父の涙

 金子の心の一部は、我が子とともに確かに死んだ。それからわずか数か月後。

 また生理が遅れた。今度は、いつもの不順ではないことがすぐに確信できた。根拠はないが、ただわかったのだ。

 考えないようにしていた飛鳥のことを思い出す。自分の中に、飛鳥がよみがえったような気がした。でも、そんなはずはない。ここにいるのは別の存在だ。飛鳥とは違って、女の子かもしれない。また男の子かもしれないが。

 どちらでもよかった。どちらでもだめだった。産むことはできない。絶対に嫌だ。飛鳥のことでわかった。自分に子供を産むことは許されないのだと。父が許しても、自分が許せない。もう、父に赤ちゃんを殺させはしない。殺した理由はわからない。だから、殺させないためには、産まないしか方法はない。

 中絶の方法など知らなかったが、なんとなく思い浮かぶ方法はあった。前回の妊娠の時、父に、お腹に刺激を与えてはいけない、転ばないように気をつけなくてはいけない、食べたいものが変わるかもしれないけれど、お父さんが用意したものを食べなくてはいけない、などの注意を受けた。つまり、腹への刺激や食べるものがお腹の中の生命に影響を与えるということだ。

 まずは、ベッドの上に寝そべり、腹を殴ったり、重い画集を持ち上げて腹の上に落としたりした。痛かったが、それは腹の表面だけで、まだ膨らんでいない腹の中身には、なにも変化を感じられなかった。

 身体に悪そうなことをしようと、醤油を飲もうかと思ったが、勝手に食品を消費すると父に知られると思ったので、やめておいた。洗濯用液体洗剤をオレンジジュースに少し混ぜて飲んでみたが、すぐに吐いてしまった。下手をすると死んでしまうと思い、こわくてそれ以上はできなかった。

 金子は、死にたくなかった。金子にとって死とは、理解を超えた苦しみであった。飛鳥はきっと、出産よりも激しい痛みと苦しみの末に消えたのだと思った。自分はそうなりたくなかった。

 やがて父も金子の妊娠に気づき、喜んだ。「女の子だといいな」と父はもらした。

 その呟きを聞いた瞬間、金子は、飛鳥が殺された理由を悟った。飛鳥は、男の子だったから殺されたのだ。

 また男の子だったら、父は再び同じことをするだろう。女の子だったとしたら。きっと、父は喜んでその子の世話をし、育てるだろう。そして、金子は捨てられ、金子の位置に金子の娘が座るのだ。

 そんなことさせない。父はわたしだけの父でいい。父が苦しめるのも愛するのも、わたし一人だけでいいの。

 金子は思いつく限りの方法を試したが、金子の腹は沈黙していた。焦りが募っていた時、唐突に解放の日はやって来た。時間遅れで金子の思いに応えるように、静かな朝に痛みは訪れた。

 金子の股から血が流れ、とまらなくなった。このままでは、自分まで死んでしまう。金子はトイレから床を這い、大声で父に助けを求めた。

 救急車の中で、「死ぬな」と顔をすり寄せて涙を流す父の顔を、薄れる意識の中で見たことを金子はぼんやりと覚えている。それが、父の顔を見た最後だった。その涙が演技だったのか本音だったのか、金子にも、誰にもわからない。

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