停滞

 自分が移動させられるとしたら、理不尽な上の対応に毅然と抗議したから、とか、そういうかっこいい理由なら、まだよかったかもしれない。いや、かっこよくないし、納得もできないかもしれないが、人生の中の心を折られる出来事ランキング上位にはランクインしないだろう。

 これだって、別にランクインはしないのだが。

 タトゥーを入れたために外された人の話を聞いてから数か月後。弓野はやっとのことで、ライセンス構成プロジェクトのメンバー入りを果たすことができたところだった。ライセンスの運用状況などのデータをもとに、数年後の刺青業界の展望を見据えながら、ライセンス制度のブラッシュアップを図るプロジェクトだ。

 運用がだいぶ進んでいる今頃、プロジェクトの構成員を増やしているのは遅いようにも思えたが、数年に及ぶ予定になっている仕事だ。単純作業に等しい仕事を続けるよりは、やりがいと、そしてなにより給与にプラスに反映されるのではないかと思い、張り切っていたところだったのに。別に多くを望んでいるわけではない。おいしいごはん、気になっている最新の家電、おいしいお取り寄せスイーツ、老後の不安解消――

 ちょっと弓野さん、と上司に声をかけられた。空いている会議室に連れられて見せられたタブレットに表示されていたのは、見ず知らずの老人の写真だった。居酒屋らしき空間で、カメラ目線でグラスを掲げて見せる、赤ら顔の白髪男性。

「知ってる人?」

 上司の眼鏡の奥の目は、どこか面倒そうに弓野を見る。

「いえ。まったくひとつも記憶にございませんが」

 こういう言い方をするとかえって嘘くさいかと思ったが、これ以上ないほど正直な言葉だ。

赤口清一あかぐちせいいち。暴行容疑で逮捕された人だそうだ。昨日だったかな。警察官に、厚労省の職員と知り合いなんだと言って、この電話番号を突きつけたらしい。これ、弓野さんの電話番号でしょう?」

 上司はスワイプして、別の画像を見せる。スマホの画面を撮影した写真。そのスマホに表示されているのは、確かに弓野の電話番号と名前だった。

「え、いや、本当にそんな人知りませんよ。名前にもまったく覚えがないですし」

「まあ、そうだと思ったけど。どうやら、別のスマホから丸々データを転送してたらしくてね。そういうアプリをインストールしてたらしい」

「いやあの、それならわたし個人に警察から連絡が来るのが普通じゃないですか?」

「厚労省ってことで、警察も問い合わせないわけにはいかなかったんじゃないか?」

「よくわかりませんけど。どういうことなんですか?」

「なんか心当たりないの? 個人情報が流出するようななにか」

「そういうのには気をつけてるつもりですけどね」

 その発言の一秒後、頭に浮かんだのは、吉持のことだった。

「えっと、あの、その赤口とかいう人は、どういう人なんですか?」

「確か、なんだか難しい名前の新手の武術の講師だとかで。その人に怪我させられたってことで、被害者が通報したらしい」

「武術家、ですか」

 写真からすると、どこにでもいそうなおじいさんにしか見えないが。

「なんか思い出した?」

「いえ」

「じゃあまあ、気をつけてってことで。それでもうひとつ話があるんだけど、弓野さんには、ライセンスプロジェクトから外れてもらうことになったから」

 上司はさらっと言う。

「はあ!?」

「前みたいに、データ集計業務をよろしく」

「この件のせいですか? わたしはなにも関係ありません!」

「だってまずいでしょ。刺青業界を完全にクリーンにしようと頑張る部署の中枢なのに、犯罪者とかかわりがあるかもしれない職員が入ってたら」

「だから、かかわりありませんて」

 そう言いつつ、脳裏には吉持の嘘くさい笑みが浮かんでしまう。

「まあ、自分のできる範囲の仕事を頑張って。詳細はあとでメールする」

 逃げるように去る上司に、弓野はそれ以上追いすがることはできなかった。そんな気力もわいてこないし。

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