音が出ない!

増田朋美

音が出ない!

寒くなってきたけれど、まだ日中は暑い日だった。暑くないと言っても、まだまだ日が出れば暑いと言う日が続いている。まあ、季節がすぎるのは、速いのか遅いのか、よくわからないことが多い。

さて、その日。製鉄所、つまり、居場所として、勉強や仕事の場を貸している施設であるが、ときに変わった使い方をする人もいて、自分で持ち運びができる楽器であれば、楽器演奏に使ってもいいことになっている。本当にその使い方をする人は、非常に少ないが、今日はなぜか、製鉄所の利用者である、内田茉祐子という女性が、お琴を少し練習させてくれと申し入れてきた。茉祐子さんは、180センチもある大きなお琴を、製鉄所の縁側に持ってくる。お琴という楽器は付属品も多く、茉祐子さんは、お琴を琴台の上に置き、急いで、三角形の琴柱を立て始めた。こちらを立てる事によって、音階を決めるのだ。そして琴爪というものを指にはめて弾くのだが、茉祐子さんの爪は尖っていて、山田流の爪であった。それと同時に、水穂さんにご飯を食べさせるため、ご飯を持ってきた杉ちゃんが通りかかって、

「お、いい音がしそうだな。山田流とは珍しいな。」

と、声をかけた。

「ありがとうございます。」

と茉祐子さんはにこやかに笑った。杉ちゃんが同時にふすまを開けると、水穂さんの姿が見えて、

「一生懸命練習なさっているんですね。」

と、にこやかに笑った。茉祐子さんは、一の糸に琴柱を立てるのであるが、なんだか困った顔をしている。

「どうしたの?」

と、杉ちゃんが聞くと、

「だって、音がでないですもの。一の糸がどうしても、一越の音がでない。」

と、言い始めた。一越というのは、西洋音名に直すとレの音のことで、それは琴の世界では重要な音でもある。

「え?一越が出ない?じゃあ、平調子もとれないのかよ。」

と杉ちゃんが言うと、

「ええ、本によれば、平調子より、一は五の乙と書いてあるんですけど、どうしても一が五の乙へ下がらないんですよ。」

と、茉祐子さんは、困った顔をした。

「それは困るなあ、平調子の一は五の乙ができないんじゃ、殆どの現代箏曲は演奏できないのでは?」

杉ちゃんに言われて、茉祐子さんははいといった。

「あれ?昨日、お琴屋さんで張り替えてもらったんではなかったんですか?」

水穂さんがそう言うと、茉祐子さんは

「ええ、そうなんですけど、一の音が下げられないと、曲の調弦ができないのですが。」

更に困った顔になる。

「そりゃそうだ。それじゃあ、お琴屋が絃をきつく締めすぎて、低い音が出なくなったんだよ。古典箏曲であれば、一を他の音でとればいいけど、現代箏曲だと、十七絃とか、他の楽器との釣り合いもあり、調弦は変えられないんじゃないのかな。まるで、ピアノの鍵盤と同じ様な扱いをするからな。」

杉ちゃんが、彼女を援護するように言った。

「だから、音が出ないとお稽古ができなくなるんです。どうしよう。」

「そうだねえ。とりあえず、どこのお琴屋で張り替えてもらったの?」

杉ちゃんは、彼女をなだめるように言った。彼女は、困ったことや、慌てたことがあると、パニックを起こしてしまうことがあった。商売関係の人のような口がうまい人の意見に、すぐ負けてしまう癖もあった。まあ、こういう施設に来る女性は、だいたいの人がとても優しいのに、自分のことには自信がなさすぎて、他人の意見を聞こうとしすぎる人が多いのであるが。

「お前さんが謝ることないんだよ。それよりちゃんと事実を教えてくれ。どこのお琴屋に張替えをお願いした?」

杉ちゃんに言い方は大変乱暴で、ヤクザの親分みたいな言い方なので、茉祐子さんはしどろもどろであったがこう答えた。

「はい。三島の、石野屋というお店です。」

「はあ、お琴屋としては、結構長くやっているお店ですね。確か、なんとなくですけれど、三島駅の近くにあったような気がします。」

と、水穂さんが言った。

「確か、お琴専門店として、看板があったのを覚えていますよ。」

「で、お琴の絃を締めるのに、固く締めるとか、柔らかく締めるとか、そういう事は言わなかったか?それとも、一越の音が出るようにとか、そういう事はちゃんと言わなかったの?」

杉ちゃんがそうきくと、

「はい、一越の音が出るように柔らかめに締めてくださいと私はいいましたけど。」

と、茉祐子さんは答えた。

「それじゃあ、職務怠業じゃないか。だって、一越の音が出ていないんじゃないかよ。もしかしたら、客をバカにしているんじゃないのか?それなら、文句言ったほうがいいよ。だって音がでないんて、お琴として大問題だぞ。それで、もう一回張り替え直してもらって、一越が出るようにしてもらえ。」

「確かに杉ちゃんの言うとおりではあるんですけど、ちょっと若い女性には、反抗するのは難しい分野でもありますよね。」

と、水穂さんが言った。

「まあ、とりあえずだな。お琴屋に、音がでないってことを言ってみな。ちゃんと注文が違ってるって言わなければだめだよ。」

杉ちゃんにそう言われて、彼女はスマートフォンを取った。そして、お琴屋さんの電話番号を回してみる。

「もしもし、石野屋でございますが。」

出たのは、おばあさんだった。

「あの、すみません。私、先日お琴の張替えをお願いした、内田茉祐子でございますが。」

茉祐子さんは、とても小さい声で言った。杉ちゃんが彼女の肩を叩いて、ボリュームアップと急かした。

「あの、すみません。お琴なんですけど、一越の音が出るように柔らかめに締めてくれと私はいいましたが、その音がでないんです。」

茉祐子さんはしどろもどろになりながら言った。

「その様な事は聞いておりませんが?」

お琴屋さんは変な口調で言う。

「そんな事ありません。私、修理を申し込んだときに、ちゃんと低い一越の音が出るように柔らかめに締めてくれとお願いしました。私はちゃんとそういいました。それでに対して、一万六千円だとちゃんと答えてくれたじゃないですか。それなのになぜ、一越が出るように、締めてくれなかったのですか?」

茉祐子さんがそういうけれど、お琴屋さんはその様な事を聞いていないというばかりだった。

「それに、もし必要であったら、電話をくれるといったのに、なぜ何も連絡がなかったんですか?」

「連絡を差し出す必要はございませんでしたので、、、。ただ、一越でお願いしたいとは聞きましたけど、低音がどうのとはお伺いしておりません。」

「もういい!ちょっと貸せ。」

杉ちゃんが、茉祐子さんからスマートフォンをむしり取るようにして取って、でかい声で言った。

「もしもし、内田茉祐子さんから、お琴の修理をお願いされたのは認めるな?それで、その時、茉祐子さんから金を受け取ったのも認めるか?」

「はい。認めます。確かに現金でいただきました。」

とお琴屋さんは言った。

「じゃあ、茉祐子さんが、一越の低い音が出るように、緩めに締めてくれと言ったのは聞いたか?」

「言え、それは聞いておりません。ただ、平調子を取るということは聞きました。」

お琴屋さんも高齢者だ。本当に、のんびりとした口調で話すのだ。それに電話機が古いものらしく、よく聞き取れないのも困るのである。

「それなら、お前さんの勘違いだ。平調子と言ったら、一を低く取るのが当たり前だ。それなら、今から茉祐子さんが、お店に行くから、もう一回締め直して、緩めにしてやってくれ。」

と、杉ちゃんが言うと、

「一度、締めたものを張り替えますので、一万六千円かかりますよ。」

という始末であった。

「馬鹿野郎、間違えたのはそっちでしょ。だったら、無料で張りかえろ。もう金は、張り替えたときに払っちまったよ。それなら、ミスしたのはそっちなんだから、もう一度客から金を取るな。」

杉ちゃんがでかい声でそう言うと、しくしくなく声が聞こえてきた。水穂さんがどうしたんですか?と茉祐子さんにいうと、

「あたしが、もっとしっかりしていればよかったんですよね。あたしが、ちゃんと言えば、余分にお金を出す必要もなかったんですよね。」

茉祐子さんは泣き出した。本当は泣かれてしまっては、お店側の思うツボだから、なんとかそれは止めなければならない。杉ちゃんは、

「とりあえず、近いうちにまた直してもらうと思うから、一旦切るぜ。」

と言って電話を切った。そして、茉祐子さんに、

「泣いちゃいかんよ。お前さんが泣いちゃ困るでしょ。そうじゃなくて、なんとかして無料で張り替え直しさせることを考えようぜ。一万六千円と言ったら、お前さんに取っちゃ大金だろ。」

と言った。でも、茉祐子さんは、もう泣きはらしてしまっていて、もう人の言うことを聞くことができないようだ。変に刺激を与えてしまっては、大暴れする可能性もあった。だから精神疾患というのは扱いが難しいのである。水穂さんが布団の上に置きてくれて、茉祐子さんの体を撫でてあげられるのがふしぎなくらいだ。

「まあ、こうなっちまったら、本人のちからでは立ち直るのは難しい。それでは、強い味方を借りるしか無い。茉祐子さんさ、もう一度聞くが、とにかくお前さんののぞみは、一越の低い音が出るように、ゆるく絃を締め直してくれということだね!」

ちょっと語勢を強くして杉ちゃんが言うと、茉祐子さんは、は、はいとだけ言った。

「でも杉ちゃん、この状態で、彼女をお琴屋さんへ連れて行くのは、ちょっと彼女に取って、負担が大きいのではないでしょうか?それはちょっとかわいそうな。」

水穂さんがそう言うと、杉ちゃんはすぐに、

「わかってる。だから強い味方を借りるんだ。」

と言って、自分のスマートフォンを取った。そして、水穂さんに手伝ってもらいながら、花村義久さんの固定電話に電話した。

「もしもし、花村さん。ちょっとお願いしたいことがあるんだがね。」

もしお稽古中などだったらどうしようと思ったが、花村さんは直ぐに電話に出てくれた。

「ああ、杉ちゃんお久しぶりです。なにかあったんですか?」

「あのねえ。お願いなんだが、お琴の張替えで失敗したやつがいて、何でも若いからと言うことで、お琴屋にバカにされちまっているようなので、お琴屋に張り替え直すように説得してくれ。」

杉ちゃんは、単刀直入に言った。

「お琴屋さん。それはどこのお琴屋さんでしょう?」

花村さんが聞くと、

「石野屋だ。」

と、杉ちゃんが言った。

「あそこですか。確か、もう何十年もやっている老舗ですよね。あそこがミスをするとは考えにくいですけど、なにかあったんでしょうか?」

花村さんは、そう聞いた。

「ああ。なんでも、一越を、低く下げるようにしたいとお願いしたそうだが、お琴屋は、それを無視して、きつく締めすぎちゃったらしいんだ。それでは、平調子が撮れないって言って、困っているんだよ。これをなんとかするには張り替え直すしか無いよね。もう、一万六千円払っちまったらしい。お琴屋のミスだから、無料で張り替え直しさせなければならないんだ。だがな、お琴屋のほうでミスを認めようとしない。多分、小娘の言うことだって考えてバカにしてるんだと思う。まあ、そういうのって、伝統工芸職人にはよくあることだけどさあ。普段金持ちばっかり相手にしているから、ミスしても叱られることも無いだよな。」

杉ちゃんの言うことを、もしお琴屋さんに、茉祐子さんが直接いったら、確かに、茉祐子さんは、追い出されるのに間違いなかった。そういう伝統工芸職人というのは、変なところでプライドが高くて、ミスを指摘されても、指摘したほうが若い人であったら、追い出してしまうくらいの威厳を持っている。

「わかりました。私の生徒でも。その様な失敗をした人がいましたので、様子はなんとなくわかります。それなら、富士駅で待ち合わせしましょう。石野屋は三島駅から近いですから、電車でいくことができるはずですよ。」

と、花村さんは言った。

「ああそうしてくれ。じゃあ、富士駅で頼むな。」

杉ちゃんはすぐに電話を切り、交渉成立だと伝えた。

「本当にいいんですか?花村さんって誰なんでしょうか?」

茉祐子さんがそうきくと、

「大丈夫ですよ。杉ちゃんも、花村さんも、説得するのは得意中の得意です。僕達は二人を信じて待つことにしましょう。」

水穂さんがそういった。杉ちゃんの方は出かける支度を始めてしまっていて、さっさとタクシーを呼び出して、富士駅に行ってしまった。水穂さんが、よろしくおねがいしますと言って、杉ちゃんが出かけるのを見送った。

杉ちゃんが、富士駅に到着すると、花村さんが待っていた。二人は、三島駅までの切符を買って、三島行の電車に乗った。杉ちゃんから概要を聞いた花村さんは、本当に、伝統芸能は、狭き門過ぎて困りますね、と言って笑っていた。

二人は、三島駅で降りた。花村さんが言う通り、お琴屋である石野屋は、三島駅から歩いてすぐのところにあった。小さな店だけど、お琴がたくさん売られている。中には新品ばかりではなく、中古品と書かれているのもあった。

「こんにちは。」

花村さんが、店に入ると、店の中からおばあさんが出てきて、

「ああ、花村先生。今日はどうされましたか?」

なんて、先程の、内田茉祐子さんへの態度とはぜんぜん違う声音で言うのだった。

「ええそれでは、直結に申し上げます。お宅の店でお琴の糸締めをされた女性が、絃をきつく締めすぎたせいで、平調子より一は五の乙という調弦ができなくなってしまって困っておりますので、速急に張り替え直しをお願いします。」

花村さんはできるだけ淡々と言った。

「いえ、先生。私どもはその様な事は全くいたしておりませんが。」

と、おばあさんは言うのだが、

「いや。だって、僕はちゃんと内田茉祐子さんから、被害の全容を聞いたぞ。いくら伝統工芸やっててさ、すごい賞状をいっぱいもらって居るからって、ミスしたことを認めないのはおかしいんじゃないの?」

と、杉ちゃんが言った。確かに店の壁には賞状がいっぱい飾ってあった。確かに静岡県の伝統工芸士に任命するとか、伝統工芸に長年携わった事を称えるなどの内容ばかりである。そういう人物になると、たしかに、ミスをしたのを認めるのは難しいのかもしれないけれど、、、。

「とにかくな。いくら相手に過失があったって、ミスしたことは謝らなくちゃ。お前さんが、すごい技術を持っていて、すごいことやってるのはわかるけど、茉祐子さんのお琴を修理するのにお前さんは締め方を間違えた。それは、認めなくちゃならないし、それにお金をまた取るのも行けない。医者が、一人の患者を救えないのに、大勢の患者は救えないのと一緒だよ。」

杉ちゃんは、でかい声でおばあさんに言った。

「ええ。正しく彼の言うとおりですよ、石野さん。日頃から、お琴を弾く人を増やしたいと思っているのであれば、ちゃんと一人ひとりのお客さんに対して誠意を持たなければなりません。それは、相手がお年寄りであろうが、若い人であろうが同じことです。若い人だからと言って、バカにしてもいいとか、お年寄りだから大事にしたいなど、そういう差別的な意識を持ってはいけないんです。」

花村さんは、しっかりと言った。こういう事は、一般的な商売であれば当たり前のことなのに、何故か、若い人相手になってしまうと、バカにするような印象を持ってしまうのが悲しいところであった。若い人がお琴などの伝統芸能をやろうとすると、どうせ長続きしないとか、伝統文化に親しもうとしないというような、バカにするような印象を持たれるらしい。それはお教室ばかりではなく、こういうお店でもそうだ。だから、花村さんのような、大物に来てもらって、説教してもらわないと困るのである。

「お願いできますね。彼女のお琴をきちんと、平調子ができるようにしてあげてくださいね。そうしてあげないと、邦楽に興味を持つ、若い人がどんどん減って、私達も、お店も、何もできないものになってしまう。」

花村さんが改めて念を押すと、

「わ、わ、わかりました。」

と、石野さんは言った。

「それでは、お願いできるかな。その女性の名前は、内田茉祐子だ。お前さんがバカにした女性だ。今お琴を習おうとしているが、一を一越に調弦できなくて、本当に困っている。それに、一万六千円は、彼女に取っては大金だ。もう一回払わせるなんて、絶対に思うなよ。」

杉ちゃんに言われて、石野さんははいと言った。

「まあ、女性で、一生懸命お琴を作ってきたのなら、たしかに、間違いは認めにくいと思うけど、でも、間違いは間違いだ。ちゃんと平調子が出るようにしてあげてくれや。」

「わかりました。」

石野さんは、小さな声で言った。

「よし。じゃあ、近いうちに、内田茉祐子という女性が来るから、明るい笑顔と明るい挨拶で、迎えてやってくれよ。」

杉ちゃんに言われて石野さんは、またはいと言った。もし、茉祐子さんが、この顔を見たら、どんな事をいうかと思われるほど、自信のなさそうな顔だった。

「頼むぜ。伝統を担っているのは、お前さんたち偉い奴らではなく、茉祐子さんのような、地べたを這いずり回っている奴らだよ。それを忘れないでくれや。」

と、杉ちゃんは言った。

「そうですね。杉ちゃんの言うとおりですよ。一般人のおかげで国家も成り立ってますし、お琴も成り立っていることも、忘れてはいけませんね。」

花村さんはにこやかに笑った。杉ちゃんは、

「じゃあよろしくな。」

と言って、スマートフォンを取り出し、茉祐子さんに電話をかけた。

「ああ、茉祐子さんか。見事花村さんのおかげで、話がついたぞ。もうおおいばりで、修理を申し込んでもいいぞ。良かったねえ。」

電話に出たのは茉祐子さんではなく水穂さんだった。多分、茉祐子さんは、安定剤でも飲んだのだろうと思われた。水穂さんは、電話の奥で、

「わかりました。じゃあ、茉祐子さんにこの事実を伝えます。きっと喜んでお琴屋さんを訪れてくれるのではないかと思いますよ。」

と、言っていた。



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音が出ない! 増田朋美 @masubuchi4996

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