第3話 ルーと上手くいってないんでしょ
一夜明けても胸のあたりがもやもやとしているのは、どう考えたってルーの態度のせいだ。
ディエンには近づかないこと。ルーがティカに近づくのは認めること。どうやったって、この二つは
ちっとも、ぜんぜん、釣りあわない。
「んんんんん……! たしかに、どきっとしたけれど……! ちょっと強気なルーさまにっ! どきっと! した! けれども! でもやっぱり、子ども扱いしてるのだわ……っ!」
アンナは耐えられずに声を上げながら、ざくざくとスコップを土に突き刺した。
一夜が明けた。春らしい晴天は、
決して、心が乱れてるとか、そういうことではない。春めいた空気には似つかわしくない乱暴な音が響いているけれど、決して。
断じて。
「ふ、へへ……」隣で花の種をまいていたフラウは手を止め、陰気に笑った。「アンナちゃん、
「ばーか。んなわけないでしょ。こんなの八つ当たりじゃん」
盛り土を挟んだ向かいには、ティカが
「八つ当たりなんて、していないのだわ。というか、ティカさん。なにを優雅にさぼってやがるのかしら」
「あは。なぁに、おばさん。言葉が
「わたくしたちを手伝いなさいと言っているの! あとその服! 正装の
アンナはスコップを握りしめて立ち上がった。
ティカは手入れの行き届いた肌を見せつけるかのように足を組み直し――ワンピースの丈が
「こんな土仕事も、黒と白のだっさいワンピースも、ボクには全然
「服を改造する許可なんて、わたくしは与えていないわ」
「あーやだやだ。心の余裕がないお子ちゃまほど、見てられないものはないよねえ」
「っ、わたくしは子供でもな、」
「ルーと
「どっ……!?」
ずばり言い当てられて、思わず妙な声が出た。アンナは慌てて辺りを見回す。
いいえ、いいえ、待って。元より、あっちの
ぎこちなく前を向く。ティカがにまにまと笑っていた。
「やーっぱりねえ。好きなんだ。アイツのこと」
「どうして知ってるんですの……」
「どうしてもこうしても、見てれば分かるよ。ね、フラウ」
「ん、へへ……そうだよお……だって、恋してるアンナちゃん可愛いもんね……せっかくだから写真
あっ、ちょっと、と言う前に、フラウは素早くカメラを取り出してシャッターを切ってしまった。ティカが立ち上がり、
「で? 具体的にはどこまで進んでて、どういうところで
指で作った輪に、人差し指をいれるような動作をする。一体何事かとアンナが目を瞬かせれば、半眼になったティカに腕を引っ張られた。
もつれるようにして地面にしゃがみ込む。文句を言いかけたアンナの口元に、ティカがぴっと人差し指をたてた。
「おばさん、
「な……!?」アンナは顔を真っ赤にしてスコップを落とした。「な、ななな何を聞いてるんですの!? まだ朝なのに、もご」
「声
「んふ……女の子同士の秘密の会話、しちゃう……?」
「し、してないわ……べつに、なにも……」
「別に何も、っていうのは?」
「ほんとに何もしてないって意味に決まってるでしょう。そもそも、寝る場所だって別々、というか……」
「……わ、土いじりして
「かわいいわけないでしょ、フラウ。
「だ、だって、ルーさまはかっこよくて
なんだそれ、と言わんばかりのティカの視線に負けじと、アンナは両手を握りしめた。
「全然
「うえ。ちょっとちょっと、泣かないでよ」
嫌そうな顔をしつつも、ティカがハンカチを差し出した。ぐずぐずとアンナが涙を
「つまり、なに? もしかして、全然付き合ってないってこと? キスどころか手もつないでないとか?」
「……キスは……したわ……手はちょっとだけ……」
「わお。順番がめちゃくちゃすぎて、びっくりする」
「げ、へへへ……いいんだよう、ティカちゃん……女の子の恋は、人それぞれだもん……ね……? アンナちゃん、私は応援……するよ……?」
フラウに優しく背中を
ハンカチをぎゅうと
「ティカさんは、どう思ってらっしゃるの」
「どう、って何を?」
「ルーさまのこと。キスしてらっしゃったじゃない」
ティカは小さな
「好きじゃなきゃ、あんなことしないでしょ」
「ゔううううう!」
「にゃはは! 奇声なんかあげちゃって! でも実際、いい
「それは……っ、違うもの……! 理由があったって、おっしゃってたもの……!」
「へえ、理由って?」
「ティカさんが魔女の力を使ったからとかっ!」
「ぷっ、なにそれ。そんなことに、魔女の力を使うわけないでしょ。単純に、ルーがボクに
「ああああんんんん、ほらルーさま! やっぱり、そういうことじゃない!」
なんということなの。ちっともぜんぜん希望がないわ。つまるところ、ルーさまがとてつもなく
肩を叩かれた。涙でいっぱいの
「恋愛にはね、コツがいるんだよ。おばさん」
「コツ……?」
「そ。相手が望む姿をまとうのよ、ってね。しょうがないから、少し手ほどきしてあげる」
「ひゃ……!」
歌うように言って、ティカはアンナの手を取って立ち上がった。さりげなく、けれど少し強引だ。彼女の足がワルツのステップを踏み、アンナはまろぶようについていく。
笑顔でシャッターを切るフラウの横を通り過ぎて、
「まずは笑いなって。そんな
「そんな、いきなり言われても……」
「甘いなあ。恋の
「そ、それは
「じゃあほら、ボクがルーだと思ってさ。はい、笑って!」
ふわりと離した片手をかざすようにして、ティカがフラウを示す。アンナがおっかなびっくり笑顔を向ければ、二度目のシャッター音が響いた。
上手く笑えてたかしら、なんて考える
「僕のことを見て。アンナ」
思いのほか低い声とともに、意味ありげに細められた目が向けられた。いたずらっぽい笑みなのに、やけに色気がある。妙なアンバランスさのせいだろうか。まったく似ているところなんてないのに、たしかにルーに似ている気がして、アンナは思わず赤面した。
ティカが手首を指の腹で
「こうやって見とれてくれて嬉しいな。アンナはどう? 僕とこういうことしたいと思ってた?」
「は、……や、それは……」
「それとも」ティカが手を止め、顔をくもらせた。「もしかして嫌い?」
「そんなことないのだわ!」
アンナが思わず返事をすれば、ティカが心の底から安心したというように微笑んだ。
「よかった」
あどけない子供のような表情は、ますます彼に通じるところがあって、ほっとしてしまう。
ティカが再び踊り始めた。
「ねえ、もっとアンナのことを知りたいな。好きな食べ物はある?」
「ええと……
「わ、すごくおしゃれだね。自分で作るの? 料理が趣味とか?」
「趣味では、ないわ。自分で用意しないと、食べるものがなかったし……好きなのは、本を読むことだもの」
「あぁ、立派な
「もちろんなのだわ。だって、記憶を
かかとを
眼鏡越しでも鮮やかな、引き込まれるほど深い
「可愛い可愛い、お嬢さん」
指先でアンナの髪を
「でも安心して。ボクが好きなのは、おにーさんだからね」
枝を踏む音がする。はっと振り返ったアンナは、顔を青くした。ミモザの黄色い花が揺れる生け垣のそばに、美しい青年がたたずんでいる。
「る、ルーさま……」
「楽しそうでなによりだな。
そっけない一言はいつもどおりなのに、やけに
転びそうになるのを踏みとどまったアンナは、ぎょっとした。黒髪の少女がネコのように
「やーん、おにーさんったら。すっごく良いタイミング」
「どういう意味だ、ティカ・フェリス」
「ボク、おばさんにしつこく言い
言い寄られてて?
「ちょっとお待ちになって!」驚きが後ろめたさを吹き飛ばし、アンナは声を上げた。「とんでもない嘘なのだわ。ティカさん、さっきのはあなたから
「あれえ、そうだっけ? ボクはただ、コツの話をしてただけなんだけどなあ」
「コツ?」
「そそ」
「愛の
思うのにしかし、当の青年はアンナとティカを交互に見比べ、「なるほどな」と呟いた。
「魅力的な誘いだ。せっかくだから、今晩にでも話を
アンナは凍りついた。ティカに向かって、ルーが涼やかな微笑を向けたからだ。落ち着いた声音はやわらかく、灰をまぶした炎の瞳には親愛がにじんですらいる。
それはまさに、本に出てくる貴公子そのもので。
間違いなく、アンナが今までルーに向けられたことのない笑みであり。
「魔女のなかに、ルー好みの女の子がいなければいいね」という
もうどうしたってこれは、疑いようがない。
失恋だ。人生はじめての。
*****
気持ちが晴れない理由は分かりきっているが、
「お前はティカ・フェリスのことが好きなのか」
「あぁもちろん」
ディエンののんびりとした問いかけに、ルーは
魔女を迎えて二日目の夜の、
そのようなわけで、ルーは夕食の後片付けを男性陣とすることになったのだった。先のディエンの問いかけは皿を
何もおかしなところなんてない。何一つ。ルーはそう思うのだが、神経質の塊のようなレイモンドは、そうでもないらしい。
「俺、もう帰り……」立ち上がった
「作業を始めて、まだ十分と経ってないだろう。休憩には早いと思うが」
「ですよね。そうですよね。俺も今まさに気づいたところですね。わぁすごい、なんで帰りたいって思ったのかなー。不思議だなー」
やけくそ気味のレイモンドと、相変わらず
「それで、どういうところが?」
何事もなかったかのように、ディエンが話の続きをふってきた。
年頃の女か……と悪態をつきたくなるのをこらえて、「そうだな」とさも意味ありげに呟いてみる。ティカ・フェリスの
「黒髪がいいんじゃないか。短いのもさっぱりとしていて好ましい気がする。背が低いのも可愛らしい……なんだ。その目は」
「なんだって、言われてもな……」レイモンドはディエンと
「どうしてそこで、彼女の名前が出てくるんだ」
「いいから。物は試しってやつだよ。ほら」
「……明るくて、いいだろう。彼女は」指先からこぼれる水滴を見つめながら、ルーは渋々と口を動かした。「楽しいときは喜んで、悲しいときは泣く。少々うるさいところもあるが、そういうのは僕にはないものだから、嫌いじゃない」
たとえば野に咲く花だとか、そういうものなのだ。彼女は。照りつける日差しも、降りしきる雪も乗り越えて、めいいっぱいに
冬の屋敷の、
眼鏡の奥に隠れた、美しい泉の青のような瞳も。
そういえば、あの色を知っているのは自分だけなのか。
「これはクロだな」
何か知ったような口調のディエンにいささかの
「何の話だ」
「何の話もなにも。お前もそう思うだろう、レイ」
同意を求められたレイモンドは、「まぁ、ね……」と歯切れ悪く返した。
「その気じゃないなら、ティカさんを
「妙なことを言うな。僕はティカ・フェリスのことが気になっているんだ。なら、いいところは褒めて当然だろう」
「その言い方からしても、どうかと思うけど……っていうか、なんで俺が責められないといけないんだ? そもそも、この話を始めたのは、俺じゃな、」
レイモンドがぼやいたところで、がしゃん、と分かりやすく何かを落とした音が響いた。はからずもルーは魔女達と顔を見あわせ――そんな間抜けな己に舌打ちして立ち上がる。
手を
嫌な、というよりは面倒な予感がした。目があった。もちろん
「わ、わた……わたくし……」
「アンナ・ビルツ。まずは落ち着こうか」
「わたくしっ! なにも聞いてないわ! でもルーさまの恋は! 応援するからっ!」
「アンナ・ビルツ!」
あぁほら、また面倒な勘違いをしているじゃないか。文句をぐっとこらえ、ルーは逃げるように走り出したアンナを追いかけた。
階段の手前で腕をつかむ。血の
「あらかじめ、言っておくが」背を向けたままのアンナへ、ルーはなるべく冷静に声をかける。「君が今考えていることは全部、勘違いだ」
「……わたくしが何も言ってないのに、よくお分かりになるのね」
「僕がティカ・フェリスに気があると考えているんだろう」
ぐっとアンナの手が握られた。
「昨日も言っただろう。僕は違和感の正体を探りたいんだ。ティカ・フェリスに近づく理由はそれだけだ」
「分かってる、のだわ」アンナはのろのろと返した。「でも、ルーさまが鈍感なだけかもしれないじゃない」
突然の悪口に、さすがのルーも口元を引きつらせた。アンナは、いささか興奮したように早口で続ける。
「だ、だって。ティカさんは魔女の力じゃないって言ったのよ。なら、ルーさまが動けなかったのは、彼女に
「僕がティカ・フェリスに見惚れるなんてありえない」
「だからルーさまは鈍感だと言っているの。いいえ、別にルーさまを責めているわけではないわ。殿方というのはいつだって、そうなんだから。それにね、大丈夫よ。わたくしだって、恋を応援する覚悟はできているもの」
「アンナ、僕の話を」
「じゃあ」アンナが振り返った。「わたくしに向かって、笑いかけてくださる?」
要求の意味もわからなかったが、それ以上に彼女が泣きそうなことに動揺した。瞬きの間の沈黙だ。けれどアンナにとっては決定的だったに違いない。
「だから、大丈夫なのよ」
やわらかな青に染まった夜の空気のなか、ぎこちなく笑ったアンナが手を振り払う。
ルーは追いかけられずに廊下に立ち尽くした。衝撃と罪悪感、されどもそののち、いらだちが勝つ。
だってそうだろう。自分がティカに気がないのは事実なのに、アンナは勝手に勘違いして、勝手に泣いているのだ。
恋をしようと言ったのは、彼女のほうなのに。
「……子供か」
自分にか、彼女にか、よくわからない
甘ったるい声がかけられたのは、その時だ。
「おにーさん、待ってたよ」
振り返れば、廊下の奥から黒髪の少女がひょっこりと現れた。軽やかな足取りで近づいてくる彼女からは、作ったような花の香りがする。好ましくない、何かを隠そうとする、そんな香りだ。
目と鼻の先で立ち止まったティカが、ことりと首をかしげた。
「ねえ、大丈夫?」
「……待っていたというわりには、おかしなところから来るんだな」
「ふふ、色々と探検してたんだよ。おにーさんと二人きりになりたくて。だって、普段使う部屋は魔女と同室なんだもの」
「それで、部屋は見つかったのか」
「残念ながら」ルーの問いかけに、ティカは目を細めて胸の前で指を組んだ。「部屋はなかったよ。階段下に、妙な物置は見つけたけれど」
意味ありげな言い回しに、ルーは口を閉じた。
ティカが見つけたのは、
普通ならば見つけられるはずもない場所を、どうやって見つけたというのか。ルーの思案さえ見抜いているかのように、ティカが目を細めて微笑む。
少女らしからぬ冷たい眼差しだ。それはけれど、ルーにとっては、あまりにも馴染み深いものでもある。
疑惑、罠、虚飾。そういった
「――美しいお嬢さんを、物置に連れ込むなんてできるわけがないだろう」ルーは素知らぬふりで笑みを浮かべて、ティカの手をとる。「僕の部屋に来るといい。一人部屋なんだ」
ティカが嬉しげに
気持ちが晴れない理由は分かりきっているが、私情を挟むべきではなく、従ってどのような状況であっても冷静に対応すべきだ。
それこそが、アンナを守ることにつながるはずなのだから。
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