激動

 戸惑いと恐怖と混乱に慣れてきた時期、口が利けるようになって発した第一声は、「帰りたい」だったらしい。その頃は、様々な変化にもまれて、ただ生きることだけに必死だったせいか、あまり記憶に残っていない。ただ、成人を迎え、施設を出る頃になってから、施設の先生に聞かされた。帰りたい、お父さんに会いたいと言って先生たちを困らせたと。

 いつしか、父に会いたいという気持ちはすっかり消えていた。というより、そんな気持ちはもとからなかったのだろう。荒波にのまれ、すでに手の届かず、誰もいない岸へ向かって叫んだようなもの。

 ほかのことはなにも頭の中になかったから、自動的に父のことを言っただけ。親について行こうとするひよこのように。そんな状態だった時期を経て様々なことを理解するうちに、父の存在は急速に金子の中から薄れていった。

 初めの頃は、大人たちは金子を「治そう」とした。病院に連れて行かれたが、医師は険しい表情をし、金子は、なにか嫌なことをされるのだろうと察し、拒否した。触らないで、なにもしないで、と。

 そのうち、みんな諦め、金子を治そうとはしなくなった。もし、金子が治療を望んだとしても、諦めていたことだろう。

 そもそも、金子は健康体だった。流産のダメージからは順調に回復していた。肌に発疹がいくつかできていたが、特に心配するようなものではないと診断された。金子と同じような人たちの中では、普通のことらしい。皮膚がインクに反応してできる出来物だと。

 金子は、自分が世界に一人ではないことを知った。同じような人が存在する。医者は確かにそういう意味のことを言った。

 学校には通わせてもらえなかったし、行きたくもなかった。なかった戸籍は新しくつくられたけれど、ほかの子供たちへの悪影響があるために学校には行かせられない、と施設の先生にはっきりと言われた。金子は、学校に行かなくてもいいということだけを理解した。

 戸籍についてある程度理解したのは、かなりあとのことだ。

金子は父の戸籍に入ったが、裁判の結果、父の親権は失われた。金子の後見人となった児童施設長と父の間に、金銭的な面での話し合いはあったらしいが、詳しいことは金子には知らされず、多忙な施設長と金子はたいして話す機会もなかった。

金子は家庭教師から読み書きや計算などの教育を受け、それ以外の時間はひたすら絵を描いた。ほかの子供たちは金子をこわがって近寄らず、一人の時間に集中することができた。描きすぎて腱鞘炎になったり、自分の絵に納得できずに怒りがわいてきて暴れたり、高価な画集を買ってくれと施設の先生にねだって拒否され、泣き喚いたりもした。

食事が粗末だとか、寝具が硬いだとか、文句を言って困らせもした。一般的な基準からすれば、施設は決して劣悪な環境ではなかったが、それまでの金子からすれば、罰を受けているように感じても仕方のないような食事や部屋であったことは確かだ。

しかし、施設の先生たちは、そんな金子に根気強く付き合った。時には厳しく、時には優しく。試行錯誤しながら、適切な指導法を探った。

カウンセリングやセラピーを受け、先生に相談をする中で、徐々に落ち着いてられる時間が増えた。自分がされたことを理解できるようになってからするようになった自傷行為もしなくなった。

一番長く金子と過ごしてくれた、ベテランの施設の先生に言われたことがある。「金子は強い」と。

彼女は言った。「金子は賢くて、優しいんだよ。いろいろ考えてるの、先生にはわかる。あと、自分では気づいてないかもしれないけど、金子は誰よりも強い。自分をしっかり持ってて、自分の苦しさのせいで誰かを傷つけたりしない。金子みたいに精神的に強い子は、ほかに見たことないよ」

 季節は流れ、子供でなくなった金子は、施設を出て、寮に入ることになった。職業訓練を受け、系列の店で三年間働くことを条件に、生活を保障してもらえる。その教育機関と商業施設のオーナーは、面接の時、金子の絵を見て言った。

「きみ、絵、好きじゃないでしょ」

 シンプルで洗練された服装をした中年男性は、金子の目をまっすぐに見た。初対面で、彼ほど自然に自分に目を向ける人を金子は知らなかった。まくり上げたシャツの袖から伸びる筋肉質な腕には、黒にわずかな色が混じった、複雑な模様が描かれている。

「送ってくれた絵も見たけど、わかるよ。頑張って描いてるのもわかるけど、にじみ出てるんだよね。きみは、絵もタトゥーも好きじゃない」

「そ、そんなこと、ないです」

 金子は、なんとか言葉を絞り出した。

「好きです。信じて、もらえないかもですけど……」

「そうだとしたら、本当に好きなものを描こうとしていないんだろうね」

 金子は答えられなかった。

「でも、いいよ。メールに書いてくれてたよね。自分にはこの道しかないって。そうは思わないけど、限られた選択肢のひとつであることは確かだと思う。自分でこの道を見つけて、ひたすら努力してきたんだよね。その努力を買うよ。絵を見る限り、きみはアーティスト向きじゃないと思う。でも、職人にはなれる。アーティスト性がない分、求められたものをきっちりとこなす彫師としては、優秀になれる可能性はあるよ」

 金子は深く頭を下げた。

「ありがとうございます」

「言われたことをしっかり飲み込んで、技術を磨きなね」

 これで、自分と同じような人たちの世界に入れる。金子はそう思った。ただ絵を描いているだけでは得られないものを得られる、と。

 それを機に、金子は分籍届を出し、父の戸籍から抜けて寮の住所を本籍地とした。

 誰にも、なんの相談もしなかった。父と別れを告げる作業は、誰にも言わずにひっそりと行いたかった。

 これで、新しい自分になれる。まだまだひとに頼りながらの生活ではあるけれど、少しずつ自立の道を歩んでいこう。いつか、自分ひとりで生きていくのだ。

 誰にも利用されず、保護されず。一人になりたい。それが金子の望みだった。

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