フラッシュワークイベント

 帝倉とは、一時間半ほどチェーン居酒屋で話し、二軒目に行くことなく帰っただけだった。弓野の信条にのっとり、もちろん割り勘。

 弓野は、帝倉と特別に親しくなったとは感じていなかった。しかし数日後、帝倉から、休日に一緒に出かけようと誘われた。

 普通なら、面倒に感じるか警戒して断るところだ。帝倉は、声がよく通りすぎること以外は、ともに働いていてほとんどストレスのない相手であり、居酒屋で話した時もそこそこ楽しかったが、いつも顔を合わせていたいと思えるような魅力はない。

 それでも誘いに応じたのは、行き先がフラッシュワークイベントだったからだ。

「タトゥーのインクのにおいとマシンの音が苦手なのに、先輩を誘うのもどうかと思ったんですが、ほかに誘えるような人もいないし、一人では不安だったので」

 待ち合わせた駅から歩きながら、帝倉は照れたように微笑んだ。

「ありがとうございます。同行してくれて」

「バディが勝手に仕事にかかわる知識を増やすのが気にくわないからね。それに、帝倉の意図が不明だから、それを確かめたいってのもある」

 いつものスーツではなく、セーターとジーンズ姿の弓野は、帝倉を疑惑の目で見る。

「どういうつもりなの?」

「いやあの、単純にタトゥーに興味がわいたんですよ。近場でイベントがあるってたまたま知って、仕事とは違った面で接してみるのもいいかと。見学のみオーケーって、ちゃんと書いてありますし」

「興味がわいたってねえ。散々勉強させられて、仕事で毎日かかわってるのに?」

「フラッシュワークイベントのことは、講習で習わなかったじゃないですか」

「そうだけど」

 帝倉に説明され、初めて知った。フラッシュというのは、彫師が用意した刺青用のデザインのことで、それを客が選んで施術するのがフラッシュワーク。客の要望をもとにデザインをつくるカスタムワークと比較される。

 何人もの彫師がひとつの会場に集まり、予約した客や飛び込みの客にフラッシュワークを施すイベントに、二人は向かった。

 そこは、普段はライブなどが行われる二千人規模のイベントスペースだ。それぞれのブースが設けられ、店や個人の名前が入ったフラッグやタペストリー、フラッシュや施術後写真などが飾られている。

「……ここにいる彫師たちは、もうライセンス取ったのかな」

 弓野は帝倉に寄り添いながら、素朴な疑問を口にした。すでに客が集まっていて、相手に近づいて声を落とさないと周囲に会話を聞かれそうだ。まだ寒い季節であるのに、半袖から刺青に覆われた腕を晒している男性。若い女性。ごく普通の会社員風の人など、様々な人々。

 帝倉も、いつもよりかなり声を小さくした。

「このイベント、ライセンスを取得していない人限定だそうです」

「え?」

「主催者が制度に反対らしくて」

「マジで? なんでわざわざそんなイベントに――」

 自分たちの仕事が知られたら、ここにいる人たちにどう思われることか。こんな、敵地に乗り込んだような気分は初めてだ。

 委縮する弓野をよそに、帝倉はキョロキョロと辺りを見回したあと、「こっちです」と迷いなく歩を進めた。

「いたいた。ほら、あれ、かっこよくないですか?」

 帝倉は、あるブースの数メートル手前で足をとめ、声をひそめながらはしゃいだ。指を差したのは、複数のモチーフが組み合わさった、色鮮やかなタトゥーの施術写真だ。

「ネットで見つけて、かっこいいなあと思ったんです」

 そのブースでは、黒いマスクをつけた男性彫師が、若い男性客に施術を始めたところだった。

「目当ての彫師がいたってわけ」

 弓野はあきれた。

「まさか、あの人に彫ってもらおうっていうんじゃないよね」

「いや、違いますよ。ただ、ちょっと見てみたくて」

「本当に、ただの個人的興味だったんだね。帝倉さ、休日に遊べる友達とかいないの?」

 弓野は、やはりにおいと音に辟易していた。

「いることはいますけど、タトゥーに興味あるとか、言いづらいじゃないですか」

 帝倉は、当たり前のように言った。

 施術を見ようとする人々が集まり始め、弓野はその場を離れ、帝倉も大人しくついてきた。一度フロアから出て、エントランスにあった、即席らしい売店で飲み物を買い求める。売り子も、刺青が入っている若者だった。

「……先輩、怒ってます?」

 コーラの缶を開けた帝倉は、弓野の顔をうかがう。

「え? 別に怒ってないよ」

 弓野は、無意識に険しい表情をしていたかとショックを受けた。顔の筋肉をリラックスさせることを意識しつつ、缶コーヒーをすすってから言う。

「ただ、なんていうか、アクセサリーを買いに来たみたいな雰囲気なんだなあと思って」

 よくも悪くも、会場に集まっている客たちからは、気軽な空気を感じた。

「フラッシュワークってことは、カウンセリングとかないわけでしょ」

「ありますよ。位置とか細かいサイズ調整とかは人それぞれなので」

「でも、絵柄は決まってるわけでしょ。一人に一デザインってことにはなってるけど、彫師がフラッシュを使い回さないとも限らないし、一生残るものが、それでいいのかな」

「タトゥー好きの人の中でも意見は分かれるでしょうね。でも、フラッシュには彫り師の個性がそのまま表れるし、カスタムワークより安価なことが多いので、入れたいっていう人も多いようですね」

 帝倉は、人が少なくなった頃を見計らって、目当ての彫師に話を聞きたいと言いだした。弓野は、帝倉がぽろっと自分たちの身分を明かしてしまうのではないかと危惧したが、帝倉は絶対に言わないと約束した。

 その彫師の周りから人が減る気配はない。ワンポイントのフラッシュワークを終える頃にまた様子をうかがうとして、それまで二人は会場内を見て回ることにした。

 一通りすべてのブースを見て回り、再びエントランスに戻って一休みしようとした時、二階に続く階段の下で、タトゥーマシンの音がしていることに気づいた。

 暗がりの中、グレーのパーカーのフードを被った人物が、ライトで手元を照らし、男性の前腕の内側に施術をしていた。その背後に立てかけられたラックには、フラッシュと写真が吊るされている。

 こんなところに、ひとつだけブースがあったのだ。フロアの外、階段の下の奥まったスペース。フロアの出入り口から少し離れていて目立たない場所で、客と彫師の二人しかいなかった。弓野と帝倉が近づいても、施術中の彫師は当然目を上げず、集中を乱さない。

 フラッシュと施術写真は、すべて同じ作風だった。カラーはなく、ブラックのみで、直線と曲線とドットと塗りつぶしで構成されている。それは模様ではあるが、幾何学模様のような規則的なものではなく、斬新なものだった。図形でも植物でも動物でも傷でも汚れでも岩でも水でも煙でもない。それは、なににも見えなかった。

 施術は終盤だったらしく、五分ほどで終了した。施術部位に軟膏を塗られ、短冊サイズの保護用のシートを貼られた客は、礼を言って一万円を支払った。彫師はちょこんと会釈しただけで、なにも言葉を発しない。ビニール手袋をはずした彫師の手は、色の入った線がごちゃごちゃと折り重なるような刺青に指先までびっしりと覆われていた。

 フードを被り、マスクをした彫師。華奢な肩の線と無地のパーカー。弓野は、この人物を見たことがあると確信した。

 帝倉は気づいた様子がなく、フラッシュを示しながら、彫師に話しかけた。

「すごいですね。見たことのない作風のデザインです」

 彫師はちらりと帝倉を見上げ、会釈した。

「これとか、特にいい感じだなあ」

 帝倉が指さしたのは、硬さと柔らかさ、静止と流れを両方感じるようなデザインのフラッシュだった。

 彫師は黙っている。周りにほかの人はいない。

「先輩はどう思います?」

「どうって……わたし、デザインのこととかまったくわからないし」

「そんなの関係ないですよ。いいと思うかどうかです」

「まあ、斬新なデザインだよね」

「ですよね」

 帝倉はスマートフォンを取り出し、フラッシュの写真を撮ってもいいかどうか、彫師に尋ねた。彼女はうなずき、帝倉は写真を撮ったが、スマホを見て、満足のいかないような顔をする。

「うーん。暗くて上手く撮れないな。すみません、このフラッシュって、コピーをいただくこととかってできますか?」

 彫師は首を横に振る。

「お金を払って買い取るってことはできますか?」

 また首を横に振る。

「施術料金、一万円を払ってもだめですか?」

 迷いなくノー。

「帝倉、なに言いだすの。そんなに気に入ったの?」

「はい。ちょっと先輩は黙っててください」

「なっ……」

「このイベントでは、客一人につき一デザインって決まってますよね? フラッシュの使い回しは厳禁なはずです。施術をせずにフラッシュを買い取るってことは、施術の手間が省けて、針やインクの節約にもなるし、あなたにとって得です」

「だめです」

 初めて彫師はか細い声を出し、頭を横に細かく震わせた。

「フラッシュを売るのは禁止っていう業界ルールでもあるんですか?」

 再びの否定。

「売ったあとのトラブルを気にされているんでしたら、わたしの名刺をお渡ししますので――」

「おい」

 帝倉がショルダーバッグをまさぐりだしたので、弓野は帝倉のジャケットの袖をつかみ、彫師から数メートル引き離した。

「なに考えてるの?」

 怒りと声を意識的に抑える。

「信用してもらおうと思いまして」

 帝倉の目は苛つくほど澄んでいる。

「目を覚ませ。ここは省庁の肩書で信用を得られるような世界じゃないんだよ」

「先輩、詳しいんですね」

「普通わかるだろ! 逆に顰蹙買うよ。もうさっさとここを離れよう。居心地悪いわ。お詫びに食事奢るから」

 後輩であろうと、わたしが人に飯を奢るなどそうそうないことなのだぞ、と弓野はつけ加えたかった。

「ちょっとだけ待ってください。さっきの男性の彫師さんはもういいです。俺、恋に落ちちゃったんです」

「はあ?」

「あのデザイン、やばくないですか? 超絶クールですよ」

「帝倉って、美術に造詣深かったの?」

「そんなことないですけど、そういう問題じゃないんですって」

「わかった」

 弓野はずかずかと例の彫師のもとへ戻った。

「すみません」

 弓野の声に、彫師は少しだけ顔を上げる。

「あなたのお名前と所属を教えていただけませんか?」

 彼女は首を横に振る。

「え? 教えてもらえないんですか?」

 うなずく彫師。

「どうしてですか?」

「お店に内緒で来てるので」

 か細い声で答える。

「それまたどうして」

 うつむく彫師。

「ここで気に入っても、お店へ行ってあなたを指名することはできないってことですよね? 個人的に予約を取るしかないんですか?」

「予約は、取れないです」

「どういうことですか?」

 彫師の視線はさまよい、どう答えてよいものか迷っているように見えた。じれったい。さっさと答えてほしい。

 あなたのこと知ってるんです、ライセンス取得会場にいたでしょ、人混みが苦手だからって中に入ることもできずに帰りましたよね、と言ってしまえば、自分の身分を知られてしまうことになりかねない。それはまずい。わたしも彫師であの場にいたんです、という嘘は、無理があるような気がする。

「あなたのこだわりってことですか?」

 と、帝倉が尋ねた。

 彫師は、小さくうなずいた。

「今、このフラッシュを彫ってもらうことは可能ですか?」

 彫師はすぐにうなずく。

「え、本気?」

 弓野は心底驚いて帝倉を見る。

「きみが、今入れるってこと?」

「はい」

 帝倉はうなずいた。

「こんな予定ではなかったですけど、問題ないはずです」

「問題あるよ! なんでこの流れでそうなるの? こだわりがあればそれでいいの?」

「間違った理屈には反論できますけど、こだわりには誰もケチをつけられないと思います」

「そんなことはどうでもいいの。名前もわからなければ顔もほとんどわからない、身許もここにいる理由も謎だらけの彫師に、あんたは自分の肌を一生分預けようってわけ?」

「いいんです。このデザインとさっきの施術の様子を見れば、彫師としての彼女のことはよくわかります」

「百歩譲って、彼女に任せれば超絶クールなタトゥーが手に入るとして、それでもわたしは反対だよ。タトゥーを入れることの様々なリスクは、理解してないわけじゃないでしょ?」

「もちろん、理解した上です」

「一生消えないんだよ? 日本ではまだまだ偏見の目で見られるんだよ? 若いうちはいいかもしれないけど、きみだって年を取るんだよ?」

「わかってます。若いうちはいいかもしれないけどって多くの人は言うみたいですけど、それって、どうせ枯れるのに、なぜ花を飾るんだって言ってるのと同じだと思います」

「屁理屈こねるな。花は枯れたら片づければいいけど、タトゥーはそうはいかないんだよ」

「売ります」

 気がつくと、帝倉が気に入ったというフラッシュがラックから外され、デスクの上に置かれていた。

「これ、売ります。一万円です」

「あ……はい」

 帝倉が一万円を支払うのを、弓野は苦々しく見た。

 ハガキの半分ほどのサイズで、ガラスやフィルムなどで保護されているわけでもなく、たいして上質そうでもない紙に描かれたデザイン画に一万円とは。このイベントの雰囲気にのまれた興奮状態から来る判断ミスとしか思えない。

 立ち去ってほしそうな雰囲気が彫師から感じられたので、弓野と帝倉は、すごすごと会場をあとにした。

「……あのさ、あの女彫師、この前の講習会場で、中に入れずに帰った人だよ」

「え? そうでした? あああ、言われてみれば」

 帝倉は本当に気づいていなかったらしい。

「人ごみ恐怖症っていう人ですね。だからあんなところに一人でいたんだ」

「……帝倉、買ったやつ、どうするの?」

「どうするって、部屋に飾りますよ。クリアファイルかなんかに入れて」

 先輩、なに食べたいですか?と帝倉は言った。その日、二人はもう刺青に関する話をしなかった。

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