第3話 ルーと上手くいってないんでしょ

 一夜明けても胸のあたりがもやもやとしているのは、どう考えたってルーの態度のせいだ。


 ディエンには近づかないこと。ルーがティカに近づくのは認めること。どうやったって、この二つはりあわない。


 ちっとも、ぜんぜん、釣りあわない。


「んんんんん……! たしかに、どきっとしたけれど……! ちょっと強気なルーさまにっ! どきっと! した! けれども! でもやっぱり、子ども扱いしてるのだわ……っ!」


 アンナは耐えられずに声を上げながら、ざくざくとスコップを土に突き刺した。


 一夜が明けた。春らしい晴天は、裏庭バックガーデンの手入れ日和だ。アンナが今まさに手を動かしている理由もそこにある。かたい土をほぐして、不要な根や小石も取り除く。花原メドウの準備には必要な作業なのだ。


 決して、心が乱れてるとか、そういうことではない。春めいた空気には似つかわしくない乱暴な音が響いているけれど、決して。


 断じて。


「ふ、へへ……」隣で花の種をまいていたフラウは手を止め、陰気に笑った。「アンナちゃん、手際良てぎわいい、ね……さすが、お庭の手入れに慣れてるかんじ……?」

「ばーか。んなわけないでしょ。こんなの八つ当たりじゃん」


 あきれたようなティカの声に、アンナはむっとしながら手を止めた。


 盛り土を挟んだ向かいには、ティカがびた椅子いすに腰掛け、足を組んでいる。どこから持ってきたのか、日傘ひがさもさして、だ。


「八つ当たりなんて、していないのだわ。というか、ティカさん。なにを優雅にさぼってやがるのかしら」

「あは。なぁに、おばさん。言葉がきたなすぎて聞こえないんですけどお」

「わたくしたちを手伝いなさいと言っているの! あとその服! 正装のたけは足首までと決まってるはずなのだけれど!?」


 アンナはスコップを握りしめて立ち上がった。


 ティカは手入れの行き届いた肌を見せつけるかのように足を組み直し――ワンピースの丈が膝上ひざうえまで切りつめられているのだから、腹がたつくらいきわどいのだった――、「だってねえ」と鼻にかかった声で言う。


「こんな土仕事も、黒と白のだっさいワンピースも、ボクには全然似合にあわないしぃ。むしろ服は可愛くしてあげてるんだから、めてくれたってかまわないけど?」

「服を改造する許可なんて、わたくしは与えていないわ」

「あーやだやだ。心の余裕がないお子ちゃまほど、見てられないものはないよねえ」

「っ、わたくしは子供でもな、」

「ルーと上手うまくいってないんでしょ」

「どっ……!?」


 ずばり言い当てられて、思わず妙な声が出た。アンナは慌てて辺りを見回す。


 がきの向こうに夜明け色の髪が見えたような。


 いいえ、いいえ、待って。元より、あっちの低木シュラブの手入れはルーさまたちに任せているのだから、いたとしても何もおかしくはないのよ。わざわざ聞き耳を立てているとか、そんなことは決してないはず。


 ぎこちなく前を向く。ティカがにまにまと笑っていた。


「やーっぱりねえ。好きなんだ。アイツのこと」

「どうして知ってるんですの……」

「どうしてもこうしても、見てれば分かるよ。ね、フラウ」

「ん、へへ……そうだよお……だって、恋してるアンナちゃん可愛いもんね……せっかくだから写真る……?」


 あっ、ちょっと、と言う前に、フラウは素早くカメラを取り出してシャッターを切ってしまった。ティカが立ち上がり、たがやしたばかりの土を踏んでアンナのそばまでやってくる。


「で? 具体的にはどこまで進んでて、どういうところで喧嘩けんかしたの? やっぱりコレが原因?」


 指で作った輪に、人差し指をいれるような動作をする。一体何事かとアンナが目を瞬かせれば、半眼になったティカに腕を引っ張られた。


 もつれるようにして地面にしゃがみ込む。文句を言いかけたアンナの口元に、ティカがぴっと人差し指をたてた。


「おばさん、にぶすぎ。ヤッたかどうか聞いてんの。下手くそだったワケ?」

「な……!?」アンナは顔を真っ赤にしてスコップを落とした。「な、ななな何を聞いてるんですの!? まだ朝なのに、もご」

「声おさえてってば。言葉にしないと分からなかったのはそっちじゃんか」

「んふ……女の子同士の秘密の会話、しちゃう……?」


 せぎすの体を窮屈きゅうくつそうに丸めて、フラウが楽しげに身を寄せてきた。ティカに「で、どうなの」と先をうながされ、アンナは視線を泳がせる。


「し、してないわ……べつに、なにも……」

「別に何も、っていうのは?」

「ほんとに何もしてないって意味に決まってるでしょう。そもそも、寝る場所だって別々、というか……」

「……わ、土いじりしてじらってるアンナちゃん、かーわいい……」

「かわいいわけないでしょ、フラウ。あきれた、こんなとしして処女なんだ」

「だ、だって、ルーさまはかっこよくて綺麗きれいなのだもの!」


 なんだそれ、と言わんばかりのティカの視線に負けじと、アンナは両手を握りしめた。


「全然よごしちゃいけない感じがするのだわ。ううん、それはね、色々と想像はするけれど! わたくしの低俗ていぞくな妄想で汚すべきではないし……っ。やっぱりルーさまの気持ちが最優先で……そもそも、わたくしはちっともルーさまには釣りあわないし……きっと騒がしいと思われてるし……子どもみたいって……きっと……ゔっ……」

「うえ。ちょっとちょっと、泣かないでよ」


 嫌そうな顔をしつつも、ティカがハンカチを差し出した。ぐずぐずとアンナが涙をくなか、ため息をつく。


「つまり、なに? もしかして、全然付き合ってないってこと? キスどころか手もつないでないとか?」

「……キスは……したわ……手はちょっとだけ……」

「わお。順番がめちゃくちゃすぎて、びっくりする」

「げ、へへへ……いいんだよう、ティカちゃん……女の子の恋は、人それぞれだもん……ね……? アンナちゃん、私は応援……するよ……?」


 フラウに優しく背中をでられ、アンナは何度か頷いた。さりとて、懸案事項けんあんじこうは目の前にあるのだ。


 ハンカチをぎゅうとにぎりしめ、おずおずとティカのほうを見やる。


「ティカさんは、どう思ってらっしゃるの」

「どう、って何を?」

「ルーさまのこと。キスしてらっしゃったじゃない」


 ティカは小さなあごに手をあてて考え込む素振りを見せたあと、にやっと笑った。


「好きじゃなきゃ、あんなことしないでしょ」

「ゔううううう!」

「にゃはは! 奇声なんかあげちゃって! でも実際、いいせんいってたよね。ルーも嫌そうな顔してなかったし」

「それは……っ、違うもの……! 理由があったって、おっしゃってたもの……!」

「へえ、理由って?」

「ティカさんが魔女の力を使ったからとかっ!」

「ぷっ、なにそれ。そんなことに、魔女の力を使うわけないでしょ。単純に、ルーがボクに見惚みとれてたってだけじゃん」

「ああああんんんん、ほらルーさま! やっぱり、そういうことじゃない!」 


 至極しごくまっとうなティカの返事に、もはやルーへの文句を叫んでアンナは地面に両膝りょうひざをつく。


 なんということなの。ちっともぜんぜん希望がないわ。つまるところ、ルーさまがとてつもなく鈍感どんかんってだけの話じゃない。んんん、そういうところも、もちろん好きだけれど! 大好きではあるのだけれど!


 肩を叩かれた。涙でいっぱいの瓶底眼鏡びんぞこめがねの向こうで、ティカが自信満々に人差し指を立てる。


「恋愛にはね、コツがいるんだよ。おばさん」

「コツ……?」

「そ。相手が望む姿をまとうのよ、ってね。しょうがないから、少し手ほどきしてあげる」

「ひゃ……!」


 歌うように言って、ティカはアンナの手を取って立ち上がった。さりげなく、けれど少し強引だ。彼女の足がワルツのステップを踏み、アンナはまろぶようについていく。


 笑顔でシャッターを切るフラウの横を通り過ぎて、白花びゃっかと若草でおおわれた道へ。流れるようにアンナをリードしながら、「顔、顔」とティカがからかう。


「まずは笑いなって。そんな湿気しけた顔じゃ、ルーは喜んでくれないよ?」

「そんな、いきなり言われても……」

「甘いなあ。恋の機会チャンスなんて、いつ来るか分からないんだから。それともなに? ルーに嫌われてもいいの?」

「そ、それは駄目だめ!」

「じゃあほら、ボクがルーだと思ってさ。はい、笑って!」


 ふわりと離した片手をかざすようにして、ティカがフラウを示す。アンナがおっかなびっくり笑顔を向ければ、二度目のシャッター音が響いた。


 上手く笑えてたかしら、なんて考えるひまもない。手をぐいと引かれる。ずれそうになった眼鏡を慌てて押さえれば、背伸びをしたティカに手首をつかまれた。


のことを見て。アンナ」


 思いのほか低い声とともに、意味ありげに細められた目が向けられた。いたずらっぽい笑みなのに、やけに色気がある。妙なアンバランスさのせいだろうか。まったく似ているところなんてないのに、たしかにルーに似ている気がして、アンナは思わず赤面した。


 ティカが手首を指の腹ででて、したしげにささやく。


「こうやって見とれてくれて嬉しいな。アンナはどう? 僕とこういうことしたいと思ってた?」

「は、……や、それは……」

「それとも」ティカが手を止め、顔をくもらせた。「もしかして嫌い?」

「そんなことないのだわ!」


 アンナが思わず返事をすれば、ティカが心の底から安心したというように微笑んだ。


「よかった」


 あどけない子供のような表情は、ますます彼に通じるところがあって、ほっとしてしまう。


 ティカが再び踊り始めた。


「ねえ、もっとアンナのことを知りたいな。好きな食べ物はある?」

「ええと……薔薇ばらの砂糖漬けとか……?」

「わ、すごくおしゃれだね。自分で作るの? 料理が趣味とか?」

「趣味では、ないわ。自分で用意しないと、食べるものがなかったし……好きなのは、本を読むことだもの」

「あぁ、立派な図書室ライブラリがあるもんね。あそこの本は全部読んだの?」

「もちろんなのだわ。だって、記憶をおぎなわないと、ひゃ!?」


 かかとをやわらかな土にとられ、アンナは前のめりに倒れ込んだ。抱きとめられた先で、ティカと再び目があう。


 眼鏡越しでも鮮やかな、引き込まれるほど深い紫水晶色アメジストの瞳だ。だというのにせつなげで焦がれる眼差しが、夢で見たルーの面影に重なって鼓動が早くなる。


「可愛い可愛い、お嬢さん」


 指先でアンナの髪をからめてほどいて。そこで前触まえぶく、ティカは底抜けに明るい笑みをアンナの背後へ向ける。


「でも安心して。が好きなのは、おにーさんだからね」


 枝を踏む音がする。はっと振り返ったアンナは、顔を青くした。ミモザの黄色い花が揺れる生け垣のそばに、美しい青年がたたずんでいる。


「る、ルーさま……」

「楽しそうでなによりだな。アンナ嬢レディ・アンナ


 そっけない一言はいつもどおりなのに、やけに刺々とげとげしく聞こえる。妙な後ろめたさに返答に迷ったところで、ティカがやけにあっさりアンナの体を手放した。


 転びそうになるのを踏みとどまったアンナは、ぎょっとした。黒髪の少女がネコのようにかろやかな足取あしどりで、ルーの腕に抱きついたからだ。


「やーん、おにーさんったら。すっごく良いタイミング」

「どういう意味だ、ティカ・フェリス」

「ボク、おばさんにしつこく言いられててぇ」


 言い寄られてて?


「ちょっとお待ちになって!」驚きが後ろめたさを吹き飛ばし、アンナは声を上げた。「とんでもない嘘なのだわ。ティカさん、さっきのはあなたからさそってきたんじゃない……!」

「あれえ、そうだっけ? ボクはただ、コツの話をしてただけなんだけどなあ」

「コツ?」

「そそ」


 片眉かたまゆをあげて問うたルーへ上目遣うわめづかいをし、ティカはしなやかな体をさらに密着させた。


「愛のわし方のコツだよ。おにーさんにも教えてあげよっか? そこのおばさんはすっかりボクに夢中になってたみたいだから、効果は保証するよ」


 露骨ろこつこびの売り方に、アンナはむっとしながらも勝利を確信した。さすがの彼も嫌がるに違いないと、そう思う。


 思うのにしかし、当の青年はアンナとティカを交互に見比べ、「なるほどな」と呟いた。


「魅力的な誘いだ。せっかくだから、今晩にでも話をうかがおうか」


 アンナは凍りついた。ティカに向かって、ルーが涼やかな微笑を向けたからだ。落ち着いた声音はやわらかく、灰をまぶした炎の瞳には親愛がにじんですらいる。


 それはまさに、本に出てくる貴公子そのもので。

 間違いなく、アンナが今までルーに向けられたことのない笑みであり。


「魔女のなかに、ルー好みの女の子がいなければいいね」という呑気のんきなアルヴィムの笑顔が脳裏をよぎって、アンナはひざから崩れ落ちた。


 もうどうしたってこれは、疑いようがない。

 失恋だ。人生はじめての。



 *****



 気持ちが晴れない理由は分かりきっているが、私情しじょうはさむべきではなく、従ってどのような状況であっても冷静に対応しなければならない。


「お前はティカ・フェリスのことが好きなのか」

「あぁもちろん」


 ディエンののんびりとした問いかけに、ルーはたまごからを握りつぶしながら淡々と応じ、その隣でレイモンドが顔をひきつらせた。


 魔女を迎えて二日目の夜の、厨房キッチンである。ビルツていに給仕がいるはずもなく、食事や洗濯せんたくといった細々こまごまとした家事はすべて持ち回りだ。当然魔女たちは勝手が分かっていないから、アンナかルーのどちらかが彼らに教えながら、ということになる。


 そのようなわけで、ルーは夕食の後片付けを男性陣とすることになったのだった。先のディエンの問いかけは皿をきながらであるし、ルーが握りつぶした卵の殻もすでに中身はなく、ゴミのかさを減らすための行為にすぎない。


 何もおかしなところなんてない。何一つ。ルーはそう思うのだが、神経質の塊のようなレイモンドは、そうでもないらしい。


「俺、もう帰り……」立ち上がった赤銅色しゃくどういろの髪の青年は、ディエンの鋭すぎる目を見るなり、泣きそうな顔をして座り直した。「……たくはないです。今のはちょっとした休憩きゅうけいです、はい」

「作業を始めて、まだ十分と経ってないだろう。休憩には早いと思うが」

「ですよね。そうですよね。俺も今まさに気づいたところですね。わぁすごい、なんで帰りたいって思ったのかなー。不思議だなー」


 やけくそ気味のレイモンドと、相変わらずおどしているようにしか聞こえないディエンのやりとりを聞き流しながら、ルーは手についた卵の殻をはたいて落とした。手洗い用の水に、手首までつける。


「それで、どういうところが?」


 何事もなかったかのように、ディエンが話の続きをふってきた。薬草ハーブの浸かった水で手を洗いながら、ルーは目だけを動かす。ディエンに加えて、レイモンドもちらちらとこちらを見ていた。


 年頃の女か……と悪態をつきたくなるのをこらえて、「そうだな」とさも意味ありげに呟いてみる。ティカ・フェリスの人相にんそうは思い浮かぶものの、何がいいのかはさっぱりだ。そもそも、彼女が好きというのも、妙な違和感を探るための方便ほうべんでしかない。


「黒髪がいいんじゃないか。短いのもさっぱりとしていて好ましい気がする。背が低いのも可愛らしい……なんだ。その目は」

「なんだって、言われてもな……」レイモンドはディエンと目配めくばせした。「じゃあ、試しに聞きたいんだけど、アンナさんのことはどう思ってるんだい?」

「どうしてそこで、彼女の名前が出てくるんだ」

「いいから。物は試しってやつだよ。ほら」

「……明るくて、いいだろう。彼女は」指先からこぼれる水滴を見つめながら、ルーは渋々と口を動かした。「楽しいときは喜んで、悲しいときは泣く。少々うるさいところもあるが、そういうのは僕にはないものだから、嫌いじゃない」


 たとえば野に咲く花だとか、そういうものなのだ。彼女は。照りつける日差しも、降りしきる雪も乗り越えて、めいいっぱいにつぼみを開かせるような。しなやかに美しくて、子供のように無邪気で、可能ならばそばで見ていたいと思うし、かげるようなことがあってほしくない。


 冬の屋敷の、地下牢ちかろうの事を思い出した。あんな空間、彼女にとっては害でしかないのだ。それでも、一緒に眠りにおちて、目を覚まして。最初に向けてくれた嬉しそうな彼女の表情が忘れられない。


 眼鏡の奥に隠れた、美しい泉の青のような瞳も。


 そういえば、あの色を知っているのは自分だけなのか。


「これはクロだな」


 何か知ったような口調のディエンにいささかの不愉快ふゆかいさを覚えて、ルーは言う。


「何の話だ」

「何の話もなにも。お前もそう思うだろう、レイ」


 同意を求められたレイモンドは、「まぁ、ね……」と歯切れ悪く返した。


「その気じゃないなら、ティカさんをめないほうがいいだろうね……」

「妙なことを言うな。僕はティカ・フェリスのことが気になっているんだ。なら、いいところは褒めて当然だろう」

「その言い方からしても、どうかと思うけど……っていうか、なんで俺が責められないといけないんだ? そもそも、この話を始めたのは、俺じゃな、」


 レイモンドがぼやいたところで、がしゃん、と分かりやすく何かを落とした音が響いた。はからずもルーは魔女達と顔を見あわせ――そんな間抜けな己に舌打ちして立ち上がる。


 手をきながら入り口に向かった。粉々に砕けた皿を前に、アンナが顔を真っ青にして立ち尽くしている。


 嫌な、というよりは面倒な予感がした。目があった。もちろん瓶底眼鏡びんぞこめがねごしだ。


「わ、わた……わたくし……」

「アンナ・ビルツ。まずは落ち着こうか」

「わたくしっ! なにも聞いてないわ! でもルーさまの恋は! 応援するからっ!」

「アンナ・ビルツ!」


 あぁほら、また面倒な勘違いをしているじゃないか。文句をぐっとこらえ、ルーは逃げるように走り出したアンナを追いかけた。


 階段の手前で腕をつかむ。血のにじむ指先が、春の月明かりに照らされて痛々しい。どうしてそう簡単に怪我をするんだ、という文句も、なんとかこらえた。


「あらかじめ、言っておくが」背を向けたままのアンナへ、ルーはなるべく冷静に声をかける。「君が今考えていることは全部、勘違いだ」

「……わたくしが何も言ってないのに、よくお分かりになるのね」

「僕がティカ・フェリスに気があると考えているんだろう」


 ぐっとアンナの手が握られた。図星ずぼしだ。ルーはため息をついて、声をひそめる。


「昨日も言っただろう。僕は違和感の正体を探りたいんだ。ティカ・フェリスに近づく理由はそれだけだ」

「分かってる、のだわ」アンナはのろのろと返した。「でも、ルーさまが鈍感なだけかもしれないじゃない」


 突然の悪口に、さすがのルーも口元を引きつらせた。アンナは、いささか興奮したように早口で続ける。


「だ、だって。ティカさんは魔女の力じゃないって言ったのよ。なら、ルーさまが動けなかったのは、彼女に見惚みとれていたから、ということじゃなくて?」

「僕がティカ・フェリスに見惚れるなんてありえない」

「だからルーさまは鈍感だと言っているの。いいえ、別にルーさまを責めているわけではないわ。殿方というのはいつだって、そうなんだから。それにね、大丈夫よ。わたくしだって、恋を応援する覚悟はできているもの」

「アンナ、僕の話を」

「じゃあ」アンナが振り返った。「わたくしに向かって、笑いかけてくださる?」


 要求の意味もわからなかったが、それ以上に彼女が泣きそうなことに動揺した。瞬きの間の沈黙だ。けれどアンナにとっては決定的だったに違いない。


「だから、大丈夫なのよ」


 やわらかな青に染まった夜の空気のなか、ぎこちなく笑ったアンナが手を振り払う。


 ルーは追いかけられずに廊下に立ち尽くした。衝撃と罪悪感、されどもそののち、いらだちが勝つ。


 だってそうだろう。自分がティカに気がないのは事実なのに、アンナは勝手に勘違いして、勝手に泣いているのだ。


 恋をしようと言ったのは、彼女のほうなのに。


「……子供か」


 自分にか、彼女にか、よくわからない悪態あくたいをぼそりとついて、ルーは中途半端に伸ばしたままの手を握りしめる。


 甘ったるい声がかけられたのは、その時だ。


「おにーさん、待ってたよ」


 振り返れば、廊下の奥から黒髪の少女がひょっこりと現れた。軽やかな足取りで近づいてくる彼女からは、作ったような花の香りがする。好ましくない、何かを隠そうとする、そんな香りだ。


 目と鼻の先で立ち止まったティカが、ことりと首をかしげた。


「ねえ、大丈夫?」

「……待っていたというわりには、おかしなところから来るんだな」

「ふふ、色々と探検してたんだよ。おにーさんと二人きりになりたくて。だって、普段使う部屋は魔女と同室なんだもの」

「それで、部屋は見つかったのか」

「残念ながら」ルーの問いかけに、ティカは目を細めて胸の前で指を組んだ。「部屋はなかったよ。階段下に、妙な物置は見つけたけれど」


 意味ありげな言い回しに、ルーは口を閉じた。


 ティカが見つけたのは、地下牢ちかろうの入り口に違いない。アンナとともに封じた物置には鍵がかかっているはずだし、万が一入っても分からぬよう家具や雑貨で床を隠してもいた。


 普通ならば見つけられるはずもない場所を、どうやって見つけたというのか。ルーの思案さえ見抜いているかのように、ティカが目を細めて微笑む。


 少女らしからぬ冷たい眼差しだ。それはけれど、ルーにとっては、あまりにも馴染み深いものでもある。


 疑惑、罠、虚飾。そういったたぐいの意図がけてみえる。こんな目をする人間が、自分に恋をしているだなんてありえない。


「――美しいお嬢さんを、物置に連れ込むなんてできるわけがないだろう」ルーは素知らぬふりで笑みを浮かべて、ティカの手をとる。「僕の部屋に来るといい。一人部屋なんだ」


 ティカが嬉しげにうなずくのを合図に、二人は連れ立って歩き始めた。




 気持ちが晴れない理由は分かりきっているが、私情を挟むべきではなく、従ってどのような状況であっても冷静に対応すべきだ。


 それこそが、アンナを守ることにつながるはずなのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る