タイトルの意味

 アーティストであり職人であり、接客業であるのが彫師の仕事。オーナーの言葉だ。

 金子は、自分の太腿に施した練習彫りをオーナーに褒められた。同期たちの練習台になれない負い目から、自分の練習相手になってくれと頼むことが難しく、金子はシリコンスキンか自分の肌でいつも練習をしていた。同期たちはみんな金子の過去を知っていて、同情するよりも疎ましく思っているようなところもあった。純粋に刺青が好きで彫師を目指している自分たちとあの子は違うと。金子もそう思われていることを察して、あえて無理に近づこうとはしなかった。コミュニケーション能力が至らない上、自分がほかの研修生たちとは違うことは事実だと認めていたからだ。

 面接の時は本気で否定したが、やはり自分はほかの彫師や彫師見習いと比べると、刺青への情熱が足りないのかもしれない。寮に入って研修を受けたことで得た一番の気づきはそれだった。しかし、それでも諦めるわけにはいかない。

 練習として、自分で自分に、ホワイトとブラックアンドグレーで鯉を彫ることにした。すでに太ももに入っている刺青をカバーアップする。

 鏡を見ながら顔をカバーアップしようかとも思ったのだが、練習というよりは、自己満足しようとしているように見られるのではないかと思い、やめておいた。実際にそうだから。

 自分の顔に自分で刺青を彫る技術なんて、練習する必要はない。もしそんな無駄なことをしたとしても、責める人はいないだろうが、やっぱりあの子は、刺青を学びたいというよりは自分の外見を気にしているのだと、ほかの研修生に思われそうな気がした。金子にもプライドはある。

 自分は、ほかの研修生とは違う。だからこそ、一層努力しなければ。刺青への情熱を発揮しなければ。みじめさなんて、感じていないようにふるまいたい。

 自室で準備を整える。清潔な道具をそろえ、施術個所を剃毛、消毒。用意しておいた下絵を転写。いざ針を入れる。

 ビニール手袋越しに伝わるタトゥーマシンの細かな振動。皮膚に突き刺さる痛み。

 もちろん個人差はあるが、刺青を彫る際の痛みは部位によって異なる。太ももの外側は皮膚が厚いため比較的痛みにくく、金子にとっては、ほとんどストレスを感じずに彫れる箇所であった。

 痛みを頼りにして、針の深度を調節する。深すぎると出血してしまい、浅すぎると持ちの悪い刺青になってしまう。せっかく入れたものが、薄れてにじんで汚らしくなってしまうのでは、お客様に申し訳ない。彫師の腕は、長い年月を経ても綺麗に残る刺青を彫れるかどうかということも試される。

 自彫りの場合は、痛みが指標のひとつになるが、他彫りではそうはいかない。練習によって、最適な針の深度を習得するのだ。

 針を入れ、肌をぬぐう。これを繰り返し、描きたい線と色を入れていく。集中することで、世界がなくなったような感覚がする。父の声も聞こえない。しかし、記憶の世界は薄れず、ずうずうしくも羽を広げてしまう。

 父が刺青を彫る時は、表面麻酔薬を使った。あのクリームの冷たさを覚えている。それでも完全に痛みがなくなるわけではなく、金子は小さな声で、痛い痛いと言うこともあった。父は、施術中はなにを言っても無視した。

 作業が終わると、「はい終わり。頑張ったね」と言って、アフターケアをしてくれた。その時の皮膚感覚が、大人になった自分の肌の上でさえもぞわぞわと這う。痛みとほてり、冷たいクリーム、父の手、保護シールの安心感と違和感。

 記憶を振り払いつつ、何回か休憩をはさみ、トータル五時間ほどで、入っていたブラックアンドグレーの虎はすっかり隠れた。自彫りをするとなると、金子の場合はカバーアップの練習をするしかない。それは上手くいったと思った。

 定期個人面談の際、オーナーはショートパンツをはいてきた金子の太腿を一瞥すると、金子がなにも言わないうちに言った。

「いいじゃん、それ」

 金子は頭を下げて礼を言った。

「練習量が足りないにしては上手く彫れてるよ」

 オーナーも、金子とほかの研修生との間の溝は知っているようだった。

「でも、まだまだ場数を踏まないとな。接客に関してはかなり難があるし」

 話し方やカウンセリングの指導の際は、金子はいつも注意されてばかりだ。自信がなさそうで提案力がない。積極性に欠け、客の希望を聞き出すのも下手。

「協力してくれる人を俺が調達してくるから。カウンセリングからデザイン作成、施術まで一通り、俺の前でやってもらう」

「カウンセリングから、ですか」

 金子は不安になった。

「カスタムワークね、もちろん。ピカリンはがっつりしたデザインが得意でしょ」

 オーナーは金子の名前から、ピカリンというあだ名をつけた。研修生にあだ名を授けるのが彼の習慣なのだ。

「自分の持ち味を生かして、お客さんの希望をしっかり聞きつつ、デザイン作成してくれればいいから」

 金子は自然と、カバーアップに適した、塗りつぶしが多く力強いデザインを得意とするようになっていた。奇しくも、それは金子が好む画風とはかけ離れたものだった。

 後日、オーナーが連れてきたのは、素性の知れない若者だった。店のカウンセリングルームを借り、カウンセリングをする。

 若者は、かっこよければなんでもいい、と言った。隠さなくてもいいようなタトゥーを腕に彫りたいと。

 金子は戸惑ってしまったが、なんとかオーナーにアドバイスを受けながら希望を聞き出し、いくつかの提案をして、一週間後までにデザインを仕上げて施術をすることにした。

「もっと自信を持って提案していいんだよ」

 若者が帰ったあと、少し呆れたようにオーナーは言った。金子は、ゲストの曖昧過ぎる希望が不満だった。

「あの、隠さなくてもいいタトゥーってなんなんでしょう。日本では、タトゥーは隠さなきゃいけないというか……」

「じゃあ、特に隠さなくちゃいけないタトゥーってなに?」

 オーナーは、「特に」を強調して言った。難しい質問ではない。

「それは、メッセージ性の強すぎるレタリングとか、インパクトの強すぎるデザインのもの……」

「そうじゃないものは、隠さなくていいってこと。お客様の言葉にこだわりすぎないほうがいい。柔軟に考えればいいんだよ」

 実際の客対応の流れを練習するため、金子は業務用のメッセージアプリで、練習に協力してくれるゲストとつながり、作成したデザインを送った。『OKです!』とあっさりと返信が来て、金子は安堵した。

 ゲストに、施術に際する注意事項のリストも送信し、あとは施術当日を迎えるだけかと思ったが、そのあと、彼からメッセージが来た。

『もしよかったら、タトゥーほったあと、食事でも行きませんか?』

 どういうことだろうと思った。彼はオーナーから指示されたのだろうか。客からこのような誘いを受けた場合、どのように対応するかもテストされている?

 金子は注意深くメッセージを作成し、送信した。

『すみません。予定があるので、行けません』

 これが正解なのかどうか、わからなかった。きちんと教育を受けた人なら、もっと上手い文がつくれるのだろう。しかし、完全な不正解ということはない気がした。客と個人的に付き合ってはいけないとは言われていないが、なんとなく、誘いを受けることは不正解な気がする。

 すぐに返信がきた。

『じゃあ、火曜とか水曜とかはどうですか?』

 これはなかなか重要なテストらしい。

『すみません。勉強があるので、行けません』

『いつなら空いてる?』

 どう返せばいいのかわからず、悩んでいると、またきた。

『上正路さんと話したいです。俺、タトゥー入ってる女性が好きなんだ』

 頭を殴られたような気がした。乱れる呼吸をなんとか落ち着かせ、金子は文字を打つ。

『どうしてですか?』

 テストのことはどうでもよくなった。ただ知りたくて尋ねた。

『昔、painful dirtっていう絵を見て、それからタトゥー入っている女性が好きになった。上正路さんみたいな人、すごく素敵だと思う』

 彼のことは頭から吹っ飛び、金子はその言葉を検索した。ある画像がヒットした。

 懐かしいね。

 父の声が聞こえた。

 それは、父の書斎の壁に飾られていた絵に似ていた。精緻な和風タッチの女性の水彩画。ネグリジェのようなものを身にまとい、手脚から顔までを刺青に覆われた女性が横臥している。

 ネットの情報によると、作者は近世の日本画から影響を受けた、一昔前の海外の現代画家で、painful dirtというのは、一連の作品群の総称であるという。

 シリーズの中で最も有名なのが、その女性が横臥している絵。金子は、そのシリーズのほかの絵も調べた。

 あった。それはまさしく、父の書斎に飾られていた絵だった。

 五歳くらいの黒髪の女児が、なにもない白い空間に裸で仰臥している。

 彼女は、全身を刺青に覆われていた。顔には鱗のような模様。体には黒い羽根や砂のような波など。原画は海外の美術館に保管されていて、現在は公開されていない。父が生まれた年に発表されたものだという。

 女児は全裸だが、ぼんやりと繊細な筆致、刺青を体にまとっているように見えることから、性的な印象はあまり受けない。金子にはそう見える、ということだが。

 金子は、頭の中で父に呼びかけた。

 お父さんの仲間がいたよ。わたしはどうすればいい?

しかし、父はなにも言わない。

 返信は考えもしなかった。そして翌日、金子はオーナーのもとへ行き、あの若者とはもう二度と会いたくないので、施術はできないと伝えた。

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