説得

 地下室には絨毯が敷かれており、石壁には、あえて無造作にしているような、よくわからない配置センスでフラッシュが貼られている。外ではまだコートを着ている人は誰もいないのに、部屋の隅でストーブがたかれていた。よほど冷えるのだろう。換気口はあるようだが、微妙に不安になってくる。

 移転した「肌隠-キガクレ- tattoo ink」は、作業ブースとカウンセリングルームが一体となっていた。というか、部屋が一つしか確保できなかったのだろう。視界のすぐ外には、痛みを連想させる不快な作業台があることを意識しながら、弓野は勧められた椅子に座っていた。中古で買ったのか譲られたのか、一応新店舗だというのに、椅子の布張りは擦り切れて綿が飛び出そうになっている。

 目の前に座っているのは、紅生姜と、鶴寿という例の彫師。姫蟻は、地上への階段へ通じる出入り口に腕を組んで立っていて、吉持はいつの間にか姿を消していた。

 弓野は紅生姜と鶴寿に資料を渡し、特例講習について説明した。

 まだ実施されると決定したわけではないが、手続きを踏んで陳情してもらえれば、個別に講習と試験を受けることができる可能性があるということ。陳情が通ったあとに、診断書を提出してもらう必要があること。これも正式決定ではないが、受講料は通常の二割から四割増しになるだろうということなど。

「もし了承いただけるようでしたら、わたしくが陳情手続きのお手伝いをさせていただこうと思うのですが、どうでしょうか」

 弓野は、資料に目を落としている二人の顔を伺う。弓野が話している間、紅生姜も鶴寿も一切言葉を挟まなかった。きちんと理解してくれているのかどうか、不安になってきていた。

「どう、鶴寿」

 と、紅生姜が、いつものパーカーを着てマスクをしている鶴寿を見た。

「はい……」

 鶴寿は弱々しい声を出した。

「なんでも質問してください」

 弓野は親切心で言ったが、鶴寿は黙ったままだった。

「ほかにも陳情は出てるんですか?」

 質問したのは紅生姜だった。

「今のところ、陳情は来ていないと思います。みなさん順調にライセンスを取得していっていますので」

 実を言うと、現状は必ずしも順調とは言えないものだったが、ライセンス取得に前向きになってもらうため、嘘も方便だと弓野は思った。

「じゃあ、うちらがやるしかないってことですか……」

 紅生姜は不満そうだったが、察するに、渋々ながらも前向きに考えてくれているようだ。

「めんどくさいし、割増料金っていうのが気に食わないけど、鶴寿のためなんだったら、仕方ないか」

「ちょっと待ってください」

 不自然に大きな声で鶴寿が言った。声量の調節がおかしいのも、話すことが苦手なことの表れだろうか。

「ずっと話し合いたいと思ってたんですけど、できなくて……わたし、まだどうするか、決めてません」

「そうだよね。ごめん、勝手に決めようとして」

 謝る紅生姜に、鶴寿は首を振る。

「いいんですけど、紅生姜さんと姫蟻さんが、どうしてライセンス取らないのか、もう一度ちゃんと聞きたいって思ってたんですけど……」

「そうだよね。役人さんにも改めて聞いてもらいたいし、ちょうどよかった」

 小さく、「弓野です」とつぶやいた弓野の声は無視された。

「別にわたしは、ライセンス制度そのものに反対してるわけじゃないんだよ。ただ、今の制度は明らかに実態に合ってない。講習の内容もそうだし、いずれ取り締まりがあって課される刑罰もそうだし、ほかのボディアートへの軽視もそうだし。こんな制度をつくって、先進国面してほしくないんだ。わたしは、支持できない制度に従うつもりはない」

「わたしは」

 柱にもたれかかっていた姫蟻が背を起こし、口をはさんだ。

「ライセンスそのものが嫌だな。彫られる側の人が、しっかり自分の考えと意思を持って入れるべきものだから、医療とは全然違うじゃん。彫師とお客さんがしっかり合意すれば、それだけでいいでしょ。ボディアートって、そういう純粋で自由なものであってほしいな」

 紅生姜はうなずくが、言葉を重ねる。

「わたしは、タトゥーのイメージがよくなったり、劣悪業者がいなくなることにつながるんだったら、ライセンス制度もいいと思う。でも、今の制度のままではだめだから、それに賛成してると思われたくないから」

「でも、イメージよくしたり、悪い彫師を根絶したりするのは、うちら業界人が努力すればいいことじゃないですか? 国の助けいらないですよ」

 紅生姜と姫蟻のディスカッションが始まってしまったので、弓野は割り込んだ。

「でも、タトゥーというのも、社会の中の営みの一つなわけですから。信頼性というのが求められるわけでして、そのためには、やはり行政の指針というものが必要となってくるかと」

 口を開いたのは、意外にも鶴寿だった。

「わたしは、生きるために彫り師でいたいだけです」

 にじみ切った刺青に覆われた自分の指を見ながらも、彼女ははっきりと言う。

「だから、ライセンス取ろうって思いました。でも、なんかそれだけじゃだめな気がして。ここに来たのは、紅生姜さんと一緒のほうが、だめじゃなくなる気がしたからで。わたし、紅生姜さんと姫蟻さんの仲間でいたいから……」

 おいおい嘘だろ、と弓野は思った。せっかく親切心でここまでしてやってるのに、今更ライセンス拒否ですか?

「鶴寿がライセンス取ったからって、うちらの仲間じゃなくなるわけじゃないよ」

 紅生姜は、鶴寿の細い肩をつかんだ。

「お互い自由にやって、それでも仲間っていうのが、本当の仲間だよ。鶴寿はもう、うちらの仲間なんだから、自分のしたいようにすればいいんだよ」

「そうだよ。今言ったのは、うちらの個人的な意見で、鶴寿が同じ考えである必要はないんだよ。わたしはずっとライセンス取らないだろうけど、制度がよくなれば、紅生姜さんはライセンス取るかもしれないんだし」

「いや、あの」

 弓野は背筋を伸ばす。

「お話し中のところ失礼しますが、これは、ライセンスを取る取らないというお話ではありません。彫師として働かれる以上、ライセンスは必須なんです」

 こんな基本的なことを言わなければならないとは思わなかった。

「わたしは、鶴寿さんがライセンスを取れるようにお手伝いをするために来ています。それ以外の選択肢は、ありません」

「まるで強制みたいな言い方ですね」

 紅生姜は鶴寿の肩を放して弓野をにらむ。

 弱気になってはだめだぞ、と弓野は自分を鼓舞する。

「あの、強制です」

 そうつぶやくしかなかった。

「だったら、こんなクソ制度をつくる前に、なんで当事者のわたしたちに相談してくれなかったんですか? わたし、こんな制度がつくられるなんて、全然聞いたことなかったんですけど」

「意見は聞いたうえでつくられたはずですけど」

「はずですけど?」

 姫蟻も怒っているようだ。

「知り合いも、こんな話聞いてなかったってみんな言ってますよ。どうせ他人事だと思ってるから、国って頓珍漢なことばかりやってるんだよね」

 どうしよう。やっぱり彫師ってガラ悪いじゃんか。

 弓野一人には荷が重かったようである。帝倉と一緒であれば、と弓野は後悔した。

「あ、ちょっと失礼します」

 弓野は電話がかかってきたふりをして、鞄からスマートフォンを取り出して立ち上がった。ピンチの時は、無理やりにでも場の流れを変えることが大事だと書いていたのは、なんの漫画だったか。

 わざとらしかったかと思ったが、紅生姜と姫蟻は黙ってくれた。

 通話をするふりをしようと柱の陰に入れば、完全に隠れられた。ふと思いつき、スマートフォンを操作する。

 帝倉のスマートフォンに電話をかけると、帝倉が出てくれた。

「先輩、どうしたんですか?」

「ごめん、突然」

 弓野は、状況をざっと説明した。

「いつも帝倉がやってる、綺麗事で乗り切るやつやりたいんだけど、どうすればいいんだろう?」

 後輩に助けを求めるなんて、情けないとは思うが、そんなことを言ってる場合ではない。彫師ライセンス部門において、帝倉はもう弓野の上の立場にあるようなものだし、そのことが少しは恥ずかしさを軽減させた。彼のほうが上だということを、素直に認めるのだ。

「えーとじゃあ、僕が話しますよ」

 弓野はプライドをかなぐり捨て、帝倉に紅生姜たちと話してもらうことにした。

「すみません」

 弓野は柱の陰から出て、椅子へ戻った。

「別の者がみなさんとお話しします」

 スマートフォンをスピーカーにして、くもったガラステーブルの上に置いた。

「どうもこんにちは。わたくし、彫師ライセンス部門の帝倉と申します。お世話になっておりま――」

「ここに来てる人よりは偉い人ですか?」

 紅生姜は、スマートフォンから聞こえる、苛つくほど明朗な声の主が、以前会ったことのある人物だとは気づいていないらしい。

「いえ、そんなことはありませんが、別の角度からお話をさせていただきたいと」

「別に話したくないんですけど」

「まあそうおっしゃらずに。制度に対して疑問をお持ちのようですが、それも含めて、陳情というのは有効な手段ですよ。みなさんと一緒によりよい社会をつくっていくために――」

「ちょっと聞きたいんですけど、どういうつもりなんですか?」

 紅生姜は言った。

「どうしてこんな制度がつくられたんですか? やっぱり、税収を上げるためですか? それとも、本当はタトゥー業界をつぶそうとしてるんですか?」

「いえいえ、そんな」

 それから帝倉は、いつもと変わらない張りのある声で、国は本当にタトゥー刺青業界を助けようとしているということを確信に満ち溢れた調子で話した。

 数分後、帝倉は誰かに呼び出されたらしく、唐突に話を切り上げ、「では、よろしくお願いします」と一方的に通話を切った。

「……今の話、本気なんだとしたら、国って本当に馬鹿なんだね」

 紅生姜が言い、姫蟻が笑った。鶴寿は黙っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る