怪文書届く
『地球環境と人心と人身と日本文化を破壊することに日々勤しんででおられる貴殿らは、日本が崩壊した折には、外来種の中で生き残ることができるとお思いなのでしょうか』
「人身」が一瞬、「文身」に見えた。すっかり刺青勉強マシーンとなってしまった自分を発見し、複雑な気持ちになる。
「先輩。弓野先輩」
肩を叩かれ、やっと振り向いた。帝倉があきれたように弓野を見下ろしている。
「ぼーっとして、どうしたんですか?」
「ぼーっとしてないよ」
集中していたのだ。不覚にも。
「あ、例の怪文書ですね」
帝倉がPCのディスプレイをのぞき込む。
「怪文書じゃなくて、国民からのご意見メール」
「でも文体が怪文書っぽくないですか? もっと普通に書けばいいのに」
帝倉の口調は軽い。
「まあ、内容はまともでも、この文章だとまともに取り合う気にならないよね」
そう言いつつ、弓野はこの文章を何度も読んでしまっていた。
自分の無知への無自覚さが現れ、低能な印象になっている文体を書くような人物に共感したくはないが、内容にはうなずける部分もある。反発と納得がないまぜになり、結果、無視できない。
「というか、これを添付して一斉メールしてくるって、上からの嫌がらせですかね?」
「書いてあったでしょ。こういうふうに反発を覚えている人もいるから、自分の仕事内容を明かすことには注意するようにって。そんなの初めからわかってるけど」
「あー、そんな注意書きがついてたんですか」
「仕事のメールなんだからちゃんと読みなさいよ」
「怪文書を読むのがきつくて、途中でやめちゃったんですよ」
「え、なんで。読むのがきつい?」
「自分の意見を押しつけてるだけじゃないですか。刺青が嫌いなのは別にいいですけど、資源の無駄だとか人体の破壊だとか、あまりに言いすぎっていうか」
「そうかな」
『刺青施術には大量のゴミが発生することを貴殿らはご存知ではないのでしょうか? 器具を覆うビニールや下絵に使う紙や人の肌をぬぐうペーパータオルや使い捨ての針など、まったく意味のない行為のためにゴミが積み上がり、彼らはそのことを当たり前として全く意にも介さず、環境破壊のために苦しむ動植物や将来の子供たちのことは想像しようともしないのです。意味のないどころではない。刺青というものは、本人の健康を害するだけでなく、周囲の人々を威圧し怯えさせ、心の健康を奪うものです。日本社会が刺青を受け入れないのは、人々の心身を守るためであり、我が国の民の優越した精神による防御反応であるのに、国民を守るべきであるはずの国は、あろうことか外来害悪を歓迎しもてなし、日本人の高尚な精神を汚そうとしている』
意外に刺青施術に詳しい謎の人物が記した、「優越した精神」だの「外来害悪」だのは、弓野は一顧だにしないワードであったが、ゴミに関しては、弓野も意識下で薄々感じていたことではあった。
人間の営みのなにが無駄で、なにが無駄ではないのかは、議論が必要かもしれないが。
同じゴミでも、昔、ゴッホが描き損じた紙と、どこかの名もなき見習い彫師が描き損じた紙では、価値が違うのか。赤ちゃんの使用済みおむつと、老人の使用済みおむつの違いは? 同じ使用済みコンドームでも、使ったのが同性カップルか子持ち夫婦かで、環境に対して許される度合いが違ってくるのだろうか?
なにを考えてるんだ、わたしは。弓野は心の中でため息をついた。
許しとか価値とか、そんなもの、あるわけがないじゃないか。全部幻想。人間の妄想だ。
「で、なんの用?」
意味もなく肩を叩くほど、帝倉と自分は親しくない。
「あ、そうそう。聞きました?」
「なにを」
「タトゥーライセンス部門から外された人がいるそうですよ。タトゥーを入れたせいで」
「ふん?」
「ですから、タトゥーを入れたせいで外された人がいるんですってば。そんなことあるって、聞いてました?」
「いや、全然。てか、入省する時も配属される時も、タトゥーあるかどうかなんて訊かれてないよね」
「俺もです。でも俺、もうちょっとでやばかったってことですよ。あのイベントの時……」
マスクにフードの女彫師を前に帝倉が興奮してしまった日のことか。
「先輩にお礼を言わなきゃと思って。先輩がとめてくれてなきゃ、俺、入れちゃってたかもしれないんすから」
「帝倉、そんなにここに残りたいの?」
「いや、まあそれもありますけど、自分のせいで移動させられるって、なんか屈辱的じゃないですか」
この件を、「自分のせい」と表現していいものだろうか。タトゥーを入れたら移動させられるなんて、聞いていない。
帝倉は根っからの馬鹿ではないようだが、従順すぎるところがある。
「それ、本当にタトゥーを入れたせいなの?」
「そう聞きました。仕事の関係で懇意になった彫師のお客さんになったことがバレたって。無料で彫らせたとかではないらしいですけど、公私混同だってことで、この部門で働くにはふさわしくないと」
「ふーん」
弓野は刺青に興味がない。入れたいという人の気持ちは理解できない。が、この話には納得できなかった。
納得できなくても、飲み込むしかない。それが働くということだ。
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