タトゥーライセンス講習会

 声が気になった。開け放たれたホールの扉の外から聞こえてくる会話の内容は聞き取れないが、なんだか不穏な雰囲気。ほとんどが男の声で、その合間にか細い女の声が混じる。

 弓野と帝倉は、なにもせずに壁際に立っていた。ホール内では、厚労省による第一回目の刺青、タトゥー施術に関する衛生講習および刺青、タトゥー施術者ライセンス取得会が行われている。弓野と帝倉は講習担当ではないが、これからの説明活動をするにあたって講習に関する見地を深める必要があるということで、見学をさせられている。

 ここに集まったのは、講習免除の申請資格のない人たちである。一人で彫師として活動している人、これからどこかの店に就職するためにライセンスを求める人など。弓野たちの審査に落ちた人たちは、のちに開催される講習会に参加することになる。

 弓野は、先日会った紅生姜と姫蟻のことを思い出していた。弓野たちの仕事が多いということは、審査免除の申請が多いということで、紅生姜と姫蟻のような、ライセンスを取るつもりがないという人たちは多くないはずだ。行政は、あのような人たちを無視するのだろうか。それとも、弓野のような下々の職員が、いつまでも説明活動を続けなければならないのだろうか。

 この会場の雰囲気を感じる限り、みんな喜んで来ているとは思えない。無表情に、億劫さがにじんでいる。しかし、こうやって数十人の人が時間通りに来ている。

 こうして従ってくれればいいのだ。面倒だろうけれど、みんなが面倒を引き受けることで、もっと大きな面倒を避けられるのだ。弓野はそう思った。

 ただ立っているだけの楽な仕事なのに、紅生姜と姫蟻のことを思い出してため息をつきそうになった時、なにやら揉めているような男女の声が聞こえてきた。扉のすぐ外にいるらしいのに、入ってくる気配はない。

 とっくに講習は始まっていて、慣れた手つきでタトゥーマシンの衛生処理を審査員に見せている受講生もいる。

「どうしたんでしょうね」

 帝倉も声が気になったようで、扉のほうを見た。

「見に行ったほうがいいですかね?」

「セキュリティとか案内の人もいるでしょ」

 その時、中に入ってこようとする人が見えた。グレーのパーカーのフードを被り、マスクをしている。顔がほとんど見えない上、ユニセックスな服装だが、華奢でわずかに丸みのある体型から、女性だということはわかった。

 その女は、パーカーのポケットに両手を突っ込んだまま、ホールの中に一歩足を踏み入れたが、そのまま突然固まったかのように動かなくなった。その後ろから、四十歳くらいのスポーツマン的な身なりの男が姿を見せ、女の背を軽く押した。

「もう始まってるよ」

 男が苛ついた声で言うのが聞こえた。女は、厚く切りそろえられた前髪の下の目で床の一点を見つめ、男に背中をグラグラと揺さぶられても動かなかった。

「頑張れ。ピカリンならできるよ」

 男の心配と諦めと憤慨が混じったような声を聞いた途端、女は踵を返し、出て行ってしまった。男はそのあとを追った。

 数時間後、講習会は無事終了した。受講生が帰ったあと、帝倉が案内係の女性に、先程の男女はどうしたのかと尋ねた。

「女性の受講者が、中に入りたくないと言いだしたんです。付き添いの男性のほうは、講習免除審査に合格した店のオーナーだとかで」

「へえ」

 あの厳しい審査に合格したのか、と弓野は思わず声を上げた。弓野と帝倉チームは、まだ一件も合格を出していなかった。もちろん、事務的にチェック項目に従った結果だ。

「でも、あの女性は規定の就業日数に満たない新人なので、免除対象にはならなかったそうです。オーナーが言うには、人ごみ恐怖症だから、中に入りたがらないそうで」

「人ごみ恐怖症、ですか」

 帝倉がつぶやく。

「男性が励ましてたんですけど、女性はやっぱり自分には無理だって、お帰りになりました」

「受講料は返金されないんですよね?」

 帝倉が気の毒そうに言った。

「ええ。事前に頂いた受講料は、受講者の都合での当日キャンセルでは返金されないことになってます」

「人ごみって言うほど人は多くないけど、よっぽどひどい恐怖症なのかなあ。かわいそうに」

 同情する帝倉に、弓野は冷静に指摘する。

「事情があるなら、問い合わせて個別審査を申し込めばよかったのに。無理しようとするほうが悪いんだよ」

 その後、片づけに参加させられた弓野と帝倉は、講習担当者から愚痴を聞かされた。

「受講者に嫌味言われましたよ。この程度の講習で二万も受講料取って、その上ライセンス発行料まで取るのかって。自分はタトゥーアーティスト協会に入ってて、会員が自主的にやってる衛生講習会にも参加したことがあるけど、無料でこれと同レベルの内容だったって」

「国がやっているものと、当事者が自主的にやっているものの値段が同じわけないじゃないですか」

 弓野はこれにも冷静に返した。

「そりゃそうですけど、あいつらに理屈なんて通じないでしょ」

「そういう人もいるでしょうけど、勉強になったって人もいるんじゃないですか」

 帝倉がなだめるように言う。担当者は首をひねる。

「どうですかね。今回はたまたまかもしれませんけど、みんな余裕な感じでしたよ」

 講習の最後に筆記テストが行われ、そこで合格者と、再び講習を受けるように指示される者に分けられる。再講習に講習料はかからないが、その場でのライセンス発行は見送られる。

 のちに報告があったが、第一回目の講習会では、受講者全員にライセンス発行が行われた。会場に入らずに帰った女性は除いて、ということだが。

 弓野は再び紅生姜と姫蟻のことを思い出した。紅生姜は、自分の理屈をこねくり回して、低いハードルを自ら越えないというのか。

 それからも講習会は次々と行われ、文化推進課の職員たちに情報が共有された。

受講者のほとんどは再講習対象にならず、講習会は回を重ねても、九割近くの合格率を維持していた。弓野は、受講しているのは、彫師としてすでに働いている人がほとんどで、その人たちにとっては衛生管理など当たり前だということが明らかになった結果だと受け止めた。

しかし、その喜ばしい結果は、弓野たちの仕事に新たな気苦労を生んだ。

「ライセンス取った人に話を聞いたんですがね」

 古書店のような雰囲気の小さなタトゥースタジオで、ベテランらしき彫師男性は言った。

「講習はごく簡単なものらしいですね。でも、講習を免除になるための審査はとても厳しいとか。これはどういうことでしょうね」

「どういうこと、と言いますと?」

 弓野は最終確認のため、タブレットのチェック項目に目を落としながら、この店も合格には程遠いな、と考えながら生返事をする。

「あなたたちにもわたしたちにも、無駄な行動をさせているとしか思えません。国はなにを考えているんでしょう」

「それは……」

「確かに、無駄っぽく思えてしまうのもわかります」

 お茶のひとつも出ないテーブルの前に座った帝倉は、大きくうなずいた。

「でも、このような審査をしているのは、タトゥーを入れたい方々に安心していただくためです。そして、講習が簡単なものだと思われているのは、日頃タトゥー業界で働くみなさんがきちんと仕事をしてくださっているおかげだと思います」

 弓野をフォローしているという自覚が帝倉にあるのかどうかわからないが、弓野は、帝倉が綺麗事を滑らかに話してくれることに助けられていた。

 しかし、ベテラン彫師の表情は厳しい。

「しかし、もっとスマートなやり方がありそうなものですけどね。審査を受けること自体を億劫だと思っている彫師はほとんどいないのですから、講習免除などという無駄な審査をなくして、講習料を値下げしたほうがありがたいように思うのですがね」

「こうやってお店にお伺いしているのは、タトゥー、刺青業界に関して情報収集をするという目的もあるんです。なにしろ、今までまったく国がかかわったことのない分野ですから」

「制度をつくってから情報収集をしているような国の考えることは、わたしには理解できませんね」

 この彫師はこわいくらいに落ち着いていたが、感情的に文句を言ってくる者もいた。受講料が高すぎる、店の審査を厳しくしているのは、ほとんど中身のない講習を受けさせて受講料をぼったくるためだろうと。

 帝倉は頑張って真摯に建前を説明し、それでもままならない時は、弓野が、自分たちは上からの指示に従っているだけで、できることは現場の声を上に報告するくらいだと、事実をただ告げるしかなかった。こんなことを言われるくらいなら、もっと講習を充実させてくれればよかったのに、と弓野は思った。保守層に配慮するなら、店の環境をチェックするとかではなく、ライセンス取得の条件を厳しくし、彫師が増えすぎないようにすればいい。そのせいで違法彫師が増えることになったとしても、大抵の顧客は、ライセンスを取得している彫師を選ぶだろう。

 講習についての文句ならまだいい。より返答に困ることを言ってくる者もいた。どこそこのどいつがライセンスを取得したらしいが、あのような技術のない者がどうして合格なのか、と。

 弓野は、彫師のライセンスというのは、施術者が安全に刺青を施すことができるという証明であり、刺青のクオリティとは関係がないと説明したが、その彫師は熱っぽく言い返した。

「ライセンスを持ってるってことは、お客さんはある程度、作品のクオリティが保障されてると思ってしまうだろ。今までは、おかしな彫手を選んでしまった自己責任ってことで片づけられたけど、国が簡単にお墨付きを与えてしまったことで、ダサいタトゥーを入れる人が増えるんじゃないかって心配なんだ」

 彼にとっては、感染症にかかるより、ダサいタトゥーを入れることのほうが許せないことらしい。

それから彼は、今まで自分が見てきたとんでもないタトゥーの話や、刺青除去がどれだけ大変かということ、伝統的和彫り以外の日本のタトゥーのクオリティは残念ながら海外に劣るという私見、ライセンスを与えるなら、絵の提出を求めて審査するなど、刺青の芸術としての側面をきちんと考慮した制度にするべきだということなどをまくしたてた。

「あなたたちは、美容師には資格が必要なのに、人の肌に針を入れる仕事に資格がいらないのはおかしいという考えだけで、ライセンス制度っていう名前だけ耳触りのいいことを思いついたんだろうけど、タトゥーっていうのは芸術なんだ。みんなで育てていけば、海外のタトゥーアーティストと肩を並べることも夢じゃない。でも、一番権力握ってる人たちが、タトゥーの芸術性を完全に無視してる状態じゃ、頑張ってる彫師も腐っちまうよ」

「あなたは、ライセンス取得の条件をもっと厳しくするべきだとおっしゃるんですか?」

 意外に思った弓野は、思わず尋ねた。

「当然だよ。ゴミみたいな彫師と一緒にしてもらっちゃ困るんだ」

 あまりに思いがけない意見に、弓野が自分の想像力のなさを密かに反省した時、帝倉が言った。

「タトゥーの芸術性を非常に大切にされているんですね。素晴らしいです。わたしたちは、この制度が、あなたのように、より本気度の高い彫師さんたちを増やしてくれるものだと信じています。すぐに結果が出るということは何事においても難しいでしょうけど、やはり、どんなものでも、ハードルがないより、あったほうが、強い気持ちを持った人が集まってくれると思います」

「ハードルったって、それが低すぎるって話をしてるんだけど」

「貴重なご意見をありがとうございます。本当に、あなたのような彫師さんが増えてくれることを願います」

 砂糖をかけたようなお追従で、いつものように相手を黙らせてしまった。悔しいが、自分にはない能力を持っている帝倉に弓野は感心する。彼のように、その場をしのぐための言葉を自信満々に吐ける技量があれば、生きるのが楽になるかもしれない。

 弓野は生きづらかった。そもそも、自分は人と接する仕事に向いていない気がする。それなのに、彫師という特殊な人々に次々と会わなくてはいけない仕事をさせられ、心が水分量の多い石鹸のように摩耗しているのが見えるようだ。これがあれば安心と思えるようなストレス発散方法も持ち合わせていない。親しいのは大学生時代の友人ばかりで、みな仕事や育児で忙しくしているため、なかなか気軽に会うこともできない。

「先輩、大丈夫ですか?」

 芸術至上彫師のもとから直帰しようとする道すがら、帝倉がさりげなく言った。

「なんか疲れてます?」

「そんなに疲れてるように見える?」

 弓野はショックを受けた。別にもとから美人ではないし、気にする必要もないかもしれないが、そんなにひどい顔をしているかと思うと、鏡を見るのがこわくなる。

「そういうわけじゃないですけど、しゃべり方というか、歩き方というか、なんとなくそんな感じがしただけで」

 もし、帝倉が計算づくの配慮の上で言っているのだとしたら、なかなか上手いな、と弓野は思った。特別モテそうな印象はなかったが、これはもしや、隠れ巧者か。

 もちろん、ときめいたわけではない。頭が回りすぎる人間は面倒である。特にそれが後輩の立場にある者だと。

「まあ、ちょっとね。ただチェックするだけならいいけど、向こうからいろいろ言ってくるじゃない」

 弓野は、下手に虚勢を張ると逆になめられそうな気がして、本音を百倍くらいに薄めて言った。

「そうですねえ。僕たちに言われても仕方ないようなことのほうが多いですからね」

「現場を回ってる以上、仕方ないんだけどね」

「もしよかったら、飲みにでも行きますか。僕、美味しい食べ物とお酒で、大抵のストレスは忘れちゃいます」

「ああそう。わたし、常に割り勘派だけど、それでもよかったら」

「もちろんです」

 その辺りにあったチェーン居酒屋に入り、帝倉と初めてプライベートの話をした。弓野は、帝倉の生い立ちが自分と似通っていることを発見した。地域は違うが都心と離れた地方出身で、それなりに恵まれた家庭環境にあり、運動系の部活と学習塾通いを両立していた。大学進学を機に上京。新卒で今の職場に入った。

 考えてみれば、驚くようなことでもない。同じような人間は同じところに集まるのだ。

 そのことを言うと、帝倉はうなずいた。

「そうですね。だから、自分とは違う人たちと会える今の仕事、勉強になるなって思ってます」

 やはり、帝倉と自分はまったく違う人間だ。

「でも、外回りの仕事は今だけかもよ。タトゥースタジオ巡りにも終わりがあるし」

「そうですね。講習免除審査が落ち着いたら、また違う事業に回されるんですかね」

「かもね」

 下っ端は、まったく違う部署で同じような単純作業をやらされる公算が高い。もとの安定した事務コースに戻れる日は来るのだろうか。

「できれば、僕は今の部署に残りたいんですけどね」

「今の部署って、タトゥーライセンス部門?」

「はい」

「なんで」

「タトゥーって、いろいろなジャンルというかスタイルがあるじゃないですか」

「そうだね」

 タトゥー、刺青のデザインについては、弓野たちが受けた講習ではほとんど時間が割かれなかったが、様々な種類があるということには軽く触れられていた。

「彫師によって、得意なスタイルっていうのがあるみたいなんです。世襲制の伝統的彫師もいれば、この人はリアリスティックが得意、とか、ワンニードルの繊細系が得意、とか。人それぞれ、かなり違いがあるってことが、ちょっと調べた結果わかってきまして。和柄が得意な海外のタトゥーアーティストっていうのもいるみたいですね」

 スタジオを回っているうち、それぞれの違いがあることは察していた。基本的に、客のオーダーを彫師の得手不得手によって断ることはないらしく、プロならばどんなものでも彫れることが前提とされてはいるらしいが、何人も彫師を抱えている店の場合、客のオーダーによって、ベストだと思われる彫師を店側が選択することもあるらしい。

「それがどうかしたの?」

 弓野はハイボールのグラスを傾ける。

「それがもっとわかりやすいネットカタログになっていたらいいかなって。ヘアサロンとかの場合、場所とかヘアスタイルとかで検索して、お店を見つけられるサイトがあるじゃないですか。それみたいなサイトが、タトゥーにもあったほうがいいと思うんです。彫師選びって、かなり重要じゃないですか」

「顧客向けのサイトを国が用意するってこと?」

「誰がライセンスを持っているかっていうデータはうちが持っているわけだから、民間ではなく、うちがサイトをつくるほうが手っ取り早いし。ライセンスを取得している人たちが働いているタトゥースタジオのみを扱うカタログサイトをつくれば、ライセンス取得率の向上にもつながると思うんです」

「確かに、ライセンスを取得するつもりはありませんっていう人たちへの圧力にはなるかもしれないけど、ちょっと待ってよ」

 弓野は、ダサいタトゥーを入れる人が増えることを心配していた彫師のことを思い出した。

「タトゥーはヘアカットとはわけが違うんだよ。散髪には、ほとんどの人が数か月に一回は行くけど、一生のうち、タトゥーを一回でも入れる人がどれだけいるよ。そんな低需要の産業のために国がカタログサイトを用意する? それが現実的だと思う?」

 毎日彫師と接しているから、あたかも刺青が身近なものであるかのように錯覚してしまいそうになるが、現実はそうではない。

「確かに、髪を切るのとは違いますけど」

 帝倉は不満げに言った。

「そういうサイトがあったら、先進国って感じがするかと思って」

「そんな国営サイトがある国なんてないでしょ。知らないけど。ライセンス制度ができたからって、急激に刺青人気が高まるわけもないし、その辺の大学生がダサいタトゥーを見せびらかして歩くのが普通ってことにはならないよ。文化ってのは、一朝一夕で変わるもんじゃないから」

「まあ、そうでしょうね」

「帝倉はまだ若いからさ、そんな突拍子もないことを思いついたりするんでしょ。いいことだね。無意味だけど」

「先輩だって若いじゃないですか」

「そんなことない。もうおばさんです」

「他人にも自分にも厳しいですよね、先輩って」

「事実を言ってるだけだよ、事実を」

 弓野はそう思っていた。

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