父の才能

 父は、大きな病院に勤める医師だ。いつも忙しくて疲れているからか、金子がこっそり外出していたことも気づかなかった。最近、金子に構わなくなり、興味を失ってきたようにも思える。

 まりあに、変な名前だと言われた翌日、金子は初めて父に、どうして金子という名前をつけたの、と尋ねた。

 父は、自身がつくった夕食の夏野菜カレーをつつく手をとめ、どうしてそんなことを訊くのかという目で金子を見た。

「そうだね。生まれた日が金曜日だったからだよ」

 父は、「カレー、美味しいかい?」と言った。金子は無言でうなずいた。

父は料理が得意で、なんでもつくった。家の中の壁には、父が描いた鉛筆画が何枚も額に入れられて飾られている。病院では、難しい外科手術をしているらしい。

 金子には、しなくてはいけないことはなにもなかった。ただ、洗濯や掃除などの家事をすると父が喜んだので、そうした。洗濯物はベランダではなく、専用の乾燥室に干すように言われていた。広いマンションの部屋の一室に除湿器を備え、そこは洗濯物を干すためだけの部屋だった。ほかには、父の書斎、父の寝室、金子の部屋、作業部屋、キッチン、ダイニング、リビング、物置部屋がある。

 広い家だが、二人暮らしなので、それほど汚れない。掃除もすぐに終わってしまう。金子は常に時間を持て余した。まりあからケータイをもらうまでは、金子はベッドに寝転がり、ただひたすら、時が過ぎることだけを待っていた。待つという行為、それだけが途方もなく敷き詰められた、苦痛な時間。なにも味わうものがないことを味わうだけの時間。

 空想の旅ですらままならない。空想するための材料が与えられていなかったから。

 ケータイを手に入れてからは、スミちゃんの動画をよく見た。スミちゃんが話すことは金子にはとても難しく、画面に表示される色とりどりの文字も読むことができなかった。しかし、スミちゃんの動画をすべて見終わり、さらに何回も同じ動画を繰り返し見ているうちに、少しずつ理解できるような気がしてきた。どうやら、スミちゃんというのは、普段はテレビのバラエティ番組などに出ているけれど、本当は小学生に勉強を教える先生になりたかった人らしい。「テレビのバラエティ番組」がどのようなものかということも、金子はケータイで調べることによって初めて知った。ケータイの操作方法は、まりあが操作しているのを見ることでなんとなく理解していたし、自分でいじっているうちに上達した。

 小学生がどんなことを勉強しているのかということも、金子はスミちゃんの動画によって初めて知った。数字のこと、言葉のこと、自然のこと、社会のこと。そういうことを教えられ、きちんと覚えたかどうかテストされる。それを繰り返して、子供は大人になっていくらしい。

 さらに学んだことがある。父がたまに見ているテレビや、まりあが言うことで、なんとなく察してはいたが、自分の姿は、ほかの子とは決定的に違っているらしい。その原因がなんなのか知りたくて、いくつものワードを並べて検索してみた。「はだ」「え」「もよう」「はり」など。しかし、答えは手に入らなかった。金子は諦め、代わりに、「しょうらいのゆめ」と検索してみた。しかしよくわからなかった。それでも金子は諦めず、「しょうらいのゆめ」に固執した。

 「しょうらいのゆめ」について調べる中で登場したワードを検索した。いくつもいくつも。わからないことに変わりはないが、ぼんやりとしたなにかが、少しずつ見えてくる。

 スミちゃんのもの以外にも、いろいろな動画を見るようになった。金子はむさぼるように、手の中の小さな明るい窓をのぞき続けた。

 そして、約一年後。突然、ケータイはネットにつながらなくなった。その頃には、このケータイはチャージが切れれば使えなくなるのだということも知っていた。まりあが言っていた、「プリペイドケータイ」について調べたから。いつか来ることだとわかっていたけれど、金子は少しだけ泣いた。

 しかし、金子は空想の想像の世界への切符を手に入れた。この世で最強のチケットだ。そして、そこで漂っているうちに、ここではないどこかにいる自分を想像できそうな気がしてきた。

 そこで自分はなにをしているのだろう。なにをするべきなのだろう。

 わからない。でも、なにかをしなければならないらしい。大人になったら、なにかをして、お金を稼ぐのが、普通の人の人生なのだ。

 金子は、できそうなことを考えた。考えることができること自体が、嬉しいことのような気がした。空っぽな頭の中に、世界の欠片が舞い込んだような。

 金子は父の書斎から、紙と鉛筆をくすねた。生まれて初めての、反抗とも呼べないような反抗だった。

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