タトゥースタジオの審査

 色とりどりのインクの瓶。棚に所狭しと並んだそれを一本一本指差しながら数えていると、目がチカチカしてきた。

「えーっと、赤が六本。薄めの青が二本。濃いめの青が五本」

 タブレットに入力しながら、はい、はい、と隣で無駄に元気のいい返事をする帝倉ていくらの声がうざったいが、文句は言わない。

「……黒が十本ね」

「それ、黒とグレーじゃないですか? 黒が八で、グレーが二」

「あ、そうだね」

「で、合計が五十二ですか」

「最終確認で、もう一度数える」

 五十三だった。

「五十二だよね?」

「です」

「もう一度数える」

 五十四だった。

「五十三ですよ、五十三」

 帝倉は自信ありげに言うが、弓野富月ゆんのふづきはため息を噛み殺しつつ、眼鏡の奥の目を強くつぶった。

「ごめん、ちょっと休憩させて。目が……」

「大丈夫ですか、先輩」

 本当に心配してくれているらしい帝倉の態度はありがたいが、大丈夫などではない。目だけではなく、耳にも鼻にも不快感が襲ってきている。地味ではあるが絶え間ないジーという機械音。植物が腐ったような慣れないインクのにおい。

「役人さん、ちょっと休憩されませんか」

 柔和な笑みを浮かべた中年の男が近づいてきた。派手な長袖シャツを着て髪をきちんとセットした、ここのオーナーだ。

「紅茶とコーヒー、どっちがいいですか」

「いえ、お構いなく」

「僕、コーヒーで。先輩、いつもブラックコーヒーですよね?」

別の部屋に移動し、小さな木のテーブルの前のソファに弓野と帝倉は並んで座ると、出されたコーヒーで体を温めた。

 オーナーは、しゃれたティーカップの自分の紅茶に角砂糖をポンポンと二つ入れてかき混ぜた。

「なんだかやけに時間がかかるんですね。なにか問題がありますでしょうか」

 冗談めかした口調に同調せず、弓野は淡々と言った。

「インクの発注記録を見せていただけますか」

「はい、もちろん」

 オーナーはタブレットを持ってきて弓野に見せた。

「こちらがインクの発注記録です」

「かなりまとめ買いしてますね」

「たくさん消費しますからね」

「廃棄したインクの記録はどこです?」

「いや、廃棄の記録はつけてません。でも、この発注記録と、今棚にあるインクを見比べていただければ、普通に数が合っているってわかっていただけると思います。インクの種類にもよりますけど、消費スピードは――」

「消費スピードはわかっています。このお店だけが特殊ということでなければ」

「そんなことはないと思います」

「廃棄の記録もつけないと、今、棚にあるものが本当にこの記録にあるインクかどうか、わからないですよね?」

「え? どういうことですか?」

 オーナーは、紅茶を飲もうとしていた手をとめる。

「別の時期に発注した同じインクが二本あったとして、新しいほうを先に使ってしまったというミスが発生しかねないということです」

「それは大丈夫です。そういうことが起きないように、同じインクは並べて置かないようにしてますから」

「いや、そんなわけないでしょう。同じ色のインクが何本も棚に並んでるじゃないですか」

 弓野は棚の前に戻った。やはり、同じ色のインクが隣り合っているように見える。

「それは全部違う色なんです」

 オーナーは弓野の隣に立ち、インクの説明を始めた。弓野には同じように見えても、オーナーや従業員には違いがわかるらしい。弓野はうなずいてそれを聞きながら、インクの瓶を眺める。

「……これはなんですか?」

 弓野は、先程は意識しなかった、ひとつだけ種類の違う黒い瓶を指差した。もしかすると、数が合わなかったのは、これを数えたり数えなかったりしたせいではないか。

「ああ、これはオリジナルのインクですよ」

「オリジナル?」

「二種類のインクを混ぜ合わせたんです」

「どうしてそんなことを」

「独自の色味を出すためです。違うメーカーの黒と黒を――」

「市販のものを混ぜ合わせたということですね」

「はい。いろいろ試してみて、最高の配合を見つけたんです。名づけて、スペシャルブラック」

「いけませんね。メーカーの意図しない使い方をすることは推奨できません」

「いや、でも、ほかのお店でも普通にやってますよ」

「混ぜることでどんな反応があるかわかりません。使用期限も曖昧になってしまいます。それに、この瓶はなんですか?」

「混ぜる用に買ってきた空瓶です」

「インク専用のものじゃないですね」

「でもこれは清潔で使いやすいし――」

「それも、メーカーの意図しない使用方法ですね。きちんと密閉が保たれるかどうか怪しいです。これは今すぐ使用をやめてください」

「そんな。今まで、なにも健康被害は出ていないんですよ」

「関係ありません。すぐに破棄してください。それに、先程見せていただいたゴミ箱ですが、サイズが小さすぎます」

「そうですか?」

「たくさんゴミが出るんですから、ゴミ箱は大きいものでないと。さっき、従業員のかたが押し込めるようにゴミを捨てているところを見ました」

「あ、まあそういうこともあるかもしれませんが」

「それに、ゴミ袋は二重にして、針は小さな袋に小分けにして捨ててください」

「それはやってます」

「ゴミ袋全体も二重ですよ」

「そっちのゴミ袋にはビニールや包装の箱だけを捨てるので、二重にしなくても――」

「例外は認められません。お店から出るゴミはすべてゴミ袋を二重にするようにお願いします」

「無駄としか思えないですけど、従わないといけないんですよねえ」

 ゆがんだ笑顔のオーナーに、弓野は冷静に続ける。

「それに、施術台を照らすライトですが、可動域が狭いようですね。天井に取り付けるタイプの歯科衛生用のライトが望ましいです」

「そうなんですが、それには工事が必要ですし、費用が」

「それに、店頭販売用のアフターケア用品の在庫が少なめですね」

「うちはリピーターのお客様が多いので、すでに持っているという人も多くて、そんなにさばけないんですよ」

「客数に対して用意すべき品目の数は規定されていますので、決まりを守ってください。それに、これよりワンランク上のブランドの商品も取りそろえることが望ましいです」

「そうなんですが、費用の面でちょっと。ケア用品については口頭でお客様に説明していますし、ここにあるもの以外の選択肢もあるということはお伝えしていますが」

「しかし、店頭販売することが望ましいことに変わりはありませんよね」

「そうですが……」

 弓野と帝倉はソファに戻ると、店の改善点をリストアップし、その場でオーナーのメールアドレスに送信した。タブレットに目を落としたオーナーは、その数の多さに素直に泣きそうな表情になっていた。

「残念ですが、改善点が二つを超えてしまったので」

 弓野は無表情で宣告する。

「受講免除の対象とはなりません」

「うわあ、それって、自分も含めて従業員全体ってことですよね?」

「そうです」

「合格できれば全員受講免除だったのに……みんなに責められるよお」

 弓野はオーナーの泣き言を無視する。

「本日より一年以内に、指定の講座を受講していただき、ライセンスを取得してください。こちらの書類に、受講料やライセンス発行についてのご案内、更新についてなど、説明がありますので、よくご確認ください。こちらの従業員のかた全員、同じ条件ですので、従業員の方々にも、周知の徹底をよろしくお願いいたします」

「ライセンスを取得すれば、今まで通り営業が可能ということですよね?」

 オーナーは縋るように弓野を見る。

「ええ。ただし、受講しないまま一年が過ぎてしまった場合、営業停止などの処分の対象になる可能性があるということを覚えておいてください」

「あの」

 帝倉が口を開いた。

「脅かすようなことばっかり言っちゃってますけど、いいこともあるんですよ。ライセンス取得後、申請をしてそれが通れば、補助金が出ますから。お店の環境改善に使っていただくためのお金です。国も、みなさんの業界を応援したいと思ってるんです」

 オーナーは、帝倉の笑みに弱々しく応えた。

「でも、補助金って、そんなに高額じゃないですよね? ライトの工事代にもなりませんよ」

「この制度ができたことで、きっとお客さん増えますよ。それに、あまりこちらから大きな声では言いたくないんですが、ライセンス取得が遅れてしまっても、三年間は取り締まりの対象にはならないんです」

「まあ、すぐに逮捕されるってことはないんでしょうけど」

「それはもちろんです。今日お伝えした改善点も、強制ではありません。今日はあくまで、受講免除の審査でお伺いしたまでですから。すべてに従わないと営業停止なんてことはありませんので、安心してください」

「でも、まったく無視ってわけにはいかないわけでしょ? 安心してと言われましてもね」

「新しくできた制度ですから、徐々にみなさんに受け入れていただこうってことなんです。いろいろ面倒だとは思いますけど、新しい業界の形へ一歩一歩、前に進んでいきましょうよ、ね」

 驚くべきなのは、このようなきれいごとを帝倉は本気で信じているらしいことだ。

 その本気が伝わったのか、オーナーのしょぼくれた顔は愛想笑いに戻った。

 タトゥーマシンの音が響く小さなスタジオをあとにし、弓野は密かに息をついた。あの雑音から想像してしまう痛み。経験したことはないが、肌に針を刺すのだから、痛いに決まっている。なぜわざわざお金を払って自分を傷つけるのだろう。文化や芸術のひとつなのだと、頭では理解していても、心から納得はできない。

 それ以上に疑問なのは、自分がなぜこんな仕事をする羽目になってしまったのかということだ。刺青に関する、何時間もの講習を受け、数々のタトゥースタジオを回り、店の粗探しをする。学生のアルバイトでもできそうな仕事だ。無駄に時間ばかりかかる。

 自分の周りに刺青を入れている人などいないし、タトゥースタジオなど、そうそうないものだと思っていた。それがどうだ。都内だけでなんという数。審査は申請制であるが、弓野の受け持ちだけでも、あと数か月はかかる予定だ。

 幼い頃から勉強漬けで、いい大学に入ることこそ正義だと思い込んできた。厚労省に就職が決まった時は、厳しかった親も喜んでくれた。つい半年ほど前までは、三十そこそこの年齢に相応なキャリアを積んでいる気がしていたのに、どうしてこんな部署に。へまはしていないはず。なにもトラブルを起こしていない。もしかして、自分が女だから? 根強く残る女性差別か?

政権交代が起こり、リベラル政党が与党になったからとて、いきなり刺青彫師のライセンス化、グレーゾーンだったものを真っ白にするのは過激すぎないか、という空気が省内にも存在する。文化推進の名のもとに進めるなら、もっとマシなことがありそうなものだ。裏がありそうな政策でもある。

しかし、決まったものは仕方がない。面倒かつ重要度の低い部署に押し込めるのは文句を言わなそうな人間に、もしくは今後退職する可能性が高い者に、ということだろうか。幸か不幸か、辞める予定などさらさらないのだが。結婚する兆候も皆無である。

「先輩、大丈夫ですか。お疲れみたいですね」

 この後輩、偉そうなのは帝倉秀雅という名前だけで、この損な役回りにもまったく不満を抱いている様子がない。新卒で若いということもあるだろうが、どこか抜けた印象がある。

「まあちょっとね。あの音とにおいが。ちょっとカフェで休んでいこうか」

 タトゥースタジオがある路地裏から抜けると、そこはチェーン店のレストランやカフェなどが建ち並ぶ普通の街並みだ。

 書類が詰まった重い鞄を下ろし、再びコーヒーで一息つく。このあともまだ一軒のスタジオを回らなくてはならない。

「ちょっと、あのオーナーが気の毒になっちゃいました」

 帝倉は軽い口調で言う。

「行く前にちょっと調べたんですけど、あの店、愛好家の間では結構評判いいみたいなんですよ。SNSのフォロワーも多いし。やっぱり、うちの基準って厳しいんじゃないですか?」

 弓野は、アホな指摘に厳しい口調になりそうなのを抑える。

「そりゃあそうよ。いくら政権交代したからって、与党も盤石じゃないよ。特に、刺青に関しては拒否反応起こす人も多いから、国が刺青を承認したために刺青を入れる人がどんどん増える、なんてことは防ぎたいっていうのが、与党の本音でもあるの」

「どういうことですか?」

「国の審査に合格する店が少ないってことを公表することで、逆にイメージを悪くしようとしてる可能性もあると思う」

「でも、文化推進政策は、政府の肝いりですよね」

「表向きはね。でも実際、刺青に関しては、あえて締めつけを厳しくしているとしか思えないよ。リベラルを掲げてはいるけど、本当のところはどうなんだか」

「ええ? 彫師のライセンス制度のおかげで税収は増えるだろうし、国も喜んで推進しようとしてると思ってました」

「税収が増えるたって、微々たるものだろうけど、税を取りながら締めつけもしようとしてるんじゃないかな。やっぱり、保守層を無視するわけにはいかないから」

「もしかして、訪問審査に合格すれば受講を免除されるとか、補助金とかも、彫師を増やさないようにっていう本当の目的を隠すための目くらましだったりして」

「その可能性は大いにあると思う」

「へえ。ますますかわいそうじゃないですか。この政策に彫師側から反発があったって話も聞きましたけど、そういうことだったんですか」

「彫師の中でも意見が割れてるみたいね」

「あんまり締めつけたら、彫師が地下に潜っちゃわないですかね」

「そこから先は警察の仕事でしょ。わたしたちは、任された仕事をこなすだけだよ」

「そうですね」

 スタジオで出されたコーヒーはまずかったな、と思いながら、弓野はコーヒーの香りを吸い込んだ。

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