第4話 こんなことしてる場合じゃ、ないんじゃない?

 一晩中泣きに泣いて、とっておきの薔薇ばらの砂糖漬けを気の済むまで食べた。


 そのおかげもあってか、翌朝の気分は案外すっきりしている。抱え込んだクッションから顔をあげ、ベッドの上で、アンナは「うん」とうなずいた。


「応援なのだわ。だって、ルーさまの恋路こいじですもの」


 なにがって、もちろんティカとの、だ。彼の色恋に対するにぶさは不安だけれど。


 でも大丈夫よ、とアンナは根拠こんきょなく思う。わたくしが上手くティカさんに耳打ちしたり、ルーさまの背中を押せばいいだけのことなんだから。


 決意を固めてしまえば、あとは早い。アンナはてきぱきと身支度した。魔女の正装にあわせるリボンは落ち着いた茶色ブラウンに、泣きはらした目元を隠しつつも化粧はさりげなく。鏡をのぞけば、いつもどおりの自分がいる。さえない眼鏡と、胸元で耀く美しい薔薇十字ロザリオまで完璧だ。


 なんといっても失恋で、悲しいには違いないのだけれど、やっぱりルーのことを好きなのだ。

 好きな人には幸せになって欲しい。そのためなら、痛いのだって我慢がまんできる。


 そこまで考えたところで、アンナはきゅっと眉根を寄せた。


「んんん、待って待って。今のは、なしね。なんだか湿しめっぽいもの」


 そうじゃなくて、もっとこう、元気いっぱい頑張ろうとか、あなたの恋を全力応援とか。そうそう、そういう明るい感じで。


 もにもにとほほんで思案したところで、アンナは外の騒がしさに気がついた。


 窓を開け、ぱちりと目を瞬かせる。

 春風とともに新緑輝く裏庭バックガーデンが見える。そこまではいいのだが、生け垣の向こうに見慣れない人だかりがあった。


 *****


 なあ、ビルツていってここだろ。

 天気の良い日は庭の手入れをしているって。

 灰色の髪と、眼鏡をしてるって書いてあったよな。


「な、なんなのかしら。これ……」


 庭に降りてきたアンナは、呆然ぼうぜんとつぶやいた。生け垣の向こうの喧騒けんそうは、今やはっきりと聞こえる。どうにも自分を探しているらしい……そこまでは分かったのだが。


 げ、というあからさまに嫌そうな声がした。振り返れば、屋敷から出てきたらしいティカが、顔をひきつらせている。


「どうして、よりによっておばさんと会うかなあ……」

「おはよう、ティカさん」

「……はいはい、おはようおはよう」


 面倒くさそうに寝癖ねぐせのついた髪をかき混ぜながら、ティカはアンナの隣に立った。腕を組み、耳を澄ませ、鼻を鳴らす。その様子があまりにも手慣れていたので、アンナはそろりと尋ねた。


「ティカさんは、これがなんなのか分かる?」

野次馬やじうま

「えっ」

「アンナ・ビルツの顔をおがみにきたんだよ。華麗かれいなる革命家。最後の王家の生残り、ってね。はぁ、ひますぎだよね。朝っぱらからさ。ところで、他に質問はある? ないよね。じゃあ、ボクはこれで」

「ちょ、ちょっとお待ちになって」


 早口ののちに立ち去ろうとしたティカの腕を、アンナはなんとかつかんだ。


「状況はわかったわ。でも、どうして、わたくしの野次馬がここに詰めかけてるの」

「……さぁ? そういう気分だったんじゃない?」

大衆紙タブロイドが出回っているからだ」


 言いづらそうにティカが目をそらしたところで、ルーの低い声が響いた。

 屋敷から通じる細道から現れた彼は、ティカの鼻先に紙切れを突き出す。


「記者にアンナの情報を売ったな」


 記事の切り抜きだ。その大半を占める写真にアンナは目を丸くする。眼鏡をかけ、慌てたような顔で口を開いている女は、間違いなく自分だ。


 かつての英雄にして華麗かれいなる革命家。三年を経た今、その素顔に迫る。そんな見出しから始まり、好きなものや趣味などが記載されている。


 沈黙するティカに、ルーが低い声で言葉を重ねた。


「この写真、初日にフラウが撮影したものだろう。どうなんだ、ティカ・フェリス」

「三流記事を見せないでよ。腹が立つから」ティカはげやりに言って、アンナの手を払った。「はいはい、そうだよ。ボクが記者におばさんのことを話して、フラウに写真を撮らせたの。おさっしのとおりね。でもさ、別にいいじゃん。事実なんだからさ」

「事実だから問題なんだ」

「何が問題なわけ」

「あの!」


 アンナは思わず声をあげた。一触即発の空気のまま、二人そろって目を向けられる。待って待って、これって喧嘩けんかの予兆じゃない? 浪漫ロマンス小説でお馴染みの。


 妙な既視感に感動しつつ、わたくしがしっかりしなきゃ、と気を引き締め直して、アンナは言う。


「大丈夫よ、ルーさま。わたくしの顔が街の人に知られてしまった事を心配してるんでしょう? でも、野次馬さんたちの中に悪い人はいなさそうだわ」


 革命家アンナ・ビルツの評判は、真っ二つに割れる。民を自由へ導いた天才的な人格者か、民を戦へ巻き込んだ憎き王族の生き残りか。だからアンナは、街に出ても名前しか名乗らなかった。アンナ・ビルツの写真や絵姿えすがたは出回っていないから、それだけで要らぬ問題は回避できていたのだ。


 面倒事を嫌うルーのことだ。心配しているのはここだろう、というアンナの予想は見事的中した。されどもなお、彼は整った顔立ちに不服をにじませる。


「今はいなくとも、将来的にどうなるかはわからないだろう」

「それを言い始めれば、キリがないわ。いいのよ。隠し事してるみたいで、わたくしも好きではなかったし」


 アンナがにっこりと微笑めば、珍しくルーの眉間みけんしわが一本増えた。けれどそれを追求する前に、やけに明るい表情になったティカに腕をたたかれる。


「さっすが、おばさん。話が分かる!」

「あ、あら。そうかしら」

「そうそう。いやー、そうやって好意的に考えてくれると、ボクとしてもありがたいよね。なんだろうな。まるでボクたち、友達みたいに通じあってるかんじ? はい、じゃあ、この話はおしまい! 朝ごはんにしよ!」


 わざとらしく言いながら、ティカがさっさと屋敷への道を戻り始める。


 よかった、喧嘩けんかは避けられたみたい。それにしても、なかなか良い助け舟だったんじゃないかしら。小説でよくある、話の分かる脇役みたいな感じで。


 ほんのりと嬉しくて、目があったルーに親指をぐっと立ててみせる。彼の目元がぴくりと引きつるように動いた。あら、まだ問題ごとがありそうなのかしら。


「どういうつもりだ、アンナ」

「どうって……」二人の仲を近づけたかったのよ、という返事はいかにも無粋ぶすいで、アンナはすまし顔をする。「だって、わたくしはここの主人なのだもの。魔女さん同士の仲を取り持つのもつとめだわ。違う?」

「…………」

「ねえ、ルーさま。心配なさらないで。もちろん、ティカさんがどうして記者と会ったかについては、もう少し確認してみてもいいかもしれないけれ、ど……?」


 ルーに腕をつかまれ、調子良くつむいでいたアンナの言葉が途切れた。


 春の陽気に、外からの喧騒。そのなかで、珍しくルーが困惑した表情をしている。街の中でひとりぼっちになった子供のようだ。なにかを焦がれて探すような眼差しに、不覚にもアンナの心がぐらりと揺れた。


「君は」腕をつかむ手にいささかの力をこめて、ルーがうめくように言った。「何を考えているんだ」

「……そ、れは、さっきも言ったのだわ……」

「本当に? なら、昨日泣いてたのは何故なんだ」


 今だって、目元が。ルーがアンナの眼鏡を取り上げて、心配そうに言う。


 少し顔をうつむけた端正な顔立ちに影が落ちた。まるで夢のときのように、今の彼は自分にだけ感情を向けているようだった。そのことを自覚して、体中を震わせるような甘い期待に足の指先をぎゅうと丸めて、それでも触れられたいと思って。


 彼の指先がとどく――その寸前で我に返って、アンナは自分の右頬を思いっきり平手で打った。


 ばちんっというなかなかの快音に、ルーが驚いたように手を止める。


「アンナ……?」

「あ、あぶ……危ない……」

「危ない?」

「あああんんん、違うのだわ! あ、あぶ……そ、そう、アブがね! 近くを飛んでいて! 危うく刺されるところだったの!」


 痛む頬に泣きそうになりながらも、アンナは素早く眼鏡を奪い返し、ルーと距離をとった。


 危なかった。本当に危なかった。浪漫小説を読み込んでいたから分かる。あれは確実に、なし崩しになる展開だ。


 そうなったら、ただの浮気女になってしまう。

 駄目よ、そんなの。絶対に。


 アンナは再び決意を固めて、顔をあげた。気持ちが強すぎて、ほとんどにらむような感じになっていた気もするが、ここはなんとか心を鬼にする。


「と、とにかく! ルーさまも機会があったらぜひ、ティカさんの事情を聞いてあげて。わたくしの助けが必要なら、いつでも手を貸しますから! 二人の良き友として! それじゃあ!」


 蔓日紫草ビンカの花を揺らし、格子棚パゴラから咲きこぼれる藤の花の影を踏んで、アンナは屋敷に飛び込んだ。裏庭バックガーデンに通じる扉をばたんと閉める。


 早鐘を打つ鼓動を全力疾走ぜんりょくしっそうしたせいにして、アンナはさらに何回か深く呼吸する。大丈夫。よし。


「ねえ」

「ぴゃ!?」


 アンナは飛びあがった。声をかけてきたのは、食堂ダイニングに行ったはずのティカだ。黒髪の愛らしい少女は、驚いたような顔で言う。


「そんなにびっくりしなくても良くない?」

「そ、そうね……そうなのだわ……ええと、ルーさまは庭にいらっしゃるけれど……」

「なんでボクがあいつと会わなきゃいけないわけ。用があるのはあんたのほうだよ」

「わたくし?」


 うなずいたティカが、不意に不安そうな表情を見せた。


 アンナは思わず身構える。二人の仲を応援すると決めたとはいえ、ティカの口車くちぐるまにのせられた挙げ句に、彼女に言い寄る面倒な女という濡れ衣を着せられそうになった記憶は新しい。


 あれ。でもよく考えれば、女同士で言い寄るもなにもないのでは。妙に冷静な気づきを得たところで、ティカがアンナの両手をとった。


 目があう。今までにないほど真剣な眼差しだ。


「記事のこと、ほんとうにごめん」


 ティカが頭を下げた。それきり何も言わず、どうにも今回は本心らしいとアンナは気づく。


「顔をあげて」疑い深い己を恥じつつ、アンナはゆっくりと笑った。「気になさらないで。さっきも言ったでしょう。問題なんて、一つもないんだから」

「う、ん……でも、ルーの言うことにも一理あるし……」

「彼は心配性なのよ。ううん、それをいとわないであげてちょうだい。きっとティカさんの力になるはずだから」

「ボクの?」


 ティカがきょとんとした顔をした。まぁ、無自覚なのね。そんなふうに微笑ましく解釈したアンナは、何もかもわかっているふうに片目をつむる。


 一瞬だけ、ティカの眼差しに面倒くさそうな色がよぎったような、そうでないような。


「……と、とにかく」ティカが気を取り直すように言う。「えーっと……そうそう。謝罪だよ。うん」

「お気持ちは十分受け取ったわ。あぁでも……よければ、どうして記者さんとお話したのかについては、知りたいところだけれど」

「あぁうん、やっぱりそうだよね……」


 ティカが憂鬱ゆううつそうにため息をついた。


「実は、お金に困ってるんだ」

「お金……?」アンナはぱちりと目を瞬かせた。「でも、支度金したくきんは差し上げたはず、よね?」

「屋敷に来る時にくれたお金でしょ? もちろん受け取ったよ。たくさんもらえて、すっごく助かった。あれはね、でも使い切っちゃって」

「……使い切れるほどの額だったかしら……?」


 アンナは首をかしげた。


 支度金は、ビルツ邸に選ばれた魔女たちに一律に渡されるお金だ。魔女たちが残していく家族を一年の間えさせないように、という趣旨のものだから、かなりの大金のはずなのだが。


 されどもティカは、ますます顔を暗くするばかりである。アンナは気の毒に思って、ぎゅっと手を握り返した。


「ごめんなさい。めているわけではないのよ」

「ううん、いいんだ。疑問ももっともだし……やっぱり、誰かに迷惑をかけてまでお金を手に入れるっていうのも、ね……」

「困っているときは、周りが見えなくなるものよ。気にしないで。それよりも、ティカさんのほうは? お金の問題は解決しそう? わたくしに出来ることがあれば、なんでも言って」

「ほんとに?」

「もちろん」


 アンナが深く頷けば、ティカが言いづらそうに「じゃあ、さ……」と口を動かした。


「何かお金になりそうなもの……具体的にいうと宝飾品ビジューとか、持ってない?」


 *****


「いやー、ほんっと! なんでも頼んでみるもんだよねえ」


 夕食を終え、自室へ引きあげたティカは、上機嫌でテーブルに小袋を置いた。いそいそと明かりをともそうとしていたフラウが、興味をひかれたように身をかがめる。


「これ……さっきアンナちゃんから渡されてた袋、だよね……?」

「そ。まぁ開けてみなよ」


 おっかなびっくり袋をあけたフラウが歓声かんせいをあげる。当然だ。テーブルの上に転がり落ちてきたのは、色とりどりの宝飾品ビジュー――それもアンナ・ビルツの持ち物なのだから、間違いなく本物で、高価に違いない。


「は、へあ……すごいね、ティカちゃん……どうしたの……?」

「泣き落としたんだよ。アンナ・ビルツを」ティカは窓辺に座りながら、ひらりと手を振った。「あのときのボク、フラウにも是非見せたかったな。我ながら、名演めいえんにびっくりするっていうか。ま、おばさんがだまされやすいってのもあると思うけどね。お金がないって言ったら、すぐに信じちゃうし」

「ぐ、へへ……そ、そう……ティカちゃんの泣き落とし……写真に撮りたかったな……」

「安心しなよ。舞台でたっぷり見せてあげる」


 ティカは胸飾りブローチを手に取った。淡紅色の宝石を中心に、その周りを白真珠が囲う。いずれも色良し、形良し、大きさ良しだ。


 舞台の小道具がどうにも貧相で気に食わなかったのだが、これできっと華やかなものになるはず。


 フラウがだらしなく頬を緩めた。


「う、へへ……ティカちゃん……楽しそうだね……ね……?」

「そりゃそうだよ。あぁでもどうかな。宝飾品だけ豪華なのは、舞台全体として釣り合いがとれないかもね」

「じゃあ、ほかもそろえる……? 服とか……」

「それだ。フラウにしてはえてるじゃん!」

「んふ……あとは……あ、化粧品とか……アンナちゃんからもらって……」

、ね。一応返すつもりはあるからさ」


 夢が膨らんで、ティカも自然と笑顔になる。まったく、大衆紙タブロイドでルーにとがめられたのは誤算だったが、アンナのとりなしで事なきをえたし、さらにはこうして、舞台の小道具まで手に入れることができた。


 やっぱり自分は幸運だ。ティカは胸飾りを握りしめて、ぐっと背を伸ばしながら言う。


「ほーんと、おばさんがチョロくて助かるな」


 *****


 本当に彼女はちょろすぎるのだ。そのうえ、早々に結論づけてしまうのだから、たちが悪い。


 盗み聞きをした夜は泣きそうだったくせに。翌朝心配して声をかければ、彼女はけろりとした顔で、「任せて」と言わんばかりに親指を立ててくる。


 なんだそれは。

 任せるもなにも、問題がおきているのは君のほうだろ。


「面白い顔をしているな」

「……いつもどおりだが?」


「は?」と一蹴いっしゅうしたくなる気持ちをぐっとこらえ、ルーは冷たい眼差しを投げつけた。禿頭とくとうで、強面こわもてで、本日はクマの人形を抱えた大男はにやっと笑う。何が面白いのかとなぐりつけたくなった。


 時刻は深夜。月明かりに照らされた書架しょかがずらりと並ぶ。されどもここは、ビルツていではない。


 街の公文書館だ。解放広場にひっそりと立つ建物には、政治学や戦術書ではなく、大衆向けの書物が並ぶ。民間伝承、芸術書、娯楽小説から、真偽の分からぬ学術書まで。その中で、ルーたちはティカ・フェリスに関する情報を集めているのだった。


 大衆紙タブロイドの記事が出回って、すでに三日が過ぎている。幸いにして、危惧した面倒事はおきていない。夕食を終えて屋敷を抜け出す生活も苦ではない。気に食わないのは、拒否したにも関わらずディエンが同行しているという一点につきる。


 書架に並ぶ背表紙を上から眺めて回りながら、ディエンがのんびりという。


「ここ数日、どうにもお前はアンナ嬢レディ・アンナけているようだな」

「僕がアンナを避けている?」ルーは鼻を鳴らしながら、適当な本を引き抜いてばらりとめくった。「馬鹿を言うな。彼女が僕と話したがらないだけだ」

「ふむ。そうか? それならそれで好都合だが」

「何が」

「俺がアンナ嬢レディ・アンナとお近づきになれる」

「お前のような得体の知れない人間を、僕が彼女に近づけさせるはずがない」

「得体がしれないとは大げさだ。魔女は呼ばれてビルツ邸に来る。ならば当然、魔女たちの経歴も調べるんだろう?」


 ルーは音をたてて本を閉じ、狭い書架の間を歩き始めた。それを知らないから、こうして公文書館で調べる羽目になっているのだ。


 アンナ不在のすきを狙って、先生から受け取ったという引き継ぎ資料を確認した。されどもそこには、当たりさわりのない心構えが書いてあるばかりで、魔女たちの情報は一切記されていなかった。


 果たしてこれが毎年のことなのか、あるいは意図的に情報が隠されているのか。


 アンナにとっての先生にして、今も昔もつかみどころのないの言葉が脳裏をよぎる。俺のやることにはすべて意味があるんだよ。


 アンナの考えていることもわからないが、先代の真意もまた、つかめない。


 壁際にずらりと並ぶ書き物机にたどり着いた。ため息の代わりに、ルーはすでに積み上げてあった本を開く。


 いずれにせよ、今すべきことを確実にこなしていくべきだ。


 遅れてやってきたディエンが、「やはりそれが手がかりか」と言った。


「『五月の薔薇マイレースレ』……たしか歌劇の題名でもあったな」

「ティカ・フェリスが好んで演じた演劇だ。それにあやかってつけたタイトルらしい」あくまでも事務的に、ルーは応じる。「いずれにせよ、中身はただの手記だ。記述は、彼女が舞台にあがる直前の夏から、革命が始まって最初の数ヶ月まで」

「ふむ。ならば家族構成くらいは分かるか」


 ディエンは椅子を引いて座る。それを横目に見ながら、ルーはざっと読んだ内容を口にする。


「父母と、双子の弟が一人。旅座たびざの歌い手に憧れて、十八で街に出た。場末の酒場で劇作家に見初められ、そのまま舞台女優へ」

「絵に描いたような灰被り姫の物語シンデレラストーリーだな」

「なんだそれは」

「おや、知らないのか。貧しい娘が幸運を得て成功をつかむ。そういう筋を例えて言うのさ。大衆受けする物語の型アーキタイプだな……それで? ルーは何が気になっている?」


 気安い呼び捨てにまゆをひそめながらも、ルーは最後のページを広げた。


 日付は四月の第二十五巡日。春の終わり。革命から逃げるように故郷へ戻ったティカ・フェリスは、弟との再会を喜ぶ記述を残す。その最後の一文を、ディエンが不審そうな面持ちで読みあげた。


「彼らが私を待っている……?」


 ルーは首肯しゅこうした。


「革命が始まって、ひと月前後の頃から繰り返される記述だ。彼らとは、反戦を掲げる集団で、ティカ・フェリスは街にいた頃から何度も会っていたらしい」

「その集団の名前は?」

「リンダルムの赤薔薇あかばら

「最悪だな」珍しく、ディエンが嫌悪をにじませた。「国王側の人間のなかでも、とびきり性根しょうねが腐りきっている連中だ」


 革命のさなか、いくつもの武装集団が生まれた。文守の館人リャオルラン、ローダンシア解放戦線、青土の夜明け。


 リンダルムの赤薔薇もその一つだ。苛烈な正義と、王家への狂信で知られる集団である。革命の早期終結を願った彼らは、国王に批判的な人間を次々と殺害した。


 その悪名高さの真髄しんずいはしかし、殺戮さつりくではない。地方の村、場末の酒場、裏町の路地。そういった場所に住む人間を、褒美と罰と薬で洗脳し、使い捨ての信者を増やしていったところにある。


「ティカ・フェリスも言わずもがな、といったところだろう」手記を投げて寄越して、ルーは言った。「接触するたびに、彼らを称賛する記述が増えている」

「順調なことだな。それで……あぁ、そうか。最後が不自然に途切れていると」

「そういうことだ」


 ティカ・フェリスは弟との再会を喜び、彼らが私を待っていると書いた。それで終わりだ。彼女が弟と会ったのか。彼らと合流したのか。ことの顛末てんまつは一切書かれていない。


 幕を吊りあげたひもをぶつりと切ってしまったかのような、後味の悪さがある。


 ルーは目を細めながら呟く。


「順当に考えるならば、日記を書いた直後に何かがあった、ということだ。リンダルムの赤薔薇に傾倒けいとうしすぎて深みにはまり、手記を書く余裕がなくなった」

「そして革命が終わった今、女優は表舞台に再び姿をあらわした……ふむ。齟齬そごはないように思うがな。この国の人間で、戦争を経験していないやつなんていない」

「そうか? 僕はなんて、そうそういないと思うが」


 ディエンが口を閉じ、両眉を上げる。大げさすぎる仕草だ。あぁまったく。


 ルーは椅子を蹴って立ちあがり、隠し持っていた短剣を大男の喉元のどもとにつきつけた。


「いい機会だ。はっきり言おう。ティカ・フェリスは男だ。そしてディエン、君はそれに気づいていながら放置している。おおよそ、今僕が調べた内容についても承知の上で、だ」

「なんだ」ディエンがゆっくりとまばたきし、口角を吊り上げた。「やっぱり、俺たちの経歴を知っているじゃないか」

「情報じゃない。単純な推論だ。所作も言動も思考法も、すべて手がかりになる。隠す気がないぶん、君のほうが

「なるほど」

「答えろ。何が目的だ? ティカ・フェリスと結託けったくしているのか」

「直接の関係はないさ。まぁ、彼女の目的は理解しているし、お前が今警戒すべきなのは俺ではない、ということも分かってはいるが」

「回りくどいことを、」


 短剣を握る手に力をこめたところで、鼻先を作り物めいた花の香りがかすめた。背後に殺気。そして視界の端から女の細腕が伸びる。


「なにをコソコソかぎ回ってるの?」


 頬に触れられる。耳元で女が甘ったるくささやく。何者かの気配はしかし、人ならざる冷たさをはらんでいる。


 ルーは舌打ちし、短剣を手の中で回転させて女の腕に突き立てた。悲鳴とともに赤黒い霧が噴き出して腕が消える。背後の気配が離れ、書架を蹴り上げて移動する。その行く先に狙いを定めて、ルーは短剣を放つ。


 刃は空を切って壁に突き立った。春の月明かりを汚すように、窓の前に黒髪の少女が現れる。


 裸足はだしに純白のワンピース。紫水晶アメジストの目を無垢むくに輝かせて、彼女は小首をかしげた。


「やだな、おにーさんったら。私じゃなかったら、死んでたところだよ?」

「元より殺すつもりだったが? ティカ・フェリス」

「ふふ。じゃあ、これで分かったでしょう。いくらおにーさんが殺すつもりになったとしても、私を殺せないってこと」


 返事の代わりに、ルーは予備の短剣を構える。ティカにそっくりの少女はしかし、つややかな唇に指先を当てて「いいのかなあ」と微笑んだ。


「こんなことしてる場合じゃ、ないんじゃない? お姫様を守りたいのならさ」

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