ピカリンから鶴寿へ

 紅生姜に、鶴寿かくじゅという名前をつけてもらった。紅生姜は、金子というのはなんだかおめでたい感じがするから、アーティスト名も縁起のいい感じの名前にしようと言った。

 ピカリンより、数百倍気に入っている。

 金子は、置手紙を残して寮を出た。どうしても、オーナーと直接話す気にはなれなかった。

 簡単な決断ではなかった。紅生姜の言葉を最初は冗談だと受け取った。しかし、紅生姜は、ブースの片づけを手伝ってくれた。食事を奢り、どこにも所属していないと嘘をついたことを打ち明けても許してくれた。金子のフラッシュをほめてくれた。紅生姜の態度は、終始真剣に思えた。

 何時間も彼女と話すうち、心に張り詰めた糸が緩んでいくような気がした。

 オーナーの期待に応えなければ。ほかの研修生に後れを取らないようにしなければ。きちんとした態度を取らなければ。迷惑をかけないようにしなければ。

 常にそう考え、それでもうまくいかなかったことが、すべてくだらないことのように思えてきた。そして、そう思わされてきたことが間違いだった気がしてきた。

 結局、刺青業界も芸術の世界だ。評価された者勝ち。難しく考える必要なんて、なかったのかもしれない。確か、オーナーもそんなことを言っていた。ということは、必ずしもオーナーに従わなくてもいいということなのでは?

 そう思えたから、紅生姜についてきた。そして、すぐにデビューさせてもらえた。まだおぼつかない部分はあるが、デザインによっては、十分にプロとして通用するという紅生姜の判断だった。

 顧客の希望をくみ取る能力はまだ足りないので、まずはフラッシュワークを専門とした。金子自身がデザインしたものや、確実に練習を積んできたトラディショナルなデザインのものなら、金子はそれほど不安を感じずに施術することができた。

 何人かの客に対応してみて、徐々に自信がついていくのを感じる。得意としてきた作風以外のものにも、プロとして挑戦できるようになるかもしれない。いや、ならなくてはならない。

 なによりも嬉しかったのは、自分が思うままにデザインしたフラッシュを選んでくれた客がいたということ。あのフラッシュワークイベントで客がついたのは、まぐれではなかったのだ。

 大丈夫。わたしは強い。

 夜逃げしたことへの心苦しさはある。しかし、自分の心に従えたことは後悔していない。あのままあそこに残っていたら、常に周りの研修生のことを気にして、かえって成長が遅れていたかもしれない。そして、いつまで経っても、自分自身の作風を売り込もうというに気にはなれなかっただろう。

 紅生姜の部下となって数か月が経った頃、紅生姜のアパートに呼び出された。そして告げられたのは、店を休業するということだった。

 姫蟻がちゃぶ台の上の鍋をかき混ぜる手をとめ、少し離れたところに胡坐をかいた吉持が、小皿から水餃子を口に運びながら上目遣いで紅生姜を見た。狭いリビングに四人が集まり、さらに鍋に火をかけているので、自然と汗ばんできてしまう。

「やっぱり、店長が見つからないらしくて、わたしが借金返さなきゃいけないみたい」

 紅生姜が言うには、前店長は、本当にポーランドへ飛んでしまい、まったく連絡がつかないらしい。「いろいろだらしなくてめちゃくちゃだったけど、いい人だと思ってたんだけどね……」とつぶやいた紅生姜の表情には、心の傷が垣間見えた。

「姫蟻と鶴寿には申し訳ないけど、店を軌道に乗せてる余裕ないんだわ。わたし看護師資格持ってるから、どっかには雇ってもらえると思う」

「ひどいです、紅生姜さん」

 姫蟻がロリータ服の裾を広げて座りなおした。

「みんなで働いて返していきましょうよ。紅生姜さん一人で背負い込むなんて、水臭いです」

「でもさ、店を続けるより、別の仕事したほうが効率が」

「それじゃ、お店をわたしに任せてください。わたしじゃ頼りないと思いますけど、頑張ります」

「店に借金取りがまた来るかもしれないんだよ?」

「そんなのこわくないです。わたしは生活できればそれでいいんで、借金返すの手伝います。洋服も売っていいし、コスメ買うのも我慢します。お菓子も食べれなくたっていいし、毎日キャベツだけでも、また紅生姜さんとお店やるためなんだったらオッケーです」

「姫蟻……」

 紅生姜は転んだ子供のような顔になった。

「ありがとう。でも、だめだよ。うちらには、店長のそういうところを見抜けなかった責任があるけど、鶴寿はそうじゃないから。わたしが責任を持って再就職先を見つけるよ。店で姫蟻一人ってわけにいかないし」

「鶴寿」

 姫蟻が金子を見た。

「紅生姜さんと一緒に働きたくて入ったんだよね? 前のオーナーは自分の個性を認めてくれなかったけど、紅生姜さんが、自由につくったフラッシュをほめてくれたから、紅生姜さんについてくることにしたって言ってたよね」

 膝を抱えた金子はうなずいた。

「わたしは鶴寿と一緒に頑張りたい。もう仲間になったんだもん」

「姫蟻、無理強いはできないよ」

「ちょっと、考えさせてください」

 金子は言った。

「わたし、頭悪いから、ちゃんと考えないと、よくわからないから」

「どうするかは、わたしが仕事見つけてからでも、いつでもいいわけだから」

 紅生姜は、今後の返済計画についての予測を話し始めた。金子には、月給いくらの仕事に就けば何年で完済できるとかいう話をされても、上手くイメージできなかった。

「鶴寿、遠慮しないで食べて」

 一息ついた紅生姜が言ってくれた。紅生姜は、話しながらもちょこちょこと鍋をつついて器用に食べている。

「ありがとうございます」

「あんまり好きじゃなかった?」

 鍋の用意をした姫蟻が、「なんか別のもの食べる? 焼きそばとか」と言ってくれたが、金子は首を振った。

「ううん、おいしいです」

 それは金子にとっては嘘ではなかった。父の家を出てから、金子は一度も、それまで毎日当たり前に感じていたおいしさを味わったことがない。それからの金子にとって「おいしい」とは、「食べられる程度の味」という意味になった。この鍋がだめなわけではない。父の料理以外は、どれも同じだ。

「鶴寿瘦せすぎなんだから、もっと食べないと」

 姫蟻が勧めてくるが、それを遮るように吉持が立ち上がり、鍋から餃子やネギを自分の小皿に掬い取る。

「食いたくないやつは食わなくていい。俺が食べるから」

「吉持さんいつも腹減ってるなあ」

「俺を呼んだのが間違いだよ」

「どんどん食べて。足りなかったら具追加するし。吉持さんにも本当に迷惑をかけちゃってごめんね」

 紅生姜が申し訳なさそうに言うが、彼は気にするなというように、「全然」と手を振る。

 彼は、店の用心棒として紅生姜が雇った人らしい。ごく薄給でその役目を快諾してくれたとかで、紅生姜は彼に感謝していた。金子は、姫蟻の自称ボディガードのことを思い出したが、あの人物のことは話に出ることもなかった。

 紅生姜によると、吉持はその頼りなさそうな体格に反して、凄腕の近代武術の使い手らしい。

 金子には、彼がどんな人間であろうとどうでもよかったのだが、その表情に乏しい顔には不気味さを感じていた。

 それから、紅生姜と姫蟻は、暗い空気を飛ばそうとするように、共通の好きなバンドの話で盛り上がってしまい、話の終わりが見えなかった。金子は、話と食事が終われば片づけを手伝ってから帰るつもりだったのだが、片づけを始めるタイミングをつかむことすら難しかった。

「そろそろ俺、帰るわ」

 数秒前まではほとんど寝ているように見えた吉持が立ち上がった。

「あ、そう。じゃあね」

「バイバイ」

 姫蟻に手を振られた吉持は、ぺこんとうなずいて玄関へ向かおうとした。

「鶴寿もそろそろ帰ったら。もう遅いから」

 吉持が助け舟を出してくれたことを金子は理解したが、おろおろと金子は彼の顔を見ることもしなかった。

「でも、わたし片づけを」

「いいよ。わたしはこのまま泊るから、やっとく」

 と姫蟻。

「鶴寿、うちに入ってくれたばっかりなのにこんなことになって、本当にごめんね」

 紅生姜は、きまり悪そうに早口で言った。

「前の店長が見つかると思ったんだけど、見つからなくて。鶴寿のデザイン、売れると思って純粋に誘ったんだけど、結果的に迷惑になっちゃったね」

「いえ、いいんです」

 職人としての彫師を求めた前のオーナーは、自分のデザインを受け入れないということはわかっていた。金子は、安定よりも、自分を受け入れてくれる新しいオーナーを選んだのだ。

 近頃、父の声は聞こえなくなっていた。その代わり、自分の声が聞こえるような感覚で、自分と対話することが多くなった。

 わたしは特別なの。特別な自分でいることを選んだの。

 すでに吉持は外へ出ていた。彼がどこに住んでいるのかは知らない。

 金子が住んでいるのは、紅生姜のアパートから徒歩で五分ほどのところにある、紅生姜の部屋よりさらに狭いワンルームマンションだ。これから家賃を払っていけるだろうか。家賃を払っていくためには、このままここに残るべきか、別の職場を探すべきなのか――

 紅生姜のアパートの外階段を降りて向きを変えると、寒々とした光を降らす街灯の下に、吉持がこちらに横顔を向けて立っていることに気づいた。

 怪しんで立ち止まってしまった金子に、吉持は近づいてきた。

 大丈夫。ここで大声で叫べば、すぐ近くの部屋に住む人には確実に聞こえる。その部屋の人が熟睡していたとしても、その隣の部屋にはまだ照明がついている。いや、吉持がなんだかよくわからない武術の使い手だとすれば、一瞬にして気絶させられてしまうこともあるかもしれない。まだ距離があるうちに逃げるべきだろうか。しかし、もしなんでもなかった場合、致命的に変な人認定されてしまう。それでもいいではないか。逃げたほうがいいかも。でももう距離が――

 そんなことを考えているうち、目の前に立った吉持は言った。

「残るの?」

「え?」

 とりあえず、襲われなかったことに安堵した。彼が自分に性的魅力を感じるとは思えないが、人は見た目では判断できないし、思いもかけない理由で危害を加えられる可能性もゼロではない。

「紅生姜のところに残るかどうか。まだ全然わからない感じ?」

「あ、はい。でも、紅生姜さんは、わたしを誘ってくれたわけですし……」

 紅生姜は、金子が思うままにつくったデザインがいいと言ってくれた。

「でもいずれ、キガクレは取り締まりの対象になる」

 吉持は、いつもの無表情ではっきりと言った。

「あと何年かは大丈夫かもしれないけど、いずれ、無免許の彫師は摘発されることになるよ。彫師ライセンス制度は、かなりの予算をかけて国が推し進めてるから、骨抜きの制度になることはないと思っていいと思う。それをわかったうえで、紅生姜と姫蟻はライセンスを取らないって覚悟決めてるっていうのは知ってるよね?」

 彼の聞き取りやすい平坦な声は、すっと脳に浸透してくるようだった。しかし、なぜいきなりそんなことを。

 金子は戸惑いに瞬きながら、小さくうなずいた。

「講習を受けることが難しいからライセンスを取れないでいる鶴寿と、あの二人は、全然違うと思うんだ。どう思う?」

 吉持は、金子の答えを待った。

「……なにが言いたいんですか?」

「別の店を紹介できると思う」

 吉持は言った。

「別のタトゥースタジオ。まだ紅生姜と姫蟻には言わないでほしいんだけど。鶴寿は口堅そうだから、大丈夫だよな」

「別の店って……」

「詳しいことはまたあとで話す。明日時間ある?」

 曖昧に肯定すると、吉持は小さなメモを渡してきた。書かれているのは、有名カフェチェーン店の場所だった。

「興味あったら、午後三時にそこに来て」

「待ってください。急にそんなこと言われても」

 どうして吉持がそんなことをしてくれるのか、わけがわからない。自分がどうしたいのかもわからないのに。

「とりあえず、詳しい話は明日」

 吉持は有無を言わさず手を挙げ、早足で闇に消えた。

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