命の恩人
「それで、これからどうするんですか?」
金子の頭上から、その声は降ってきた。
頭上と言っても、三十センチほど上の正面だ。顔を上げると、その人物は、フライドポテトを何本か一度に口に入れているところだった。その人物があまりに巨大なので、二人とも椅子に座っているのに、金子が見下ろされている。
「どう……しますかね」
金子は、名前も知らなければ性別も不明なその人物から、強制的に買い与えられたフライドポテトに再び目を落とした。一応奢ってくれたものに手をつけないのは失礼かと思うが、口に入れるためには、マスクをずらさなければいけない。騒がしいファストフード店で、誰も自分のことなど見ていないだろうけれど、やはり気になる。
金子には、どうしてもその人物が男性なのか女性なのかを判断することができなかった。巨体とツーブロックにした黒髪と黒いスエットは男性的だが、柔らかな口調と高めの声と、卵じみた肌は女性的に思える。
金子をストーカーと決めつけ、タックルしそうな勢いで近づいてきた思い込みの激しさといい、お詫びと言い張ってファストフード店に連れ込む強引さといい、好感が持てるとは言い難い。それなのに、促されるままに正直に話してしまったのはなぜだろう。
「試験に合格しないどころか、受験することもできないんでしょう?」
「はい……」
せっかくオーナーに認められ、彫師のライセンス取得会場に連れて行ってもらったのに、入場することすらできなかったこと。身の上を尋ねられた流れで、金子は最近の落ち込んだ出来事を話してしまっていた。
あの程度の人数の会場に入ることすらできなかったなんて、金子自身も想定外だった。オーナーに文字通り背中を押されても、体が硬直してしまい、どうしようもなかった。
「じゃあ、ライセンスなしでやっていくってことですよね」
「いえ、そんなこと」
許されない。ライセンス制度は、法律で決められた国の制度なのだ。
どうにかしてライセンスは取らなくては。オーナーは、受講人数が減った頃を見計らってまた受けに行こうと言ってくれた。
しかし不安だ。また体が動かなくなってしまったらどうしよう。室内に入ることができたとしても、不安定な精神状態で、いつも通りの動きができるかどうか。
金子の人ごみ恐怖症は、その時の精神状態に大きく左右されるものだと、金子自身は気づいていた。緊張が重なると、いつもは問題ない込み具合でも、だめになってしまうのだ。
だとすれば、やはり、絶対に合格できると確信し、緊張しなくなるまで、技術を磨くしかない。
「でも、そうするしかないってことじゃないですか」
彼もしくは彼女は、軽い口調で言う。
「姫蟻ちゃんもそうするって言ってました」
「……やっぱりあの人、姫蟻さんだったんですね」
「だから、そうだって言ってるじゃないですか」
その人は笑い、三個目のバーガーを手に取る。
「でもあなた、姫蟻ちゃんを追いかけてどうするつもりだったんですか?」
「いえ、別に」
人込み恐怖症のため、電車に乗れないので、金子はいつも徒歩移動である。ただ、寮に戻る道の途中には割と大きな駅があり、人通りも多かった。そこはいつも、人にぶつからないことだけに集中しながら足早に通り過ぎるようにしている。
いつも通り、駅前大通を歩いていると、ゴスロリ姿のほっそりとした姿に目が留まった。
都会にゴスロリは珍しくない。しかし、なんとなく視線が吸い寄せられ、SNSで見た写真の記憶とつながった。シャープな離れ目を強調する独特なメイク、日本人形のように整った顔立ちは、見つめても記憶に残らない量産型女子とは一線を画す。
新人彫師の姫蟻ではないか。デビューした直後に、師匠とともに失踪したとネット刺青界で話題になっていた。金子にとっては、そのトピックよりも、SNSに掲載された、姫蟻の師匠である紅生姜という女性彫師の作品が印象に残っていた。
様々なジャンルをオールラウンドにこなせるらしく、全体的に技術が高い。特に陰影のつけ方が、なかなかほかの人には見られない繊細さを感じさせた。絵心もさることながら、体のラインを考慮したベストな位置と大きさを捉えることに長けていると思える。姫蟻と違って顔出しはしていなかったと思うが、作品の画像を参考のためにいくつか保存したくらいだ。
金子は思わず、姫蟻らしき女性を追いかけていた。自分でも、なぜそんなことをしてしまったのかわからない。自然と体が動いていた。
人通りが減った道に入った時、「おい!」と野太い声が襲ってきて、上下黒の服をまとった巨体が迫ってきた。「ストーカーだな?」と。
気がついた時には、ゴスロリの姿は消えていた。顔を見せろと言われたので、やけくそで見せてやった。
自称姫蟻のボディガードの彼もしくは彼女が、金子のことを噂に聞いて知っていたからよかったものの、そうでなければ、道に転がらせられるような勢いだった。
「やっぱり、ガチにストーカーとか?」
「違います。あ、あなたこそ、本当にボディガードなんですか?」
ボディガードが途中で任務を放り出していいものなのだろうか。
「自主的だけどね」
「それは……」
そっちこそストーカーではないのか。
「あたしは姫蟻ちゃんのファンですからね。できるだけたくさんのタトゥーを入れてもらいたいから、頑張って皮膚面積を増やしてるところなんです。入れてから太ったら、肌と一緒に作品が伸びちゃうでしょ? だから目一杯太っておかないと。でも定期的にお店には通ってるけどね。まだ入れないけど」
これもね、食べたくて食べてるわけじゃなんです、すべては姫蟻ちゃんのタトゥーのため、と、吸い込むようにハンバーガーを平らげた。
「お店って……どこなんですか?」
姫蟻は紅生姜と失踪し、店も消滅したのではなかったか。
「やば。言っちゃいけなかったかも」
そう言ってから、バーガーを詰まらせたようなそぶりを見せたが、もうすべて飲み込んでいるのはお見通した。
冷たい目で見ていると、なにも言わないのに相手は態度を軟化させた。
「……ま、いっか。あなたは幼い頃からつらい目に遭われてきたようですし。そのようなかたには親切にしないと」
お父さんのこと、知ってるってよ。頭の中に響いたのは、自分の声か、父の声か判断がつかなかった。
「本当は、お店の名前もアーティスト名も変えるつもりだったらしいけど、どうしても愛着があって変えたくないってことになって、名前は変えずに形態を変えることにしたらしいです。知り合いの彫師さんの店の傘下に入って、完全紹介制にしたって。収入は減ったけど、今のところ借金取りに追われる心配はなくなったって言ってた。でも、まだ完全に安心はできないみたい」
「そうだったんですか」
「このこと、ネットに書いたりしないでくださいよ。そんなことしたら、あたしもあなたのこと、あることないこと書きますからね」
「そんなことしません」
「……ポテト、食べないんだったらあたしが食べますよ」
「どうぞ」
自分のことを話してしまったのはきっと、この人が話しやすい雰囲気を持っているからだ。一般的な話しやすさの基準とは違うだろうが。
オーナーは一般的な話しやすい人だ。しっかりしているし、気を遣ってくれる。しかし、話す時はいつも緊張した。オーナーの前では、ちゃんとした自分でいなければいけないと思うからだ。
ちゃんとしていない人には、素直になれる。コミュニケーションが取れる範囲には入っていて、常識からは外れている、絶妙なラインに収まる人。そんな人と、こうやってごくまれに出会うことがある。
「わたしのこと、どういうふうに知ってるんですか」
金子は尋ねた。
「どういうふう?」
口の中でポテトが躍るのが見える。
「わたしのこと、ネットで見て知ってるんですよね」
「はい。上正路さん、顔出ししてないけど、顔面刺青の若い見習い女性彫師がいるって噂を知って」
名字で呼ばれたのは久しぶりだった。
「あたし、姫蟻ちゃん一筋ですけど、一応ほかのタトゥー情報も追ってるから。一応ね。完全に姫蟻ちゃんしか眼中にないんだけど、知識ないと恥ずかしいじゃないですか。マジで姫蟻ちゃん以外には彫ってもらう予定はないんだけど」
「それはわかりました」
「それでね、ちょっと思い出したんです。子供の頃、お母さんと一緒に、裁判所に行ったこと」
話が飛んで、金子は混乱した。
「中一くらいの時だったかな。お母さんが、裁判で証言するからって言って、ついて行って傍聴したんです。傍聴希望の人たちがものすごくたくさんいたけど、運よく入ることができて。思い出したのは、お母さんが必死に証言してる姿。それと、その犯人が、小学生の女の子に刺青を入れたっていう事件だったってことだけでした。検索してみたら、さらにいろいろ思い出したけど。それで、ピカリンさんっていう彫師さんが、上正路先生の娘さんだってことに気づいたんです」
金子の混乱は続いた。
「えっと、どういうことですか?」
「あたし、上正路先生に手術してもらったんです。小学生の時、心臓の病気が悪化して。その時は隠されてて、なんか軽い手術だと思ってたんですけど、あとになってから、死ぬところだったってことを親に言われました。お母さんは、上正路先生にすごく感謝してて、先生が逮捕された時も信じられないって言ってて、それで、弁護側の証人として裁判に出ることになったみたいです」
頭の中の父は黙ったままだ。自分の中の父と、「上正路先生」という言葉がイコールだということは理解していても、感情面でうまく繋がらない。
「結局、先生はすべての罪を認めて有罪になって、お母さんもなにも言わなくなったけど、あたしもすごく複雑な気持ちになりました。上正路先生がひどいことをしたのは事実みたいだけど、あたしを助けてくれたことも事実だし」
ずずずっとコーラを吸い込んでから続ける。
「あなたのことも、ずっと気になってました。ほんと、元気でよかったです」
「……すみません、どこまで知ってるんですか?」
「どこまでって?」
「本当に知ってるんですか? 父がなにをしたか」
研修の時間以外で、一人の人にこんなにいくつも質問をするのは、何年ぶりだろう。
「知ってます」
その人は、金子の目を見てうなずいた。
「傍聴したし、調べたから」
「じゃあ、言ってみてください」
なにを言っているのだろう、わたしは。
「それは……」
「やっぱり知らないんですね」
「知ってるって。なんで言う必要があるの?」
「どうしてわたしの目を見てうなずけるんですか?」
「は?」
「なに考えてるんですか? 父のこと、知ってるんですよね? わたしのことも」
「どういう意味?」
「どうしてわたしの顔を見て平気な顔をしていられるんですか? 目を見て、『知ってる』ってうなずくんですか?」
「なんか怒ってます?」
「わたしの父は、わたしが三歳の頃からわたしにタトゥーを入れ始めました。顔は六歳の時」
金子も、のちに調べた裁判記録を思い出していた。
「膣に指を入れたのが五歳、性交したのが九歳。流産したのが十二歳。誰も知らないらしいけど、妊娠したのは一回じゃない。わたしの赤ちゃんを殺した」
「え?」
目を丸くされたが、金子はなにも感じなかった。
「すべての罪を認めたわけじゃないです。生まれてから殺したんです。殺人です。一番大きな罪は隠したんです」
「嘘でしょ」
「嘘じゃないです。名前もつけてました。飛鳥です。わたしがつけたんです」
「なんで黙ってたんですか?」
「なんでって……家から出たことなかったんですよ。父以外の人と、話したことも、会ったこともなかったんです。話せるわけないです」
まりあ。例外はあったが、助けてはくれなかった。いや、差し伸べられた手を自分が振りほどいたのだ。
軽く息を切らせる金子に、しっかりとした声が浴びせられる。
「もしそれが本当だとしても、上正路先生があたしを助けてくれたことに変わりはありません。多分、たくさんの人の命を救ってると思う」
金子は信じられなかった。そんなことを平気で言うこの人の神経が。
「知ってますよ」
自分の声が遠く感じた。
「それも、とっくに教えてもらってますから」
「それなら、少しは楽になるんじゃない? 自分を傷つけた人でも、根っからの鬼じゃないってことで、まだマシに思えるんじゃない?」
根っからの鬼? なに、それ。
父は人間です。当たり前。賢く、計算高く、用意周到な人間です。
「……なんか言ったら?」
金子は意識的に呼びかけた。
「え?」
「黙ってないで、なんか言ったら? お父さんのファンがいるよ。なんか言ってあげてよ。わたしが代わりに言うから。ねえ。いつもみたいにおしゃべりして。なんか言ってよ」
「どうしたの」
相手の顔に肉まんのようにしわが寄るのが少し愉快。
「お父さん。お父さん」
「上正路さん、大丈夫ですか?」
金子は、父を呼び続けた。
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