね、アンナさん!? 今のって単純に俺の悪口で、って!?」

「ピーピーわめくな、男でしょ」レイモンドの背中を叩いて物陰の外へ追い出し、ティカはアンナに耳打ちした。「……これで行くよ。持ち上げるのは一瞬でいいから。できるよね?」


 アンナがうなずくのを合図に、二人はレイモンドを追いかける。無意識だろうが、彼はちょうど入り口の近くに移動してくれた。


 都合がいい。ただ、引きつった顔はどう見たって怪しかったし、何人かの男はレイモンドに気がついたようだ。


「まぁ、それくらい目のえた客じゃないとね」


 ティカはぼそりととつぶやいて、アンナに目配めくばせした。地面をる。手筈てはずどおりにアンナが体を支えてくれる。ちょっと芝居がかったくらいに外套がいとうひるがえして、顔に注目がいかないようにする。


「あぁ、我がいとしのダンタリアン! こんなところにいたんだね!」


 感極まった声音でティカは呼びかけた。ぎょっとするレイモンドの首に腕を回して飛びつき、周囲の人間が自分の背の低さに気づく前に、赤銅色の髪に指先を絡めて引き寄せる。


 生き別れの恋人。酒場で果たした偶然の再会。この世で何よりもかけがえのない愛しい人との特別な瞬間。適当に組み上げた設定を呼吸と視線と指先にのせ、ティカは涙ながらに微笑する。


 そうして、ほうけたように己を見つめるレイモンドへ口づけた。


 *****


「も、も、もう……! 最高だったのだわ……! 情熱的で! 感動的な! き……きき……んんんん!」

「キスね」

「そう! それ!」


 きゃあ、と悲鳴をあげながら、アンナが興奮した様子でソファの上に倒れ込む。それに満更まんざらでもない気持ちになりながら、ティカは擦り切れた絨毯じゅうたんの上に足を投げ出した。


 騒がしく、いささか危険な酒場から無事に逃げ出す代償は、レイモンドの人生初の口づけファーストキスだけだった。たかがそれだけですんだのは、まったく素晴らしい結果だとティカは思うし、アンナも演技に大喜びしている。当のレイモンドは、傷つけられた乙女おとめのような顔をして部屋に引き上げてしまったわけだが。


 とにもかくにも、アンナたちが借りていた馬に乗り、念のためと追手をまくようにしてビルツていに戻ってきた。


 時刻は夜を通り越して、朝焼け間近だ。客間の空気は薄暗く、疲れた体には心地いい。


「あ。そういえば」


 なにか思い出したような声をあげて、アンナが見覚えのある麻袋あさぶくろを差し出した。

 あぁ、とティカは苦笑いする。酒場で取り返した宝飾品ビジューだ。


「いいよ、それ。ボクのじゃないもん」

「いいえ、あなたのだわ」

「おばさんの宝飾品ビジューだってば。ほら、ボクが借りてたやつ。覚えてるでしょ。他に借りてたものも返すから」


 だましててごめんね、という言葉は、ちっぽけな自尊心プライドが邪魔して出てこない。ティカはどうしようもない自分に呆れながら膝を寄せた。


 演技だったら、いくらでも言えるのに。

 いやだな、今の自分は、すごく弱気だ。


「ティカさん、こっちを見て」


 アンナの困ったような声に顔をあげたティカは、目を丸くした。


 薄いクッションの上に、アンナが麻袋の中身を開ける。出てきたのは、幾枚もの紙幣しへいと硬貨だ。宝飾品ビジューは一つもない。


 ティカは顔を青くする。


「嘘……間違えた……?」

「まぁ! 大丈夫よ。間違えてなんかないわ。これはね、帰り道に換金してきたの。ちょうどティカさんがうたた寝してる間にね」

「は……?」

「演劇に使って。これだけあれば、しばらく劇場を借りることができるはず」アンナはやわらかく微笑んで、ティカの胸元に手を伸ばした。「そこでいっぱい練習して……いつか、あなたの舞台を見せてくれると嬉しいわ」


 ぱちん、というささやかな音とともに、アンナの手が離れた。ティカの胸元で輝くのは、見覚えのある胸飾りブローチだ。


 淡紅色の宝石を中心に、その周りを白真珠が囲う。いずれも色良し、形良し、大きさ良しだ。


 窓から差し込み始めた朝の光を浴びて、ささやかに輝いている。


 胸飾りブローチに指先で触れ、ティカはぎゅっと目を閉じた。なにかを期待するようなアンナの気配を感じて、馬鹿みたい、と思う。


 本当に、馬鹿みたいだ。


「『五月の薔薇マイレースレ』のことで、相談があるんだけど」ティカは目を開けて、できる限り尊大に見るように腕を組んだ。「最後の結末、ちょっと気に入らないんだよね」


 アンナがぱちりと目を瞬かせた。


「最後って……ええっと、冬の王を、春の乙女が追い払う……っていう?」

「そう。ありきたりでつまんないでしょ。だから、アンナの意見を聞かせてよ。今からボクが台詞せりふを言うから、好きに話して」

「ええ? そんないきなり……」

「『あぁ、冬よ。あなたは何故泣いているの』」


 戸惑う声を無視して、ティカは春の乙女の台詞を言った。


 朝日が空気を染め始める。凛とした光は、ティカたちへ平等に降り注ぐのだった。


「『春を探しに来たのだ』」ゆっくりと、アンナが続きを紡ぎ始めた。「『けれど、私は冬。れれば、すべて凍りついてしまう』」

「『さわらなければいいじゃない。そうすれば誰も眠りにつきはしないわ』」

「『あぁそうだとも。春の人。けれど許しておくれ。私はぬくもりを愛している。絡めた指先にともるあたたかさを恋しく思う。たとえそのぬくもりが私を溶かして、すっかり消してしまうとしても、近づかずにはいられないのだ』」

「『馬鹿なひと』」ティカは目をせて、微笑んだ。「『消えてしまうなんて、そんなはずがないわ。溶けてしまえば混ざりあうだけ。憎しみも、いがみあう心も、やわらかな土が受け止めてくれる。そうしていずれは、小さな痛みと曖昧あいまいなぬくもりになって、すべての命のなかで永遠に生き続けることになるのよ。さぁ、こちらに来て。抱きしめあいましょう。あなたの指先は、もう誰も凍らせはしない。すべての春が、あなたを歓迎するのだから』」


 台詞が途切れた。ティカはひょいと片眉をあげて、アンナを見る。


「この台本はいいな。さすがボクってかんじ?」

「まあ! 手柄てがらの独り占めはずるいわ。わたくしの返事が素晴らしかったおかげでしょう?」


 アンナの表情は少しばかり不満げだが、眼鏡の奥では青の目が楽しげにきらきらと輝いている。


 変な顔だ。


 けれどきっと、自分も同じような顔をしているんだろうな、と思ったから、ティカは目元をゆるめるだけにしておいた。

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