金子が生まれた理由

 父の母は、料理をつくらない人だったらしい。その反動で、父は料理好きになったのだとか。

 父の父は、普通の会社員だったと聞いた。父の大学時代に病死し、父の母は再婚し、いつの間にか音信不通となったらしい。

 お金がなかったから、眠る時間を削ってアルバイトをしていた、と父は言った。もともとあまり賢いほうではなかったけれど、どうしても医者になりたくて、必死に勉強した、とも。

 金子は、父に自分の母の名を尋ねたことがあったが、父は答えられなかった。

「なんだったかな。思い出せないよ」

 父は頭を抱えた。

「何度か会っただけだからね。お金は振り込んだけど」

 母は、金子を産むために父に雇われたらしい。

「お父さんの人生はすべて、金子に会うためにあったんだ」

 金子を撫でながら、父は言った。

「お父さんが必死に勉強して医学部に入って、生活費を自分で稼ぎながら大学に通い続けてお医者さんになったのも、もともとすごく不器用だけど、頑張って絵の勉強をしたのも、お金を貯めて田舎から都会に引っ越したのも、慎重に金子のお母さんを探したのも、金子のお母さんに大金を渡したのも、金子のお母さんと一時的に書類上の結婚をしてお父さんの子供を産んでもらったのも、全部、金子と出会うためなんだよ。お父さんが子供だった頃から、ずっと、金子のことだけを夢見ていたよ。勉強ばかりして、友達もつくらなかったし、お父さんを好きになってくれる女の人がいても全部断ったから、みんなお父さんを変わり者だと思って馬鹿にした。でも、お父さんは全然平気だったよ。いつか、金子に出会えることがわかっていたからね」

 父にとって、金子は理想なのだという。

 医者になったのは、もし金子が病気になったとしても病院に行かずに済むようにするためであり、また、社会的地位と経済的余裕を確保するためだった。田舎から都会に移ったのは、密な人間関係を避け、人の目に留まりにくくするため。

 金子が存在していなかった頃から、父は金子とともに過ごすことだけに人生を捧げていた。父は、何度もそのことを金子に告げた。

 しかし、そう熱っぽく語られたのは以前のこと。父は金子に興味を失ってきている。画集や紙やペンのことを怒らなかったのもきっと、金子のことがどうでもよくなってきたからなのだ。

 態度はほとんど変わらない。相変わらず、創作コロッケやボルシチやアクアパッツァなどの料理をつくり、優しく金子に触れる。ただ、一緒にいても、父が自分を見る頻度が徐々に減り、黙り込むことが増え、目が虚ろに見えることが多くなったことに金子は気づいていた。

 自分が喜んでいるのか、こわがっているのか、金子にはわからなかった。もう痛い思いをしなくて済むなら嬉しいし、父の心から自分の存在が薄れるだけならいい。でも、ある時、なにかが決定的に変わってしまったとしたら? 父が自分を嫌いになって、家から追い出そうとしたら?

 金子は、その考えを頭から消そうと努力した。捨てられるかもと思うと、恐ろしさに打ちのめされる。そうなったら自分がどうなってしまうのか、想像もできない。ただ恐れた。

 父の心は確実に変化している。目をつぶろうとしても、見えてしまうのだ。

 自分は父に飽きられてきている。金子にはそれがわかった。まだ大丈夫だけれど、いつか、大丈夫でなくなる日が来るかもしれない。

 準備をしなければ。こわくて、考えたくないけれど、頑張らなくちゃ。

 父の変化を追い越すくらい、自分は成長しなければならない。そのことは理解していたが、金子の手は震え、上手く動かすことができなかった。それでも、金子はペンを握った。

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