紅生姜と姫蟻
目前に展開されているのは、拷問の風景だった。血が肌を伝い、台の上に敷かれた透明なビニールに落ちる。剥がされた糸状の皮膚片が銀色のトレーの上に置かれ、死んだ小さな虫のように見えた。黒っぽいインクが染みこんだ皮膚は、血に染まっている。
ただ、拷問らしくないのは、一切の声や物音がしないこと。ここが都内のマンションの一室であり、厚労省の職員二人の前で堂々と行われていること。されているのもしているのも若い女性で、されているほうは、拘束もされずにじっと耐えていること。しているほうの女性は大学生に見えるほど若く、フリフリした桜色のワンピースにグレーのビニール製のエプロンをつけ、リボン状の髪留めで黒髪をツインテールにしていること。
それは拷問ではないのだが、弓野には拷問としか思えないような光景であった。帝倉も押し黙っている。
「こうやってメスで皮膚を切り取っていくわけです」
硬い声で言ったのは、拷問のように見える施術を受けている女性だ。弓野と同じくらい、三十代前半と思われる。彼女は首も手も刺青に覆われていて、ロリータファッション女性が目を近づけて医療用メスで皮膚を切り取っている前腕の外側にも隙間なく刺青が入っている。しかし、今行われているのは、刺青除去ではない。
マンションの部屋を店舗としたタトゥースタジオで弓野と帝倉を出迎えたのは、紅生姜と名乗る女性だった。
なんだその変な名前、と思うが、顔には出さない。
彫師、タトゥーアーティストは、源氏名のようなアーティスト名を名乗る場合があり、特に日本ではその文化的背景から、本名で活動している人のほうが珍しいということは講習で学んだが、下の名前を単にローマ字にしたような名前が普通だ。
十分ほど前。ストリートファッションに身を包み、化粧気がなく、茶色のロングヘアーをひとつ結びにした紅生姜は、玄関先に立ったまま硬い表情で、二人にスリッパを勧めることもしなかった。
「せっかくお越しいただいて恐縮なんですけど、お帰りください」
「はい?」
弓野は眉を引き上げた。
「今日この時間にお伺いするとご連絡したはずですが」
「メールで断ったんですけど、届いてませんか?」
「知らされていません」
「この審査、強制じゃないはずですよね?」
「ええ。というか、審査を申請されたお店に伺っています。日時のご都合が悪い場合は変更も可能ですが、前日までに専用フォームからお問い合わせされましたか?」
「日時の変更じゃなくてキャンセルしたくて、だいぶ前に送ったんですけど」
タブレットを操作した帝倉が言う。
「なにも情報更新されてません。システムエラーですかね?」
「……うちのシステム、たまにエラーあるから。ええと、ではキャンセルの理由だけお伺いできますでしょうか」
「そもそも、申請したのはわたしじゃなくて、前の店長なんです。でも、二週間前ぐらいに突然、ポーランドに修行に行くって言って、すべての権利をわたしに譲って出て行ってしまって」
「へえ……そうなんですか」
「わたしはそもそも反対だったので、審査を受けるつもりはありません」
「わかりました。では、ライセンス取得についてのご案内の書類を――」
「必要ありません。ライセンスを取得するつもりもありません」
「はい?」
穏やかそうだった態度から、いきなりの強気な言葉に、弓野は面食らった。
「そういうことですので。わざわざご苦労様でした」
紅生姜は会話を終わらせにかかるが、あっさりと引き下がるわけにはいかない。
「いや、あの、ライセンス取得は日本でタトゥーアーティストとして活動されるかたの義務です。この制度が定着するまでの猶予期間はございますが、無資格の者が刺青を施してお金を受け取ることは、今後違法行為として取り締まり、処罰の対象になります」
「定着しなければ、機能しない制度です」
この人物は、議論をするつもりはないようだ。明らかに、早く帰ってほしそうな態度。弓野だって、議論や話し合いなどしたくないが、制度の普及を任務とする部署に所属している以上、多少はやる気を見せなければ。不本意でも、仕事は仕事。
「賛否両論あることは存じています。しかし、法律は守っていただかないと、議論も進まないといいますか。まずはたくさんの人が制度に従うことで、本当の問題点が見えてくるんじゃないかと思うんです」
「そうですよ」
帝倉がうなずく。
「まずはそこからです。進めていくうちに、行政側も問題点に気づくかもしれませんし。物事をよくしていくためには、みなさんのご協力が必要なんです」
「別にわたしは、受講料を払うのが嫌だとか、講習を受けるのが面倒だとか、そういうんじゃないんです」
紅生姜は早口に言った。
「講習を受けることはやぶさかじゃないんです。ただ、ライセンスを取得することには、納得ができません」
謎が深まり、弓野はどう返せばいいかわからなくなった。しかし、帝倉はそうではないらしい。
「ライセンスを取得すれば、お客さんからの信頼も高まりますし、今までタトゥーに興味がなかった人も興味を持つかもしれませんし、新たな顧客獲得にもつながりますよ」
「そうだとしても、違うんです。海外を参考にしてつくった法律なんでしょうけど、違反した場合の処罰が傷害罪並みって、あまりにも厳しすぎます」
「それは、違反の抑止力であって、お客さんに安心してもらうための材料っていうか――」
「それだけじゃありません」
紅生姜が言いかけた時、奥からツインテロリータ女性が登場した。
「紅生姜さん、まだですか? 早く練習しましょうよー」
「ああ、はいはい。じゃあ、そういうことですので」
「書類は受け取っていただかないと――」
弓野は、なんとか書類を押しつけようとする。紅生姜は、どこまで毅然とした態度を取るべきか、迷っているようだ。
「紅生姜さん、その人たちにも見学してもらうっていうのはどうですか?」
ロリータが言う。
「え? なに言ってんの」
紅生姜は慌てる。
「見られてるほうが緊張感あって集中できるし。ここを見に来たんでしょ? すぐに帰ってもらうのもかわいそうじゃないですか」
「かわいそうとかそういうことじゃないんだよ。仕事なんだから」
「タトゥーの施術でしたら、音とかにおいが苦手なので」
弓野は、床に書類を置いて退散しようとした。
「タトゥーじゃないです。音もにおいもないですよ」
ロリータの言うことに興味を持ってしまったのが間違いだった。結果見せられたのが、メスと血と皮膚片である。
ずっと無言で作業していた姫蟻はひとつ息をついたあと、手早く道具と血のついたビニールやペーパータオルの処理を始めた。
「紅生姜さん、ありがとうございました。せっかく作品が入ってる腕だったのに、練習に使わせてもらって」
「いいの。下手な自彫りなんだから」
紅生姜は、自分の額に浮いた汗をティッシュでぬぐった。
「……これで終わりですか」
弓野の口内はカラカラに乾いている。姫蟻は、ゴミ袋に捨てる前のゴミをしっかりと紙にくるみながら説明する。
「施術は終わりですけど、タトゥーみたいに、あとはアフターケアするだけってわけではないです。むしろ、これからのセルフケアのほうが本番です。この傷をラップの上から歯ブラシで刺激して、綺麗にケロイド状に治すんです。仕上がると、深く切ったところはしっかり盛り上がって、浅く切ったところは小さく盛り上がって、メリハリのある立体的な模様になります」
「姫蟻、片づけ終わったら、お茶出して」
「はい。緑茶になりますけど、あったかいのと冷たいの、どっちにします?」
姫蟻が弓野と帝倉を見た時、ゴン、と壁を打つ音がした。目を半開きにした帝倉が、空気の抜けかけた空気人形のように、壁際でふらふらしていた。
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