闇からの手

 営業日ではないが、金子はいつものように店の掃除をした。

 紅生姜の新しい店は、路地裏のカラオケバーの地下にある。アメリカのホラー映画に出てくる地下貯蔵庫のような雰囲気。狭いため、掃き掃除に拭き掃除を行っても、たいして時間はかからない。ただ、毎日率先して掃除をすることが新人として信頼を得る第一歩だと、前のオーナーから教わった。そんな金子の態度を紅生姜も喜んでくれていた。

 道具を置く台を拭き上げながら、金子は吉持に言われたことを考えていた。

 まだ午前中。一方的に約束を取りつけられてしまったが、どうしよう。

 紅生姜たちから離れろと言われると、離れたくない気持ちが大きくなる。前の安定した環境から離れたのは、決して勢いや自暴自棄からではなかった。自分の気持ちとしては、別の店に移りたくなんかない。

 しかし、と金子は思う。お金のこと、世の中のことはよくわからないけれど、金子も多少の現実的視点は持ち合わせている。自分が生きにくい外見を持っていることもよく理解している。一歩間違えば、せっかく歩み始めた道から転がり落ち、戻ってこられないだろう。今、ギリギリのところで踏みしめている狭い道から、落ちたくない。

 前のオーナーより、紅生姜を選んでしまったのは、間違いだったのだろうか。それとも、これは罰なのか。

 ただの見習いなのだから、頼み込んで無給で弟子にしてもらうのが筋なのに、当たり前のような顔をして学校に入った挙句、スカウトなどにおめおめとついて行ったから。今更戻れない。吉持が別のチャンスをくれるとすれば、それをつかむことが賢明なのではないか。

 とりあえず、吉持がどういうつもりなのか、話を聞くことだけでもしてみようか。今日呼び出しに応じただけで、承諾したことにはならないだろうし、まさか、強引に契約させるなんてことはないだろう。彼は、そんな悪い人だとは感じられない。いや、そんなことはわからないじゃないか。紅生姜と姫蟻には言うなと言われたが、やはり相談してみようか。話さないと吉持に自分の口から約束したわけではないし。いや、でも、話さないでくれと言ったことを話したと知れたら、吉持だけではなく、結果的に紅生姜と姫蟻からの信用も損なうことになってしまうかもしれない。コミュニケーション能力が低い自分にとっては、一度損なわれた信用を取り戻すことは、ほとんど不可能に近いだろう。

 どうしよう、と考え込み、もうわからなくなった。

 体が勝手に動くように、施術の準備をした。なにも考えたくない。

 きちんと衛生処理をし、ビニール手袋をしてタトゥーマシンを握った。針先を黒いインクに浸す。自分の左前腕をむらの出ないように塗りつぶしていく。

 左前腕の外側は、もう何度も練習に使ってしまっていて、全体が色のついたかさぶたのようになってしまっている。滑らかな肌ではないせいで塗りつぶしも難しいが、練習しがいがある。塗りつぶしたあとは、ホワイトの線を重ねてみよう。

 この練習が活かされる日は来るのだろうか。

 集中し、雑念が消えていく。オーバーオールのポケットに入れたスマートフォンが鳴った時、驚いて針を肌から離した。見ると、姫蟻からの着信だ。

 姫蟻は、紅生姜と連絡が取れなくなった、と言った。

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