負った傷は治らない

 場所を選べば、「個性的な人」枠に当てはまって、生きていけると思った。異常な恐ろしい人ではなく、そういうカテゴリーの人として見てもらえるかと。

 しかし、現実はそう甘くはなかった。

 多少、刺青に親しんでいる人なら、その刺青が新しいものなのか、ある程度の年月を経たものなのかを見分けることができる。インクのにじみ具合でわかるのだ。彫師の腕や作風にもよるが、その古さが一目瞭然であることもある。どんなに腕のいい彫師によるものでも、経年劣化は避けられない。それが、成長過程にある肉体に入れられたものであれば、なおさら。

 つまり、金子の肌を見て、金子の年齢と刺青の劣化具合がそぐわないことを見抜いてしまう人もかなりいるということ。一般人には「個性的な人」で通用しても、金子が選んだ場所にいる人々には、一目で異常に思われ、その中の一部の人は、約六年前のニュースを思い出す。

 金子は、同情されたくなかった。いや、本当は同情されたいのだ。しかし、自分の求めるレベルの同情を向けてくれる人はいないのだと、金子はすでに学んでいた。だから、もう求めない。

 中途半端に同情されるくらいなら、こわがられるほうがマシ。

 金子は、ある女性の先輩に勇気を出して声をかけた。彼女が、カバーアップの技術を磨きたいと言っていたからだ。すでに入っている刺青の上から別の刺青を施す技術。金子は自ら、自分の顔を練習台に使ってくれと申し出た。古びた刺青を晒したままだと、いつまで経っても「異常でかわいそうな人」のままだ。せめて、ただの異常な人になりたかった。

 しかし、腕か脚のほうがありがたいと言われてしまった。顔に入れた刺青を彫り直したいという客はほとんどいないだろう。同じ人の肌でも、部位によって彫り感が異なる。わざわざ顔で練習する意味はほとんどない。

 結局、金子のふくらはぎの皮膚が練習台とされた。その先輩は、もとは金子と同じく寮に入っている研修生だったが、すでに店でデビューしていた。研修生たちは、お互いの皮膚を提供し合って練習を重ねる。しかし、金子は同期たちの役に立てない。肌がすでに埋まっているからだ。金子は、初めて練習台になれることが嬉しかった。顔ではないのは残念だったが、練習台になれないことでいつも負い目を感じていたから。

先輩はタトゥーマシンで金子の肌に針を入れながら、何気ない口調で言った。

「申し訳ないね。伸びちゃって劣化してはいるけど、こんな綺麗なタトゥーをカバーアップさせてもらって」

「え? いやいや」

 金子は反射的に謙遜の声を出したが、先輩が言ったことの意味をすぐには理解できなかった。

「これが全部無料ってすごいよ」

「はい」

「お父さん、彫師になればよかったのにね。あ、なんかごめん」

「いえ、いいんです」

 施術は無事に終わり、金子のふくらはぎにあった薄い黄色のたんぽぽは、ブラックアンドグレーの薔薇に生まれ変わった。アフターケアを受け、先輩に礼を言われた金子は、自分の部屋に戻った。

 施術部位に保護シートを貼ったままシャワーを浴び、髪を乾かす。顔と首元を隠しやすいように鎖骨あたりまで伸ばした黒髪がバサバサと暴れ回る。途中で腕がだるくなって、両腕を下ろした。練習台になっている間は休んだけれど、それ以外の時間は絵を描き続けて、手を酷使したためかもしれない。

 鏡の中には、新種のピエロが腐ったような顔が映っていた。解放された先の施設にいた子供たちを泣かせ、金子に特例で個室を与えた顔。黒い線と影に埋め尽くされ、もとの肌の色はほとんどわからない。

 成長により、自然と顔が大きくなり、描かれた線がゆがみ、余計におどろおどろしさが増した顔。ハロウィンの仮装とは言い張れない。

 顔面の右と左ではタッチが異なる。右はチカーノ風。目元がえぐれ、裂けた口元が縫い合わされたように見える。左は、和彫りで額と呼ばれる黒い雲のようなものが背景として広がり、頬に白い牡丹の花がある。しかし、全体的ににじんでしまい、ただの汚れに見える。どれだけ目を凝らしても、意味も秩序も見いだせない、古い彫り物。

 金子は、ヘアドライヤーを取り落とした。

『これが全部無料ってすごいよ』

『お父さん、彫師になればよかったのにね』

 先輩の言葉が頭の中に響く。

 彼女は、根っからのアーティストだ。刺青のことを語りだすととまらない。自分のことよりもなによりも、芸術を重んじる人間。それに、昔の報道のことはよく知らなかったのかもしれない。わかっている。彼女に悪気がないことは。

 でも彼女はわかっていない。芸術性と、彫師の腕とは、同じようで違うということ。刺青の技術がどんなにまともでも、芸術的な刺青が彫れるということにはならない。

 感心なんてされる体ではない。金子は思った。いつも目に入るのは、ただ、もとの肌を覆うためだけに彫られたもの。一つひとつはまともに見えても、全体を見れば、ぐちゃぐちゃで、バラバラで、醜いとさえ感じられない。使用済みのパレットを見て醜いと感じないように、ゴミ溜めを見て醜いと感じないように。

 金子は、鏡にこぶしを打ちつけた。床に落ちたまま作動し続けるドライヤーの音、皮膚と骨が鏡にぶつかる音が混じる。

 子供の頃、カッターナイフで手首を切り裂いて病院に運ばれた翌日、精神科医に言われた。自分を傷つけるのはよくないことだと。自分を傷つけるくらいなら、物を壊しなさいと。

 あの先生はわかっていた。金子が死にたがっていないことを。むしろ、強烈に生きたがっていることを。自分を傷つけたのは、なにも考えたくなかったから。

 思い出したのは無意識下だった。直接自分に傷をつけてはいけないということが刷り込まれている金子は、鏡を壊すふりをしながら、こぶしから全身を破壊するイメージに縋りついた。無表情で、ヒビが入っていく鏡を見つめる。付着する赤が亀裂に流れ込み、糸のように伸びる。

 金子。

 突然耳元で声が聞こえ、金子は動きをとめた。全神経を研ぎ澄ます。確かに今、聞こえた。聞こえるはずがないものが。

 痛くない?

 聞こえた。耳元でささやかれた。もちろん、周りには誰もいない。

「お父さん」

 金子は洗面所からさまよい出た。誰もいない部屋の中を見回す。

「お父さん」

 金子はつぶやき、ぺたりと座り込んだ。眼球が急に熱を持った気がした。見開いた目から、次から次へと嗚咽とともに涙が流れ、内臓まで吐き出しそう。子供の頃、なにかくだらない理由で泣いた時以来の涙だった。ずっと、笑うこともなければ、泣くこともなかったのに。

 それから時折、父の声が聞こえるようになった。幻聴だということは理解している。病院には行かずに無視した。たとえ遠回しにでも、父のことを話したくなかったから。

無意識に父を呼んだのは初回だけ。思わず父を探したのも、その一度だけ。金子の中に恐れはなかった。呼んだのは、呼ばれたから。幻聴がこわくないのは、むしろ、自然な状態に戻ったような気がしたから。

 忘れていたことのほうが異常なのだ。わたしの人生は父とともにあった。何年離れていようと、わたしのすべては父がつくった。

 そうだよ金子。お父さんと一緒にいれば、金子は特別にも普通にもなれる。これからもずっと一緒だからね。

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