タトゥー愛好家

 甘えていたわけでも、どうでもいいと思っていたわけでもない。金子は、金子なりに全力で、真剣だった。いつも真面目に取り組んでいた。それでも、どうしても、そうなってしまうのだ。

 見捨てられたとしても仕方がないと思った。しかし、オーナーは彼女を見捨てなかった。部屋を破損しても、肌を貸してくれることになっていたゲストを自分の都合で断っても、怒らずに理解しようとしてくれた。

「自分はダメだと思う必要はないよ。わがままでやってるんじゃないことはわかってるから。でも、すべての人がわかってくれるわけじゃないことはわかるよね。わかろうとしない人には、ピカリンがわからせるんだ。そのためには、技術を磨くこと。こういう芸術の世界では、腕を評価された者が勝ちだから。接客や社会的な行動ももちろん大切だけど、それがうまくいかないなら、できるところを伸ばせばいい。短所を悩むんじゃなくて、長所を大切にね」

 オーナーの言葉を聞くと、なぜか胸が苦しくなった。ありがたさと心苦しさと、これからの自分への期待と不安のせいだろうか。

 オーナーは自分を信じてくれている。期待に応えなければ。

 いろいろと迷惑をかけた施設の先生たちも、根気よく自分に向き合い、自立すると思って送り出してくれた。がっかりさせたくない。卒業した手前、ずっと連絡を取っていない今、覚えていてくれているかどうかわからないけれど。

 金子は、あの男から個人的な誘いを受けたのがどうしても生理的に受けつけず、もう会いたくないのだと説明した。包み隠さず、すべてを説明したほうがよいかとも思ったのだが、少しでも父に近づくことがためらわれた。父は頭の中にいて、ほとんど自分と同化しているとも言えたが、せめて誰にも知られないままでいてほしかった。

 父のことを話すことで、外に父を出してしまうと、父が実体化しそうな気がする。馬鹿げた感覚だとわかっていたが、ほかの人に父のことを話すのは、やはり越えたくないハードルだ。黙り続けて、父を自分の中に閉じ込めるのだ。

 オーナーは、金子の言葉を一から十まで信じているわけではないようだ。寮の部屋の鏡を壊した時、金子はひたすら謝ることしかできなかった。理由を尋ねても言葉を詰まらせる金子に、オーナーは諦めたようだ。

 ゲスト施術の件でも、金子との腹を割ったコミュニケーションははなから諦めているようにも見える。無理強いをしなかったのも、金子がすべてを話していないことを察したからかもしれない。金子はオーナーのそんな心の動きを察し、オーナーの対応に感謝した。

 なんとか上手くやって、オーナーに恩返しをしたい。金子は思い切って自分で協力者を募って練習に励んだ。研修生の仲間や先輩にも声をかけ、アドバイスを求めた。自分から人に声をかけることは、金子にとっては身を削るような勇気がいることだったが、刺青を仕事にするためなら、なんでもしようと思えた。

 今日は頑張ったね。

 疲れてベッドに倒れこんだ時、父の声が聞こえた。

 こんなに頑張れることが見つかったのは、お父さんのおかげだね。

 心の中でも、金子は父に言い返せなかった。

 そんな中、出会った彼の顔を一目見た時、金子は素直に、自分の同類だと思った。表面的な意味で、一目瞭然だったから。ただ、感動も親近感もなかった。ただ目に見えるものを認識し、ほんの少し戸惑った。

 彼のほうは、明らかに金子を見ていなかった。金子の顔を見つめてはいたし、その視線は無遠慮かつ真剣だったが、上正路金子という人間ではなく、その顔の皮膚を見つめているのだということは金子にははっきりとわかった。

 少なからず皆同じように金子を見たが、普通は、その皮膚を通して、その皮膚をまとっている金子にも思いを馳せてくれるものだろう。その「思いの馳せ具合」は、金子を見る人の刺青への興味に反比例する。彼の場合、「思いの馳せ具合」はほぼゼロに近いように、金子には思えた。

 彫師でなくても、わたしをこんな目で見る人もいるんだ、と金子は思った。

 彼は、明らかに金子に入っている刺青を品定めしていたが、なにも言わなかった。腕に入っている刺青をカバーアップしてほしいということを手短に金子に伝えた。無駄口を叩かないが、冷たい感じはなく、穏やかな印象。

 彼の顔のほぼ全体に剥きだしているように見えるネイビーブルーの細いパイプから感じられる冷たさとは裏腹だ。切り裂かれた皮膚の下、縦に走る管には、血液ではなくオイルが流れていそうだ。もちろん、ちぎれてわずかに残った、血がにじんだ皮膚も、内部にのぞく機械も、そのように見えるように描かれているだけだ。

 オーナーや先輩からは、施術中はお客様が痛みから気をそらせるよう、緊張がほぐれるような雑談をするといいと指導されていた。

 しかし、お客様から、あまり話したくなさそうな雰囲気を感じたら、無理に話す必要はないとも言われていた。会話のきっかけとして、見える範囲の彼の刺青を褒めたところ、穏やかに礼を言われたが、それ以上は口を開かなかったので、金子は相手が会話を求めていないと判断し、黙って施術に集中した。

 あまり接客練習にならないが、会話が苦手な金子は内心安堵した。もしかすると、顔の刺青の見栄えを気にして、表情を動かさないようにしているのだろうか、と思ったが、考えすぎかもしれないし、尋ねるのは失礼だろう。

 彼は、金子が個人的に募集したフラッシュワークゲストだ。トラブル防止のため、オーナーにゲストの情報を共有したところ、知っている人だと言われた。刺青愛好家の中では有名人だという。骨董品店を経営しているらしい。心置きなく刺青を入れるために、経営者になったのだとか。会話をするとすれば、知り得た情報も持ち出そうかと思っていたが、その必要はなさそうだ。

 彼が選んだ、金子が制作したフラッシュは、自分のフラッシュの中でも一番気に入っているものだった。

 フラッシュのデザインは、一から自主的に製作する。誰も指示してはくれない。しかし、なんでも好き勝手に描けばいいというものではない。選んでもらわないと意味がないからだ。知名度のない見習いなら尚更、選んでもらうことを意識して製作しなさいと、オーナーにも言われた。

 自分を押しつけるんじゃなく、お客様のことを考えるんだ。自分を出すのは、一人前になってからいくらでもできる。オーナーの言葉だ。

 オーナーを含めた何人かに、単なる絵ではなく、タトゥーのデザインを描けるようにならなければとアドバイスを受けた時、面接の時にオーナーに言われたことを思い出した。「きみは絵もタトゥーも好きじゃない」。

 わたしが描いているのは、タトゥーのデザインに見えないのか。そもそも、わたしが描いているのは、絵ですらないのかもしれない。

 恐怖にも似た焦りだった。タトゥーのデザインは、ほかのデザイン、絵画、イラストなどとは一線を画す。なにがどう違うかを言語化することは困難だが、数多ある刺青のジャンル、それらのほぼすべてに共通して、刺青独特の味わいがある。理論を知らなくても、ジャズを聴けばそれがジャズだとわかるように、成分を知らなくても、醤油とみりんの違いがわかるように、刺青は絵とは違うと言える。

 つまり、優秀なイラストレーターが優秀なタトゥーデザイナーになれるとは限らない。その理解を彫師の先輩たちからの指摘によって突きつけられたあと、様々な刺青、タトゥーの画像を漁りに漁り、自分なりに体系化して模写した。どのようなデザインがどれくらい人気があるのかというデータを研修の際にもらっていたので、その数値をもとに、人気のあるジャンルのものを重点的に練習した。タトゥーらしいタトゥーを彫れるようになるために。

 ゲストになってくれた、顔面バイオメカタトゥーの彼が選んだのは、自分のフラッシュの中で一番、タトゥーらしいデザインだと金子が思ったものだった。ナイフに蛇が巻きついている、あえて古めかしいタッチにしたもの。

 施術は二時間ほどで終わった。

 彼の肌に入っていた、時が経ちすぎて線がつぶれ、元のデザインがなんだったかすらよくわからなくなっていた刺青は、すっかり隠れた。

 どの程度の年月、刺青が綺麗に保たれるかは、部位にもよるが、彫師の腕と本人のセルフケアにかかってくる。

 ゲストにおすすめの保湿ジェルの説明をするたびに、父の手の感触が肌の上によみがえる。肌をかきむしってしまったあと、静かに叱られ、グレープフルーツの香りがするクリームを丁寧に肌にすり込まれた。

 そのような保湿ケアや日焼けをさけるなどの配慮をしてくれることが前提であるが、自分が彫ったものは、その下に隠れたものよりは長持ちしてくれることを祈った。

 隠れた刺青より、自分が彫ったもののほうがクオリティが高い自信はあった。しかし、その周辺にある刺青、そして特にその顔に彫られたものに比べれば、デザイン、技術ともに、たった今誕生した最新の刺青は、悪い意味で浮いてしまっているのは明らかに思える。

 仕上がりをチェックした彼は礼を言った。そのわかりにくい表情を失礼にならない程度に注意深くうかがうに、彼はその金子が彫った刺青に、特に違和感を覚えているようには見えなかった。

 金子は思った。彼は、最上位レベルの刺青愛好家と言って差支えないであろう。そんな人が、どうして自分の練習台などになってくれたのだろう。もしかすると、わたしの過去を知ってのことかもしれない。

 不快に思ってもおかしくない気づきだった。金子は、自分の過去について話したくないし、相手が自分の過去を知っているということを意識するだけで、少し喉が詰まったような感覚がするのが常だ。

 しかし、その時は不快感がなかった。彼の見た目がそうさせたのだろう。

 どうしても尋ねたくなった。金子は、帰り支度をする彼の背中を見ながら、何度かこれから言おうとすることを頭の中で繰り返して確かめてから、言った。

「あの、どうしてわたしのゲストになってくれたんでしょうか」

 きちんと教育を受けていれば、もっと自分の気持ちと考えをスマートに言葉にできたかもしれないのに。いつも思うことがまた頭に浮かぶ。自分ができないことをひとのせいにしても仕方がないと、わかってはいるのだけれど。

 彼は振り向き、穏やかな声で答える。

「フラッシュが気に入ったので」

「フラッシュが……」

 それだけですか、とは言えない。

「あなたのことは噂に聞いて知っていました。正直、興味本位で会いたいと思ったっていうのもあります」

 正直に言ってくれたことに、金子は安堵した。大丈夫。興味本位でも、こうやってゲストとして適切に接してくれる人もいるのだ。

 そうですか、とだけ金子は言った。彼は少しためらいがちに言葉を重ねる。

「噂を聞いた時、あなたはタトゥーを憎んでいるんじゃないかと思いました。でも、あなたのSNSでフラッシュを見た瞬間、そうじゃないってことがわかりました。あなたは、タトゥーを真面目に勉強しているんだってことがわかったんです」

 そうだ。彼に彫ったフラッシュは、「タトゥーらしいタトゥー」を一番強く意識したもの。

「それでほっとしたんです。こんなに心が安らいだデザインはほかにないと思って、彫ってもらいたいと思いました。普段は、見習いの人にはお願いしないんですけど」

「ありがとうございます」

 金子は頭を下げた。

「僕はタトゥーに命を救われたので。嫌われるのは仕方ないですけど、自分が大好きなものを憎んでいる人がいるとしたら、悲しいですから」

 彼は言った。自分は、刺青を入れることによって、初めて自分に価値を感じられるようになった、と。

 言葉を詰まらせた金子を彼はそっとしておくように静かに挨拶をした。感動していると思われたのかもしれない。

 一人で後片づけをして部屋に戻り、一度割って新しくしてもらった鏡を見た。手を洗うが、どうしても鏡に目が行ってしまう。帰ってくるまでは、頭の中は空っぽだった。この落ち着ける一人の空間では、頭の中にじわじわと思考がよみがえる。

 同じ顔面刺青でも、彼に入っていたものと比べると、自分の顔はひどいものだ。

 この業界に足を踏み入れてわかったのは、父の腕前は、一般的なプロの彫師と比べても遜色ないと言っていいということ。

 その自分の刺青がいつになくひどく見えるほど、彼の顔面を担当した彫師は一流。しかし、刺青に興味がない、この世の中の大半の人からすれば、彼の刺青も自分の刺青も、同じようなものだろう。

 素晴らしいね。タトゥーに命を救われたんだって。

 いつものように、父の声が聞こえた。その途端、ぼろぼろと涙があふれだした。

 まただ。鏡を割らないようにしないと。

 金子の中の、やけに冷静な自分が、体を洗面所からベッドの上に運んだ。一方で、金子の中の感情的な自分が暴れだし、一気に沸点まで走り回った。自己が二つに分離する感覚。

 棒のように金子は倒れ、顔が布団の上に埋まり、呼吸が苦しくなる。しかし、腕や顔を動かして楽な姿勢を取ることができない。昔からたまにある。体がいうことを聞かず、自分を守る行動がとれないことが。無理だ。顔を数センチ動かすことさえも。

 同類なんていない。彼はタトゥーに救われた。自分はタトゥーに人生を壊された。

 そう、自分の人生は壊されたのだ。タトゥーを憎んでいない? 違う。憎むものがありすぎるだけ。あのフラッシュが「タトゥーらしかった」のは、一番自分を殺すことに成功したデザインだから。

 彼は自分と一番近い人。彼と自分は違いすぎる。

 金子は、ただ呼吸することに集中しようとした。

 吸って、吐いて、吸って、吐く。少しでも気を抜くと、息が止まりそうになる。呼吸とは、なんとエネルギーのいることなのだろう。耐える。耐えるのだ。口と鼻をふさごうとする布団と、脳の内側を破ろうとするように叩き回る、怒りに満ちあふれた自分に。

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