スカリフィケーション
帝倉は、出された冷たい緑茶をがぶがぶと飲んだ。
「先輩は大丈夫なんですか?」
血の気が戻ってきたらしい帝倉は、信じられないと言いたげな目で弓野を見る。
「血を見て倒れたりはしないよ。すごく痛そうではあったけど」
小さなガラステーブルを挟んで正面の椅子に座っている紅生姜は、傷ついた腕を肘掛けに乗せ、今も痛みをこらえているようだ。
弓野と帝倉が見せられたのは、スカリフィケーションというボディアートの施術だった。刺青については講習で叩きこまれたが、弓野も帝倉も、それ以外のボディアートについては無知である。
「姫蟻」
帝倉よりも顔色が悪くなってしまった紅生姜は、施術をしていたテーブルでお茶を飲んでいる姫蟻に声をかける。広くないマンションの部屋なので、接客スペースらしいリビングと、施術をするダイニングはすぐ隣だ。
「上手くいった感じなの? これは」
「はい。かなり上手くいったと思います」
「上手くいったかどうか、わからないんですか?」
思わず弓野は尋ねた。
「わたしはタトゥー専門なので」
「スカリフィケーションは、オンライン講習を受けて、練習中なんです」
姫蟻は言った。
「タトゥーもまだ見習いです」
「オンライン講習ですか」
「海外で施術経験のある日本のかたに個人的に教わってるんです。名古屋のかたなので、オンラインで。わたし、お母さんの介護をしなきゃいけなくて、遠くに行けないんです」
「それで、いずれはお客さんを取るということですか」
「はい。スカリフィケーションって、痛みが強くて治るまでに時間がかかって、ケアも面倒なわりに仕上がりはタトゥーより地味だし、まだ全然文化として浸透してません。でもだからこそ、挑戦し甲斐があるかなって」
「大丈夫なんですか?」
「大丈夫って?」
「タトゥーは医療行為ではないと裁判で判決が出ていますが、これは完全に医療行為レベルですよね。感染症の危険もかなり高いでしょう。衛生にはかなり気をつけているようには見えましたけど、なにかあったらどうするんですか?」
紅生姜は微笑む。
「もしわたしが姫蟻を訴えたら、彼女は傷害罪に問われてもおかしくないですね」
「わかっているなら、どうして」
「姫蟻は、今はピアッシングをして収入を得ていますが、いずれはタトゥーもスカリフィケーションもできるアーティストとしてデビューする予定です。医療資格のない者がピアッシングをしてお金をいただくことも、スカリフィケーションも違法です。タトゥーのライセンスを取って、タトゥーだけ合法になったとして、それになんの意味がありますか」
「違法なことはやめればいいじゃないですか」
紅生姜の笑みが大きくなった。
「わかっていただけるとは思いません。説明する気もありません」
「そういう、対話を拒む姿勢はどうかと思います」
「先輩、言い方きついですよ」
帝倉は大袈裟に声を上げる。
「すみませんね。先輩は真面目なんです。大丈夫です。ちゃんと誓約書をかわしていれば、有罪になることはありませんよ。多分」
「そういう問題じゃないんだよ……」
弓野の声は、帝倉には聞こえなかったらしい。
「帝倉、大丈夫そうならもうお暇するよ」
「はい。もう大丈夫です」
面倒なので、渡すべき書類は自分が座っていた椅子の上にさりげなく置いた。これで渡したことにしてしまおう。
弓野は玄関先で、見送りに出た紅生姜と姫蟻に尋ねた。
「あの、どうしてあれを見せていただけたんでしょうか」
「見せても問題ないかと」
と言い、紅生姜は姫蟻を見る。
「見てもらったら、すごいことをしてるって、わかってもらえるかと思って」
姫蟻は、無邪気とも言える調子で言った。
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