茶色の猫

 朝食を食べて、歯を磨いて、服を着替えた。今日は学校が休みなので、一日家に居るつもりだ。

 僕は自分の部屋へ戻ると、机の引き出しからデジタルカメラを取り出した。電源を入れて、撮ってきた写真を一枚ずつ遡っていく。

 一枚の写真が目に留まった。珍しく写真の被写体がブレている。茶色いキジトラ模様で、鍵尻尾をもった小さな猫。この写真を撮った日、登校中に僕は偶然つむぎを見かけた。普段は座っているか、寝ている猫を写真に撮るのだが、このときだけは違っていた。珍しい猫だから撮りたい。そんな気持ちももちろんあったが、どちらかと言えば使命感の方が強かったような気がする。つむぎが目の前を通りかかったとき、撮らなければと強く感じたのだ。

 その後、僕はつむぎを通じて遥と仲直りをした。あのときつむぎが通りかからなかったら、僕たちの関係は割れたままだったはず。

 そもそも、つむぎは遥の家の家猫だ。あの日つむぎを見かけたのは、つむぎが遥の家から脱走したからだ。

 昨日見かけた茶色の猫。どうしてもあの猫が忘れられない。特徴から見るに、あれは恐らくつむぎだろう。つむぎを外で見かけるようになったのは、美術館で遥と喧嘩をしてから。それに、美術館へ二人で行った日の朝、遥は珍しく待ち合わせに遅刻した。理由は告げようとしなかったが、何かアクシデントがあったのだろうということは容易に想像がついた。

 遥は、今どうしてるのだろうか。もしかしたら、不安な気持ちを抱えたまま一人で走っているかもしれない。ただひたすらに、飼い猫の名前を呼んでいるかもしれない。そう思うと、居ても立ってもいられない気持ちになった。しかし、今連絡したって、きっと無視されるだけだ。話なんて聞いてもらえないに違いない。それなら、今つむぎを探しに行って、ごはんかなにかをやったほうがずっと平穏だろう。

 僕は上着をクローゼットから取り出し、ティーシャツの上に羽織って部屋を出た。居間に母が居たので、一言声をかけてから家のドアを開ける。痛みを感じるほどに冷たい空気が頬を掠め、思わず身震いする。

 先ずはコンビニへ行き、猫用のごはんを買った。そしていよいよ捜索に向かう。とりあえず、一番出現率の高い登下校通路へ足を運んだ。途中で何匹か野良猫を見かけたが、どれもつむぎとは柄が違っていた。家から学校までの道をゆっくりと、確実に探す。そして一時間後、つむぎを見つけ出せないまま学校に到着してしまった。仕方が無いので来た道をそのまま戻っていく。途中で陸の家方向へ寄り道して探してみたが、そこにもつむぎは居なかった。一度そのまま家へ戻り、今度は最寄り駅までの道を探すことにした。時々寄り道をしたりしながら、生け垣の陰やその間まで注意して探す。それでも、つむぎは見当たらない。

 結局、つむぎを見つけられないまま家に帰ってきてしまった。もう、思い当たるような場所はない。もしかしたら、遥が既に発見して家に連れ帰ったかもしれない。どちらにせよ、時間的にももう帰らなければならなかったので、僕は捜索を中断して家に戻った。

家に入ると、母親が玄関で僕を待っていた。


「遅いわね。ごはん出来てるわよ」

「ごめん…すぐ行くね」


 昼食の準備が終わっているようなので、僕は洗面台で手を洗って居間へ向かった。机にはミートソースがかかったパスタが二人分置いてあった。


「早く座りなさい」

「うん。お腹すいた」


 いただきます、と挨拶をして、パスタを食べ始めた。兄は大学へ行っているので、今は母と二人だけだ。

 赤色のミートソースがパスタに絡んでいるのを見ると、ふと、絵のことが頭に浮かんだ。そうだ、今なら言えるかもしれない。絵を描きたいことを伝えられるかもしれない。いや、伝えなきゃいけない。ここで踏み出さなきゃ、きっと一生罪の意識を抱えたまま描くことになってしまうだろう。口を開こうとすると、胸がギュッと締め付けられるように痛んだ。僕は恐る恐る口を開き、半ば勢いに任せるように心の内を母に明かした。


「あのさ、僕、また絵が描きたくて」


 母の目の色が変わった。僕が小学生の頃からだが、母は絵を描くことは時間の無駄だと思っているらしい。僕には才能がないから、絵を描いたってなんにもならない。だから、絵を描くな。小学生のとき言われた言葉が、再び僕の胸に刃を立てる。あからさまに嫌そうな顔をした母に背筋が凍る。母は少し口を開くと、いつもよりワントーン低い声を出した。


「時間の無駄だと言っているじゃない」

「でも、描きたい。」

「ダメよ。勉強しなさい」

「勉強はするよ。しながら描きたいの」

「無理に決まってるじゃない!」


 ピシャリと言われ、苛立ちを覚える。僕を睨みつける母に、憎しみさえ感じた。何故無理だと決めつけるのか、僕には母親の気持ちが分からなかった。


「決めつけないでよ!」

「勉強の方が大事よ、才能の無い奴が描いたってなんの利益も生まないんだから!」

「利益なんて必要ない!描きたいから描くんだよ!」


 お互いにだんだんとヒートアップし、声が大きくなっていく。しかし、その声は今にも動き出しそうな手を抑えるたびに大きく、強くなった。食事を終えたらしい母は食器を乱暴に机に置き、鬼の形相で僕を睨んだ。思わず僕もにらみ返す。


「もう好きにしなさい!その代わり、あなたのカメラも写真も全て捨てますからね」

「…は?」

「絵を描くなら写真なんていらないでしょう!私がカメラを買ってあげたのに、あなたはろくに使いもしないのね!この親不孝者め!」

「なんでそうなるんだよ!写真を辞めるなんて言ってないだろ!」

「写真も絵もどっちもなんて、許しませんよ!時間がもったいない!才能も無いくせに、贅沢言ってんじゃないわよ!」


 突き放すようなその言葉にとうとう耐えられなくなって、僕は一つため息を残して居間を後にした。自室に入り、苛立ちをぶつけるようにドアを閉めた。それでも怒りは収まらず、僕はしばらく枕に顔をうずくめて布団を殴っていた。

 数十分したところで、荒波をたてていた心はようやく落ち着きを取り戻し、一気に睡魔に襲われた。しかし、こんな真っ昼間に眠るわけにも行かないので、僕はカメラといらない紙、そして鉛筆を鞄にいれて部屋を出た。母親は居間で頬杖をついてテレビを見ていた。特に何かを言ってくる様子もなかったので、僕は何も言わずに玄関まで足を運んだ。履きつぶした靴に足を引っかけ、玄関のドアを開ける。


「おっと」

「うわ」


 ドアを開けた瞬間、自分よりも長身の男と衝突する。顔を上げると、そこには困惑した様子の兄、優樹が立っていた。


「ご、ごめん」


 僕が優樹の横をすり抜けようとすると、あっさりと腕を捕まれてしまった。


「待って、どうしたの?」

「なに、が?」


 優樹に心配をかける訳にはいかないので、僕は必死に偽りの笑顔を貼り付ける。優樹はさらに心配そうな顔をして僕を自身に引き寄せた。


「なにかあったの?目赤いし、変だよ」

「何もないよ、ほんとに。ちょっと目にゴミが入っただけだからさ」

「でも…」

「っ…優樹、ごめん。」


 僕は思いっきり優樹の手を振り払い、河川敷に向かって走った。元々体力の無い僕だから、もちろん息は苦しかった。だけど、今はそれさえも苦痛には感じられず、僕は僕の限界を超えて走り続けた。

 河川敷に着くと、僕は倒れるように芝生の上に寝転がった。喉がカラカラで、肺が痛くて、それでも苦しいとは感じなくて、いっそのことこのまま意識を手放しても良いとさえ思った。目を瞑って、草の匂いと水流の音を全身に感じる。やっぱりこの場所は気持ちが落ち着く。最高の場所だ。


「…優君かな?」


 突然女性に名前を呼ばれ、飛び起きる。目を開くと、そこにはすらりと長い脚がスカートから見えていた。視線をあげると、見たことあるような顔立ちの女性が僕の顔をのぞき込んでいた。


「やっぱり、優君だよね!」

「えっと…」

「誰か覚えてる?」


 まずい、全く覚えていない。

 見たことはあるが、いつ、どこで見たのかが全く思い出せない。


「ご、ごめんなさい…わかりません」

「良いの良いの!私、美術部の部長やってる新美です。」

「美術部の…ああ、部長さん!」


 僕は遥と体験入部へ行ったときのことを思い出す。そういえば、こんな人だった。思い出したことですっきりしたと同時に、失礼な態度をとってしまったと反省する。まさか、ここに居るとは思わなかった。


「ここ、よく来るの?」

「…はい、ここに来ると心が落ち着くんです」

「そっか。じゃ、今日はどうして?」

「え?」


 部長は相変わらずにこやかな笑顔で僕に問いかけた。全てを見透かすようなその瞳に吸い寄せられるように、僕はさっきまでのことを口走った。部長は相槌を打って、共感するように話を聞いてくれていた。


「そっか。嫌なこと言われちゃったね」

「けど、才能がないのは確かだし…やっぱり迷惑なのかなって、思います」

「迷惑?なんで?」

「うち、お金が無いんです。…いや、無くはないんですけど。」


 部長は少し不思議そうな顔をしながら、僕の隣に腰をかけた。しどろもどろになってしまったので、もう一度始めから話をした。


「僕んち、父親が居ないんです」

「え、そうなの?」


 僕の家には父親がいない。

 父親は、僕が幼い頃に家を出て行ってしまった。それ以来全く帰ってこないので、実質的には離婚だ。それから稼ぎがほとんど無くなり、優樹が高校生になって働き始めるまでは本当に貧しい家庭だった。現在では母親も仕事を始め、ある程度のお金がある状態まで家計は回復しているが、やはり他と比べればまだ少し貧しい状況だ。

 優樹がピアノから身を引いたのは、これが理由だった。父親が居た頃は一日の半分の時間をピアノに当てていた優樹だが、家が貧しくなり、アルバイトが出来る年齢になると、途端にピアノを辞めて夜遅くまでバイトに出かける日々が続いた。

 優樹は、自らの芸術を捨てて家計を守ったのだ。それなのに、僕はまだバイトもしていない。その上勉強だって趣味の二の次になっている。そんな僕を、母親は許せないのだろう。


「…だから、母親は何かにつけて利益を求めるんです。写真のコンテストも、賞金が無いもの以外は出させてもらえませんでした」

「そうなんだ…。それで、優くんは絵を描くのが嫌になったんだ」


 僕だって、罪悪感はあった。だからずっと我慢して、絵を描かずに生きてきたのだ。だけど、優樹は僕に対して怒ったり、悲しんだりしなかった。絵を描きたいと打ち明けたあの夜、優樹はただただ笑顔で応援してくれた。その時、僕はもう一度絵を描こうと決心したのだ。


「それで、どうするの?絵、描くの?」

「描きますよ。優樹にも友達にも背中押してもらってますから」

「そっかそっか。良かった、仲間が居て」


 部長のその言葉には、どこか重みを感じられた。ずっしりと、部長自身にものしかかるような言葉。そういえば、部長は少し前まで部内のトラブルに巻き込まれていたのだ。


「部長も、大変だったんですよね」

「あ〜、知ってるんだ。遥ちゃんから?」

「あっ、すみません…聞きました……」


 僕が謝ると、部長は笑っていえいえと返してくれた。その後、部長の目元には陰が落ちた。


「ちょっとした意見の食い違いから起きたトラブルだったんだけどね、大変だったよ。今はもう和解して、部長に戻ったんだけどね」

「え、そうなんですか?」

「そう。しばらくは遥ちゃんにお願いしてたんだけど、なんとか仲直り出来たから…また部長やらせてもらってるんだ」

「どうやって…仲直りしたんですか…?」


 無意識に出た言葉だった。遥とも母親とも喧嘩状態の今、もはや仲直りの仕方が分からなくなっていた。それが不安で仕方がなかったのだと、思わず口走った言葉に恥ずかしながら認識させられる。そんな僕を部長は茶化すことなく、優しく話をしてくれた。


「謝って、事情を話せば大丈夫。相手を刺激しないように、自分も興奮しないように。落ち着いて話せば大丈夫だよ。遥ちゃんなら分かってくれるよ」

「遥とのこと、聞いてるんですね」

「あっ、ごめん!実は聞いてました…」


 苦笑いしながら手を合わせる部長。遥には申し訳ないが、お互い様といったところだ。


「あ、そういえば」


 部長がぽんっと手を叩き、スマホをポケットから取り出した。手慣れた様子でスマホを弄ると、とあるサイトを僕に見せてきた。それは、美術館のホームページだった。


「今度、コンテストの受章作品が特別展示があるでしょ?良かったら見に行ってみてよ」

「あ、それチケット取りました」

「本当?!嬉しい、ありがとう!」

「部長は行きますか?」

「もちろん、部員が入賞してるからね!」


 部長は、そう胸を張って自慢げに言った。こんなに良い部長が、どうして部員の反感を買うだなんてことになってしまったのか。僕には未だに分からない。しかし、直接聞くには勇気が足りないので、僕はグッと口をつぐんで部長の話を聞いた。


「優くんは絵上手なんだから、自信もって。ちゃんと話せば、お母さんも遥ちゃんも分かってくれるはずだよ」

「ありがとうございます…頑張ります」


 部長の優しい言葉に思わず笑みが溢れる。部長は笑顔のまま立ち上がり、グッと背伸びをした。


「それじゃ、私もう行くね」

「え、あ、はい!」

「またね!」

「あ、ありがとうございましたっ」


 部長はもう一度にこっと微笑むと、手を振りながら帰って行った。なんだか背中を押されたような感じがして、僕も少し微笑んだ。


 しばらくの間、ずっとその場に寝転がっていた。鳥が頭上を飛んで、猫が足元を横切って、子供が草を蹴飛ばした。そんな何にもない日常が心地よくて、そこから離れられなかった。花が咲いていたら写真を撮って、紙きれにスケッチをした。いかに美しく写真に撮るか、いかに情景を紙に描き出すか。それはある種の表現であり、僕の心に溜まった泥を掻き出してくれるような感じがした。

 日が落ちて、夕焼けが見え始めた。すっかり赤くなった太陽が、青かった空をオレンジ色に染めていく。まるで花が開いていったかのように美しく、爆発したかのように恐ろしい光景だった。その景色を、僕は鉛筆もカメラも持たずに眺めていた。

 すっかり辺りが暗くなり、僕はやっとの思いで立ち上がる。それと同時に、ポケットに入れていたスマホが音を鳴らした。画面を見ると、優樹からのメールが届いていた。恐る恐るスワイプし、内容を読む。


『今どこに居るの?もう暗いよ、早く帰っておいで』


 その文面から、母親と何か話をしたのだろうということが容易に読み取れた。優樹は普段、こんなメールは送ってこない。僕は返信をせずに、そのままスマホを鞄に仕舞い込んだ。きっと、今帰ったら母親と優樹に出迎えられるのだろう。そう思うとどうにも足が重くて、僕は体を引きずるように帰路についた。


 上空を見上げれば、真っ暗な空に浮かんだ雲が、明るすぎる世界に照らされていた。足元を、一匹の野良猫が横切った。






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