強すぎる
休日。掃除や洗濯などの家事とスーパーへの買い出しを終えると、なにもすることがなかった。
もう吉持のことは忘れようと思っていたが、友達から聞いた話が頭の中で再生され、勝手に想像であれこれ付け足されたストーリーが展開した。弱い弟を悪の道に引きずり込んだ悪い兄は更生したものの、弟は都会の闇でくすぶったままでいる――
暇に任せて、吉持尊の兄の会社の名前を検索してみた。イベント制作会社らしい。小規模ながら、定期的に興行を主催している。今夜も、詳細はよくわからないながら、「トークショー」が都内で予定されている。
思えば、帝倉とイベントに行った以来、遊興に出かけていない。帝倉とは顔を合わせる機会もあったが、ろくに会話をしていなかった。もうタトゥーの話はうんざりで、ほかに話すこともなかったからだ。
最後に出かけたのが不本意なイベントというのもなんだか癪に障るので、弓野は吉持尊の兄の会社が手がけるイベントに行ってみることにした。なぜか、調べても出演者すら不明だが、どうせ家にいても、テキトーな食事とテキトーな番組鑑賞をして寝るだけだ。最低につまらなかったとしても同じこと。
会場のある住所には、雑居ビルが建っていた。しかし、案内も看板もなにもない。その場に行けばわかるかと思っていたのに、どこにどう入ればいいのか、さっぱりわからなかった。確かにここのはずだが――
うろうろしながら、もう始まってしまうと焦っていると、裏口のようなところから人が出てくるのが見えた。黒ずくめの服装の小柄な男。吉持だった。
近づいて声をかけようとしたが、あとから出てきた男が荒っぽく吉持に声をかけたので、思わず足をとめ、陰から覗き見るような格好になってしまった。
「おい、帰るのか」
よさげな身なりをした中年の男は、今にも吉持を取って食いそうな口調で言った。
吉持は男をうるさそうに一瞥するだけで、そのまま出ようとしたが、男に肩をつかまれる。
「出るのが嫌なら警備をしろ」
「嫌だよ」
吉持も、敵意では男に負けないくらいの、相手を凍らせて両断しそうな声を出す。しかし、相手はひるまない。
「個人で警備の仕事してるんだろ。それなら俺のところにいればいい」
「ふざけるな」
吉持が少し体を動かすと、ぬるん、という感じで男の手が吉持の肩から離れた。男は、感心したように微笑んだが、口から出た言葉は攻撃的だった。
「お前みたいなクズは、人に使われるか見世物になるしかないんだよ」
「クズはお前だろうがよ」
「おお、そうか? 穴の開いたジャンパーを着たやせっぽっちが、高級スーツの社長を見下すとは、滑稽だな」
「飯奢るって言うから来ただけだ。喧嘩しに来たわけじゃない」
「なにもなしに飯を食わせると思ったか? 弟だからってただで恵んでやると? 甘えるな」
「甘えてない。ずるいだけだ」
その時、通りの向こうから、三人の若い男たちが近づいてきた。みな、練習場へ向かう格闘家のような雰囲気。
男は吉持と男たちを交互に見た。吉持は男たちをただ見た。二人とも、緊張した様子がないので、知り合いかもしれない。
「始めていいですか?」
先頭の男が、身なりのいい男に言う。
「馬鹿野郎。さっさと始めろ、脳筋クズ野郎が」
中年男の罵りを合図に、先頭の男が緩慢な動きで吉持に殴りかかった。吉持がよけると、今度は速い動きで再び殴りかかった。と思えば、男は路上に転がっていた。
なにが起こったのか、わからなかった。薄暗さのため、なにかの動きを見逃したのか? まるで映画のコマを飛ばされたかのような一瞬のこと。
三人の男が倒れた時には、吉持がやったのだということは理解できた。が、理解できたのはそこまで。
転がった男たちはたいしてダメージを受けていないらしく、起き上がって再び吉持に向かおうとする。なんだか不本意そうな雰囲気が感じ取れた。
逃げて、と叫びたかったが、緊張で喉の筋肉が固まってしまい、声が出ない。
しかし、それも束の間。吉持は一人の男の顔面を打ち伏せて倒すと、小さな体のどこから出ているのか不明な力で別の男を壁際へ突き飛ばし、その上からもう一人の腕を締め上げて押さえつけた。
「なんだよこいつら」
男を制圧しながら吉持は苛ついた声を出したが、中年男も苛ついているのは同じだった。
「早すぎるだろ!」
「は?」
「放せ」
中年男は吉持を引きはがすと、吉持に腕を押さえられていた男に平手打ちを食らわせた。
「弱い! 追加のギャラはなしだ!」
負けた三人は黙っている。顔を押さえてうめきながら起き上がろうとした男を、中年男は足蹴にした。
「早すぎてやらせに見えんだろが!」
近くで路上駐車していた車から男が下りてきた。中年男に声をかける。
「いいですよ、吉持さん。いい画が取れました」
スマホを持ったその男は、「弟さんすごいっすね。ジークンドーっすか? いや、なんか違いましたね。古武術ですか?」とか言ったが、吉持は目を合わせることもせず、足早に立ち去り、誰もあとを追おうとしなかった。
吉持は、弓野の横をまっすぐ前を向いて通り過ぎた。
「尊」
吉持は、声をかけた弓野のほうをちらりと見たが、そのまま歩き続ける。
「待ってよ。大丈夫?」
「離れろ。撮られるぞ」
「え? なに? 映画かなんかの撮影?」
「そんな感じ」
「え、嘘。カメラどこ?」
吉持は小走りに路地を駆けだした。弓野は一瞬だけ迷ったが、あとを追って走り出した。このまま別れたら、もやもやが残って一生後悔しそう、とは大げさだが、謎を謎のままにしておいた自分が少しだけ嫌いになりそうだから。
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