理解できない

 帝倉発案のプロジェクトは順調に進んでいるとの噂を聞いた。よかった、と思う反面、取り残された感も強かった。

 わたしはなにをやっているのだろう。別に、自分からどんどんアイディアを出して、リードしていくような仕事がしたいと思ってやってきたわけではない。安定した仕事、なんとなく尊敬されそうな仕事を望んだだけ。

 望みは叶っている。毎日忙しい。データ整理をしないと、弓野が外されたプロジェクトのメンバーは、今後の見通しを立てることができない。

 理解してはいるのに、なぜ帝倉なんかに嫉妬している自分がいるのか。馬鹿じゃないの、と自分にあきれる。

 今までなかった自分の心の動きに弓野は戸惑っていた。これも年齢のせいだろうか。昔は、いい学校に入れば満たされると思っていた。いい仕事に就けば人生が充実すると思っていた。でも結局、今もなんだかんだくすぶっている。大人になれば、すべてに余裕が出てくると思っていたのに、そうならないことに焦って、子供のような感情を持て余している。

 褒められたい、認められたい。なにかの歯車ではなく、自分の結果を残したい。

 そんな思いが恥ずかしく、押し込めようとしてしばらく経ったが、弓野の心理状態に変化は見られなかった。

 弓野は諦めた。無欲を目指すのは無理そう。だったら、些細なことでも、無駄に終わるとしても、なにか行動してみよう。


 弓野は一人、スマートフォンで地図を見ながら慣れない場所へ向かった。鞄には資料が入っている。

 少し前まで、こんなことになるとは思いもしなかった。吉持と話したこと、講習会場で見かけた彫師のことを思い出し、なにか行動してみようと思った。配慮が必要な彫師に対して、個別講習を実施することはできないかと上に進言したところ、割増料金で実施することが可能かもしれないという返答をもらうことができた。しかし、彫師側からの要望がない以上、現時点で具体的な準備をすることはできない、と。

 勇気を出して再び吉持に電話をかけたところ、例の彫師が働いているという、紅生姜の新しい店へ案内してくれることになった。やっと吉持も心を開いてきたような気がする。

 勤務時間外の休日、弓野はスーツを着て資料を持ち、吉持に聞いた町にやってきた。

 目印らしきコンビニの前に到着した。吉持が言うには、場所がわかりにくいため、コンビニの前で待ち合わせをして、そこから吉持が案内するのが最適だと思うとのこと。広い駐車場の向こうには国道が通り、錆の浮き出た倉庫や古い民家などが立ち並んでいる。

 時間になっても、彼は現れなかった。到着した旨のメッセージを送ってみるが、反応はない。

 十分ほど経過した頃には、すっぽかされたのではないかと思えてきた。吉持は、嫌がらせで約束を破る人だとは思えない。先方との意思疎通に問題があったとか、なにかがあって今日の予定のことなど忘れたか、そんなところか。

 休日に交通費を使ってわざわざこんななにもないところに出てきて、すごすごと帰るのも癪に障るので、自力でそれらしきところを探してみることにした。

 完全予約制だとか言っていたから、看板などは出ていないのかもしれない。看板でなくても、におわせるような旗かなにかが出ていないだろうか。そのようなものは一切出さず、民家の一室などでやっているとしたらお手上げだが、もしかすると、マシンの音だとかで気づくこともあるかもしれない。なにしろあの音はとても癇に障る。音の大きさはたいしたことはなくても、蚊の羽音のように耳に飛び込んでくる感じ。

 歩き回ってみたが、見つからない。人影もほとんどなく、犬の声ひとつ聞こえない。針やインクなどのゴミが捨てられてはいないかとゴミ捨て場をそれとなく探そうかと思ったが、ゴミ自体が見当たらなかった。

 そりゃそうだよな、と、足は自然に広い通りへ向いた。簡単に見つかるはずもない。細い路地を歩き回っていると、不審者になったような気がしてきた。

 潮のにおいがすることに気づいた。歩道橋の上に出ると、海が見えた。まずないだろうと思いつつも、海沿いにポツンと店があるという可能性も思いつき、弓野はだめもとで海へ向かった。

 海沿いに出ると、急に雲が厚くなった気がした。灰色の海を見ると、不穏な気分になる。

 コンクリートの堤防の下に申し訳程度の砂浜はあるものの、海水浴地になるような場所ではないし、人影がないのもうなずける。向こうに一人だけ見えるのは、釣り人だろうか。堤防の下をのぞき込んでいるようだが、あの辺りには浜がなくなっているのかもしれない。

 その華奢で小柄な影に目を引かれ、弓野は近づいた。まさかと思ったが、その不確定だった形は吉持になった。

「おおい、なにしてるの?」

 驚いて声をかける。振り向いた彼の顔は、なんだか疲れているように見えた。

「あ、富月」

「今日、案内してくれる約束だったじゃん。どうしちゃったの?」

「悪い悪い。ちょっとトラブって」

「やっぱり断られた?」

「なにが?」

「やっぱりライセンスはいりませんってことになったとか?」

「いや、そうじゃないんだけど。借金取りと交渉してただけ」

「尊、借金あるの?」

「違う。紅生姜に取り立てに来たやつ」

「交渉って、紅生姜さんに雇われてるの?」

「そう」

「借金返せばいいのに」

「そう簡単にいかないんだよ」

 吉持は苛ついている様子もない。ただ平坦な口調。両手をジャンパーの裾にこすりつけながら言う。

「ごめん、今から行こうか」

「あの……それ」

 弓野は、アスファルトの上に点々とついた赤い色を指差す。

「なに? 血?」

「ああ、大丈夫だよ。俺の血じゃないから」

「血なの?」

「しばらくすれば乾くだろ」

「また暴力沙汰? 暴力なの?」

 ショックにより、弓野の思考力は急激に低下した。

「刃物出してきたのあっちだし、かすっただけだからほんと大丈夫だって」

「いやあの、ふざけないでよ。一歩間違えたらさつ、さつ……」

「だから大丈夫だって」

「大丈夫じゃないよ」

「落ち着けよ」

「落ち着きすぎでしょ」

 吉持は、血痕をスニーカーの底でこすって散らし始めた。

「やっぱり、俺も富月に偉そうなこと言えなかったわ」

「はい?」

「従ってたほうが楽だったんだな。そしたら、異常が普通になった。すぐに。向いてたってのもあるかもしんないけど」

「なに?」

「師匠のこと。支配されたがってたんだよ、俺のほうが」

 弓野は目をしばたたき、言葉を絞り出した。

「もう大丈夫だって、言ってたよね」

「だめかも。一生俺、このままかもな」

 吉持は歩きだし、弓野は慌ててついて行った。

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