まりあとの出会い
「キンコ? 変な名前だね」
初めて家から出た日。植え込みの陰、夜の闇がさらに深くなっている場所で、女の子は言った。
「どんな字を書くの?」
「字を書く?」
金子はオウム返しで尋ねた。意味がわからなかった。
「キンコって、どう書くの?」
金子は黙ってしまった。
「まあいいや。わたしはまりあ」
まりあは、しゃがみこんでいる金子の背後に近づく。
「なにしてるの?」
金子は答えられなかった。まりあは気にしないらしい。夜中の野外。公園の近くであるとはいえ、子供同士が出会う場としてはふさわしくないが、だからこそ、まりあは話しかけてきたのかもしれない。
「うちは、別になんも。お母さんがうるさいから、出てきた。こっちむいてよ」
金子は仕方なくまりあのほうを向いた。
「……どうしたの、その顔」
まりあは少し驚いたように言った。かろうじて届く月明かりで、顔が見えたらしい。
「どうもしないの」
金子は、なんとかそれは答えることができた。
「まあいいや。えっと、スミちゃんの動画でも見る?」
「スミちゃん?」
「スミちゃん知らないの? キンコのおうちって、動画禁止?」
まりあはズボンのポケットからスマートフォンを取り出し、スミちゃんという動画配信者の動画を見せてくれた。それは、面白おかしく勉強を教えてくれるものだった。
「うち、スミちゃんの動画が一番好きなんだ。お兄ちゃんはもっとくだらない動画のほうが好きだけど。勉強は嫌いだけど、スミちゃんの話は面白いから」
金子は、暗闇に開けた明るい窓を食い入るように見つめた。
「キンコはスマホ持ってないの?」
「持ってない」
「そうなんだ。うちのクラスは、持ってる子と持ってない子、半々くらいかな。持ってない子とは放課後話せないから、あんまり仲良くなれない」
隣に座ったまりあの二の腕が金子の二の腕に触れた。
「震えてるの?」
まりあは気づいて、心配そうに言う。
「寒いの? そんなわけないか。具合悪い?」
まりあは突然手を伸ばし、金子の額に触れたが、金子はとっさに手で払った。
「キンコ、手にも模様あるんだね。もしかして外国人? だから変な名前なの?」
「わかんない」
「わかんないの?」
「うん」
「変だね」
まりあはそう言いつつも、金子の奇妙さにあまり頓着する様子がなかった。
その日から、金子とまりあは、夜の公園で時々会うようになった。金子はマスクで顔を隠した。ブランコに乗ってみたかったけれど、音で周囲の大人にバレるとまずいので、座って小さく揺れるだけ。ベンチに隣り合って座り、まりあのスマートフォンで一緒に動画を見たり、まりあが学校や家の話をしたり。
「学校ってなに?」
金子は尋ねた。
「え? 学校、知らないの?」
「うん」
「うーん。みんなで、勉強したり、遊んだりするところかな」
まりあによると、学校とは、同じ年頃の子供たちが集められている場所らしい。金子には、ほかの人々がたくさんいるということすら、上手く想像することができなかった。金子が知っている人間は、父と、幼い頃に少しだけ家にいたような気がするお手伝いのおばさん。それだけだった。
まりあと会った時に震えていたのは、こわかったから。他人と出会った衝撃に打ち震えていたからだ。しかし、幼い世界は柔らかく変化した。そのうち、金子もぽつぽつと自分のことを話すようになった。まりあは金子に興味を持ってくれ、いろいろな質問をしたし、自分のこともたくさん話した。
まりあの家は金子とは逆で、お父さんがいなくてお母さんと二人暮らしらしい。お母さんとは仲が悪いわけではないけれど、たまに喧嘩することもあるという。そんな時に夜の外に出てみたら、昼間とは違う雰囲気とスリルにはまってしまったらしい。
「作文の宿題、終わってないのに出てきちゃった」
まりあは言った。
「めんどくさいなあ。どうしよう」
「さくぶん?」
金子が聞き返すと、紙に将来の夢を書かなくてはいけないのだと教えてくれた。それも、学校の活動の一部らしい。
「将来とかよくわかんないし。キンコは、将来なにになりたい?」
「しょうらいってなに?」
「大人になったら、なにになりたいかってこと」
「大人って、お父さんみたいってこと?」
「うんまあ、そんな感じ。キンコは女の子だから、お父さんにはならないけど」
「お父さんにならなかったら、なにになるの?」
「えっ。お母さんかな。いや、ならないかもしれないけど。今の時代、絶対結婚して子供産まなきゃいけないってわけでもないし」
「わかんない」
「だよね。うちも。ま、作文なんてネットからパクっとけばいいし」
その会話が、初めて金子に、まりあと遊ぶ予定よりも先の未来を意識させた。
金子には宿題がない。起きなければいけない朝も、帰らなければいけない夕方もない。ずっと同じ時間が続くだけ。しかし、まりあから未来を教えられ、まりあと会う約束があった。
しかしある日、約束していたのに、まりあは姿を現さなかった。
金子は、夜が明けるぎりぎりの時間までまりあを待っていたが、空が白んでくると、諦めて帰宅した。
その日の夜も、金子はまりあを待った。もう来ないかもしれない。きっと、わたしと会うのが嫌になったんだ。もうまりあは永遠に来ないんだ。
絶望しかけた時、まりあが走ってやってきた。その手には、白い箱が握られていた。
まりあは約束を破ったことを謝り、その箱を金子に差しだした。
「これ、あげる」
「なに?」
「プリペイドケータイ」
「なに、それ」
「わたし、引っ越すの。もう会えない。でも、これがあれば通話もネットもできるから。SNSのアカウントつくって。このケータイが使えなくなっても、SNSアカウントとネットがあれば、つながれるから」
「え?」
「キンコ、お父さんにネット禁止されてるんでしょ。学校に行かせてもらえないんでしょ。夜しか会えないのは、家に閉じ込められてるからで、こっそり家から出るしかないからなんでしょ。ごめんね。勝手にお母さんにキンコのこと話した」
「話さないでって言ったのに」
金子のちっぽけな頭でも、勝手に出かけていることを父に知られてはまずいということ、そして、父は自分の知らない外の世界で働いていて、そこにはたくさんの人々がいて、人と人は意思疎通や情報交換を行っているということは、なんとなく理解できた。だから、父に出かけていることが知られないように、自分のことは誰にも話さないでと、まりあに頼んだのだ。
「ごめん。お母さん言ってた。よその子を助ける余裕ないって。あと、もしかしたら、日本で隠れて働いてる外国人の子供かもしれないから、そうだとしたら、通報したら逆にかわいそうなことになるかもって。でも、これ買ってくれた。本当に助けが必要だったら、これで助けを求めなさいって」
「……助け?」
「ごめんね。こんなことしかできなくて」
金子には、なぜまりあが謝るのか、わからなかった。
「これ渡したら、すぐ帰りなさいって言われてるから……そこにお母さん来てるし……じゃあね」
まりあとは、それきりだった。まりあのSNSアカウントの情報を書いたメモを渡された。金子は、プリペイドケータイを自分の部屋でこっそりと操作し、まりあのSNSアカウントを検索して見つけた。
しかし、小さな画面に表示された熊のぬいぐるみの写真は、まりあ自身の印象とはかけ離れて見えた。それはまりあを表すものではあっても、まりあではない。たとえまりあの写真がアイコンだったとしても、それはまりあではない。まりあはもう、手の届くところにはいない。
金子は、自分のアカウントをつくることをしなかった。
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